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『乱世にて、我は待つ』~知略を秘めた軍師は、やがて天下を動かす~  作者: ダイヤマ
第八章 覇道躍進編

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第百五十一話 選ばされる側



 羽柴秀吉の前に、三つの報せが並んでいた。


 柴田勝家。


 上杉景勝。


 北条氏政。


 どれも、まだ戦が始まったという報せではない。


 勝家は近江へ兵を進めているが、羽柴方の城へ本格的に攻めかかったわけではない。


 上杉は越後で兵を集めている。


 北条もまた、関東で軍勢を動かす準備を始めた。


 それだけならば、まだ対処できる。


 問題は、それが同じ時期に重なったことだった。


「上杉の目的は分かったか」


 秀吉が尋ねる。


「まだ断定できませぬ」


 官兵衛が答えた。


「越中へ向かう可能性は」


「ございます」


「北条は」


「こちらもまだ兵を集めている段階です。ただ、上杉との境へ大きく寄せている様子はございません」


「……そうか」


 秀吉は腕を組んだ。


 尾張では信雄と家康。


 近江の向こうには勝家。


 さらに上杉と北条まで動き始めた。


「景継は」


「林道軍に大きな動きはございません」


 その答えを聞いた秀吉の顔が、かえって険しくなった。


「また、あいつだけ動かんのか」


「はい」


「長久手でも動かず、今も動かず……」


 秀吉は絵図の中央付近へ視線を落とした。


「なのに、周りばかり動く」


 官兵衛は何も答えなかった。


 まだ景継が関わっている証拠はない。


 勝家が長久手の敗北を好機と見て動いた可能性はある。


 上杉にも上杉の事情がある。


 北条も勢力を広げる機会を窺っていただけかもしれない。


 偶然が重なった。


 そう説明することはできる。


 だが官兵衛は、それを素直には信じられなかった。


「兵をどうする」


 秀吉が尋ねた。


「まず勝家殿への備えを厚くする必要がございます」


「上杉は」


「越中方面の諸将へ警戒を命じます」


「北条は」


「東国の者たちへ備えを」


「尾張は」


「……減らしすぎるわけにはまいりません」


 秀吉が官兵衛を見る。


「全部必要ではないか」


「はい」


 官兵衛は否定しなかった。


 兵はいる。


 だが、同じ兵を四つの場所へ置くことはできない。


「信雄との話を急ぐぞ」


 秀吉が言った。


「一つ減らす」


「私も、それがよろしいかと」


「条件をもう少し譲っても構わん。とにかく家康を尾張から退かせる」


「はっ」


 秀吉の決断は早かった。


 すべてを同時に相手にする必要はない。


 一つずつ減らせばいい。


 そのために、まず最も戦わずに消せる相手を消す。


「使者を急がせろ」


「すでに準備しております」


「なら今日中に出せ」


「はっ」


 官兵衛が立ち上がる。


 その時だった。


「申し上げます!」


 また一人、伝令が入ってきた。


「柴田勢、一部がさらに南へ進みました!」


 秀吉が振り向く。


「城へ攻めかかったか」


「まだにございます!」


「なら慌てるな」


「はっ」


 伝令が頭を下げる。


 だが秀吉は、そのまま絵図を睨んでいた。


 勝家は攻めてこない。


 だからといって放置すれば、さらに進む。


 こちらが兵を向ければ、その兵は尾張では使えない。


「……面倒な戦をしおる」


 秀吉が呟いた。



          ◇



 信雄のもとへ、二度目の羽柴方の使者がやってきた。


 前回よりも条件は具体的だった。


「双方、現在の位置より兵を退く」


 使者が読み上げる。


「三法師様を織田家の御当主としてお支えすることについて、羽柴殿に異存はございません」


 信雄は黙って聞く。


「信雄様の御領地についても、現在の支配を認めます。また今回処断された家臣について、羽柴方より異議を申し立てることもございません」


「徳川は」


「今後の御関係について、ただちに改めることを条件とはいたしません」


 信雄の周囲にいる家臣たちが僅かにざわついた。


 かなり譲っている。


 以前の条件とは比べものにならない。


「その代わり、何を求める」


 信雄が尋ねた。


「まずは停戦を」


「それだけか」


「その後、双方より使者を出し、今後について話し合うことを望んでおられます」


 信雄は目を細めた。


 秀吉が何も求めないはずはない。


 だが少なくとも、今ここで信雄を屈服させる条件ではなかった。


「返事は待て」


「承知いたしました」


 使者を下がらせる。


 すぐに家臣たちの意見が出始めた。


「殿、これならば受けてもよろしいのでは」


「長久手では徳川殿が勝たれましたが、次も同じとは限りませぬ」


「領地も認めるというのであれば、戦を続けて失うものの方が大きくなりましょう」


 反対する者もいた。


「しかし、羽柴殿が約束を守る保証がございませぬ」


「徳川殿に援軍を求めておきながら、勝った直後に我らだけ兵を退けば、徳川との関係はどうなります」


 信雄は両方の意見を聞いていた。


 以前ならば、家臣たちが勝手に秀吉と話を進めていた。


 だから処断した。


 今は違う。


 秀吉は信雄本人へ条件を出している。


 選ぶのは自分だった。


「家康殿に会う」


 信雄が言った。


「殿?」


「決める前に話しておく」


「御意見を求められるので?」


「違う」


 信雄は首を横に振った。


「わしが決める」


 家臣たちを見る。


「だが、家康殿はわしの求めに応じて兵を出してくれた。その相手に何も知らせず話を決めるような真似はせぬ」


 それだけ言うと、信雄は立ち上がった。



          ◇



 家康は信雄から条件を聞いても、表情を変えなかった。


「なるほど」


「どう思う」


 信雄が尋ねる。


「悪くない条件かと」


「受けた方がよいと思うか」


 家康は少し黙った。


「それは、私がお答えすることではございません」


 信雄が家康を見る。


「わしは、おぬしの意見を聞いている」


「でしたら、条件について申し上げます」


 家康は一つずつ確認していった。


 三法師の立場。


 信雄の領地。


 処断した家臣の問題。


 徳川との関係。


「今、この条件だけを見るならば、信雄様が大きく失うものはございません」


「今、ということは」


「先のことまでは分からぬという意味にございます」


「秀吉が後で約束を変えると?」


「変えるかもしれません。守るかもしれません」


 家康は淡々と答えた。


「ただ、一度兵を退けば、今と同じ条件をもう一度引き出せるとは限りませぬ」


 信雄は黙る。


「ならば、戦を続けるべきか」


「それも違います」


 家康が信雄を見る。


「戦を続ければ、人も兵糧も失います。秀吉殿の力が尽きるまで戦えばよい、などと簡単には申せません」


「どちらなのだ」


「どちらを選ばれても、代価があるということです」


 信雄はしばらく家康を見ていた。


 答えをくれない。


 だが、それは家康が責任を逃れているからではないことも分かった。


「おぬしは、わしが和睦しても怒らぬのか」


「怒りませぬ」


「長久手であれだけ戦ったのだぞ」


「戦ったのは、信雄様との約束があったからにございます」


 家康は静かに答えた。


「和睦を選ばれたなら、私はその後のことを考えます」


「……そうか」


 信雄は息を吐いた。


「少し考える」


「はい」


 信雄が立ち去った後も、家康はしばらく座ったままだった。


 家臣が近づく。


「殿。本当によろしいので?」


「何がだ」


「信雄様が和睦されれば、我らが長久手で得たものが」


「消えるかもしれぬな」


「ならば――」


「だからといって、信雄様を縛ればよいわけではない」


 家康はそこで言葉を切った。


「それより、勝家殿の動きは」


「さらに近江へ進んでおります」


「上杉と北条は」


「双方、兵を集めているとのこと」


 家康の目が細くなった。


「……そうか」


 長久手の前にはなかった動きだった。


 家康は地図へ視線を落とす。


 景継は動いていない。


 それなのに、秀吉の周囲で動く者が増えている。


「林道殿は」


「変わらず、大きな動きはございません」


「そうであろうな」


 家康が小さく呟いた。


 なぜか、それが一番気になった。



          ◇



 数日後。


 上杉景勝のもとへ、越中方面の報告が集まっていた。


「羽柴方、こちらへの備えを強め始めております」


「兵を寄せたか」


「まだ大きくは。ただ、城々へ警戒の命が出た様子にございます」


 景勝は頷いた。


 こちらはまだ越後を大きく出ていない。


 それでも秀吉は反応した。


「どうされます」


 家臣が尋ねる。


 景勝は地図を見た。


「一つ、前へ出す」


「越中へ?」


「ああ」


「どこまで」


「城を攻める必要はない」


 景勝は答えた。


「だが、ただ集めているだけと思われれば、すぐに兵を戻される」


「では、国境近くまで」


「進ませろ」


「はっ」


 家臣が頭を下げる。


 景勝は続けた。


「北条の動きは」


「兵を集めております。ただし、こちらへ向かってくる様子はございません」


「分かった」


 それだけだった。


 景勝は北条を信じていない。


 それでも今は、背後へ置く兵を少し減らすことができる。


 その余裕を使う。


「出せ」


「はっ!」


 上杉の一隊が、越中方面へ向けて動き始めた。



          ◇



 小田原でも、氏政が次の報告を聞いていた。


「羽柴方、東国の諸勢力へ警戒を促しているようにございます」


「反応したか」


「はい」


 氏直が答える。


「こちらは、まだ出てもおりませぬが」


「だからよい」


 氏政は笑った。


「兵を出さずに相手が兵を置いてくれるなら、その方が安い」


「では、このまま?」


「いや」


 氏政が首を横に振る。


「一度だけ前へ出す」


「どちらへ」


「羽柴方と近しい者が不安になる場所へだ」


 氏直が地図を見る。


「直接、羽柴領を攻めるのではなく」


「まだ必要ない」


「上杉も動き始めたとの報せがございます」


 氏政の視線が氏直へ向く。


「こちらへか」


「いいえ。越中方面へ」


 氏政は少しだけ笑った。


「そうか」


「父上?」


「いや」


 氏政は何も説明しなかった。


「ならば、こちらも一歩だけ出よう」


「はい」


「欲を出すな。城が目の前にあっても、今は取らなくてよい」


「承知しました」


 氏直が退出する。


 氏政は一人になると、景継から届いた短い書状を取り出した。


「……なるほどな」


 誰に聞かせるでもなく呟いた。



          ◇



 上杉勢が越中方面へ動いた。


 北条勢もまた、東国で軍勢を前へ出した。


 二つの報せは、ほぼ続けて官兵衛のもとへ届いた。


「上杉、国境へ接近!」


「北条勢にも進軍の動きあり!」


 官兵衛は二人の使者から詳しい位置を聞いた。


 そして地図を見る。


 秀吉も横から覗き込む。


「どちらも、まだ攻めてはおらんのだな」


「はい」


「ならば備えだけでよい」


「そうするしかございません」


 官兵衛が答える。


「ただ――」


「何だ」


「兵は、置かなければなりません」


 秀吉は黙った。


 勝家に備える兵。


 上杉に備える兵。


 北条に備える兵。


 尾張に残す兵。


 どこもまだ決戦にはなっていない。


 それなのに、兵だけが分かれていく。


「信雄の返事はまだか」


「まだにございます」


「急がせろ」


「はい」


 秀吉が地図を睨む。


「一つずつ減らせばいい」


 官兵衛はその言葉を聞きながら、地図から目を離さなかった。


 その通りだ。


 一つずつ減らせばいい。


 だからこそ、信雄との和睦を急いでいる。


 だが。


 こちらが一つを減らそうとするたびに、別の場所が少しずつ動く。


「官兵衛」


「はっ」


「何を見ている」


「……いえ」


 官兵衛は顔を上げた。


「まだ、何とも申せませぬ」


 秀吉は怪訝そうにしたが、それ以上は聞かなかった。


 官兵衛は再び地図を見る。


 柴田。


 上杉。


 北条。


 そして動かない林道。


 何かが引っかかっている。


 だが、まだ形にはならなかった。



          ◇



 景継のもとへも、それぞれの動きが届いていた。


「上杉勢、越中方面へ」


「はい」


「北条勢も前へ出ました」


 弥兵衛が報告する。


「羽柴方は双方への備えを始めております」


「そうですか」


 景継は静かに頷いた。


「勝家様の方は」


「近江で羽柴方と睨み合っております。まだ大きな戦にはなっておりません」


「十分です」


 弥兵衛は景継を見る。


「秀吉様は信雄様との和睦を急いでいるようです」


「でしょうね」


「信雄様が受ければ、尾張の戦は終わるかもしれません」


「ええ」


「それでもよろしいので?」


 景継は少し考えてから答えた。


「むしろ、そこまで進めば十分です」


「十分?」


「秀吉様は今、信雄様との戦を終わらせなければならないと思っている」


 景継は机の上の報告書を一枚ずつ重ねた。


「長久手の前なら、そうではなかったでしょう」


 弥兵衛が黙って聞く。


「条件を譲ってでも、まず一つ片づけたい。そう考えなければならないほど、余裕が減っているということです」


「では、次を?」


 景継の手が止まった。


「はい」


「どちらへ」


 景継は、以前裏返したままにしていた書状を手元へ引き寄せた。


 まだ宛名はない。


 墨を取り、筆を持つ。


 弥兵衛がその手元を見ていた。


 景継は一人の名を書いた。


「……信孝様」


 弥兵衛が読む。


「ええ」


「兵を出していただくのですか」


「それは信孝様が決めることです」


 景継は筆を置いた。


「私は、一つお伝えするだけですよ」


「何を」


 景継は書状へ目を落とした。


「今なら、織田家のために何をするのかを、自分で選べると」


 弥兵衛は何も言わなかった。


 景継は書状を書き始める。


 秀吉は今、一つでも戦を減らそうとしている。


 だから景継は、その反対をする。


 新たな戦を無理に作る必要はない。


 ただ、これまで動かずにいた者へ、今なら動けると知らせればいい。


 筆が紙の上を進んでいく。


 勝家。


 上杉。


 北条。


 そして次は、信孝。


 景継自身の軍勢は、まだ領内にいた。


 その兵が動く時は、まだ来ていなかった。



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