第百五十話 東と北
景継からの書状は、二つの方向へ運ばれていた。
一つは越後。
もう一つは小田原。
どちらの使者も、何を返事として持ち帰ることになるのかは知らない。
ただ、景継から託された書状を届けるため、それぞれの道を急いでいた。
◇
越後。
上杉景勝の前に、林道家からの使者が通された。
「林道景継様より、書状をお預かりしております」
差し出された書状を受け取り、景勝は黙って開いた。
長い文章ではなかった。
尾張で羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康が戦っていること。
羽柴方の別働隊が長久手で敗れたこと。
柴田勝家が近江へ向けて動き始めたこと。
そして最後に、一文だけ記されていた。
――以前お話しした件につきまして、今がその時かもしれません。
景勝は書状から目を上げた。
「景継殿は、何を求めている」
使者が頭を下げる。
「無理に兵を動かしていただく必要はない、と」
「……それだけか」
「はい」
「動けとも書いておらぬのか」
「書状にございます通りに」
景勝はもう一度書状を見た。
以前、景継と交わした話を思い出す。
北条との二年間の停戦。
それが成立したことで、上杉は東へ大きな兵を割かずに済むようになった。
もちろん北条を信用したわけではない。
停戦は停戦でしかない。
だが少なくとも、その期間だけは互いに兵をぶつけないという取り決めがある。
その話をまとめた時、景継はもう一つ、景勝に頼んでいた。
羽柴秀吉が大軍を一方向へ集中させるような時が来たなら、上杉にも動ける余地を残しておいてほしい。
どこを攻めろとも言わなかった。
何城を取れとも言わなかった。
ただ、羽柴方が無視できない場所へ上杉が姿を見せれば、それでよい。
「……なるほど」
景勝が呟いた。
「今が、その時ということか」
使者は答えなかった。
答える必要もなかった。
景勝は家臣たちを見る。
「羽柴方の北国での備えは」
「確認いたします」
「急げ」
「はっ」
家臣が退出する。
別の家臣が景勝へ尋ねた。
「兵を出されますか」
「まだ決めぬ」
景勝は書状を畳んだ。
「まず見る」
「羽柴方を?」
「それだけではない」
景勝の目が地図へ向く。
「勝家殿がどこまで出るか。徳川殿が長久手の後にどう動くか。信雄殿が秀吉殿との話に応じるか」
どれもまだ決まっていない。
だが、景継が書状を送ってきた理由は分かる。
選べるうちに準備を始めろということだ。
「兵を集める」
景勝が言った。
「出陣ではない。いつでも動けるようにしておけ」
「はっ!」
「越中方面の道も調べさせろ」
家臣たちが動き始める。
景勝は手元に残った書状を見つめた。
景継から命令されたわけではない。
動いたところで、林道家のために戦うつもりもない。
上杉には上杉の理由がある。
羽柴秀吉がさらに力を増せば、その影響はいずれ北へも届く。
ならば、秀吉が苦しい時に自分たちの立場を強くしておく価値はあった。
「返事を」
景勝が使者を見る。
「景継殿に伝えよ」
「はっ」
「話は覚えている、とな」
それだけだった。
◇
同じ頃。
小田原城でも、林道家から届いた書状が開かれていた。
北条氏政は一度読み終えると、そのまま氏直へ渡した。
「読め」
「はい」
氏直が目を通す。
こちらも内容は簡潔だった。
長久手での羽柴方の敗北。
柴田勝家の動き。
そして、以前話した件について状況が変わったという知らせ。
「父上」
氏直が書状から顔を上げる。
「景継殿は、我らに動けと言っているのでしょうか」
「書いておらぬな」
「ですが」
「だから面白い」
氏政が笑う。
「動けと書けば、これは景継殿の戦になる」
氏直は黙って父を見る。
「だが、あの男は我らに選ばせている」
「以前の約束があります」
「ああ」
氏政は頷いた。
景継が小田原へ来た時。
上杉との停戦を持ちかけた時。
そして楓との縁談が決まった時。
表には出していない話があった。
もし羽柴秀吉が大軍を一方向へ集め、その力で周囲を呑み込もうとする時が来たなら。
北条には北条の利益のために動いてほしい。
羽柴方の東側を揺らせばいい。
城をいくつ取れとも、何人出せとも言われていない。
氏政はその時、景継へ尋ねていた。
――北条が動かなければどうする。
景継は平然と答えた。
――その時は、その形で考えます。
随分と頼りない答えに聞こえた。
だが氏政は、かえって興味を持った。
こちらの兵を、自分の兵のように数えていない。
それならば話はできる。
「秀吉殿は今、尾張を見ている」
氏政が言った。
「北では勝家殿も動いた」
「はい」
「そこへ我らまで動けばどうなる」
氏直が地図を見る。
「東も見なければならなくなります」
「そういうことだ」
「しかし、上杉は」
「停戦中だ」
「信用できますか」
氏政は少し笑った。
「できぬ」
即答だった。
「だから約定がある」
信用しているから兵を減らすのではない。
破った時に相手が何を失うかが分かっているから、その分だけ動ける。
「上杉も動くでしょうか」
「知らぬ」
氏政は答えた。
「景継殿が同じような書状を送っているかもしれぬし、送っていないかもしれぬ」
氏直は少し考えた。
「確かめますか」
「いや」
氏政が首を横に振る。
「我らが上杉の返事を待つ必要はない」
氏直の目が父へ向く。
「兵を集めよ」
「出陣を?」
「まだだ」
氏政は立ち上がった。
「まず羽柴方に見えるように集める」
「見せるだけですか」
「最初はな」
氏政の指が地図の上を動く。
「それで秀吉殿が東へ兵を置くなら、それだけでこちらの目的は一つ果たせる」
「置かなければ」
「その時は」
氏政が笑った。
「少し前へ出てもよい」
氏直も頷いた。
「承知しました」
「それから楓には何も言わなくてよい」
「姉上には?」
「あれはまだ表に出せぬ話だ」
景継と楓の縁談を知る者は少ない。
今、北条が動いた直後にその話が漏れれば、景継との関係まで読まれる。
「景継殿への返事は」
氏直が尋ねる。
氏政は少し考えた。
「短くてよい」
「何と」
「小田原は、東を見ているとな」
氏直が僅かに笑った。
「それで伝わりますか」
「伝わるだろう」
氏政は景継の書状をもう一度見た。
「あの男も、同じような書き方をしてきたのだからな」
◇
尾張。
秀吉のもとには、信雄からまだ返事が届いていなかった。
「遅いな」
「考えておられるのでしょう」
官兵衛が答える。
「条件は悪くないはずだ」
「だからこそ、すぐには決められぬのかもしれません」
受ければ戦を終わらせられる。
だが家康は、自分の求めに応じて兵を出してくれた。
その家康に何も言わず秀吉と手を結べば、今度は徳川との関係が壊れる。
信雄が迷うのは当然だった。
「もう一度使者を出すか」
「今は待つべきかと」
官兵衛が言った。
「急かせば、また押しつけているように見えます」
「……仕方ない」
秀吉が腕を組む。
その時、別の報告が入った。
「柴田勢、さらに近江へ進んでおります!」
「どこまでだ」
場所を聞き、秀吉は顔をしかめた。
まだ決戦を仕掛けるような位置ではない。
だが放置できる距離でもなくなってきた。
「兵を増やすか」
「北へ、ですか」
「ああ」
官兵衛は少し考えた。
「増やしすぎれば家康殿が動きます」
「分かっている」
「しかし少なければ、勝家殿がさらに進む」
「それも分かっている」
秀吉の声に苛立ちが混じる。
以前ならば、もっと単純だった。
目の前の敵に兵を集め、数と勢いで押し切る。
だが今は、兵を一か所へ集めることそのものが難しい。
「北へ少し回せ」
「はっ」
「信雄への話は続ける」
「はい」
「家康も見ておけ」
「もちろんにございます」
秀吉が息を吐いた。
「忙しくなったな」
官兵衛は返事をしなかった。
その言葉を否定できなかったからだ。
◇
さらに数日が過ぎた。
官兵衛のもとへ、北国から新たな報告が届いた。
「上杉勢に動きがございます」
書状を読んだ官兵衛の手が止まった。
「どのような」
「越後で兵を集めているとのこと。まだ大きく国境を越えた様子はございません」
「目的は」
「不明にございます」
官兵衛はすぐに地図を広げた。
上杉景勝。
今この時に。
「北条との境は」
「目立った動きはないとのこと」
官兵衛の眉が寄った。
上杉が兵を集めるなら、まず北条への備えを疑う。
だが北条方面が静かなら、別の方向を見る必要がある。
「秀吉様へ知らせる」
「はっ」
使者が退出しようとした時、別の男が駆け込んできた。
「申し上げます!」
「何だ」
「関東より急報にございます!」
官兵衛が振り返る。
「北条が兵を集め始めたとの報せが!」
官兵衛は一瞬、言葉を失った。
「……北条も?」
「はっ!」
「上杉へ向けてか」
「それが――」
報告の男が困惑した顔をする。
「上杉との境に、大きな変化は見られぬとのことにございます」
官兵衛の視線が、ゆっくりと地図へ落ちた。
上杉が兵を集めている。
北条も兵を集めている。
だが、互いに向けているようには見えない。
「……何だ」
官兵衛が小さく呟いた。
偶然か。
そう考えるには、時期が重なりすぎている。
長久手での敗北。
勝家の南下。
その直後に、上杉と北条。
「秀吉様はどちらに」
「本陣にございます」
「すぐに知らせる」
官兵衛は地図を畳んだ。
胸の奥に、嫌な感覚が生まれていた。
◇
林道領。
弥兵衛が二通の返書を景継の前へ置いた。
「越後と小田原からにございます」
景継はまず上杉からの書状を開いた。
短い。
――話は覚えている。
それだけだった。
景継は次に北条からの書状を開く。
こちらは、さらに短かった。
――小田原は、東を見ている。
「どういう意味なのでしょう」
弥兵衛が尋ねる。
「十分です」
景継は二通を並べて置いた。
「動かれるのですか」
「少なくとも、準備は始めていただけたようですね」
「では、次は」
弥兵衛は景継が何を言うのか待った。
勝家が動いた。
上杉が動き始めた。
北条も兵を集め始めた。
それでも景継は、すぐには次の書状へ手を伸ばさなかった。
「秀吉様がどう反応するか見ましょう」
「待つので?」
「長くは待ちません」
景継は答えた。
「勝家様に兵を向けるのか。上杉様を見るのか。北条様を見るのか。それとも信雄様との話を急ぐのか」
どこを優先するかで、秀吉が次に何を捨てざるを得なくなるのかが変わる。
「それが分かれば、こちらも次を決めます」
弥兵衛が頷いた。
景継は机の端に置かれた別の書状へ視線を移した。
まだ封もしていない。
宛名もない。
「それは?」
弥兵衛が尋ねる。
「まだ使いません」
景継は書状を裏返した。
「今は、秀吉様の番です」
近江。
越後。
小田原。
三つの場所で、ほぼ同時に兵が動き始めていた。
まだ誰も、羽柴秀吉へ総攻撃を仕掛けてはいない。
だが秀吉は、三つすべてを無視することもできなかった。




