第百五十六話 反転
羽柴軍が退き始めた。
それを最初に異変として捉えたのは、勝家の前線にいた兵たちだった。
「敵が下がります!」
「何?」
勝家が前へ出る。
つい先ほどまで、羽柴軍は激しく攻め続けていた。
あと一歩でも下がれば戦線が崩れかねない。
そこまで追い込まれていた。
にもかかわらず、羽柴方の圧力が急に弱くなった。
「罠ではないのか」
「分かりませぬ。ですが、前へ出ていた部隊が次々と戻っております!」
勝家はすぐに追撃を命じなかった。
遠くを見る。
羽柴の旗が動いている。
ただ下がっているのではない。
部隊をまとめ直している。
「……逃げる気ではないな」
勝家が呟いた。
「では、どこへ」
「調べろ。秀吉が何をするつもりなのか」
「はっ!」
斥候が走る。
しばらくして、別の報告が届いた。
「林道軍が羽柴方の後方へ向かっております!」
「景継が出たか」
「はい!」
勝家は一瞬で理解した。
「そういうことか」
羽柴軍がこちらを諦めた理由。
景継が動いた。
「秀吉は景継へ向かうつもりか」
「その可能性が高いかと」
「……面白い」
勝家が笑った。
家臣が驚いて見る。
「何がおかしいので?」
「景継の奴、ようやく自分で戦う気になったらしい」
だが、笑っている場合ではない。
勝家はすぐに振り返った。
「兵を休ませろ!」
「追撃は?」
「今すぐはせん!」
ここまで戦い続けた兵を、そのまま追わせれば逆に崩れる。
「飯を食わせろ。傷を見ろ。隊を組み直せ」
「はっ!」
「動けるようになった隊から前へ出す」
家臣が頷く。
勝家は遠ざかる羽柴軍を睨んだ。
「わしを散々殴っておいて、勝手に帰れると思うなよ」
羽柴軍を追うため、柴田勢も立て直しを始めた。
◇
林道軍は、すでに目的の街道へ近づいていた。
「先陣、羽柴方の小勢と接触!」
「敵は退いております!」
報告を聞いた景継は進軍を続けた。
「追わせないでください」
「はっ!」
「道を確保することを優先します」
弥兵衛が馬を寄せる。
「一益様の兵も近くまで来ております」
「合流は」
「一部のみ可能とのことです」
「それで十分です」
景継は地図を見る。
一益が荷駄を乱し、林道軍がその先を押さえる。
これで羽柴方が使える道は大きく狭まる。
だが――。
景継が顔を上げた。
前方から斥候が駆けてくる。
「申し上げます!」
「どうしました」
「羽柴軍に動き!」
弥兵衛が振り向く。
「勝家様を崩したのか!」
「違います!」
斥候が息を整える。
「柴田勢への攻撃を中止! 羽柴軍が反転しております!」
景継の目が細くなった。
「方向は」
「こちらです!」
周囲の空気が変わった。
弥兵衛が景継を見る。
「我らを?」
「そのようですね」
「道を取り返しに来るのでしょうか」
景継は地図へ視線を戻した。
それだけなら、もっと別の動き方がある。
勝家への攻撃を完全に止め、主力そのものを反転させる必要はない。
「違います」
「では」
「私でしょう」
弥兵衛が黙った。
「秀吉様は、林道軍ではなく私を狙っておられる」
「……殿を討てば、こちらが崩れると」
「少なくとも、今の形は大きく変わります」
景継はすぐに命じた。
「先陣を止めてください」
「止める?」
「ええ。予定を変えます」
周囲の将たちが集まってくる。
景継は地図を地面へ広げた。
「このまま道へ急げば、こちらが伸びます。そこへ秀吉様が来る」
「ならば、後退を?」
「いいえ」
景継の指が、少し手前の場所で止まる。
「ここで迎えます」
「羽柴主力を?」
「はい」
弥兵衛が息を呑んだ。
今までの景継なら、正面から受けることを避けたかもしれない。
だが今回は違う。
逃げれば、秀吉は勝家との戦から離れた意味を得る。
さらに羽柴軍が立て直す時間まで与えることになる。
「秀吉様がこちらを選ばれたのなら、来ていただきましょう」
「勝てますか」
景継は地形を確認する。
「簡単にはいきません」
即答だった。
「官兵衛殿がおられますから」
弥兵衛が景継を見る。
「それでも受けると」
「ここで受けなければ、また同じことを繰り返すことになります」
北ノ庄では退けた。
だが秀吉は残った。
そして再び勢力を立て直した。
今度は違う。
「陣を作ります」
「はっ!」
「一益様へ使者を。荷駄への攻撃は続けていただく。ただし、こちらへ無理に兵を寄せる必要はないと」
「承知しました」
「勝家様には?」
「何も求めません」
「よろしいので?」
「今まで戦っておられたのです。動けるなら、ご自分で来られるでしょう」
弥兵衛が頷いた。
「全軍停止! 陣を構えよ!」
命令が走った。
林道軍の進軍が止まる。
兵たちが街道から広がり、迎撃の陣を作り始めた。
景継はその様子を馬上から見ていた。
秀吉が来る。
今度は、自分を倒すために。
◇
「林道軍が止まりました」
官兵衛が報告を受けた。
「場所は」
位置を聞き、地図を見る。
「気づいたか」
秀吉が言った。
「はい」
「逃げたか」
「いいえ」
官兵衛は顔を上げた。
「陣を構え始めております」
秀吉の口元が上がった。
「受ける気か」
「そのようにございます」
「なら話が早い」
秀吉は軍を止めなかった。
「このまま行く」
「秀吉様」
「何だ」
「正面からぶつかるだけではなりません」
「分かっておる」
秀吉が官兵衛を見る。
「どうする」
官兵衛は地図を指した。
「景継殿は、我らが来ると知って陣を作りました」
「ああ」
「ならば、正面には当然備えております」
「回るか」
「一部を」
官兵衛の指が横へ動く。
「こちらから林道軍の側面へ向かわせます」
「気づくだろう」
「気づかせます」
秀吉が眉を上げた。
「囮か」
「はい」
官兵衛は続ける。
「側面へ回る部隊を見せれば、景継殿は兵を割くでしょう」
「その間に正面を押す」
「それだけではございません」
もう一つ。
官兵衛が別の道を指した。
「小勢をこちらへ」
「何を狙う」
「林道軍の後方です」
「景継の退路か」
「退路だけではありません」
官兵衛が答えた。
「景継殿が我らの道を狙ったように、我らも景継殿の荷を狙います」
秀吉が笑った。
「やり返すか」
「長く戦う余裕は我らにもございません。ですが、林道軍にも同じことを考えさせることはできます」
「よし」
秀吉はすぐに命じた。
「やれ」
「はっ!」
羽柴軍の中から、二つの部隊が本隊を離れた。
一つは林道軍の側面へ。
もう一つは大きく迂回し、後方へ。
秀吉は正面に残った主力とともに進む。
「景継」
遠くにまだ見えない敵へ向かって、秀吉が呟いた。
「待っておれ」
その声には、まだ力があった。
◇
林道軍の陣へ最初に現れたのは、羽柴本隊ではなかった。
「右手に敵兵!」
景継がそちらを見る。
羽柴方の一隊が、こちらの側面へ回ろうとしている。
「数は」
報告を聞く。
「止められます」
弥兵衛が言った。
「兵を回しますか」
「回してください」
「どの程度」
景継が指示する。
すぐに林道軍の一部が右へ動いた。
その直後。
「左後方にも敵影!」
弥兵衛が振り返った。
「もう一隊?」
「かなり遠くを回っております!」
景継は少し考えた。
「荷を狙っていますね」
「兵を出します!」
「待ってください」
景継は地図を見る。
二つ。
一方は見えるように側面へ。
もう一方は遠く後方へ。
こちらに兵を分けさせる。
そして――。
「正面が来ます」
景継が顔を上げた。
間もなく、地平の向こうに旗が現れた。
一つではない。
次々と増えていく。
羽柴軍の主力だった。
「殿」
「ええ」
景継は静かにそれを見る。
「官兵衛殿ですね」
弥兵衛が尋ねる。
「分かるのですか」
「秀吉様だけなら、もっと早く正面へ来られたでしょう」
景継は右側へ回った敵を見る。
「こちらに考えることを増やしてから来た」
羽柴軍の太鼓が鳴った。
林道軍にも緊張が走る。
「後方へ兵を回さなくてよろしいので?」
「回します。ただし、荷を守り切ろうとしないでください」
「捨てるのですか」
「必要なら」
弥兵衛が驚く。
「兵糧を失えば、こちらも長くは」
「長く戦うつもりはありません」
景継は答えた。
秀吉も同じだ。
上杉と北条が攻撃を始めた以上、羽柴軍に長期戦をする余裕はない。
ならば官兵衛が荷を狙う本当の目的は、兵糧そのものではない。
こちらの兵を正面から減らすこと。
「後方へは最小限。荷駄は守れる分だけ守ってください」
「はっ!」
「右も追わない。近づいた時だけ押し返す」
命令が伝わる。
林道軍は大きく形を崩さなかった。
それを遠くから見た官兵衛は、僅かに眉を寄せた。
「乗りませぬか」
側近が言う。
「全部には、乗りませんでした」
「では策は失敗でしょうか」
「いいえ」
官兵衛は正面を見る。
「兵は少し動かせました」
完全に崩す必要はない。
正面から消えた兵がいる。
それだけでいい。
「秀吉様へ」
「はっ」
「始めます」
伝令が走る。
◇
羽柴軍が動いた。
「来ます!」
林道軍の前列で槍が揃えられる。
景継は後方から戦場を見ていた。
「弓、まだ」
羽柴兵が近づく。
「まだです」
さらに近づく。
「鉄砲隊、構え!」
銃口が並ぶ。
「撃て!」
轟音が響いた。
羽柴方の前列が倒れる。
それでも止まらない。
「次!」
二射目。
煙の向こうから羽柴兵が迫る。
「槍!」
両軍がぶつかった。
激しい音が広がる。
林道軍の前列が押された。
「持たせろ!」
弥兵衛が声を上げる。
羽柴軍は強かった。
勝家と連日戦った直後とは思えない。
何より、ここで景継を倒せば状況を変えられると兵たちも理解している。
必死だった。
「左、押されています!」
「二列目を」
「はっ!」
景継が兵を入れる。
持ち直す。
その直後、今度は右側で羽柴方の別働隊が動いた。
「右手の敵、接近!」
「迎えさせてください」
「はっ!」
正面。
側面。
後方。
官兵衛は同時に景継へ判断を迫ってくる。
少しでも兵の動かし方を誤れば、そこへ秀吉の主力が食い込む。
「正面、再び来ます!」
羽柴軍の第二波だった。
一度下がった兵の間から、新たな隊が前へ出る。
「殿!」
「受けます」
「予備を?」
「まだです」
景継は戦場を見る。
羽柴方も余力が少ない。
だが官兵衛は、その少ない余力を巧みに入れ替えている。
同じ兵を戦わせ続けず、前列を交代させながら圧力を保つ。
「……上手いですね」
景継が呟いた。
弥兵衛が苦い顔をする。
「感心している場合ではございません」
「そうですね」
景継は視線を動かした。
右。
左。
正面。
そして羽柴本陣。
まだ秀吉の旗は遠い。
「左へ一隊」
「左は持っております」
「今は」
景継が答える。
「次は、そこへ来ます」
弥兵衛が命令を飛ばした。
兵が動く。
間もなく羽柴方の攻撃が左へ強まった。
「来た!」
先に兵を置いていたことで、林道軍は受け止める。
しかし、完全には止められない。
前列の一部が崩れた。
「押し込まれます!」
「下がって構いません」
「下がる?」
「次の位置まで」
林道兵が少し下がる。
羽柴勢が前へ出た。
秀吉の本陣から歓声が上がる。
「押したぞ!」
秀吉が前へ出る。
「もう一度だ!」
官兵衛が戦場を見る。
林道方の左が下がった。
だが崩れてはいない。
「秀吉様、深く入りすぎては」
「分かっておる!」
秀吉も長久手を忘れてはいない。
「逃げた兵は追うな! 陣を押せ!」
羽柴軍は冷静だった。
景継はそれを見ていた。
「追ってきませんね」
「はい」
弥兵衛が答える。
「秀吉様も官兵衛殿も、こちらの誘いを警戒しているのでしょう」
「なら、力で押し切るつもりですね」
景継は前方を見る。
羽柴軍は確実に林道軍を押している。
こちらにも損害が出ていた。
決して予定通りではない。
官兵衛が側面と後方へ兵を出したことで、景継も本来より多くの兵を散らさざるを得なかった。
正面の戦いでは羽柴方が優勢だった。
「殿」
弥兵衛の声に焦りが混じる。
「このままでは、もう一段下げられます」
「ええ」
「予備を入れましょう」
景継は答えなかった。
その時だった。
後方から馬が駆けてきた。
「申し上げます!」
使者が転がるように馬を降りる。
「北より急報!」
景継が振り返る。
「上杉軍、羽柴方の拠点へ突入! 守備を破り、城際まで押し込んでおります!」
周囲から声が上がった。
続いて、もう一騎。
「東より!」
使者が叫ぶ。
「北条軍、羽柴方に与する勢力を破り、さらに前進!」
弥兵衛が景継を見る。
景継は静かに頷いた。
「始まりましたね」
だが喜ぶ暇はなかった。
羽柴軍の第三波が迫っている。
「殿!」
景継は前を向く。
「予備を出します」
「全部ですか」
「いいえ」
景継は首を横に振った。
「半分だけ」
弥兵衛が目を見開く。
「まだ残されるので?」
「秀吉様も、まだ全部は出していません」
景継の視線の先。
羽柴本陣の周囲には、まだ動いていない旗がある。
官兵衛も最後の一手を残している。
「こちらだけ先になくすわけにはいきません」
「はっ!」
林道軍の予備が前へ出る。
押されていた戦線が、ようやく止まった。
◇
その頃。
羽柴本陣にも、上杉と北条の戦果が届いていた。
「上杉勢、守備を突破!」
「北条勢も前進を続けております!」
秀吉は顔をしかめた。
「早いな」
「予想以上に」
官兵衛が答える。
「戻す兵はないぞ」
「承知しております」
「なら、ここで勝つしかない」
「はい」
官兵衛は林道軍を見る。
押している。
だが崩れない。
景継は必要なところへ兵を入れながら、まだ何かを残している。
「景継は全部出したか」
秀吉が尋ねる。
「いいえ」
「やはりか」
秀吉は笑った。
「最後まで残すな、あいつは」
官兵衛は答えず、戦場を見続けた。
林道軍の配置。
地形。
こちらの残り。
そして景継の位置。
やがて官兵衛の指が、一つの場所を示した。
「秀吉様」
「見つけたか」
「一つだけ」
秀吉が官兵衛を見る。
「景継殿を崩せるかもしれぬ場所がございます」
「言え」
官兵衛が説明する。
秀吉の表情から、笑みが消えた。
「そこへ最後の兵を入れるのか」
「はい」
「外せば」
「我らに次はございません」
秀吉はしばらく戦場を見た。
北では上杉。
東では北条。
尾張では家康。
後ろからは勝家も来る。
時間はない。
「やれ」
秀吉が言った。
「全部使え」
官兵衛が深く頭を下げた。
「承知いたしました」
最後まで本陣の近くに残されていた羽柴勢が動き始める。
林道軍の一角へ向かって。
景継を倒すための、最後の攻撃だった。




