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『乱世にて、我は待つ』~知略を秘めた軍師は、やがて天下を動かす~  作者: ダイヤマ
第八章 覇道躍進編

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第百五十八話 引導



 林道軍が前へ出た。


 これまで羽柴軍の攻撃を受け続けていた兵たちが、一斉に押し返し始める。


「前へ!」


「押し返せ!」


 槍がぶつかり、兵たちの声が重なる。


 羽柴方にとって、それは予想していなかった反撃ではなかった。


 景継がいつか反撃に出ることは、官兵衛も分かっていた。


 だが、問題はその時だった。


 羽柴軍は景継を討つため、残していた兵まで投入している。


 右へ。


 左へ。


 正面へ。


 景継の兵を動かし、その陣を割るために使った。


 あと一歩まで迫った。


 だからこそ、その一歩を押し込むために力を使い切っていた。


「右、押し返されます!」


「正面も林道勢が前進!」


「左もです!」


 報告が続く。


 官兵衛は戦場を見渡した。


「前の兵を下げすぎるな! 二列目と入れ替えよ!」


「二列目も先ほど投入しております!」


「ならば後ろの隊を――」


 言いかけて、官兵衛は止まった。


 後ろ。


 そこに置いていた兵も、すでに使った。


 景継を討つために。


「……っ」


「官兵衛!」


 秀吉の声が飛ぶ。


「どこを支えればよい!」


 官兵衛は即座に答えた。


「中央です!」


「右ではないのか!」


「右は下げます!」


 官兵衛の指が動く。


「右を一度下げ、その兵を中央へ寄せます! 林道勢の前進を正面で止めます!」


「よし!」


 命令が走った。


 羽柴軍の右が後退を始める。


 林道方から歓声が上がった。


 だが、官兵衛は逃げるために下げたのではない。


 兵を中央へ集めるためだった。


 まだ終わらせない。


 まだ景継へ届く可能性はある。



          ◇



「敵の右が下がります!」


 報告を受けた弥兵衛が景継を見る。


「追いますか!」


「追わないでください」


「では」


「中央へ来ます」


 景継は羽柴方の動きを見ていた。


 後退した兵が横へ流れていく。


「右の兵も中央へ寄せます」


「こちらも?」


「ええ。ただし半分だけ」


「残りは」


「そのまま前へ」


 弥兵衛が景継を見る。


「羽柴方の右を押すのですか」


「押すだけです」


「崩せそうですが」


「崩せる場所を全部崩しに行けば、こちらも散ります」


 景継は正面を見た。


 秀吉はまだそこにいる。


 狙うべき場所は変わっていない。


「本陣へ向かいます」


「はっ!」


 林道軍の動きが変わる。


 右では羽柴勢を押しながらも深追いしない。


 そこから一部だけが中央へ寄る。


 左も前進。


 中央では景継自身が前へ出ていた。


 林道の旗が少しずつ羽柴本陣へ近づいていく。



          ◇



「景継本人が前へ出ております!」


 秀吉が林道の旗を見る。


 距離はまだある。


 だが確実に近づいている。


「官兵衛」


「はい」


「あいつ、わしを狙っておるな」


「間違いございません」


「なら好都合だ」


 官兵衛が秀吉を見る。


「何をなさるおつもりです」


「向こうから来るなら、こっちも行く」


「なりません」


「なぜだ」


「秀吉様が前へ出れば、本陣まで動きます」


「だから何だ」


「今、本陣が崩れれば全軍が持ちません」


 秀吉は黙った。


 官兵衛の言う通りだった。


 以前なら秀吉自身が前へ出ることで兵を奮い立たせることもできた。


 だが今は違う。


 各隊が削られ、連絡も乱れ始めている。


 秀吉の旗が不用意に動けば、撤退と誤認する兵すら出かねない。


「では、ここで待てと?」


「はい」


「景継が来るまでか」


「来させます」


 官兵衛の目はまだ死んでいなかった。


「中央へ兵を集めます。景継殿が本陣を狙っているなら、必ずそこへ来る」


「そこを叩く」


「はい」


 秀吉が笑った。


「結局、最後まで待つのはあいつかと思ったが」


「向こうから来てくれるようです」


「なら迎えてやる」


 秀吉は刀の柄に手を置いた。


「ここが最後だ」


 官兵衛は何も答えなかった。


 最後。


 その言葉だけは否定できなかった。



          ◇



 北。


 上杉軍が、羽柴方の守る拠点へ雪崩れ込んだ。


「門が開きました!」


「入れ!」


 景勝の命令が飛ぶ。


 守備側はすでに援軍を求めていた。


 だが来ない。


 秀吉の兵は近江へ集まり、その後は景継との戦いへ向かった。


 待っても、援軍は来なかった。


「敵、奥へ退きます!」


「追いすぎるな」


 景勝が命じる。


「城を押さえよ」


「はっ!」


 上杉の旗が城内へ入っていく。


 一つ。


 羽柴方が守るべき場所が、完全に失われた。



          ◇



 東でも北条軍が攻勢を強めていた。


「敵勢、退却!」


 氏直のもとへ報告が届く。


「追撃は」


「短く」


 氏直は答えた。


「父上からも深追いするなと言われている」


「はっ」


「だが、ここは取る」


 北条軍が前へ進む。


 羽柴方に与していた勢力の一つが耐え切れず、兵を退いた。


 氏直はすぐに周辺へ使者を出した。


「今なら争わぬ者には手を出さぬと伝えよ」


「羽柴方についていた者にも?」


「ああ」


「裏切らせるので?」


「選ばせる」


 氏直は前方を見る。


「秀吉殿から援軍が来ないと分かれば、考える者はいる」


 実際、その日のうちに複数の小勢力から使者が来た。


 戦わない。


 少なくとも今は北条と敵対しない。


 そう伝えるために。


 東でも、羽柴方の影響力が急速に薄れていった。



          ◇



 尾張。


 家康のもとにも各地の報せが届いていた。


「上杉勢が羽柴方の拠点を攻略!」


「北条も攻勢を強めております!」


「柴田勢は羽柴軍を追っております!」


 信雄が地図を見る。


「一気に動いたな」


「はい」


 家康は短く答えた。


「我らも進むか」


「進みます」


 家康は次の羽柴方拠点を指した。


「ただし、急ぎすぎぬように」


「景継を助けに行かなくてよいのか」


 信雄の問いに、家康は少しだけ考えた。


「今から向かっても間に合いませぬ」


「なら」


「こちらはこちらの戦を続けます」


 羽柴方が景継へ兵を集中している。


 だからこそ尾張では攻められる。


「我らが止まれば、秀吉殿は兵を戻せます」


「……なるほどな」


 信雄が頷いた。


「なら取れるだけ取るぞ」


「はい」


 家康は地図へ目を落とした。


 景継。


 秀吉。


 二人が直接ぶつかった。


 その結果がどうなるか。


 家康にもまだ分からない。


 だが自分のすることは決まっていた。


「次へ参りましょう」


 徳川・信雄勢も前進を続けた。



          ◇



 近江の戦場では、林道軍と羽柴軍の距離がさらに縮まっていた。


「中央、敵が固まりました!」


 弥兵衛が叫ぶ。


「やはり来ましたね」


 景継は前方を見る。


 羽柴方は中央へ兵を寄せている。


 その奥には秀吉の旗。


 官兵衛は、景継が来ることを待っている。


「罠でしょうか」


「罠でしょうね」


「なら避けますか」


「避けません」


 弥兵衛が景継を見る。


「罠だと分かっていて?」


「他へ回れば、官兵衛殿もまた兵を動かします」


「では」


「正面から崩します」


 弥兵衛が目を見開いた。


 景継がそんな言葉を口にすることは多くない。


「できるので?」


「やります」


 景継は林道軍を見る。


 ここまで兵を残した。


 土地を広げた。


 兵糧を蓄えた。


 人を集めた。


 そのすべては、必要な時に自分の力として使うためだった。


 人を動かすだけでは天下は取れない。


 最後に自分の前へ立った相手を倒す力がなければ、どれほど多くの者と結んでも意味がない。


「中央へ主力を寄せます」


「はっ」


「右は羽柴方を押さえるだけ。左も同じです」


「中央で決めると」


「ええ」


 景継は前を見る。


「秀吉様も、そのつもりでしょう」


 命令が走った。


 林道軍の厚みが中央へ集まっていく。


 羽柴軍も中央へ集まる。


 両軍が、同じ場所を選んだ。



          ◇



 最初の激突で、林道軍が押し返された。


「下がるな!」


 兵たちが踏みとどまる。


 羽柴軍の勢いは衰えていなかった。


 官兵衛が中央へ集めた兵は、景継を討つことだけを目的に前へ出てくる。


「押せ!」


 秀吉の声が響いた。


「林道景継は目の前だ!」


 羽柴兵が突っ込む。


 林道軍の前列が崩れる。


「殿!」


 弥兵衛が景継を見る。


「二列目を前へ」


「はっ!」


 新たな兵が入る。


 止める。


 また羽柴軍が来る。


 今度は林道軍が押す。


 互いに一歩。


 二歩。


 そしてまた戻される。


 戦場から、駆け引きが消えていった。


 最後に残ったのは、どちらが先に折れるかという戦いだった。


「羽柴勢、また来ます!」


「受けてください!」


 景継は前を見続ける。


 秀吉の旗が近い。


 だが、その前に官兵衛が作った厚い壁がある。


「官兵衛殿……」


 景継が呟いた。


「やはり、簡単には通してくださいませんか」


 その時。


 後方から声が上がった。


「柴田勢!」


 弥兵衛が振り返る。


 遠くに旗が見えた。


 勝家だった。


 立て直した柴田勢が、ついに戦場へ到着し始めていた。


「秀吉様の後ろへ回ります!」


「待ってください」


 景継が止める。


「え?」


「勝家様へ使者を」


「何と」


「羽柴軍の後ろを塞いでください」


「攻めさせないのですか」


「攻めていただいて構いません。ただし、深く入らずに」


 弥兵衛はそこで理解した。


 秀吉が逃げる道を塞ぐ。


「承知しました!」


 使者が勝家のもとへ走った。



          ◇



「景継がそう言ったか」


 勝家は使者を見た。


「はい!」


「後ろを塞げと」


「攻撃はしていただいて構わぬ。ただし深く入らぬようにと!」


 勝家は鼻を鳴らした。


「随分と注文が多いな」


 だが、すぐに羽柴軍を見る。


 ここまで自分を押し続けた軍だ。


 本当なら後ろから突っ込んでやりたい。


 だが景継の狙いも分かった。


「よし」


 勝家が命じる。


「道を塞ぐ!」


「はっ!」


「ただし近くの羽柴勢は叩け! こちらを向く兵を残させろ!」


 柴田勢が広がった。


 羽柴軍の後方に、新たな圧力がかかる。



          ◇



「柴田勢、後方へ!」


 羽柴本陣へ報告が入る。


 官兵衛が振り返った。


「数は」


「続々と到着しております!」


「秀吉様」


 官兵衛が秀吉を見る。


「退路が狭まります」


「分かっておる」


「今なら、まだ一部は抜けられます」


「……」


「秀吉様」


 秀吉は林道の旗を見ていた。


 近い。


 景継もこちらを見ているはずだ。


「あと一度」


「何を」


「攻める」


 官兵衛の顔が険しくなる。


「これ以上は」


「あと一度だ」


「その一度で抜けなければ」


「その時考える」


「考える時間が残りませぬ!」


 官兵衛の声が強くなった。


 秀吉が振り返る。


 二人の視線がぶつかる。


「……官兵衛」


「はい」


「わしはまだ負けておらん」


「承知しております」


「なら勝つ話をしろ」


 官兵衛は何も言えなかった。


 やがて、深く頭を下げる。


「では、最後の攻撃を」


「ああ」


「景継殿の中央へ、残る力を集めます」


「やれ」


 官兵衛は立ち上がった。


「全軍へ!」


 最後の命令が走る。


 羽柴軍が、もう一度前へ出た。



          ◇



「来ます!」


 林道方でも声が上がった。


 景継は前を見る。


 羽柴軍の中央が動いている。


 先ほどまでより多いわけではない。


 むしろ兵は減っている。


 だが、その動きで分かった。


 これが最後だ。


「弥兵衛」


「はっ」


「こちらも行きます」


「受けるのではなく?」


「ええ」


 景継は刀を抜いた。


 自分で敵を斬るためではない。


 全軍に見せるためだった。


「太鼓を」


「はっ!」


 林道軍の太鼓が鳴る。


 羽柴軍が迫る。


 林道軍も前へ出る。


 今度は待たない。


 両軍が正面から激突した。


 凄まじい音が響いた。


「押せ!」


 羽柴方から秀吉の声。


「前へ!」


 林道方から景継の命令。


 兵が倒れる。


 旗が揺れる。


 槍が折れる。


 それでも双方が前へ進もうとする。


 最初は互角だった。


 やがて羽柴軍が半歩押す。


 林道軍が戻す。


 再び羽柴軍が押す。


 だが――。


「右の羽柴勢、後退!」


 報告が入った。


 別の場所では林道軍が前へ出ている。


「左も押しております!」


 羽柴軍は中央へ力を集めすぎていた。


 その代わり、両側が持たなくなっている。


「そのまま押してください!」


 景継が命じる。


 左右から羽柴軍が削られていく。


 中央では、まだ官兵衛が持たせている。


 だが少しずつ。


 羽柴軍全体が狭くなっていった。



          ◇



「右が持ちません!」


「左も後退!」


「柴田勢、後方へ接近!」


 報告が重なる。


 官兵衛は目を閉じた。


 もう兵を動かせない。


 中央を抜くために集めた。


 それを戻せば景継を倒せない。


 戻さなければ左右が崩れる。


 どちらを選んでも同じだった。


「官兵衛」


 秀吉が呼ぶ。


「はい」


「どうだ」


 官兵衛は少しだけ黙った。


 ここで嘘を言っても仕方がない。


「……これ以上は、攻められませぬ」


 秀吉が何も言わない。


「兵を退くべきにございます」


「どこへ」


「柴田勢が完全に塞ぐ前に、一点を破ります」


「軍は残るか」


 官兵衛は答えられなかった。


「どれだけ残る」


「……分かりませぬ」


 秀吉が笑った。


「そうか」


「秀吉様」


「官兵衛」


「はい」


「お前は退け」


 官兵衛の表情が変わった。


「何を」


「残った兵をまとめろ」


「ならば秀吉様も」


「わしは残る」


「なりません!」


 官兵衛が一歩前へ出た。


「秀吉様が生きておられれば、まだ立て直せます!」


「どこでだ」


「それは――」


「尾張は家康に削られ、北では上杉、東では北条が動いておる。勝家は後ろだ」


「それでも!」


「だからお前がいる」


 官兵衛が言葉を失った。


「お前なら、残った者を連れて抜けられる」


「私は秀吉様をお連れして――」


「二人ともここで死んで、何が残る」


 官兵衛の口が止まった。


 秀吉は前を見る。


 林道の旗が、さらに近づいていた。


「官兵衛」


「……はい」


「わしは、まだ死ぬつもりで残るわけではない」


 官兵衛が顔を上げる。


「押し返す」


 秀吉は刀を抜いた。


「景継を押し返して、それから逃げる」


「なら私も」


「お前が残れば、兵が全部ここに残る」


「……」


「逃がせ」


 秀吉が命じた。


「残せる兵を残せ」


 官兵衛は動かなかった。


「これは命令だ」


 長い沈黙の後。


 官兵衛が頭を下げた。


「……承知、いたしました」


 声が僅かに震えていた。


 秀吉はそれ以上、官兵衛を見なかった。


「行け」


 官兵衛が立ち上がる。


 数歩進み、もう一度だけ振り返った。


 秀吉はすでに前を見ていた。



          ◇



「羽柴方の一部が後方へ動きます!」


 景継のもとへ報告が来た。


「逃げますか!」


 弥兵衛が尋ねる。


 景継はその動きを見る。


「勝家様へ伝えてください」


「追わせますか」


「すべては止めなくて構いません」


 弥兵衛が景継を見る。


「よろしいので?」


「ええ」


 景継は羽柴本陣を見た。


 旗が残っている。


 秀吉はまだそこにいる。


「今、追うべき相手はそちらではありません」


 景継が指した。


「羽柴本陣です」


 林道軍がさらに前へ出る。


 羽柴方の防御が一つ崩れた。


 その向こうに、本陣が見え始める。


「殿」


 弥兵衛が前方を指した。


「羽柴本陣です」


 景継は答えなかった。


 遠くに翻る秀吉の旗を見つめる。


 北ノ庄。


 あの時、一度は秀吉を退けた。


 だが終わらなかった。


 秀吉は立て直した。


 人を集めた。


 兵を集めた。


 再び天下へ手を伸ばした。


 だから自分も準備した。


 土地を得た。


 国を整えた。


 兵を育てた。


 勝家と結び、信孝と結び、北条と上杉へ足を運んだ。


 そして今。


 秀吉が目の前にいる。


 もう、待つものはなかった。


「弥兵衛」


「はっ」


 景継が刀を前へ向けた。


「秀吉様に、引導を渡します」


 弥兵衛が大きく息を吸った。


「全軍――!」


 林道の旗が一斉に前へ傾く。


「前へ!」


 太鼓が鳴った。


 林道軍が走り出す。


 羽柴本陣へ。


 羽柴秀吉へ。


 景継自身が、この戦を終わらせるために。


 林道軍の総攻撃が始まった。



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