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『乱世にて、我は待つ』~知略を秘めた軍師は、やがて天下を動かす~  作者: ダイヤマ
第八章 覇道躍進編

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第百五十五話 秀吉包囲網



 林道軍が動いた。


 夜明け前に領内を発した軍勢は、勝家が秀吉と戦っている場所へ真っ直ぐ向かわなかった。


 先頭を進む兵たちにも、最初はその理由が分からなかった。


 勝家は押されている。


 羽柴軍は予備まで投入し、今日にも柴田勢を崩そうとしている。


 ならば援軍として急ぐのが当然に思えた。


 だが景継が選んだ道は違った。


「このまま進め」


「はっ!」


 林道軍は街道を進む。


 目指しているのは、羽柴軍が近江へ兵を集めるために使っていた道の一つだった。


 兵糧。


 武具。


 負傷兵。


 そして戦いを終えた後、軍を立て直すための兵。


 秀吉が勝家を攻め続けるためにも、そこから退くためにも必要になる場所だった。


 弥兵衛が馬を寄せてくる。


「先行させた者から報せです。羽柴方にも、こちらの出陣が伝わり始めております」


「そうですか」


「急ぎますか」


「予定通りで」


 景継は馬の歩みを変えなかった。


「急いで隊列を崩したら、何のために最後まで兵を残していたのか分かりません」


「しかし、勝家様はかなり押されているとのこと」


「だから秀吉様も止まれません」


 景継は前を見る。


 勝家をあと少しで崩せる。


 そう思っているからこそ、秀吉は兵を戻しにくい。


「勝家様には、もう少し耐えていただきます」


「聞かれれば怒られそうですな」


「戦が終わってから謝ります」


 弥兵衛が苦笑する。


 その時、前方から一騎が駆けてきた。


「申し上げます!」


 馬を止めた使者が頭を下げる。


「滝川様より! 羽柴方の荷駄、さらに迂回を始めております!」


「こちらの進路と重なりますか」


「一部が重なります!」


 景継が地図を受け取った。


 一益が二つの道へ圧力をかけたことで、羽柴方は別の道へ荷を回し始めている。


 そして、その先へ林道軍が向かっている。


「一益様へ返事を」


「何と」


「そのまま続けてください、と」


「はっ!」


 使者が引き返していく。


 景継は再び軍を進めた。


 羽柴方の荷が、逃げるように道を変える。


 その先に林道軍がいる。


 偶然ではなかった。


 一益がどこを押さえれば荷がどこへ流れるか。


 それを景継は出陣前から聞いていた。


「先陣へ」


「はっ」


「羽柴方の兵を見つけても、深追いしないように」


「道を取ることを優先すると」


「ええ」


 景継は答えた。


「今日は首を取りに来たのではありません」


 まだ。



          ◇



 同じ頃。


 越中方面では、上杉景勝の前に複数の報告が並べられていた。


「羽柴方の備えに変化は」


「ございません。こちらが前へ出たことで兵を集めておりますが、増援は確認できませぬ」


「近江は」


「秀吉殿が柴田殿との戦へ兵を注ぎ込んでいるとのこと」


「林道は」


「動きました」


 景勝が顔を上げた。


「どこへ」


 使者が林道軍の進路を伝える。


 景勝は地図へ視線を落とした。


 しばらく何も言わなかった。


 周囲の家臣たちが待つ。


 これまでは前へ出るだけだった。


 羽柴方に兵を置かせる。


 それで十分だった。


 だが状況は変わった。


 秀吉は勝家へ兵を集めた。


 徳川は尾張で攻めている。


 信孝も動いた。


 そして、ついに景継自身が出た。


「攻める」


 家臣たちが一斉に顔を上げた。


「殿」


「これ以上、立って見せるだけでは足りぬ」


「目標は」


 景勝は羽柴方に近い拠点の一つを指した。


「ここだ」


「城攻めとなります」


「ああ」


「よろしいので?」


「今なら、向こうから大軍は来ぬ」


 景勝が立ち上がる。


「進め」


「はっ!」


「落とせるなら落とす。無理なら周囲を押さえろ。羽柴が北へ兵を戻したくなるようにな」


 上杉勢に命令が走った。


 これまで境で止まっていた軍勢が、本格的に動き始める。


 ほどなくして、羽柴方の備えへ上杉軍の先陣が襲いかかった。


 北で、最初の火の手が上がった。



          ◇



 その報せが小田原へ届くまで、そう時間はかからなかった。


「上杉が攻めたか」


 氏政が聞いた。


「はい。羽柴方に近い拠点へ攻撃を開始したとのこと」


 氏直が答える。


「林道軍も出陣しております」


「そうか」


 氏政は立ち上がった。


 部屋の中にいた家臣たちを見る。


「兵を進める」


「これまで以上に、でございますか」


「違う」


 氏政が首を横に振った。


「攻める」


 家臣たちの空気が変わった。


「羽柴方と結ぶ者へ攻撃を?」


「ああ」


「しかし、上杉への備えは」


「残してある兵で十分だ」


 氏直が父を見る。


「上杉がこちらへ来る可能性は」


「今は低い」


 氏政は迷わなかった。


「向こうも始めた。なら、こちらだけ兵を見せて終わる理由はない」


 地図の一点を指す。


「ここから崩す」


「はっ!」


「ただし、欲張るな。深く入りすぎれば、今度はこちらが足を取られる」


 氏直が頷く。


「羽柴方に、東まで守らねばならぬと思わせればよいのですね」


「それだけではない」


 氏政が答えた。


「取れるものは取る」


 氏直が僅かに笑った。


「承知しました」


 命令が出された。


 北条軍が前進する。


 これまで睨みを利かせるだけだった軍勢が、羽柴方に近い勢力へ襲いかかった。


 北に続き、東でも戦が始まった。



          ◇



「上杉が攻撃を開始!」


 近江の羽柴本陣へ、伝令が飛び込んできた。


 秀吉が振り返る。


「どこだ」


 場所を聞く。


「守備は」


「現在交戦中にございます!」


「増援を求めております!」


 秀吉が歯を食いしばった。


「出せん」


 その答えは変わらなかった。


「今いる兵で持たせろ!」


「はっ!」


 伝令が去る。


 官兵衛が地図に上杉の動きを書き込ませる。


「北条は」


「まだ報せはございません」


 秀吉が前を見る。


 柴田勢は、もうかなり下がっている。


「あと少しだ」


 勝家を崩せば兵を戻せる。


 上杉にも対応できる。


 尾張にも回せる。


「攻撃を止めるな」


「はっ!」


 羽柴軍がさらに柴田勢へ圧力をかける。


 その直後だった。


 また馬の音が近づいてくる。


「申し上げます!」


 官兵衛が振り返った。


「今度は何だ」


「東より急報! 北条勢が攻撃を開始!」


 秀吉の顔が固まった。


「……北条も?」


「はっ!」


「どこだ!」


 報告を聞く。


 官兵衛は何も言わず、地図へ印を加えた。


 上杉。


 北条。


 両方が、同じ日に牽制から攻撃へ変わった。


「官兵衛」


「はい」


「偶然だと思うか」


 官兵衛は答えなかった。


「おい」


「少々、お待ちください」


 官兵衛は地図を見ていた。


 今まで抱えていた違和感が、急速につながり始めていた。


 上杉と北条が互いを警戒せず、別方向へ軍を動かしている。


 それだけではない。


 動いた時期まで重なっている。


 そして今度は、双方が攻撃へ転じた。


「申し上げます!」


 三人目の伝令だった。


「林道軍、進軍中!」


 官兵衛が勢いよく顔を上げた。


「場所は!」


 進路を聞く。


 地図へ目を戻す。


 勝家のもとではない。


「……そこか」


 官兵衛の指が動く。


 羽柴軍が近江から戻る時に使う道。


 一益に補給を乱され、迂回した荷が通ろうとしている場所。


 そこへ景継が向かっている。


「秀吉様」


 官兵衛の声が変わった。


「何だ」


「滝川勢の動きを、もう一度」


 報告が読み上げられる。


「信孝殿は」


 別の家臣が答える。


「進軍を継続しております」


「尾張」


「徳川・織田勢が次の拠点を攻撃中!」


「勝家殿は」


「後退しておりますが、軍は崩れておりません!」


 官兵衛は黙った。


 秀吉も、今度は急かさなかった。


 地図の上には、各地の動きが並んでいる。


 家康。


 信雄。


 勝家。


 信孝。


 一益。


 上杉。


 北条。


 そして景継。


「……上杉が、北条を見ていない」


 官兵衛が呟いた。


 秀吉が眉を寄せる。


「北条も、上杉を見ておりません」


「それがどうした」


「おかしいのでございます」


 官兵衛は二つの勢力を指した。


「この二者が、同じ時にこれほど外へ兵を出すなど、本来ならば難しい」


「話がついていると?」


「分かりません」


 官兵衛は即答した。


「ですが、少なくとも互いを恐れて動けぬ状況ではない」


 指が近江へ戻る。


「そして我らが勝家殿へ兵を集めた瞬間、二者とも攻撃へ変わった」


 次に尾張。


「徳川殿は、我らが薄くした場所を取る」


 信孝。


「こちらにも兵を残さねばならない」


 一益。


「荷が止まる」


 そして最後に。


 官兵衛の指が林道軍の進路で止まった。


「景継殿は、我らが勝家殿へ予備まで入れた後に出た」


 秀吉の表情が変わった。


「待っていたというのか」


「……はい」


 官兵衛の額に汗が浮かんだ。


 北ノ庄で敗れた時。


 官兵衛は、人に負けたと思った。


 景継は自分の兵だけで戦っていなかった。


 人を動かし、選ばせ、それぞれが持つ力を戦場へ持ち込ませた。


 だが今回は、あの時より大きい。


 もっと広い。


 もっと早く始まっていた。


 官兵衛は地図全体を見た。


「これは……戦ではありません」


「何だと」


 秀吉が官兵衛を見る。


 官兵衛はしばらく答えなかった。


 認めたくなかった。


 自分たちは戦場を選んでいるつもりだった。


 勝家を叩くと決めたのも自分たちだ。


 尾張を薄くする危険も承知していた。


 だが、その選択そのものが。


 相手に待たれていたのだとしたら。


「我らは――」


 官兵衛の指が、地図の中央に置かれた。


「囲われていたのでございます」


 秀吉が地図を見る。


 誰か一人の軍に囲まれているわけではない。


 それでも、どちらを向いても敵がいる。


「いつからだ」


 秀吉が低い声で尋ねた。


「いつから景継は、これを」


「分かりませぬ」


「北ノ庄からか」


「それも分かりませぬ」


 官兵衛は首を横に振った。


「ですが、少なくとも我らが信雄様と戦い始めてから作ったものではございません」


 秀吉が黙った。


 上杉と北条の関係。


 勝家。


 信孝。


 一益。


 それらは昨日今日で用意できるものではない。


「……あいつ」


 秀吉の口元が僅かに歪んだ。


 怒りとも、笑いともつかない表情だった。


「ずっと、この時を待っていたのか」


 官兵衛は答えなかった。


 そこまで断言できる証拠はない。


 だが一つだけ、今ははっきりしている。


「秀吉様」


「何だ」


「勝家殿を追うのは、ここまでにすべきです」


 秀吉の目が官兵衛へ向く。


「あと少しだぞ」


「そのあと少しのために、我らはすでに多くを前へ出しました」


「ここで止めれば勝家が戻る」


「はい」


「なら、なおさら――」


「勝家殿を倒している間に、帰る場所を失います」


 秀吉が黙った。


 官兵衛は林道軍の進路を指した。


「景継殿が狙っているのは、勝家殿を救うことだけではございません」


「分かっておる」


「ならば」


 しばらく沈黙が続いた。


 やがて秀吉が地図の前へ歩いた。


「景継はどこだ」


「林道軍とともに進軍しているとのこと」


「本当に本人がいるのか」


「確認を急がせます」


「急げ」


「はっ」


 秀吉は地図を見つめた。


 勝家。


 家康。


 上杉。


 北条。


 それらを一つずつ相手にしている時間はない。


 ならば。


「官兵衛」


「はい」


「この囲い」


 秀吉が林道の印を指した。


「どこを壊せば、一番大きく崩れる」


 官兵衛は、その意味をすぐに理解した。


 しばらく考える。


 そして答えた。


「林道景継」


 秀吉が笑った。


 今度ははっきりと。


「同じことを考えた」


「しかし危険にございます」


「どこへ行っても危険だ」


 秀吉は地図から手を離した。


「なら、逃げ回るよりましだ」


「勝家殿への攻撃を止めますか」


「ああ」


「軍を反転させる?」


「景継を叩く」


 周囲の家臣たちが息を呑んだ。


「秀吉様。景継殿がこちらの反転まで考えている可能性がございます」


 官兵衛が言う。


「あるだろうな」


「それでも?」


「それでもだ」


 秀吉は外へ向かって歩き出した。


「わしを囲ったつもりなら、教えてやる」


 その目から、追い詰められた者の怯えは消えていた。


「囲った獣が、黙って死ぬとは限らんとな」


 官兵衛も立ち上がった。


「全軍へ伝えよ!」


 秀吉の声が本陣に響く。


「柴田への攻撃を止める!」


「はっ!」


「隊列を整え次第、反転する!」


「目標は!」


 秀吉は即座に答えた。


「林道景継!」


 羽柴軍の向きが変わり始める。


 北では上杉が攻めた。


 東では北条が攻めた。


 尾張では家康と信雄が前へ出る。


 勝家もまだ倒れていない。


 それでも秀吉は逃げなかった。


 包囲を破るため。


 その中心にいる男を、先に倒すため。


 羽柴秀吉は、林道景継へ向かった。




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