第百六十二話 互いに利用する
羽柴秀吉が討たれてから、数日。
景継は一つの陣を訪れていた。
秀吉の命によって戦場を離れた黒田官兵衛が、生き残った兵をまとめて留まっている場所である。
「本当に殿から出向かれる必要があったのですか」
隣を歩く弥兵衛が、納得のいかない顔で尋ねた。
「ありませんよ」
「では、なぜ」
「私が会いたかったからです」
「だからといって……」
「兵は連れてきているでしょう」
「必要最低限です」
「十分です」
弥兵衛はまだ言いたそうだったが、それ以上は口にしなかった。
官兵衛が危険な男であることは、景継自身が誰より理解している。
それでも景継は、自ら会いに来た。
やがて二人は陣幕の前で足を止めた。
黒田家の兵たちがいる。
武装こそしているものの、戦う構えではない。林道家の兵を見ても、槍を向ける者はいなかった。
「林道景継様にございますな」
一人の男が頭を下げる。
「ええ」
「官兵衛殿がお待ちしております」
案内され、景継は陣幕の中へ入った。
黒田官兵衛は静かに座っていた。
数日前まで身にまとっていた甲冑はない。
敗軍の将。
そう呼ばれてもおかしくない立場になった男だったが、その目から鋭さは消えていなかった。
「林道様」
「官兵衛殿」
二人がこうして向かい合うのは、もちろん初めてではない。
かつて官兵衛が有岡城に囚われた時、景継はその救出に関わっている。
あの時、官兵衛にとって景継は命を救ってくれた男だった。
それから幾度も顔を合わせ、互いの考えに触れてきた。
だが今は、あの頃とは何もかもが違う。
官兵衛が仕え続けた秀吉を討ったのは、目の前にいる景継なのだから。
「まさか、林道様ご自身がお越しになるとは思いませんでした」
「私が会いたいと言ったのですから」
「今や勝った側と負けた側。呼びつければよろしかったでしょう」
「勝者と敗者の話をするために来たわけではありませんよ」
「では?」
「官兵衛殿のこれからについてです」
官兵衛はすぐには答えなかった。
しばらく景継を見つめた後、静かに口を開く。
「その前に、一つだけお尋ねしてもよろしいですか」
「どうぞ」
「秀吉様は……最後、どのように?」
陣幕の中が静かになった。
景継もすぐには答えなかった。
「最後まで逃げませんでした」
「……」
「旗も降ろさなかった。兵が離れていっても、ご自身は残られました」
「そうですか」
「最後には、ご自身でも戦っておられました」
官兵衛が静かに目を閉じる。
しばらく、そのままだった。
「……秀吉様らしい」
それだけだった。
泣きもしない。
景継を責めもしない。
だが、その短い言葉に込められたものを、景継は追及しなかった。
「私を恨んでおられますか」
官兵衛が目を開けた。
「恨んでいないと申し上げれば、信じますか」
「いいえ」
「ならば、聞かないでいただきたい」
「それもそうですね」
景継が答えると、官兵衛は僅かに息を吐いた。
「戦でございます。秀吉様も林道様を討とうとなされた。そして、敗れた」
膝の上に置かれた官兵衛の手に、僅かに力が入る。
「それだけのことにございます」
もちろん、それだけで済むはずがない。
景継にも分かっていた。
だが今、その傷を暴く必要はない。
「それで」
官兵衛が続けた。
「敗軍の将を、これからどうなさるおつもりです?」
「私のところで働いていただこうと思っています」
官兵衛の表情が止まった。
「……私を?」
「ええ」
「秀吉様を討ったあなたに仕えろと?」
「そうなりますね」
「随分と酷なことを仰る」
「承知しています」
官兵衛の目が鋭くなる。
「お断りすれば?」
「困ります」
「殺しますか」
「いいえ」
景継は即答した。
「では、黒田家を?」
「それもしません」
「ならば、私を解き放つと?」
「それはもっと嫌ですね」
官兵衛が黙った。
やがて、呆れたように息を吐く。
「相変わらずでございますな」
「何がです?」
「有岡の頃から、林道様は時折、こちらの考えぬことを平然となさる」
「褒めておられます?」
「さて、どうでしょうな」
ほんの一瞬だけ、二人の間から戦の空気が消えた。
だが、すぐに官兵衛の表情が戻る。
「私を殺さない。黒田家も潰さない。しかし自由にもしたくない。随分と勝手な話ではございませぬか」
「そうですね」
「なぜです」
「勿体ないからです」
「……何が?」
「あなたが」
官兵衛の眉が僅かに動いた。
「今回の戦で、改めて思いました。官兵衛殿は使える」
「随分と直接的ですな」
「取り繕う必要もないでしょう」
「結果として秀吉様は敗れました」
「それと官兵衛殿の能力は別の話です」
景継の答えは早かった。
「こちらが一つ動けば、その意味を探る。崩れかければ立て直す。こちらがどれだけ手を重ねても、そのたびに最も嫌なところへ手を伸ばしてくる」
「敵でしたので」
「ええ。ですからよく分かりました」
景継は官兵衛を真っ直ぐ見た。
「黒田官兵衛という男が、どれほど使えるのか」
官兵衛は何も言わない。
「正直、厄介でしたよ」
「それは光栄ですな」
「だから今度は、こちらでその頭を使っていただきたい」
「林道様のために?」
「私の天下のために」
景継は言い切った。
「官兵衛殿ほどの能力を、ここで失うのは勿体ない」
「私を信用できると?」
「できません」
また即答だった。
官兵衛が僅かに目を見開く。
「……できない?」
「ええ」
「それでも家臣にするおつもりで?」
「信用できるかどうかと、使えるかどうかは別でしょう」
「危険だとは思われぬのですか」
「思っていますよ」
「ならば、なおさら殺すべきでは?」
「それでは官兵衛殿の頭までなくなってしまうでしょう」
景継は少し笑った。
「使えるものは、使います」
官兵衛の目が細くなる。
「人を物のように仰る」
「官兵衛殿も、秀吉様のために随分と人を使ってきたのでは?」
「……違いありませんな」
二人の間に僅かな沈黙が落ちた。
やがて官兵衛が口を開く。
「しかし、私には林道様に仕える理由がありません」
「官兵衛殿個人には、そうかもしれません」
「?」
「ですが、黒田家はどうでしょう」
官兵衛の表情が変わった。
「……黒田家を持ち出されますか」
「大事なことでしょう」
「人質にでも?」
「違います」
景継は首を振った。
「脅して従わせても、官兵衛殿の頭は手に入りません」
「では?」
「秀吉様は亡くなりました。ですが、黒田家は残っています」
官兵衛は黙って聞いている。
「一族も家臣もいる。官兵衛殿を信じて、あの戦場から退いた兵たちもいる」
「……」
「官兵衛殿がここで秀吉様の後を追うように終わることを選べば、その者たちはどうなります?」
「私がいなくとも、黒田家は残せます」
「残るでしょう」
景継は否定しなかった。
「ですが、今より良い形で残せますか?」
官兵衛の視線が鋭くなる。
「秀吉様を失った今、旧羽柴家中がどうなるかも分からない。領地がどう分けられるのかも決まっていない。その中で官兵衛殿までいなくなれば、黒田家を守る力は確実に弱くなる」
官兵衛は答えない。
景継は少し間を置いた。
「それに――秀吉様は、なぜ官兵衛殿を逃がしたのでしょう」
官兵衛の拳が僅かに動いた。
あの戦場。
最後まで秀吉のそばに残るつもりだった官兵衛へ、秀吉は命じた。
退け、と。
二人ともここで死んで何が残る、と。
残せる兵を残せ、と。
「秀吉様は、官兵衛殿に一緒に死ねとは仰らなかったのでしょう?」
「……」
「ならば、生き残った官兵衛殿には、まだやることがあるのではありませんか」
「そのやることが、あなたに仕えることだと?」
「それを決めるのは官兵衛殿です」
「断っても、黒田家には手を出さぬと?」
「私への敵対を続けない限りは」
官兵衛が長く息を吐いた。
「甘いですな」
「そうでしょうか」
「私なら、私のような者を自由にはしません」
「奇遇ですね」
景継は笑った。
「私もそのつもりです」
官兵衛が顔を上げる。
「……どういう意味です?」
「官兵衛殿が私に仕えないとしても、当分は私の目の届くところにいていただきます」
「監視する、と」
「ええ」
「信用できないから?」
「それもあります」
「随分と正直ですな」
「官兵衛殿ほど油断ならない方を、遠くで自由にする方が怖いでしょう」
官兵衛は景継を見つめた。
そして、僅かに笑った。
「やはり、昔から変わっておられませぬな」
「またそれですか」
「人を助ける時でさえ、その先まで考えている」
「有岡のことを言っているのでしたら、あの時は普通に助けたかったのですよ」
「そういうことにしておきましょう」
「信じていませんね」
「林道様ですからな」
今度は景継も小さく笑った。
過去を知る二人だからこそできる会話だった。
だが、それとこれから手を組めるかは別の話である。
「仮に」
官兵衛が姿勢を正した。
「仮に、私が林道様に仕えたとしましょう」
「ええ」
「私に何を求めます」
「たくさんあります」
「即答ですな」
「まず、林道家をもっと大きくします」
「天下を取るために?」
「もちろん」
「そのために私を使う」
「はい」
官兵衛は景継の顔をじっと見た。
そして、静かに尋ねる。
「では――私も林道様を利用してよろしいので?」
弥兵衛の表情が変わった。
「官兵衛殿」
だが、景継が片手を上げて止める。
「構いませんよ」
今度は官兵衛が僅かに驚いた。
「よろしいので?」
「官兵衛殿だけに利用されるつもりはありませんから」
「……」
「私は官兵衛殿を利用する。官兵衛殿も私を利用する。それでいいでしょう」
「その先で、私が黒田家を大きくしても?」
「働きに見合うだけなら」
「力を持った黒田家が、いつか林道家にとって邪魔になるかもしれませぬぞ」
「その時は、その時です」
「随分と危険な賭けをなさる」
「何の見返りもなく、官兵衛殿ほどの方が私のために働いてくれると思う方が危険でしょう」
官兵衛は黙った。
「黒田家を守りたい。大きくしたい。それで構いません」
「……」
「私は天下が欲しい」
景継と官兵衛の視線がぶつかった。
「そのために、官兵衛殿の力が欲しい」
忠誠を求めているわけではない。
互いに欲しいものがある。
だから手を組む。
それだけだった。
官兵衛が尋ねた。
「いつか私が、林道様へ刃を向けるとは考えませぬか」
「考えていますよ」
迷いのない返事だった。
「……それでも?」
「だから近くにいていただくのです」
官兵衛の目が細くなる。
「監視するために」
「それもあります」
「それも?」
「近くにいた方が、たくさん働いてもらえるでしょう」
官兵衛は一瞬呆気に取られ、それから声を漏らして笑った。
「まったく……」
「嫌ですか?」
「嫌だと言えば、遠くへ行かせてくださるので?」
「嫌ですね」
「でしょうな」
官兵衛の笑みが消える。
しばらく考えた。
秀吉はもういない。
だが、自分は生きている。
黒田家も残っている。
家臣もいる。
そして目の前には、秀吉を討ち、天下へ大きく近づいた男がいる。
この男を許したわけではない。
心から仕えようと思ったわけでもない。
だが――使える。
林道景継の力を使えば、黒田家を残すだけではなく、その先へ進めるかもしれない。
「……分かりました」
官兵衛が言った。
「黒田家と、我が家臣たちの扱いについて約束していただきたい」
「働きに応じて、領地と立場を保証します」
「今いる者たちを、秀吉様に仕えていたという理由だけで処罰しないこと」
「もちろん」
「ならば」
官兵衛は姿勢を正した。
「黒田官兵衛孝高――しばらくの間、林道様の天下取りに乗らせていただきましょう」
忠誠を誓う言葉ではなかった。
景継も、それを求めなかった。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
二人は互いを見る。
景継は官兵衛の頭を使う。
官兵衛は景継の力を使う。
どちらも、それを隠そうとはしなかった。
そして景継は立ち上がる――ことなく、そのまま弥兵衛へ視線を向けた。
「では早速」
官兵衛の眉が動く。
「……もう働かせるおつもりで?」
「使えるものは使うと言ったでしょう」
「まだ仕えると決めたばかりですが」
「何か問題でも?」
「いえ。もう驚きませぬ」
弥兵衛が一冊の帳面を取り出し、官兵衛の前へ置いた。
「これは?」
「今回確認できた、旧羽柴方の主だった家臣たちです」
官兵衛の表情が変わった。
帳面を開く。
そこには、いくつもの名が並んでいた。
秀吉と共に戦ってきた者。
秀吉に見出された者。
戦場で功を立てた者。
政や兵站を支えてきた者。
そして今、主を失った者たち。
官兵衛がゆっくりと景継を見る。
「まさか」
「そのまさかです」
「秀吉様の家臣たちまで取り込むおつもりで?」
「優秀な方なら」
景継は当然のように答えた。
「秀吉様は、人を見つけ、人を使うことに長けた方でした。その方が集めた人材を、秀吉様が亡くなったからという理由だけで捨てるのは勿体ないでしょう」
「また、勿体ないですか」
「ええ」
「節操がありませんな」
「天下を取ろうというのに、敵だったという理由だけで使える人間を捨てる方が勿体ないですよ」
官兵衛が帳面へ目を落とす。
「それで、私に何を聞きたいので?」
「全部です」
「全部?」
「誰が優秀なのか。誰なら林道家へ来る可能性があるのか。誰は秀吉様への思いが強すぎて今は誘わない方がいいのか。そして、どう使えば最も力を発揮するのか」
「なるほど」
「官兵衛殿以上に知っている方はいないでしょう」
「私に、秀吉様の家臣を選ばせると」
「嫌ですか?」
官兵衛は答えず、帳面の最初の頁へ目を落とした。
一人目。
二人目。
三人目。
ゆっくりと名を追っていく。
やがて、一つの名前のところで指が止まった。
「まず、この者」
「使えますか?」
「使えます。ただし――」
官兵衛が顔を上げる。
「林道様が考えておられる使い方では、半分も力を出せませぬ」
「では、どう使います?」
「戦場よりも、別の仕事を任せた方がよろしい」
「なるほど」
次の名へ指が動く。
「こちらは逆です。領地を与えて座らせるより、兵を預けた方がよい」
「この方は?」
「今は声をかけない方がよろしいでしょう」
「なぜです」
「秀吉様への恩が深すぎます。今の時期に林道様から誘われれば、条件を見る前に拒みます」
「では待ちましょう」
「こちらは話を聞くはずです。家と領地を保証すれば、なおさら」
次々と、官兵衛の口から言葉が出てくる。
同じ羽柴家臣でも、一人一人違う。
何を欲し、誰に恩があり、何を得意とし、何を嫌うのか。
景継は黙って聞いていた。
やがて官兵衛が顔を上げる。
「随分と楽しそうですな」
「そう見えます?」
「ええ」
「人が増えれば、できることも増えますから」
「……なるほど」
官兵衛は再び帳面へ視線を戻した。
「では、選びましょう」
「お願いします」
「林道家に必要な者を」
「ええ」
秀吉が長い年月をかけて集めてきた人材。
秀吉は死んだ。
だが、その者たちまで消えたわけではない。
主を失い、これからどこへ向かうのか決めなければならない者が大勢いる。
景継は、その力を捨てるつもりはなかった。
土地を得る。
城を得る。
道を得る。
そして――人を得る。
羽柴秀吉を討ったことで空いた場所を、景継はすでに埋め始めていた。
その隣には黒田官兵衛がいる。
景継は官兵衛を利用する。
官兵衛もまた、景継を利用する。
二人とも、そのことを分かったうえで手を組んだ。
忠誠ではない。
信頼でもない。
それでも今の二人には、共に進むだけの理由があった。




