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『乱世にて、我は待つ』~知略を秘めた軍師は、やがて天下を動かす~  作者: ダイヤマ
第八章 覇道躍進編

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第百五十二話 拒んだ先へ



 羽柴方から届いた和睦の条件は、信雄の前に置かれたままだった。


 三法師の立場を認める。


 信雄の領地も認める。


 処断した家臣についても、これ以上は問題にしない。


 徳川との関係を直ちに断つことも求めない。


 以前に突きつけられた条件と比べれば、明らかに譲歩している。


 家臣たちの意見も割れていた。


「これ以上の戦は避けるべきにございます」


「羽柴殿がここまで譲られたのです。受ける機会では」


「しかし、今だけの約束かもしれませぬ」


「だからといって、いつまでも戦い続けるわけにもいくまい」


 信雄は黙って聞いていた。


 どちらにも理がある。


 だからこそ迷った。


 戦えば人が死ぬ。


 領内も疲れる。


 秀吉の軍は長久手で敗れたとはいえ、その力を失ったわけではない。


 和睦できるなら、その方がよい。


 そう思う自分もいる。


 だが――。


「家康殿は、何と言っていた」


 信雄が尋ねた。


「殿がお決めになることだと」


 家臣が答えた。


「和睦を勧めることも、戦を続けるよう求めることもなかったか」


「はい」


「……そうか」


 信雄は目の前の書状を見る。


 家康は答えを押しつけなかった。


 自分の求めに応じて兵を出し、長久手で戦い、勝った。


 それでも、その勝利を理由に信雄へ何かを要求しようとはしなかった。


 一方の秀吉はどうだったか。


 最初は家臣を通じて織田家の中へ手を伸ばした。


 それを拒めば、徳川との関係を制限しようとした。


 そして戦になり、長久手で敗れると、今度は条件を大きく譲った。


 信雄は一つの疑問を抱いた。


 もし長久手で家康が負けていたら。


 秀吉は、今と同じ条件を出していただろうか。


「……いや」


 思わず声が漏れた。


「殿?」


「何でもない」


 信雄は書状を手に取った。


 今の条件が悪いのではない。


 むしろ、受け入れられる内容だからこそ分かることがある。


 秀吉は譲れる。


 必要ならば条件を変えられる。


 ならば状況が再び秀吉に有利になった時、また条件が変わらないと誰が言える。


「使者を呼べ」


 家臣たちが顔を上げた。


「返事をなさるので?」


「ああ」


 しばらくして、羽柴方の使者が再び信雄の前へ通された。


「お返事をいただけるとのことで」


「秀吉に伝えよ」


 信雄は使者を真っ直ぐ見た。


「此度の申し出は受けぬ」


 室内がざわめいた。


 使者も一瞬、言葉を失った。


「……理由を、お聞かせいただけますでしょうか」


「条件が悪いからではない」


 信雄は答えた。


「では、なぜ」


「条件が変わりすぎたからだ」


 使者の表情が僅かに動いた。


「初めは、わしが誰と結ぶかまで決めようとした。戦になり、徳川が勝てば、今度は何も求めぬと言う」


「何も求めぬわけでは――」


「分かっている」


 信雄は遮った。


「だが、わしには分からぬのだ。今ここで兵を退いた後、秀吉が再び優位に立った時、次は何を求めてくるのかがな」


 使者は答えられなかった。


「秀吉がわしと対等に話すというなら、まず今の戦を終わらせてからではない」


 信雄は言った。


「わしを屈服させられるだけの力を持ちながら、それを使わぬと示してからだ」


「それは……」


「今はまだ、その時ではない」


 信雄は立ち上がった。


「帰って伝えよ。織田信雄は、兵を退かぬとな」


「……承知いたしました」


 使者が頭を下げる。


 その背中を見送りながら、信雄は小さく息を吐いた。


 怖くないわけではない。


 これで戦は続く。


 だが、自分で決めた。


 少なくとも、それだけは誰にも奪わせなかった。



          ◇



 信雄が和睦を拒絶したとの報せは、すぐに家康のもとへ届いた。


「そうされましたか」


 家康はそれだけ言った。


「殿」


「何だ」


「羽柴方は、再び攻勢に出るでしょうか」


 家康は手元の報告へ目を落とす。


 勝家は近江。


 上杉は越中方面へ。


 北条も東で動きを見せている。


 秀吉が長久手以前と同じように、尾張へ兵を集中できる状況ではなくなっていた。


「こちらの備えは変えぬ」


「攻めませんか」


「機会があれば攻める」


 家康は答えた。


「だが、秀吉殿も長久手と同じ失敗はせぬだろう」


 今度は不用意に軍を分けてくるとは思えない。


 こちらが勝ったからといって、相手が弱くなったわけではない。


「羽柴本隊の動きをよく見よ」


「はっ」


「特に北へ回す兵だ」


 家臣が頭を下げる。


 家康はその背中を見送った後、静かに地図へ目を戻した。


 信雄が兵を退かない以上、自分もまだ退く理由はない。


 戦は続く。



          ◇



「拒んだ?」


 秀吉が聞き返した。


「はい」


 戻ってきた使者は頭を下げたままだった。


「条件はすべて伝えたのだな」


「一言一句、違わず」


「徳川と縁を切れとも言っておらんぞ」


「信雄様も、その点は理解されております」


「なら、なぜだ!」


 秀吉の声が室内に響いた。


 使者が信雄の言葉を伝える。


 条件が変わりすぎた。


 今退けば、次に何を求められるか分からない。


 秀吉は最後まで聞くと、しばらく何も言わなかった。


「……下がれ」


「はっ」


 使者が退出する。


 秀吉は座ったまま腕を組んだ。


「官兵衛」


「はっ」


「失敗したな」


「はい」


 官兵衛は誤魔化さなかった。


「信雄殿を外せれば、徳川殿も戦場から外せると考えましたが」


「残った」


「残りました」


 秀吉は舌打ちした。


「勝家は」


「近江で依然として動いております」


「上杉」


「越中方面へ一隊が進んでおります」


「北条」


「こちらも軍勢を前へ出しております」


 秀吉が立ち上がった。


「全部、待っておれば増えるばかりではないか」


 官兵衛は黙る。


「守っていても仕方ない」


 秀吉は地図へ近づいた。


「一つ潰すぞ」


「どこを」


 官兵衛も地図を見る。


 家康は危険だった。


 長久手で一度敗れている。


 しかも尾張には信雄の城と兵がある。


 上杉を攻めるには遠すぎる。


 北条も同じ。


 ならば、今もっとも近く、こちらへ向かってきている相手。


 秀吉の指が止まった。


「勝家だ」


 官兵衛の目が細くなる。


「近江へ兵を集められますか」


「集める」


「家康殿が動きます」


「分かっておる」


「上杉も、さらに前へ出るやもしれませぬ」


「それも承知だ」


 秀吉が官兵衛を見る。


「だから何だ。このまま全部に兵を置いて、じわじわ削られるのを待つのか」


「……いいえ」


「一つ叩く」


 秀吉の指が地図を強く押した。


「勝家を退かせる。北を一つ空ける。その兵で次へ行く」


 官兵衛はしばらく地図を見ていた。


 危険な策だ。


 だが、今の状況を変えるには必要でもある。


「勝家殿を叩くなら、中途半端な兵では意味がございません」


「ああ」


「尾張への備えが薄くなります」


「家康が出れば、最低限の兵で受け止めろ」


「長くは持ちませぬ」


「長く持たせる必要はない」


 秀吉の目に、再び強い光が戻っていた。


「勝家を早く叩けばいい」


 官兵衛は頭を下げた。


「承知いたしました」


 守るためではない。


 状況を壊すために、羽柴軍が再び動き始めた。



          ◇



 その頃。


 信孝の前にも、一通の書状が置かれていた。


 送り主は景継。


 信孝は二度読み返した。


「これだけか」


「はい」


 家臣が答える。


 書かれていることは少ない。


 信雄と秀吉の戦。


 長久手での羽柴方の敗北。


 勝家が近江へ進んでいること。


 そして最後に、


 ――今なら、織田家のために何をなさるのか、ご自身で選ぶことができます。


 それだけだった。


「相変わらずだな」


 信孝が呟く。


「何がでございますか」


「肝心なことを書かぬ」


 家臣は黙った。


 景継は、兵を出せとは書いていない。


 秀吉を攻めろとも書いていない。


 ただ、今なら選べると伝えてきた。


 信孝は立ち上がり、外へ出た。


 その先にいる兵たちを見る。


 自分は三法師を支えると決めた。


 景継が天下を望むと聞いた時も、その考えは変えなかった。


 だから景継の家臣にはならなかった。


 対等な立場で手を結んだ。


「秀吉は、三法師様を認めると言っているそうだな」


「はい」


「言葉ではな」


 信孝は振り返った。


「だが、力まで返すとは言っておらぬ」


 秀吉の力がさらに大きくなれば、三法師が織田家の当主であったとしても、その名にどれほどの意味が残るのか。


 信孝には、それが見え始めていた。


「兵を集めろ」


 家臣が顔を上げる。


「出陣なさるので?」


「ああ」


「景継殿に応じるために?」


 信孝は首を横に振った。


「違う」


 その声には迷いがなかった。


「わしは、わしのために出る」


 そして少し間を置いた。


「三法師様のためにな」


「はっ!」


「秀吉の領地へ深く入る必要はない。だが、こちらにも兵がいると見せる」


「どちらへ向かわれます」


 信孝は地図を開いた。


 羽柴方が使っている道。


 近江へ兵を回すなら、無視しにくい場所。


 そこへ指を置く。


「ここだ」


「はっ」


「勝家殿が前から押すなら、わしは別の道を見る」


 家臣が走り出す。


 信孝は景継から届いた書状を畳んだ。


「選べ、か」


 小さく呟く。


「なら、選んでやる」



          ◇



 翌日。


 景継のもとへ、報告が続けて届いた。


「信雄様、羽柴方との和睦を拒絶」


「そうですか」


「徳川勢も尾張に残ります」


 景継は頷いた。


「それから、信孝様が兵を集め始めました」


「場所は」


 弥兵衛が地図を示す。


 景継はそれを見て、僅かに目を細めた。


「そこですか」


「何か?」


「いえ。いい場所を選ばれたと思いまして」


「景継様の書状に、場所まで書かれたのでは」


「書いていませんよ」


 弥兵衛が少し驚く。


「では、信孝様ご自身で」


「ええ」


 景継はそれ以上言わず、次の報告を手に取った。


 そこには羽柴軍の動きが記されていた。


「……勝家様へ向かっていますね」


「かなりの兵を近江へ回しているようです」


「秀吉様が動かれました」


「どうされます」


 景継はすぐには答えず、羽柴方の動きを追った。


 秀吉は守ることをやめた。


 勝家を叩き、一つずつ状況を変えようとしている。


 正しい判断だった。


 このまま兵を分け続ければ、何もできないまま弱っていく。


 だから危険を承知で一つに力を集めた。


「勝家様へ知らせますか」


「もう知っておられるでしょう」


「援軍は」


 景継は首を横に振った。


「まだです」


 弥兵衛が景継を見る。


「勝家様が危険になるかもしれません」


「ええ」


「それでも?」


「秀吉様が勝家様へ向かわれたということは」


 景継の指が地図の上を移動する。


 近江へ集まっていく羽柴勢。


 その分だけ薄くなる場所がある。


「別のところから、兵が消えたということです」


 弥兵衛が地図を見る。


 そして気づいた。


「……尾張」


 景継は何も言わなかった。



          ◇



 三河から尾張へ。


 徳川方の斥候が次々と戻ってきていた。


「羽柴勢の一部が北へ移動!」


「昨日まで確認されていた部隊が、陣を払っております!」


「近江方面へ向かったものと思われます!」


 家康は報告を聞きながら、地図を見ていた。


 信雄が和睦を拒んだ。


 その直後に、秀吉は勝家へ兵を向けた。


 尾張を捨てたわけではない。


 守るだけの兵は残している。


 だが、明らかに薄くなった。


「殿」


 家臣が家康を見る。


「これは」


「ああ」


 家康は立ち上がった。


 秀吉は勝家を選んだ。


 ならば、その代わりに薄くなった場所がある。


「信雄様へ使者を」


「はっ」


「こちらから仕掛ける」


 家臣たちの表情が変わった。


「長久手に続き、再び羽柴勢を?」


「今度は追いかけぬ」


 家康は地図上の一点を指した。


 羽柴方が尾張方面で維持している拠点。


 兵を北へ抜いたことで、以前より守りが薄くなっている。


「ここを取る」


「はっ!」


「急げ。秀吉殿が勝家殿を崩す前に」


 家臣たちが一斉に動き始める。


 家康は地図を見たまま、静かに呟いた。


「一つを選ばれましたな、秀吉殿」


 ならば。


 選ばれなかった場所は、こちらがもらう。


 徳川軍が再び動き始めた。




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