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『乱世にて、我は待つ』~知略を秘めた軍師は、やがて天下を動かす~  作者: ダイヤマ
第九章 天下再導編

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第百六十話 描かれていた決着



 羽柴秀吉、討死。


 その報せは、戦場を離れた瞬間から四方へ走り始めた。


 尾張へ。


 越後へ。


 小田原へ。


 そして、秀吉と結んでいた者、敵対していた者、どちらにつくかを決めかねていた者たちのもとへ。


 秀吉が敗れた。


 それだけなら、まだ驚かなかった者もいただろう。


 北ノ庄でも、秀吉は一度敗れている。


 だが今回は違う。


 羽柴本陣は林道軍によって破られ、秀吉自身が戦場で討ち死にした。


 一度敗れても立ち上がった男が、今度こそ消えた。


 その意味を理解した者たちは、秀吉の死を悼むより先に、次のことを考え始めた。


 空いた場所へ、誰が入るのか。


 そして――。


 秀吉を討った林道景継は、次に何をするのか。



          ◇



 尾張。


 徳川家康のもとへも、秀吉討死の報せは届いていた。


「間違いないのか」


「はっ。複数の使者より同じ報せが入っております。羽柴本陣は崩壊。秀吉は戦場に残り、林道勢の攻撃を受けて討ち死にしたとのこと」


 家康は書状を手にしたまま、しばらく動かなかった。


 周囲の家臣たちには安堵の色がある。


 無理もない。


 長久手で勝ったとはいえ、秀吉との戦そのものが終わったわけではなかった。


 あの男は兵を失っても集め直す。


 敗れても、人を使い、再び勢力を作る。


 その秀吉が死んだ。


「これで羽柴との戦も終わりましょう」


 家臣の一人が言った。


 家康は書状を置いた。


「羽柴との戦はな」


「……殿?」


 家康は立ち上がると、地図の前へ向かった。


 尾張。


 近江。


 越前。


 そして林道家の領地。


「林道殿はどうしている」


「戦場に留まり、降伏した羽柴兵を収容しているとのことです。逃げる者への大規模な追撃も行っておりませぬ」


「黒田官兵衛は」


「討死の報せはありません」


「ならば、生きていると考えた方がよいな」


「はっ」


 家康は地図を見つめた。


 秀吉は死んだ。


 だが秀吉の領地まで消えたわけではない。


 家臣もいる。


 兵もいる。


 城もある。


 これから、それらを巡って人が動く。


 そして今回の戦で、誰よりも大きく名を上げた男がいる。


「林道殿か……」


 長久手で羽柴勢と戦っていた時、景継の兵はいなかった。


 自分と信雄が戦っている間も、景継はすぐには動かなかった。


 ところが戦が広がるにつれ、状況は変わった。


 勝家が秀吉を引きつける。


 信孝が動く。


 一益が道を乱す。


 上杉が動き、北条まで動いた。


 そして最後に景継自身が出陣し、秀吉を討った。


「……出来すぎているな」


 家康が呟いた。


「何がでございますか」


「いや」


 家康は首を振った。


 今はまだ答えがない。


 ただ一つだけ分かる。


 秀吉が消えたことで、この戦の前と同じ天下には戻れない。


「信雄様には、羽柴方の動きを見ながら兵を止めるよう申し上げよ」


「追わぬので?」


「秀吉が死んだ直後だ。ここで欲を出せば、必要のない敵まで作る」


「はっ」


 家臣が下がっていく。


 家康は地図の中央から目を離さなかった。


「林道景継……」


 その名を、もう一度口にする。


「お主は、どこまで考えていた」



          ◇



 越後。


「羽柴秀吉、討死にございます」


 上杉景勝は、届けられた書状を黙って読んだ。


「林道勢が羽柴本陣を破り、秀吉は最後まで戦場に残ったとのこと」


「そうか」


 短く答える。


「我らはいかがいたしましょう」


「兵を止める」


 景勝の返答は早かった。


「これ以上は進ませぬ」


「しかし、今ならさらに――」


「秀吉へ圧力を加えるために出した兵だ。その秀吉が死んだ以上、同じ理由で進み続ける必要はない」


「……はっ」


「今いる場所を固めろ。だが、その先へは出るな」


 家臣が頭を下げる。


「北条については?」


「何もするな」


「よろしいので?」


「約定はまだ残っている」


 北条との二年の不戦。


 その間を取り持ったのも、景継だった。


 景勝は書状へ目を戻す。


「本当に、秀吉を討ったか」


 以前、越後まで来た景継の顔を思い出す。


 北条との関係についても、景継は景勝に隠さなかった。


 あの時から、いくつもの話が進んだ。


 そして今。


 羽柴秀吉が死んだ。


「殿」


「何だ」


「これで林道殿が、天下へ最も近づいたのでしょうか」


 景勝はすぐには答えなかった。


「近づいたことは間違いない」


「では……」


「だが、天下は一人で決まるものではない」


 景勝は西を見る。


「秀吉が消えたことで、今まで秀吉を見ていた者が別の者を見る」


 景継を見る者もいる。


 家康を見る者もいる。


 あるいは、今こそ自分がと考える者もいるだろう。


「ここから、また変わる」


 景勝はそう言って、書状を畳んだ。



          ◇



 小田原。


 秀吉討死の報せを読み終えた北条氏政は、長い間、何も言わなかった。


 向かいに座る氏直が、父の顔を見る。


「父上」


「……ああ」


 氏政がようやく顔を上げた。


「秀吉が死んだ」


「はい」


「林道景継の軍に本陣まで攻め込まれ、討ち死にしたそうだ」


「そのようです」


 氏政はもう一度、書状へ目を落とした。


 驚いていないわけではない。


 だが、それ以上に氏政の胸にあったのは、別の感情だった。


「父上。何か気になることが?」


「……思い出していた」


「何をでしょう」


「景継が、ここへ来た時のことだ」


 氏直の表情が変わった。


 林道景継が小田原を訪れた、あの日。


 北条と林道の今後を決めるため、氏政と景継は長い話し合いを行った。


 上杉との不戦。


 秀吉の勢力がさらに拡大した場合、北条が受ける脅威。


 そして景継と手を結ぶことで、北条が得られるもの。


 北条にとっての利は、すでに十分に示されていた。


 氏政自身も、その条件が悪くないことは認めていた。


 だが、それでも氏政には一つだけ引っかかっていることがあった。


 どれほど北条に利があろうとも、その話の前提となる秀吉を、本当に景継が倒せるのか。


 北ノ庄で一度敗れても、秀吉は再び立ち上がった。


 兵を集め、人を集め、再び天下へ手を伸ばしている。


 北条に利益を示すだけでは足りない。


 その利益を得るための前提を、景継は本当に作れるのか。


 氏政が最後まで返事を渋っていると、景継はそれを見抜いたように口を開いた。


 ――これは、あの日の北条との話し合いの最後。


 まだ秀吉が健在だった頃、氏政と景継の間だけで交わされた密談である。



          ◇



「氏政様」


「何だ」


「まだ、何か気になっておられますね」


 氏政は少しだけ眉を上げた。


「分かるか」


「これだけ話して、まだお返事をいただけておりませんから」


「ならば聞こう」


 氏政は景継を見据えた。


「北条に利があることは分かった」


「はい」


「お前と手を結ぶ意味もな」


 そこで氏政は、二人の間に置かれた地図へ目を落とした。


「だが、それもすべて――お前が秀吉を倒せればの話だ」


 景継は黙って聞いている。


「秀吉は北ノ庄で一度敗れた。それでも終わらなかった。再び兵を集め、人を集め、今ではまた天下へ手を伸ばしている」


「ええ」


「ならば聞かせてもらおう」


 氏政が景継を見る。


「お前は、どうやって秀吉を倒すつもりだ」


 景継はすぐには答えなかった。


 やがて地図へ視線を落とす。


「……分かりました」


 そして、ゆっくりと手を伸ばした。


「では最後に、そのお話をしましょう」


 景継の指が地図の上を動く。


 氏政はてっきり、北条か上杉を指すものだと思った。


 だが違った。


 景継の指が止まった場所は――尾張だった。


「まず、秀吉様を戦へ引きずり出します」


「戦へ?」


「はい」


「誰と戦わせる」


 景継は静かに答えた。


「織田信雄様です」


 氏政の眉が動く。


「信雄?」


「そして、信雄様が秀吉様と本格的に争うことになれば、徳川家康様も無関係ではいられなくなるでしょう」


「……家康まで出すつもりか」


「出ていただけるよう、状況を作ります」


 氏政の目が鋭くなった。


「もし家康が動かなかったら?」


「その時は別の形を考えます」


「随分と簡単に言う」


「家康様が必ず動くことを前提にはしていませんから」


「では、仮に家康が動いたとしてだ」


 氏政が尾張を指で叩いた。


「秀吉が勝ったらどうする」


「構いません」


「……何?」


「秀吉様が勝っても構いません」


「お前は秀吉を倒す話をしているのではなかったのか」


「しています」


「ならば、なぜ構わぬ」


「信雄様と家康様が勝てば、当然、秀吉様は傷つきます」


 景継の指が尾張の上を動く。


「兵を失い、城を失い、立て直さなければならなくなる」


「当然だ」


「ですが、秀吉様が勝っても無傷ではいられません」


「……」


「兵を動かす。兵糧を使う。家臣を使う。そして時間を使う」


 景継は淡々と続けた。


「勝てば、すべてが戦の前へ戻るわけではありません」


 氏政の目が細くなる。


「つまり、お前は……」


「どちらが勝つかを当てる必要はないのです」


「……」


「必要なのは、秀吉様を大きな戦の中へ引きずり込むことです」


 氏政の表情から、少しずつ笑みが消えていった。


「その後は?」


「秀吉様が戦に集中している間に、準備しておいたものを使います」


 景継の指が尾張を離れた。


「柴田様は、秀吉様と争う理由を持っています」


 別の場所へ移る。


「信孝様にもあります」


 さらに指が動く。


「秀吉様が兵を動かせば、その道を見る者もいる」


 そして最後に、景継は東と北へ視線を向けた。


「上杉にも」


 一拍置く。


「北条にも」


 氏政の目が鋭くなった。


「……なるほど」


 先ほどまで聞かされていた北条への話が、ここで別の意味を持った。


 景継は北条に、自分のために戦えと言っているのではない。


 北条が北条自身の利のために動く時を、秀吉を討つ流れの中へ重ねようとしている。


 そして、それは北条だけではない。


「お前……」


 氏政は地図を見つめた。


「最初から、皆を一つに集めるつもりがないのか」


「集まりませんよ」


 景継はあっさり答えた。


「皆、それぞれ守るものも、欲しいものも違います」


「それなのに秀吉を囲う?」


「同じ旗の下に集める必要はありません」


 氏政は地図へ視線を戻した。


 尾張で戦が起きる。


 秀吉がそこへ力を注ぐ。


 その間に、別の場所で誰かが動く。


 秀吉がそちらへ兵を向ければ、今度は別の場所が薄くなる。


 一つを守れば、別の一つが危うくなる。


 一つを潰そうとすれば、その間に別の者が動く。


「秀吉を、一つの敵と戦わせないつもりか」


「はい」


「どこを向いても、別の問題が残るようにする」


「できる限りは」


「……徹底しているな」


 氏政が呟いた。


 それでも、まだ疑問は残る。


「景継」


「はい」


「なぜそこまでする」


 景継は少し黙った。


「北ノ庄で、秀吉様には一度勝っています」


「ああ」


「それでも戻ってこられました」


 景継の声が僅かに低くなる。


「兵を集め、人を集め、また天下へ手を伸ばされた」


「だから?」


「秀吉様は、一度負けた程度では終わらない方です」


 景継の指が地図の中央へ戻る。


「ならば、今度は敗北させるだけでは足りません」


 氏政が景継を見る。


「どうするつもりだ」


「徹底的に追い詰めます」


 静かな声だった。


「兵を削る。兵糧を削る。道を塞ぐ。立て直そうとすれば、その前に次の圧力をかける」


「……」


「一度の勝敗で決めようとは思っていません」


「では、最後はどうする」


 氏政が聞いた。


「お前の話では、誰もお前の命令で動くわけではない。ならば最後に秀吉を討つ者も、お前には決められぬだろう」


「そこだけは違います」


「何?」


 景継は地図から指を離した。


「最後だけは、私が出ます」


 氏政の眉が動く。


「お前自身が?」


「はい」


「それまでは他の者に戦わせておいてか」


 少し皮肉を込めた言葉だった。


 だが景継は否定しなかった。


「私が最初から前へ出れば、秀吉様は私を見ます」


「……」


「ですから、待ちます」


 景継は氏政をまっすぐ見た。


「秀吉様が戦へ入り、周囲へ兵を割き、立て直す余地がなくなるまで」


「そこまで行く保証はないぞ」


「ありません」


「ならば――」


「その時は、その時の形で戦います」


 氏政は口を閉じた。


「家康様が思ったように動かなくても。上杉が動かなくても。柴田様が敗れても。そして、北条がこの話を断っても」


 景継は淡々と続ける。


「その一つだけで、すべてが崩れる形にはしません」


「……お前の思った通りに動かない者がいてもか」


「人ですから」


 景継は答えた。


「私の思い通りになど、なりません」


 氏政はしばらく何も言わなかった。


 目の前の男は、未来が見えているわけではない。


 誰が勝つかも分からない。


 誰がどこまで動くかも分からない。


 それを本人が認めている。


 なのに。


 だからこそ。


 外れた時に進む道まで、いくつも用意している。


「……そこまで追い詰めて」


 氏政が静かに聞いた。


「最後に、お前が秀吉を討つのか」


 景継は頷いた。


「ええ」


 そして言った。


「最後は、私が秀吉様に引導を渡します」


 ――あの日の北条との密談で、景継は確かにそう言った。



          ◇



「父上?」


 氏直の声に、氏政は顔を上げた。


 景継の姿は、もう目の前にはない。


 あの日の話し合いは過去のものだ。


 今、氏政の手元にあるのは一通の書状。


 そこに記されているのは――。


 羽柴秀吉、討死。


 氏政は書状を見つめた。


「あの男……本当にやりおった」


「景継殿のことでございますか」


「ああ」


 あの日に語られた通り、すべてが進んだわけではない。


 家康が長久手でどのように勝つかなど、景継は知らなかった。


 秀吉が勝家へ兵を集中させることも、最初から決まっていたわけではない。


 北条も上杉も、景継に命令されて動いたのではない。


 それぞれが自分で判断し、自分の利のために動いた。


 だが結果として。


 秀吉は信雄と家康との戦へ引きずり出された。


 そこで兵と時間を使った。


 戦が続く間に周囲から圧力が重なった。


 一つを潰すために勝家へ兵を集めれば、その間に別の場所が動いた。


 上杉が攻めた。


 北条も動いた。


 家康と信雄は尾張で攻勢を続けた。


 信孝も動き、一益は秀吉の道を乱した。


 そして。


 秀吉が逃げ、立て直す余地を失ったところで――景継自身が出た。


 林道軍が羽柴本陣へ突入した。


 秀吉は討ち死にした。


「では、今回の戦は……」


 氏直が言う。


「景継殿が最初から描いていたものだったのですか」


「大きな形はな」


 氏政は答えた。


「だが、すべてが奴の思い通りだったという話ではない」


「違うのですか」


「違う」


 氏政は首を振った。


「そこが余計に恐ろしい」


 氏直が黙る。


「奴は誰がどこで勝つかを当てたわけではない。誰が必ず動くと信じたわけでもない」


 氏政は地図へ目を向けた。


「動かぬ者がいることも、思っていた形にならぬことも考えていた。そのうえで、次の道を用意していた」


「……」


「未来を当てたのではない」


 氏政の声が低くなる。


「未来が外れても秀吉を追い詰められるように、先にいくつもの道を作っていたのだ」


 氏直の表情が変わった。


 氏政は小さく息を吐く。


 あの日。


 北条にとっての利を聞いた。


 上杉との不戦を聞いた。


 景継と手を結ぶことで北条が得られるものも聞いた。


 それだけでも、話に乗る価値はあった。


 だが氏政が最後まで迷っていた時。


 景継はさらに、秀吉を討つところまでの絵図を見せてきた。


 そこで氏政は決めたのだ。


 ただ手を組むだけでは足りない。


 もしこの男が本当にそこまで行くのなら。


 北条は、もっと深く結んでおくべきだと。


 その後に氏政が持ち出したのが――楓との婚姻だった。


「氏直」


「はい」


「楓のことは、まだ公にはするな」


「承知しております」


「景継にも、今すぐ迎えに来いとは言わぬ」


 秀吉が死んだ直後だ。


 天下はこれから大きく動く。


 今ここで北条と林道の婚姻を表へ出せば、警戒する者も増える。


「だが、約束は変えぬ」


「はい」


 氏政は立ち上がり、地図へ近づいた。


 秀吉が消えた。


 これから諸大名は、次の天下を見始める。


 その視線の先に、林道景継がいる。


 北条は景継の家臣ではない。


 これからも北条のために動く。


 だからこそ、あの時に利を確かめ、条件を重ね、血を結ぶ約束までした。


 氏政は秀吉討死を伝える書状を、もう一度見た。


 景継があの日、最後に口にした言葉が蘇る。


 ――最後は、私が秀吉様に引導を渡します。


 そして実際に。


 景継は自ら兵を率いて、秀吉の本陣を破った。


 氏政はしばらく黙った後、小さく笑った。


「……恐ろしい男だ」


 味方だからといって、油断してよい相手ではない。


 婚姻を結ぶからといって、すべてを任せてよい相手でもない。


 それでも。


 今だけは、心の底からそう思えた。


 氏政は誰にも聞こえないほどの声で呟いた。


「――敵に回さなくて、本当によかった」





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