第百五十三話 薄くなった場所
徳川軍が動いた。
狙いは、羽柴方が尾張方面に置いていた拠点の一つだった。
大きな城ではない。
だが、周辺の街道を押さえ、兵や物資を動かすためには無視できない場所だった。
秀吉が勝家を叩くために兵を北へ回したことで、守りは以前より薄くなっている。
家康はそこを見逃さなかった。
「先陣、到着しております」
「敵は」
「籠もる構えにございます」
「援軍の動きは」
「今のところ確認できませぬ」
家康は馬上から城を見た。
攻めれば落とせる。
だが、時間をかければ意味がない。
秀吉が近江で勝家を崩し、兵を戻してくる前に取らなければならない。
「信雄様の兵は」
「間もなく合流いたします」
「待たぬ」
家康は即座に答えた。
「先に始める」
「はっ!」
徳川勢が城を囲み始める。
ただし、すべての方向を同じように攻めることはしなかった。
守りの薄い場所を探り、そこへ兵を寄せる。
城兵が対応して動けば、別の場所へ圧力をかける。
長久手で見せたものと同じだった。
相手が強いところでは戦わない。
弱くなった場所を見つけ、そこへ力を集める。
「西側、敵兵が増えております!」
「なら東を進めろ」
「はっ!」
「鉄砲隊は撃ち続けるな。敵が顔を出した時だけでよい」
家康の命令が次々と飛ぶ。
やがて信雄勢も到着した。
「家康殿!」
信雄が家康のもとへ来る。
「もう始めておったか」
「時間を与えたくありませんでしたので」
「わしの兵はどこへ入れる」
家康は城を指した。
「南をお願いしたい」
「攻めるのか」
「最初は見せるだけで結構です」
「見せるだけ?」
「城兵が南にも兵を置かなければならなくなります」
信雄は一瞬考え、頷いた。
「分かった」
信雄勢が南へ回る。
それだけで城内の兵はさらに分かれた。
家康はその動きを見ていた。
「東へもう一度」
「はっ!」
今度は本当に攻めた。
徳川兵が一気に城へ迫る。
守備兵が慌てて東へ集まり始めた。
その日のうちに城は落ちなかった。
だが羽柴方には、援軍を求める使者が走った。
◇
その使者が秀吉のもとへ着いた時、羽柴軍はすでに近江へ大きく動いていた。
「徳川が攻めた?」
「はっ! 信雄勢も加わっております!」
秀吉は足を止めた。
「どこだ」
場所を聞く。
予想していなかったわけではない。
尾張を薄くすれば、家康は動く。
分かったうえで勝家を選んだ。
「援軍を求めております!」
「出せん」
秀吉は即答した。
伝令が顔を上げる。
「しかし、このままでは――」
「出せんと言っておる」
ここで兵を戻せば、何のために勝家へ向かっているのか分からない。
「守れるだけ守れ。無理なら退け」
「はっ……!」
伝令が走り去る。
官兵衛が秀吉を見る。
「よろしいので?」
「よくはない」
秀吉は歩き始めた。
「だが、全部拾おうとすれば全部落とす」
官兵衛もその後を追う。
「勝家殿を先に崩す」
「ああ」
「その後、尾張へ戻る」
「家康に好きにさせるのは、それまでだ」
秀吉は前方を見た。
すでに羽柴軍の先陣は、柴田勢と接触し始めている。
ここで止まるわけにはいかなかった。
◇
近江。
勝家のもとにも、羽柴軍が迫っているとの報せが届いていた。
「思ったより多いな」
勝家が呟く。
「秀吉様は、かなりの兵をこちらへ回されたようにございます」
「ようやく来たか」
勝家は立ち上がった。
「殿。景継様へ援軍を求めますか」
「いらん」
「しかし――」
「まだ負けてもおらん」
勝家が家臣を睨む。
「景継に言われたからここまで来たのではない。わしが来ると決めたから来たのだ」
「はっ」
「なら、自分の戦くらい自分でやる」
勝家は外へ出た。
羽柴軍は多い。
こちらを早く叩き、再び尾張へ兵を戻すつもりなのだろう。
「退くと思われているかもしれんな」
勝家が笑った。
「なら、少し驚かせてやる」
柴田勢が布陣を始めた。
正面から秀吉の全軍を受け止め続けるつもりはない。
だが簡単に道を譲るつもりもなかった。
「先に来る部隊を叩く」
「はっ!」
「本隊が揃う前だ。前へ出ろ!」
勝家の命令で、柴田勢が動いた。
羽柴方の先陣もそれに気づく。
互いに陣を整える前に、両軍がぶつかった。
◇
最初に勢いを得たのは柴田方だった。
勝家は羽柴軍の全軍が揃う前に攻撃を仕掛けた。
先陣の一部が押し戻される。
「押せ!」
勝家自身が前へ出る。
「後ろが来る前に崩せ!」
柴田兵が攻め立てた。
羽柴方の先陣が後退する。
だが、その勢いは長く続かなかった。
「本隊が来ます!」
遠くに旗が増えた。
秀吉の主力だった。
勝家はそれを見ると、すぐに命じた。
「戻れ!」
「追わぬので?」
「追えば呑まれる!」
柴田勢が下がる。
そこへ羽柴本隊が到着した。
秀吉は退いていく柴田勢を見た。
「追うな」
周囲の将たちが振り向く。
「よろしいので?」
「勝家は待っておる」
秀吉は答えた。
「追えば、あいつの選んだ場所で戦うことになる」
長久手で家康にやられたばかりだ。
同じ失敗を繰り返すつもりはなかった。
「陣を作れ」
「はっ!」
「勝家を急いで潰す。だが、急いで崩れるな」
羽柴軍が整然と陣を広げていく。
勝家は遠くからそれを見ていた。
「乗ってこなかったか」
「秀吉様も慎重にございますな」
「当たり前だ」
勝家は笑みを消した。
「ここからが本番だ」
◇
翌朝。
羽柴軍が攻めた。
最初から全軍をぶつけたわけではない。
柴田方の正面を攻めながら、別の部隊を側面へ回す。
勝家がそちらへ兵を移せば、正面を強める。
秀吉は兵の多さを、そのまま押し潰すためには使わなかった。
勝家に兵を動かさせるために使った。
「右が押されています!」
「二隊回せ!」
「正面の羽柴勢が前へ!」
「一隊戻せ!」
勝家の命令が飛ぶ。
柴田勢もよく耐えた。
だが少しずつ、勝家が使える兵の余裕がなくなっていく。
秀吉はそれを見ていた。
「そこだ」
勝家が側面へ兵を回した直後。
「正面を押せ!」
羽柴勢が一気に前へ出た。
柴田方の前列が崩れる。
「下がるな!」
勝家が怒鳴った。
自ら兵の間へ入り、崩れかけた隊を立て直す。
一度は押し返す。
しかし、別の場所で再び羽柴勢が動く。
数の差が、少しずつ効き始めていた。
昼を過ぎる頃には、柴田勢は最初の位置から大きく下がっていた。
「殿!」
「分かっておる!」
勝家は歯を食いしばった。
秀吉は強い。
長久手で敗れたからといって、何も失ってはいない。
軍をまとめ、正しく使えば、今でも十分に強い。
「まだ崩れるな!」
勝家が叫ぶ。
「ここで一日持たせろ!」
家臣が驚く。
「一日?」
「ああ」
勝家は秀吉の陣を睨んだ。
「こいつらがここにいる間、他は空いておる」
景継が何をするのか。
家康がどう動くのか。
勝家には分からない。
だが一つだけ分かる。
秀吉の主力は今、自分の前にいる。
「なら、ここに縛りつけてやる!」
◇
尾張では、その日の夕刻。
羽柴方の城門が開いた。
「敵が退きます!」
報告を受けた家康は、すぐに立ち上がった。
「追うな」
「しかし!」
「城を取れればよい」
羽柴方は夜になる前に城を捨てた。
援軍が来ないと判断したのだ。
徳川・信雄勢が城へ入る。
長久手以来、羽柴方が尾張方面で保持していた足場の一つが失われた。
信雄が城へ入ってくる。
「落ちたな」
「はい」
「次はどうする」
家康はすぐに答えた。
「止まりません」
信雄が家康を見る。
「次も取るのか」
「取れるものは」
家康は地図を広げた。
「秀吉殿は勝家殿を早く崩さなければならない」
「うむ」
「ならば、こちらが止まれば助けることになります」
家康の指が次の場所へ移る。
「ここです」
信雄がその位置を見る。
「近いな」
「今夜のうちに兵を休ませます」
「明朝か」
「はい」
家康は顔を上げた。
「秀吉殿が戻る前に、もう一つ取ります」
◇
その報せは、翌朝には秀吉のもとへ届いた。
「城を失った?」
「はっ」
「家康は」
「すでに次の動きを見せております!」
秀吉は目を閉じた。
一つ捨てた。
それは覚悟していた。
だが家康は、一つで止まらない。
「勝家は今日中に崩せるか」
秀吉が尋ねる。
官兵衛は戦況を見た。
「崩せる可能性はございます」
「可能性では困る」
「ならば、さらに兵を入れるしかございません」
「入れろ」
「予備まで使います」
「構わん」
官兵衛が秀吉を見る。
「よろしいので?」
「ここで勝家を残した方がまずい」
秀吉は迷わなかった。
「今日で崩す」
「承知しました」
官兵衛が下がろうとする。
そこへ、新たな伝令が飛び込んできた。
「申し上げます!」
「今度は何だ!」
「織田信孝勢が動きました!」
秀吉の表情が止まる。
「どこへ」
伝令が場所を告げた。
官兵衛が地図を見る。
勝家と同じ場所ではない。
だが、近江へ兵を集めた羽柴方にとって無視しにくい位置だった。
「兵数は」
「まだ大軍ではございません! しかし後続が集まりつつあるとのこと!」
秀吉はしばらく黙った。
やがて低い声で言った。
「……信孝までか」
官兵衛は地図から目を離さない。
家康。
勝家。
信孝。
さらに遠くでは上杉と北条。
「信孝には最低限の兵を置け」
秀吉が命じた。
「勝家を先に叩く」
「はっ」
官兵衛もそれに従った。
今はそうするしかない。
だが、また兵が分かれた。
◇
さらに、その日の午後。
別の場所で滝川一益が報告を受けていた。
「羽柴方の荷駄、昨日から道を変えております」
「勝家殿へ兵を集めたからだな」
「はい。こちらの道を使う数が急に増えました」
一益は以前から集めていた記録を開いた。
どの道を、どれほどの荷が通るか。
どこに集め、どこから次へ運ぶか。
ずっと見続けてきた。
「今なら止められるか」
「一部ならば」
「全部はいらん」
一益は答えた。
「二つ止めろ」
「二つ?」
「一つだけなら、別の道へ回す。二つ同時なら、護衛を増やさねばならん」
「では」
「橋を押さえろ。もう一方は荷駄だけ狙え」
「はっ!」
家臣が走り出す。
一益は地図を見た。
「見るだけは、もう終わりだ」
滝川勢が初めて、羽柴方の補給そのものへ手を伸ばした。
◇
林道領。
景継のもとには、そのすべてが集まり始めていた。
勝家が羽柴主力と交戦。
柴田勢は押されている。
家康と信雄が羽柴方の城を一つ奪い、次へ向かっている。
信孝が出た。
一益も動いた。
「勝家様から援軍の要請はありません」
弥兵衛が言った。
「そうでしょうね」
「ですが、このままでは」
「今日か、明日には厳しくなるでしょう」
景継は隠さなかった。
「では、そろそろ林道軍を?」
景継は地図を見た。
羽柴軍の多くが近江へ寄っている。
尾張では家康が攻めている。
信孝にも備えなければならない。
一益が補給路へ触れ始めた。
上杉と北条への備えも解けない。
それでも秀吉は勝家を叩こうとしている。
「まだ一つ、見たいことがあります」
「何を」
「秀吉様が、勝家様を崩すためにどこまで使うかです」
弥兵衛が黙る。
「予備まで入れれば?」
「その時です」
景継は答えた。
「それ以上、急に動かせる兵がなくなる」
「……そこを狙うので?」
「はい」
景継は地図上の羽柴本隊を見つめた。
「秀吉様は、勝家様を今日で崩そうとなさるでしょう」
「なぜ分かるのです」
「尾張で家康様が止まってくれませんから」
景継の指が尾張から近江へ動く。
「時間をかければ、あちらが削られる。信孝様も動いた。一益様もそろそろ道へ手を出す頃でしょう」
「なら秀吉様は急ぐ」
「ええ」
景継は立ち上がった。
「弥兵衛」
「はっ」
「兵に準備をさせてください」
弥兵衛の顔が変わる。
「出陣でございますか」
「まだ命令は出しません」
「では」
「すぐ出られるように」
景継は外へ目を向けた。
これまで領内に留まっていた林道軍。
その陣に、初めて出陣準備の命が伝わっていく。
武具が確かめられた。
馬が集められた。
兵糧が積まれ始めた。
だが、旗はまだ上がらない。
景継は待っていた。
秀吉が最後に残している余力まで、勝家へ注ぎ込む瞬間を。
その時こそ。
今まで動かなかった林道軍が、戦場へ出る。




