第百五十七話 最後の一手
羽柴軍の最後の部隊が動いた。
それまで秀吉の本陣近くに残されていた兵たちが、官兵衛の指示を受けて一斉に前へ出る。
向かったのは、林道軍の中央ではない。
先ほどから激しい攻防が続いている左でもなかった。
林道軍の右寄り。
側面へ回り込もうとする羽柴勢への対応で、何度か兵を動かしていた場所だった。
「来ます!」
林道方の物見が叫ぶ。
景継もすぐに気づいた。
「数は」
報告を聞いた景継の表情が僅かに変わる。
先ほどまでとは違う。
牽制ではない。
羽柴方に残っていた力を、かなり注ぎ込んできている。
「殿、右へ兵を!」
弥兵衛が叫ぶ。
「出します」
「予備をすべて?」
「……いいえ」
景継は一瞬だけ考えた。
「残りの半分を二つに分けます。一隊を右へ。もう一隊はここに残してください」
「まだ残されるのですか」
「本陣まで空にするわけにはいきません」
弥兵衛は頷き、命令を飛ばした。
林道軍の兵が右へ向かう。
だが、その動きを見ていた官兵衛もすぐに次の命令を出した。
「正面も押してください」
「しかし、先ほどまで戦っていた者たちは疲れております!」
「承知しています。崩す必要はありません」
官兵衛は林道軍の陣を見る。
「景継殿に、正面から兵を抜けないと思わせればよい」
「はっ!」
羽柴軍が再び正面から動く。
景継のもとへ報告が飛び込んだ。
「正面、敵が前進!」
「受けてください」
「はっ!」
「左も敵が動きました!」
「今いる兵で持たせます」
景継は戦場を見渡した。
正面。
左。
右。
三方向から同時に圧力がかかっている。
そして後方では、羽柴方の別働隊が林道軍の荷駄を脅かしている。
こちらの兵を動かせば、その分だけ別の場所が薄くなる。
「……嫌な攻め方をなさいますね」
景継が呟く。
「殿?」
「官兵衛殿です」
景継は右を見る。
「一つを破るためではありません。私に兵を動かさせ続けている」
どこか一か所へ力を集めるための攻撃ではない。
景継に次々と判断を迫り、予備を削るための攻撃。
そして。
「最後に、本当に欲しい場所へ来る」
景継の視線が戦場を巡る。
どこだ。
官兵衛は何を狙っている。
その答えが見えるより先に、右から大きな声が上がった。
「押し込まれます!」
林道軍の右側。
羽柴方が一気に兵を入れた。
「二列目、前へ!」
林道兵が受け止める。
だが羽柴勢は止まらない。
疲労しているはずだった。
勝家との戦を終えたばかりだった。
それでも、ここを抜けば状況を変えられる。
秀吉を天下争いに残せる。
その思いが、羽柴兵を前へ押していた。
「右が崩れます!」
弥兵衛が景継を見る。
「残りを出しましょう!」
景継は右を見る。
次に正面。
そして秀吉の本陣。
「……出してください」
「はっ!」
「ただし、全部ではありません」
「まだですか!」
「私の周りの兵は残します」
「当然です!」
弥兵衛はすぐに命令を飛ばした。
最後に残していた予備の大半が右へ向かう。
林道軍の右が持ち直した。
押し込んでいた羽柴勢が止まる。
弥兵衛が息を吐いた。
「止めました」
「ええ」
だが景継は笑わなかった。
何かがおかしい。
官兵衛がこれで終わるとは思えない。
景継は羽柴軍の動きを見続けた。
◇
「入りました」
官兵衛が呟いた。
秀吉が振り向く。
「何がだ」
「景継殿の予備です」
林道軍の本陣近くにいた兵の大半が、右へ動いた。
「なら、行くか」
「はい」
官兵衛は別の場所を指した。
右ではない。
正面でもない。
先ほどから攻撃を受け続け、少しずつ兵を動かしていた林道軍の左。
そのさらに奥だった。
「ここを抜きます」
「景継まで届くか」
「届かなくても構いません」
秀吉が官兵衛を見る。
「どういうことだ」
「林道軍を二つに割ります」
官兵衛は説明した。
左の一角を強く押し込み、林道軍の中央との間へ食い込む。
景継が右へ回した兵を戻そうとしても、その道を塞ぐ。
「景継殿は、兵を残すことで戦場全体へ対応してきました」
「ああ」
「なら、その兵同士を行き来できなくすればよい」
秀吉の目が細くなる。
「景継の手足を切るか」
「はい」
「その後は」
「本陣へ」
秀吉が笑った。
「よし」
官兵衛が頭を下げる。
「ただし、これが最後です」
「分かっておる」
「失敗すれば、本当に兵が残りません」
「だから全部出せと言った」
秀吉は立ち上がった。
「わしも前へ行く」
「秀吉様」
「兵に見せる」
秀吉は止まらなかった。
「ここを抜けば勝てるとな」
官兵衛は一瞬だけ秀吉の背中を見た。
そして自分も続いた。
◇
羽柴軍の動きが変わった。
「左!」
林道方から声が上がる。
「敵が左へ集まっています!」
景継が振り向いた。
「数は!」
報告が来る。
多い。
先ほど右へ投入した兵に匹敵するほどの軍勢だった。
「どこに残していた……」
弥兵衛が呟く。
「残していたのではありません」
景継が答えた。
「動かしたんです」
「どこから」
「正面でしょう」
正面を押していた羽柴勢の一部が、戦線の陰で左へ流れていた。
さらに右側へ出ていた部隊の一部まで向きを変えている。
景継はようやく官兵衛の狙いを理解した。
「右は最初から、こちらの兵を引きつけるため……」
「では、本命は!」
「左です!」
景継の声が強くなる。
「左へ伝えてください! 絶対に抜かせないように!」
「はっ!」
だが、遅かった。
羽柴軍が突撃した。
正面から槍がぶつかる。
鉄砲が鳴る。
林道兵が倒れる。
羽柴兵も倒れる。
それでも後ろから次が来た。
「押せ!」
前線近くまで出てきた秀吉の声が響く。
「ここを抜けば終わりだ!」
羽柴兵の勢いが増した。
「殿! 左が!」
林道軍の一角が押し込まれる。
「下げながら持たせてください!」
「これ以上下げれば、中央との間が!」
「分かっています!」
景継は右へ目を向けた。
右には先ほど送った兵がいる。
戻したい。
だが羽柴方の部隊が正面に残っているため、簡単には動かせない。
官兵衛の狙い通りだった。
「……やられましたね」
景継が呟く。
「そんなことを言っている場合では!」
「分かっています」
景継は馬を前へ出した。
「殿!」
「左へ行きます」
「なりません!」
「このままでは割られます」
「だからといって殿が!」
「私が行けば、兵が止まります」
弥兵衛が景継の馬の前へ出ようとする。
「景継様!」
「弥兵衛」
景継が見る。
「ここをお願いします」
「……っ」
「死にに行くつもりはありません」
景継は馬を進めた。
「まだ天下を取っていませんから」
護衛がその後を追う。
弥兵衛は歯を食いしばり、すぐに本陣へ向き直った。
「景継様の旗を左へ!」
「はっ!」
「全軍に伝えろ! 殿が前へ出られた!」
林道の旗が動く。
それを見た兵たちが声を上げた。
◇
「林道の旗が動きました!」
報告を聞いた官兵衛が目を見開いた。
「場所は」
「左へ!」
官兵衛が戦場を見る。
林道の旗が、崩れかけた一角へ近づいている。
「景継本人か」
秀吉が尋ねた。
「おそらく」
「なら、そこだ」
「秀吉様」
「兵を寄せろ!」
官兵衛が一瞬迷った。
ここで景継を討てれば終わる。
林道軍は崩れる。
勝家も、信孝も、上杉も、北条も、それぞれ残るだろう。
だが、今のように一つの形で秀吉を追い詰め続けることは難しくなる。
「行きます」
官兵衛が決断した。
「景継殿を討ちます」
羽柴軍の攻撃が、さらに一点へ集中した。
◇
「殿が来られたぞ!」
林道兵たちの声が上がった。
景継は前線のすぐ後ろまで来ていた。
目の前では槍がぶつかり、兵が倒れている。
「景継様! 危険です!」
「分かっています」
景継は戦場を見る。
押されている。
想像していた以上に。
官兵衛は、こちらの兵の動かし方を読んだ。
そして秀吉は、その策に迷わず兵を注ぎ込んだ。
この二人が組んでいる限り、簡単に勝てるはずがない。
「左の三隊を、少し下げてください」
「下げるのですか!」
「ええ」
「抜かれます!」
「一度だけです」
景継が地形を見る。
「下がった後、中央側へ寄せてください」
「しかし」
「割られないためです」
前へ出続ければ、羽柴軍に間へ食い込まれる。
ならば一度下がり、線を短くする。
「急いで」
「はっ!」
林道軍の左が後退する。
羽柴兵が歓声を上げて前へ出る。
だが林道兵は逃げなかった。
中央へ寄り、もう一度槍を並べる。
羽柴方の狙っていた隙間が狭くなった。
「止まった!」
林道兵が声を上げる。
景継は息を吐いた。
だが次の瞬間。
「敵、さらに来ます!」
羽柴軍が止まらない。
秀吉も官兵衛も、ここが最後だと分かっている。
兵を惜しまない。
林道軍の新しい陣へ、そのままぶつかってきた。
「鉄砲!」
「撃て!」
轟音。
煙。
悲鳴。
それでも羽柴兵が突っ込む。
林道軍も槍で受ける。
ついに両軍が、互いに一歩も引けない戦いになった。
◇
戦いが続く中。
林道本陣へ、一騎の使者が駆け込んだ。
「柴田様より!」
弥兵衛が振り返る。
「勝家様が動かれたか!」
「はい!」
使者が叫ぶ。
「柴田勢、立て直しを終えた部隊から追撃を開始!」
弥兵衛の顔が変わる。
「どこまで来ている!」
位置を聞く。
まだ遠い。
だが確実に羽柴軍の後ろへ近づいている。
「景継様へ伝えろ!」
「はっ!」
使者が前線へ走る。
その直後。
また別の報告が来た。
「尾張より!」
「何だ!」
「徳川・信雄勢、羽柴方の二つ目の拠点を攻略!」
弥兵衛が息を呑む。
家康も止まっていない。
羽柴軍が景継へ全力を向けている間にも、各地の戦況は動き続けている。
◇
羽柴本陣にも同じ頃、悪報が届いていた。
「尾張の拠点、陥落!」
「上杉勢、城内へ侵入したとの報せ!」
「北条勢、さらに一つ羽柴方に与する勢力を退けました!」
官兵衛はすべて聞いた。
「勝家殿は」
「追撃を開始!」
官兵衛が目を閉じる。
時間がない。
本当に、もう時間がない。
「秀吉様」
秀吉は前を見ていた。
林道軍の左。
あと少し。
もう一度押せば、崩せるようにも見える。
「秀吉様!」
「聞いておる!」
「勝家殿が後ろから来ます!」
「その前に景継を討つ!」
「ですが――」
「ここで退けば何が残る!」
秀吉が振り返った。
「尾張は削られた! 北も東も攻められておる! 勝家も残った!」
官兵衛は黙る。
「今退いて、どこで立て直す!」
「……」
「景継を倒すしかない!」
秀吉の言うことは間違っていなかった。
今から撤退しても、以前の勢力を保てる保証はない。
ならば景継を討つ。
それだけが、一気に状況を変えられる可能性だった。
「もう一度だ」
秀吉が言う。
「押せ」
官兵衛は前を見る。
林道の旗。
景継はまだそこにいる。
「……承知しました」
官兵衛が命令を出した。
羽柴軍が再び前へ出る。
◇
「また来ます!」
景継は馬上から敵を見た。
こちらも疲れている。
兵の息が上がっている。
槍を持つ手にも力が残っていない者がいる。
それでも羽柴軍は来る。
「殿!」
勝家が後方から近づいているとの報告が届く。
続いて家康の戦果。
上杉。
北条。
各地から報せが重なった。
弥兵衛も前線へ来ていた。
「景継様!」
「弥兵衛」
「羽柴方は、もう長く持ちません!」
「ええ」
「ならば、ここを耐えれば――」
「違います」
景継が遮った。
弥兵衛が黙る。
景継は羽柴軍を見る。
秀吉はまだ攻めている。
官兵衛も諦めていない。
ここで受け続ければ、確かにいずれ羽柴軍は苦しくなる。
勝家も来る。
上杉も北条も攻めている。
家康も止まらない。
待てばいい。
これまでの景継なら、そうしたかもしれない。
だが。
「もう十分です」
景継が言った。
「何がでございますか」
「待つのは」
弥兵衛が景継を見る。
景継は戦場を見渡した。
羽柴軍は最後の兵まで攻撃へ投入した。
官兵衛が作った最後の一手も見た。
そして、それを受け止めた。
「次はこちらから行きます」
弥兵衛の表情が変わる。
「反撃を?」
「ええ」
「ですが、こちらにも余裕は」
「あります」
景継は自分の周囲を見る。
本陣を守るため最後まで残した兵。
数は多くない。
だが、それだけではない。
右へ送った兵。
一度後退させた左。
正面。
すべてが今、羽柴軍の攻撃を受け止めている。
羽柴方は景継を討つため、前へ出すぎた。
「右へ伝えてください」
「何と」
「押し返した後、そのまま止まらず前へ」
「はっ」
「正面もです」
「左は」
景継は目の前の羽柴軍を見る。
「私が行きます」
「また前へ出られるおつもりですか!」
「今度は下がるためではありません」
景継が馬を進める。
「押すためです」
弥兵衛が景継の横へ並んだ。
「ならば、私も参ります」
「本陣は」
「他の者に任せます」
景継が少しだけ笑った。
「頑固ですね」
「誰に仕えたと思っておられます」
景継は答えなかった。
前を見る。
羽柴の旗が揺れている。
そのさらに奥。
秀吉の本陣がある。
「全軍へ伝えてください」
弥兵衛が息を吸う。
「これより反撃する、と」
「はっ!」
太鼓が鳴った。
今までとは違う音だった。
林道軍の各隊が、その音を聞く。
「前へ!」
命令が伝わっていく。
受け続けていた林道兵が、初めて一斉に踏み出した。
羽柴兵が驚く。
槍と槍が再びぶつかる。
だが今度は、林道軍が押した。
一歩。
さらに一歩。
景継も前へ進む。
「景継様!」
兵たちが声を上げる。
「前へ」
景継が告げる。
「ここで終わらせます」
林道の旗が、羽柴本陣へ向かって進み始めた。




