第百六十話 描かれていた決着
羽柴秀吉、討死。
その報せは、戦場を離れた瞬間から四方へ走り始めた。
尾張へ。
越後へ。
小田原へ。
そして、秀吉と結んでいた者、敵対していた者、どちらにつくかを決めかねていた者たちのもとへ。
秀吉が敗れた。
それだけなら、まだ驚かなかった者もいただろう。
北ノ庄でも、秀吉は一度敗れている。
だが今回は違う。
羽柴本陣は林道軍によって破られ、秀吉自身が戦場で討ち死にした。
一度敗れても立ち上がった男が、今度こそ消えた。
その意味を理解した者たちは、秀吉の死を悼むより先に、次のことを考え始めた。
空いた場所へ、誰が入るのか。
そして――。
秀吉を討った林道景継は、次に何をするのか。
◇
尾張。
徳川家康のもとへも、秀吉討死の報せは届いていた。
「間違いないのか」
「はっ。複数の使者より同じ報せが入っております。羽柴本陣は崩壊。秀吉は戦場に残り、林道勢の攻撃を受けて討ち死にしたとのこと」
家康は書状を手にしたまま、しばらく動かなかった。
周囲の家臣たちには安堵の色がある。
無理もない。
長久手で勝ったとはいえ、秀吉との戦そのものが終わったわけではなかった。
あの男は兵を失っても集め直す。
敗れても、人を使い、再び勢力を作る。
その秀吉が死んだ。
「これで羽柴との戦も終わりましょう」
家臣の一人が言った。
家康は書状を置いた。
「羽柴との戦はな」
「……殿?」
家康は立ち上がると、地図の前へ向かった。
尾張。
近江。
越前。
そして林道家の領地。
「林道殿はどうしている」
「戦場に留まり、降伏した羽柴兵を収容しているとのことです。逃げる者への大規模な追撃も行っておりませぬ」
「黒田官兵衛は」
「討死の報せはありません」
「ならば、生きていると考えた方がよいな」
「はっ」
家康は地図を見つめた。
秀吉は死んだ。
だが秀吉の領地まで消えたわけではない。
家臣もいる。
兵もいる。
城もある。
これから、それらを巡って人が動く。
そして今回の戦で、誰よりも大きく名を上げた男がいる。
「林道殿か……」
長久手で羽柴勢と戦っていた時、景継の兵はいなかった。
自分と信雄が戦っている間も、景継はすぐには動かなかった。
ところが戦が広がるにつれ、状況は変わった。
勝家が秀吉を引きつける。
信孝が動く。
一益が道を乱す。
上杉が動き、北条まで動いた。
そして最後に景継自身が出陣し、秀吉を討った。
「……出来すぎているな」
家康が呟いた。
「何がでございますか」
「いや」
家康は首を振った。
今はまだ答えがない。
ただ一つだけ分かる。
秀吉が消えたことで、この戦の前と同じ天下には戻れない。
「信雄様には、羽柴方の動きを見ながら兵を止めるよう申し上げよ」
「追わぬので?」
「秀吉が死んだ直後だ。ここで欲を出せば、必要のない敵まで作る」
「はっ」
家臣が下がっていく。
家康は地図の中央から目を離さなかった。
「林道景継……」
その名を、もう一度口にする。
「お主は、どこまで考えていた」
◇
越後。
「羽柴秀吉、討死にございます」
上杉景勝は、届けられた書状を黙って読んだ。
「林道勢が羽柴本陣を破り、秀吉は最後まで戦場に残ったとのこと」
「そうか」
短く答える。
「我らはいかがいたしましょう」
「兵を止める」
景勝の返答は早かった。
「これ以上は進ませぬ」
「しかし、今ならさらに――」
「秀吉へ圧力を加えるために出した兵だ。その秀吉が死んだ以上、同じ理由で進み続ける必要はない」
「……はっ」
「今いる場所を固めろ。だが、その先へは出るな」
家臣が頭を下げる。
「北条については?」
「何もするな」
「よろしいので?」
「約定はまだ残っている」
北条との二年の不戦。
その間を取り持ったのも、景継だった。
景勝は書状へ目を戻す。
「本当に、秀吉を討ったか」
以前、越後まで来た景継の顔を思い出す。
北条との関係についても、景継は景勝に隠さなかった。
あの時から、いくつもの話が進んだ。
そして今。
羽柴秀吉が死んだ。
「殿」
「何だ」
「これで林道殿が、天下へ最も近づいたのでしょうか」
景勝はすぐには答えなかった。
「近づいたことは間違いない」
「では……」
「だが、天下は一人で決まるものではない」
景勝は西を見る。
「秀吉が消えたことで、今まで秀吉を見ていた者が別の者を見る」
景継を見る者もいる。
家康を見る者もいる。
あるいは、今こそ自分がと考える者もいるだろう。
「ここから、また変わる」
景勝はそう言って、書状を畳んだ。
◇
小田原。
秀吉討死の報せを読み終えた北条氏政は、長い間、何も言わなかった。
向かいに座る氏直が、父の顔を見る。
「父上」
「……ああ」
氏政がようやく顔を上げた。
「秀吉が死んだ」
「はい」
「林道景継の軍に本陣まで攻め込まれ、討ち死にしたそうだ」
「そのようです」
氏政はもう一度、書状へ目を落とした。
驚いていないわけではない。
だが、それ以上に氏政の胸にあったのは、別の感情だった。
「父上。何か気になることが?」
「……思い出していた」
「何をでしょう」
「景継が、ここへ来た時のことだ」
氏直の表情が変わった。
林道景継が小田原を訪れた、あの日。
北条と林道の今後を決めるため、氏政と景継は長い話し合いを行った。
上杉との不戦。
秀吉の勢力がさらに拡大した場合、北条が受ける脅威。
そして景継と手を結ぶことで、北条が得られるもの。
北条にとっての利は、すでに十分に示されていた。
氏政自身も、その条件が悪くないことは認めていた。
だが、それでも氏政には一つだけ引っかかっていることがあった。
どれほど北条に利があろうとも、その話の前提となる秀吉を、本当に景継が倒せるのか。
北ノ庄で一度敗れても、秀吉は再び立ち上がった。
兵を集め、人を集め、再び天下へ手を伸ばしている。
北条に利益を示すだけでは足りない。
その利益を得るための前提を、景継は本当に作れるのか。
氏政が最後まで返事を渋っていると、景継はそれを見抜いたように口を開いた。
――これは、あの日の北条との話し合いの最後。
まだ秀吉が健在だった頃、氏政と景継の間だけで交わされた密談である。
◇
「氏政様」
「何だ」
「まだ、何か気になっておられますね」
氏政は少しだけ眉を上げた。
「分かるか」
「これだけ話して、まだお返事をいただけておりませんから」
「ならば聞こう」
氏政は景継を見据えた。
「北条に利があることは分かった」
「はい」
「お前と手を結ぶ意味もな」
そこで氏政は、二人の間に置かれた地図へ目を落とした。
「だが、それもすべて――お前が秀吉を倒せればの話だ」
景継は黙って聞いている。
「秀吉は北ノ庄で一度敗れた。それでも終わらなかった。再び兵を集め、人を集め、今ではまた天下へ手を伸ばしている」
「ええ」
「ならば聞かせてもらおう」
氏政が景継を見る。
「お前は、どうやって秀吉を倒すつもりだ」
景継はすぐには答えなかった。
やがて地図へ視線を落とす。
「……分かりました」
そして、ゆっくりと手を伸ばした。
「では最後に、そのお話をしましょう」
景継の指が地図の上を動く。
氏政はてっきり、北条か上杉を指すものだと思った。
だが違った。
景継の指が止まった場所は――尾張だった。
「まず、秀吉様を戦へ引きずり出します」
「戦へ?」
「はい」
「誰と戦わせる」
景継は静かに答えた。
「織田信雄様です」
氏政の眉が動く。
「信雄?」
「そして、信雄様が秀吉様と本格的に争うことになれば、徳川家康様も無関係ではいられなくなるでしょう」
「……家康まで出すつもりか」
「出ていただけるよう、状況を作ります」
氏政の目が鋭くなった。
「もし家康が動かなかったら?」
「その時は別の形を考えます」
「随分と簡単に言う」
「家康様が必ず動くことを前提にはしていませんから」
「では、仮に家康が動いたとしてだ」
氏政が尾張を指で叩いた。
「秀吉が勝ったらどうする」
「構いません」
「……何?」
「秀吉様が勝っても構いません」
「お前は秀吉を倒す話をしているのではなかったのか」
「しています」
「ならば、なぜ構わぬ」
「信雄様と家康様が勝てば、当然、秀吉様は傷つきます」
景継の指が尾張の上を動く。
「兵を失い、城を失い、立て直さなければならなくなる」
「当然だ」
「ですが、秀吉様が勝っても無傷ではいられません」
「……」
「兵を動かす。兵糧を使う。家臣を使う。そして時間を使う」
景継は淡々と続けた。
「勝てば、すべてが戦の前へ戻るわけではありません」
氏政の目が細くなる。
「つまり、お前は……」
「どちらが勝つかを当てる必要はないのです」
「……」
「必要なのは、秀吉様を大きな戦の中へ引きずり込むことです」
氏政の表情から、少しずつ笑みが消えていった。
「その後は?」
「秀吉様が戦に集中している間に、準備しておいたものを使います」
景継の指が尾張を離れた。
「柴田様は、秀吉様と争う理由を持っています」
別の場所へ移る。
「信孝様にもあります」
さらに指が動く。
「秀吉様が兵を動かせば、その道を見る者もいる」
そして最後に、景継は東と北へ視線を向けた。
「上杉にも」
一拍置く。
「北条にも」
氏政の目が鋭くなった。
「……なるほど」
先ほどまで聞かされていた北条への話が、ここで別の意味を持った。
景継は北条に、自分のために戦えと言っているのではない。
北条が北条自身の利のために動く時を、秀吉を討つ流れの中へ重ねようとしている。
そして、それは北条だけではない。
「お前……」
氏政は地図を見つめた。
「最初から、皆を一つに集めるつもりがないのか」
「集まりませんよ」
景継はあっさり答えた。
「皆、それぞれ守るものも、欲しいものも違います」
「それなのに秀吉を囲う?」
「同じ旗の下に集める必要はありません」
氏政は地図へ視線を戻した。
尾張で戦が起きる。
秀吉がそこへ力を注ぐ。
その間に、別の場所で誰かが動く。
秀吉がそちらへ兵を向ければ、今度は別の場所が薄くなる。
一つを守れば、別の一つが危うくなる。
一つを潰そうとすれば、その間に別の者が動く。
「秀吉を、一つの敵と戦わせないつもりか」
「はい」
「どこを向いても、別の問題が残るようにする」
「できる限りは」
「……徹底しているな」
氏政が呟いた。
それでも、まだ疑問は残る。
「景継」
「はい」
「なぜそこまでする」
景継は少し黙った。
「北ノ庄で、秀吉様には一度勝っています」
「ああ」
「それでも戻ってこられました」
景継の声が僅かに低くなる。
「兵を集め、人を集め、また天下へ手を伸ばされた」
「だから?」
「秀吉様は、一度負けた程度では終わらない方です」
景継の指が地図の中央へ戻る。
「ならば、今度は敗北させるだけでは足りません」
氏政が景継を見る。
「どうするつもりだ」
「徹底的に追い詰めます」
静かな声だった。
「兵を削る。兵糧を削る。道を塞ぐ。立て直そうとすれば、その前に次の圧力をかける」
「……」
「一度の勝敗で決めようとは思っていません」
「では、最後はどうする」
氏政が聞いた。
「お前の話では、誰もお前の命令で動くわけではない。ならば最後に秀吉を討つ者も、お前には決められぬだろう」
「そこだけは違います」
「何?」
景継は地図から指を離した。
「最後だけは、私が出ます」
氏政の眉が動く。
「お前自身が?」
「はい」
「それまでは他の者に戦わせておいてか」
少し皮肉を込めた言葉だった。
だが景継は否定しなかった。
「私が最初から前へ出れば、秀吉様は私を見ます」
「……」
「ですから、待ちます」
景継は氏政をまっすぐ見た。
「秀吉様が戦へ入り、周囲へ兵を割き、立て直す余地がなくなるまで」
「そこまで行く保証はないぞ」
「ありません」
「ならば――」
「その時は、その時の形で戦います」
氏政は口を閉じた。
「家康様が思ったように動かなくても。上杉が動かなくても。柴田様が敗れても。そして、北条がこの話を断っても」
景継は淡々と続ける。
「その一つだけで、すべてが崩れる形にはしません」
「……お前の思った通りに動かない者がいてもか」
「人ですから」
景継は答えた。
「私の思い通りになど、なりません」
氏政はしばらく何も言わなかった。
目の前の男は、未来が見えているわけではない。
誰が勝つかも分からない。
誰がどこまで動くかも分からない。
それを本人が認めている。
なのに。
だからこそ。
外れた時に進む道まで、いくつも用意している。
「……そこまで追い詰めて」
氏政が静かに聞いた。
「最後に、お前が秀吉を討つのか」
景継は頷いた。
「ええ」
そして言った。
「最後は、私が秀吉様に引導を渡します」
――あの日の北条との密談で、景継は確かにそう言った。
◇
「父上?」
氏直の声に、氏政は顔を上げた。
景継の姿は、もう目の前にはない。
あの日の話し合いは過去のものだ。
今、氏政の手元にあるのは一通の書状。
そこに記されているのは――。
羽柴秀吉、討死。
氏政は書状を見つめた。
「あの男……本当にやりおった」
「景継殿のことでございますか」
「ああ」
あの日に語られた通り、すべてが進んだわけではない。
家康が長久手でどのように勝つかなど、景継は知らなかった。
秀吉が勝家へ兵を集中させることも、最初から決まっていたわけではない。
北条も上杉も、景継に命令されて動いたのではない。
それぞれが自分で判断し、自分の利のために動いた。
だが結果として。
秀吉は信雄と家康との戦へ引きずり出された。
そこで兵と時間を使った。
戦が続く間に周囲から圧力が重なった。
一つを潰すために勝家へ兵を集めれば、その間に別の場所が動いた。
上杉が攻めた。
北条も動いた。
家康と信雄は尾張で攻勢を続けた。
信孝も動き、一益は秀吉の道を乱した。
そして。
秀吉が逃げ、立て直す余地を失ったところで――景継自身が出た。
林道軍が羽柴本陣へ突入した。
秀吉は討ち死にした。
「では、今回の戦は……」
氏直が言う。
「景継殿が最初から描いていたものだったのですか」
「大きな形はな」
氏政は答えた。
「だが、すべてが奴の思い通りだったという話ではない」
「違うのですか」
「違う」
氏政は首を振った。
「そこが余計に恐ろしい」
氏直が黙る。
「奴は誰がどこで勝つかを当てたわけではない。誰が必ず動くと信じたわけでもない」
氏政は地図へ目を向けた。
「動かぬ者がいることも、思っていた形にならぬことも考えていた。そのうえで、次の道を用意していた」
「……」
「未来を当てたのではない」
氏政の声が低くなる。
「未来が外れても秀吉を追い詰められるように、先にいくつもの道を作っていたのだ」
氏直の表情が変わった。
氏政は小さく息を吐く。
あの日。
北条にとっての利を聞いた。
上杉との不戦を聞いた。
景継と手を結ぶことで北条が得られるものも聞いた。
それだけでも、話に乗る価値はあった。
だが氏政が最後まで迷っていた時。
景継はさらに、秀吉を討つところまでの絵図を見せてきた。
そこで氏政は決めたのだ。
ただ手を組むだけでは足りない。
もしこの男が本当にそこまで行くのなら。
北条は、もっと深く結んでおくべきだと。
その後に氏政が持ち出したのが――楓との婚姻だった。
「氏直」
「はい」
「楓のことは、まだ公にはするな」
「承知しております」
「景継にも、今すぐ迎えに来いとは言わぬ」
秀吉が死んだ直後だ。
天下はこれから大きく動く。
今ここで北条と林道の婚姻を表へ出せば、警戒する者も増える。
「だが、約束は変えぬ」
「はい」
氏政は立ち上がり、地図へ近づいた。
秀吉が消えた。
これから諸大名は、次の天下を見始める。
その視線の先に、林道景継がいる。
北条は景継の家臣ではない。
これからも北条のために動く。
だからこそ、あの時に利を確かめ、条件を重ね、血を結ぶ約束までした。
氏政は秀吉討死を伝える書状を、もう一度見た。
景継があの日、最後に口にした言葉が蘇る。
――最後は、私が秀吉様に引導を渡します。
そして実際に。
景継は自ら兵を率いて、秀吉の本陣を破った。
氏政はしばらく黙った後、小さく笑った。
「……恐ろしい男だ」
味方だからといって、油断してよい相手ではない。
婚姻を結ぶからといって、すべてを任せてよい相手でもない。
それでも。
今だけは、心の底からそう思えた。
氏政は誰にも聞こえないほどの声で呟いた。
「――敵に回さなくて、本当によかった」




