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『乱世にて、我は待つ』~知略を秘めた軍師は、やがて天下を動かす~  作者: ダイヤマ
第八章 覇道躍進編

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第百五十話 東と北



 景継からの書状は、二つの方向へ運ばれていた。


 一つは越後。


 もう一つは小田原。


 どちらの使者も、何を返事として持ち帰ることになるのかは知らない。


 ただ、景継から託された書状を届けるため、それぞれの道を急いでいた。



          ◇



 越後。


 上杉景勝の前に、林道家からの使者が通された。


「林道景継様より、書状をお預かりしております」


 差し出された書状を受け取り、景勝は黙って開いた。


 長い文章ではなかった。


 尾張で羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康が戦っていること。


 羽柴方の別働隊が長久手で敗れたこと。


 柴田勝家が近江へ向けて動き始めたこと。


 そして最後に、一文だけ記されていた。


 ――以前お話しした件につきまして、今がその時かもしれません。


 景勝は書状から目を上げた。


「景継殿は、何を求めている」


 使者が頭を下げる。


「無理に兵を動かしていただく必要はない、と」


「……それだけか」


「はい」


「動けとも書いておらぬのか」


「書状にございます通りに」


 景勝はもう一度書状を見た。


 以前、景継と交わした話を思い出す。


 北条との二年間の停戦。


 それが成立したことで、上杉は東へ大きな兵を割かずに済むようになった。


 もちろん北条を信用したわけではない。


 停戦は停戦でしかない。


 だが少なくとも、その期間だけは互いに兵をぶつけないという取り決めがある。


 その話をまとめた時、景継はもう一つ、景勝に頼んでいた。


 羽柴秀吉が大軍を一方向へ集中させるような時が来たなら、上杉にも動ける余地を残しておいてほしい。


 どこを攻めろとも言わなかった。


 何城を取れとも言わなかった。


 ただ、羽柴方が無視できない場所へ上杉が姿を見せれば、それでよい。


「……なるほど」


 景勝が呟いた。


「今が、その時ということか」


 使者は答えなかった。


 答える必要もなかった。


 景勝は家臣たちを見る。


「羽柴方の北国での備えは」


「確認いたします」


「急げ」


「はっ」


 家臣が退出する。


 別の家臣が景勝へ尋ねた。


「兵を出されますか」


「まだ決めぬ」


 景勝は書状を畳んだ。


「まず見る」


「羽柴方を?」


「それだけではない」


 景勝の目が地図へ向く。


「勝家殿がどこまで出るか。徳川殿が長久手の後にどう動くか。信雄殿が秀吉殿との話に応じるか」


 どれもまだ決まっていない。


 だが、景継が書状を送ってきた理由は分かる。


 選べるうちに準備を始めろということだ。


「兵を集める」


 景勝が言った。


「出陣ではない。いつでも動けるようにしておけ」


「はっ!」


「越中方面の道も調べさせろ」


 家臣たちが動き始める。


 景勝は手元に残った書状を見つめた。


 景継から命令されたわけではない。


 動いたところで、林道家のために戦うつもりもない。


 上杉には上杉の理由がある。


 羽柴秀吉がさらに力を増せば、その影響はいずれ北へも届く。


 ならば、秀吉が苦しい時に自分たちの立場を強くしておく価値はあった。


「返事を」


 景勝が使者を見る。


「景継殿に伝えよ」


「はっ」


「話は覚えている、とな」


 それだけだった。



          ◇



 同じ頃。


 小田原城でも、林道家から届いた書状が開かれていた。


 北条氏政は一度読み終えると、そのまま氏直へ渡した。


「読め」


「はい」


 氏直が目を通す。


 こちらも内容は簡潔だった。


 長久手での羽柴方の敗北。


 柴田勝家の動き。


 そして、以前話した件について状況が変わったという知らせ。


「父上」


 氏直が書状から顔を上げる。


「景継殿は、我らに動けと言っているのでしょうか」


「書いておらぬな」


「ですが」


「だから面白い」


 氏政が笑う。


「動けと書けば、これは景継殿の戦になる」


 氏直は黙って父を見る。


「だが、あの男は我らに選ばせている」


「以前の約束があります」


「ああ」


 氏政は頷いた。


 景継が小田原へ来た時。


 上杉との停戦を持ちかけた時。


 そして楓との縁談が決まった時。


 表には出していない話があった。


 もし羽柴秀吉が大軍を一方向へ集め、その力で周囲を呑み込もうとする時が来たなら。


 北条には北条の利益のために動いてほしい。


 羽柴方の東側を揺らせばいい。


 城をいくつ取れとも、何人出せとも言われていない。


 氏政はその時、景継へ尋ねていた。


 ――北条が動かなければどうする。


 景継は平然と答えた。


 ――その時は、その形で考えます。


 随分と頼りない答えに聞こえた。


 だが氏政は、かえって興味を持った。


 こちらの兵を、自分の兵のように数えていない。


 それならば話はできる。


「秀吉殿は今、尾張を見ている」


 氏政が言った。


「北では勝家殿も動いた」


「はい」


「そこへ我らまで動けばどうなる」


 氏直が地図を見る。


「東も見なければならなくなります」


「そういうことだ」


「しかし、上杉は」


「停戦中だ」


「信用できますか」


 氏政は少し笑った。


「できぬ」


 即答だった。


「だから約定がある」


 信用しているから兵を減らすのではない。


 破った時に相手が何を失うかが分かっているから、その分だけ動ける。


「上杉も動くでしょうか」


「知らぬ」


 氏政は答えた。


「景継殿が同じような書状を送っているかもしれぬし、送っていないかもしれぬ」


 氏直は少し考えた。


「確かめますか」


「いや」


 氏政が首を横に振る。


「我らが上杉の返事を待つ必要はない」


 氏直の目が父へ向く。


「兵を集めよ」


「出陣を?」


「まだだ」


 氏政は立ち上がった。


「まず羽柴方に見えるように集める」


「見せるだけですか」


「最初はな」


 氏政の指が地図の上を動く。


「それで秀吉殿が東へ兵を置くなら、それだけでこちらの目的は一つ果たせる」


「置かなければ」


「その時は」


 氏政が笑った。


「少し前へ出てもよい」


 氏直も頷いた。


「承知しました」


「それから楓には何も言わなくてよい」


「姉上には?」


「あれはまだ表に出せぬ話だ」


 景継と楓の縁談を知る者は少ない。


 今、北条が動いた直後にその話が漏れれば、景継との関係まで読まれる。


「景継殿への返事は」


 氏直が尋ねる。


 氏政は少し考えた。


「短くてよい」


「何と」


「小田原は、東を見ているとな」


 氏直が僅かに笑った。


「それで伝わりますか」


「伝わるだろう」


 氏政は景継の書状をもう一度見た。


「あの男も、同じような書き方をしてきたのだからな」



          ◇



 尾張。


 秀吉のもとには、信雄からまだ返事が届いていなかった。


「遅いな」


「考えておられるのでしょう」


 官兵衛が答える。


「条件は悪くないはずだ」


「だからこそ、すぐには決められぬのかもしれません」


 受ければ戦を終わらせられる。


 だが家康は、自分の求めに応じて兵を出してくれた。


 その家康に何も言わず秀吉と手を結べば、今度は徳川との関係が壊れる。


 信雄が迷うのは当然だった。


「もう一度使者を出すか」


「今は待つべきかと」


 官兵衛が言った。


「急かせば、また押しつけているように見えます」


「……仕方ない」


 秀吉が腕を組む。


 その時、別の報告が入った。


「柴田勢、さらに近江へ進んでおります!」


「どこまでだ」


 場所を聞き、秀吉は顔をしかめた。


 まだ決戦を仕掛けるような位置ではない。


 だが放置できる距離でもなくなってきた。


「兵を増やすか」


「北へ、ですか」


「ああ」


 官兵衛は少し考えた。


「増やしすぎれば家康殿が動きます」


「分かっている」


「しかし少なければ、勝家殿がさらに進む」


「それも分かっている」


 秀吉の声に苛立ちが混じる。


 以前ならば、もっと単純だった。


 目の前の敵に兵を集め、数と勢いで押し切る。


 だが今は、兵を一か所へ集めることそのものが難しい。


「北へ少し回せ」


「はっ」


「信雄への話は続ける」


「はい」


「家康も見ておけ」


「もちろんにございます」


 秀吉が息を吐いた。


「忙しくなったな」


 官兵衛は返事をしなかった。


 その言葉を否定できなかったからだ。



          ◇



 さらに数日が過ぎた。


 官兵衛のもとへ、北国から新たな報告が届いた。


「上杉勢に動きがございます」


 書状を読んだ官兵衛の手が止まった。


「どのような」


「越後で兵を集めているとのこと。まだ大きく国境を越えた様子はございません」


「目的は」


「不明にございます」


 官兵衛はすぐに地図を広げた。


 上杉景勝。


 今この時に。


「北条との境は」


「目立った動きはないとのこと」


 官兵衛の眉が寄った。


 上杉が兵を集めるなら、まず北条への備えを疑う。


 だが北条方面が静かなら、別の方向を見る必要がある。


「秀吉様へ知らせる」


「はっ」


 使者が退出しようとした時、別の男が駆け込んできた。


「申し上げます!」


「何だ」


「関東より急報にございます!」


 官兵衛が振り返る。


「北条が兵を集め始めたとの報せが!」


 官兵衛は一瞬、言葉を失った。


「……北条も?」


「はっ!」


「上杉へ向けてか」


「それが――」


 報告の男が困惑した顔をする。


「上杉との境に、大きな変化は見られぬとのことにございます」


 官兵衛の視線が、ゆっくりと地図へ落ちた。


 上杉が兵を集めている。


 北条も兵を集めている。


 だが、互いに向けているようには見えない。


「……何だ」


 官兵衛が小さく呟いた。


 偶然か。


 そう考えるには、時期が重なりすぎている。


 長久手での敗北。


 勝家の南下。


 その直後に、上杉と北条。


「秀吉様はどちらに」


「本陣にございます」


「すぐに知らせる」


 官兵衛は地図を畳んだ。


 胸の奥に、嫌な感覚が生まれていた。



          ◇



 林道領。


 弥兵衛が二通の返書を景継の前へ置いた。


「越後と小田原からにございます」


 景継はまず上杉からの書状を開いた。


 短い。


 ――話は覚えている。


 それだけだった。


 景継は次に北条からの書状を開く。


 こちらは、さらに短かった。


 ――小田原は、東を見ている。


「どういう意味なのでしょう」


 弥兵衛が尋ねる。


「十分です」


 景継は二通を並べて置いた。


「動かれるのですか」


「少なくとも、準備は始めていただけたようですね」


「では、次は」


 弥兵衛は景継が何を言うのか待った。


 勝家が動いた。


 上杉が動き始めた。


 北条も兵を集め始めた。


 それでも景継は、すぐには次の書状へ手を伸ばさなかった。


「秀吉様がどう反応するか見ましょう」


「待つので?」


「長くは待ちません」


 景継は答えた。


「勝家様に兵を向けるのか。上杉様を見るのか。北条様を見るのか。それとも信雄様との話を急ぐのか」


 どこを優先するかで、秀吉が次に何を捨てざるを得なくなるのかが変わる。


「それが分かれば、こちらも次を決めます」


 弥兵衛が頷いた。


 景継は机の端に置かれた別の書状へ視線を移した。


 まだ封もしていない。


 宛名もない。


「それは?」


 弥兵衛が尋ねる。


「まだ使いません」


 景継は書状を裏返した。


「今は、秀吉様の番です」


 近江。


 越後。


 小田原。


 三つの場所で、ほぼ同時に兵が動き始めていた。


 まだ誰も、羽柴秀吉へ総攻撃を仕掛けてはいない。


 だが秀吉は、三つすべてを無視することもできなかった。




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