第百四十九話 立て直す前に
長久手での敗報が届いてから、羽柴方の陣に休む暇はなかった。
敗走した兵を収容し、負傷者を運び、散り散りになった部隊を組み直す。失った武具や馬の数を確かめ、途切れた連絡を繋ぎ直さなければならない。
何より大きかったのは、森長可を失ったことだった。
ただ兵が減っただけではない。
一軍を任せられる将を失った。
しかも徳川家康に敗れたという事実は、兵の間にもすでに広がっている。
「秀次の軍は」
秀吉が尋ねた。
「順次戻っております。ただ、すべてをまとめ直すには少々時間が必要かと」
官兵衛が答えた。
「どれほどだ」
「数日で形だけは整えられます。しかし、再び同じように動かせるかとなれば別でございます」
「……長可を失ったからか」
「それもございます」
官兵衛は言葉を選ばなかった。
「兵が家康殿を恐れております」
秀吉の眉が動く。
「そこまでか」
「森勢が崩れ、秀次勢まで退きました。実際の損害以上に、徳川方が強く見えております」
戦ではよくあることだった。
一度の敗北が、敵を実際以上に大きく見せる。
まして家康は、秀吉本隊と戦ったわけではない。
別働隊だけを狙い、勝ち、深追いせずに退いた。
次に戦う時も同じようにこちらの弱い場所を選ばれるのではないか。
その疑念が兵の中に生まれている。
「なら、しばらく正面から家康を攻めるのは得策ではないな」
「はい」
「信雄は」
「まだ動きはございません」
秀吉が絵図を見る。
「なら、そちらだ」
官兵衛も頷いた。
家康を戦場で崩せないなら、家康がここにいる理由を崩す。
この戦は、徳川家のために始まったものではない。
信雄と秀吉の対立から始まった。
ならば信雄が秀吉と手を結べば、家康は戦い続ける理由を失う。
「信雄へ使者を出す」
「条件は」
「前より軽くする」
官兵衛が秀吉を見る。
「よろしいので?」
「構わん」
以前のように、徳川との関係を切れ、織田家の重要事は羽柴と相談しろと迫れば、また拒まれる。
今必要なのは信雄を屈服させることではない。
家康から離すことだ。
「三法師様の立場は認める。信雄の領地にも手を出さん。家臣の件についても、こちらからこれ以上は言わん」
「徳川殿との関係は」
「今すぐ切れとは言わん」
官兵衛の目が細くなった。
「かなり譲られますな」
「後で変えればいい」
秀吉は平然と言った。
「今、全部取る必要はない」
官兵衛は小さく頭を下げた。
これが秀吉だった。
負けた直後であっても、勝ち方を一つに決めない。
戦場で取れなければ、交渉で取る。
交渉で半分しか取れないなら、まず半分を取る。
そして時間をかけて残りを取ればいい。
「すぐに使者を」
「ああ」
秀吉が頷く。
だが、その時だった。
陣の外が騒がしくなった。
間もなく、一人の使者が部屋へ通される。
「申し上げます!」
「何だ」
「柴田勢に動きがございます!」
秀吉と官兵衛が同時に顔を上げた。
「どこまで来た」
「越前を出た兵の一部が、近江方面へ進んでおります!」
秀吉の表情が変わった。
「数は」
「正確にはまだ!」
「一益は」
官兵衛が尋ねる。
「滝川勢にも動きが見られるとの報せがございます!」
室内が静まった。
秀吉はゆっくりと絵図へ視線を戻した。
「……この時にか」
長久手で敗れた直後。
兵をまとめ直そうとしている、この時に。
勝家が一歩前へ出た。
◇
北ノ庄。
勝家は景継から届いた書状を読み終えると、しばらく黙っていた。
その前には数人の家臣が控えている。
「殿」
「ああ」
勝家は書状を畳んだ。
「出るぞ」
「近江へ、でございますか」
「そうだ」
家臣の一人が尋ねる。
「どこまで進みます」
勝家はすぐには答えなかった。
景継の書状には、秀吉と決戦せよとは書かれていない。
城を取れともない。
ただ、前へ出てほしいとある。
羽柴方が無視できないところまで。
「深く入りすぎるな」
勝家が答えた。
「秀吉の兵をこちらへ向かせればよい」
「戦わぬので?」
「向こうが来れば戦う」
勝家は立ち上がった。
「だが、こちらから尾張まで駆けていく必要はない」
かつての勝家なら、そう言われれば腹を立てていたかもしれない。
兵を出すなら戦う。
敵がいるなら叩く。
そう考えていた。
だが北ノ庄で一度、秀吉と戦っている。
あの戦で景継が動かしたのは、目の前の兵だけではなかった。
勝家にも、以前よりそれが見えるようになっていた。
「近江へ入れば、秀吉はどうする」
勝家が家臣へ尋ねた。
「兵を向けるかと」
「そうだ」
「では、それが狙いで」
「景継のな」
勝家は鼻を鳴らした。
「相変わらず、人の兵をよく使う男だ」
そう言いながらも、不満そうではなかった。
「出陣の支度を急がせろ」
「はっ!」
「それから景継へ返事を出せ」
「何と」
勝家は少し考えた。
「前へ出る。ただし、秀吉が来たら遠慮なく叩くとな」
「承知しました」
家臣が退出する。
勝家は立ったまま、南を見た。
「今度は、どこまで見えている」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
◇
勝家が動いたという報せとほぼ同時に、滝川一益も近江周辺の動きを強めた。
ただし、一益は勝家のように大きく軍勢を見せることはしなかった。
街道。
渡河点。
荷駄の通る道。
羽柴方の使者がどこへ向かい、どこから兵糧が運ばれているか。
そこへ人を置いた。
「羽柴方の荷駄が増えています」
家臣から報告を受けた一益は、地図を見た。
「尾張へか」
「はい。ただ、一部は北への備えに回されております」
「勝家殿が動いたからだな」
「おそらく」
一益は頷く。
「止めるな」
「よろしいので?」
「ああ。景継殿からは道をよく見てほしいと言われただけだ」
一益は指で街道をなぞった。
「今ここで荷を奪えば、秀吉殿はこちらを見る」
「では」
「どこを通り、どれほど運び、どこに溜めるのか。それを知る方が先だ」
「承知しました」
「それから勝家殿の進路も見ておけ」
「柴田勢も?」
「当然だ」
一益が顔を上げる。
「味方だからといって、何をしているか知らなくていいわけではない」
家臣が頭を下げた。
一益は再び地図へ目を落とした。
勝家が前へ出た。
秀吉はそれに反応する。
ならば道も変わる。
兵糧も変わる。
人の流れも変わる。
その変化を、一益は静かに拾い始めていた。
◇
尾張では、家康も勝家の動きを知った。
「柴田勢が近江へ?」
「はっ」
家臣からの報告を聞き、家康は少しだけ目を細めた。
「長久手の直後か」
「偶然でしょうか」
家康は答えず、絵図を見た。
勝家が動けば、秀吉は北を無視できない。
長久手で敗れた別働隊を立て直しながら、信雄と自分を相手にし、そのうえ勝家にも備えることになる。
「林道殿でしょうか」
家臣が言った。
「分からぬ」
家康は短く答えた。
だが、景継の顔は頭に浮かんでいた。
――徳川様の邪魔はいたしません。
確かに、邪魔はされていない。
林道軍が徳川軍の前へ現れたわけでもない。
家康が長久手へ向かう道を塞いだわけでもない。
むしろ勝家が秀吉を北へ向かせるなら、徳川にとっては助かる。
「殿」
「何だ」
「羽柴方が信雄様へ使者を送ろうとしているとの報せがございます」
家康の視線が変わった。
「目的は」
「和睦ではないかと」
家康はしばらく黙った。
来ると思っていた。
長久手で負けたからといって、秀吉が戦だけに固執するはずがない。
「信雄様には知らせたか」
「すでに」
「ならば、私は何も言わぬ」
家臣が驚く。
「よろしいので?」
「信雄様の家の戦だ」
「しかし、和睦されれば」
「それでもだ」
家康は家臣を見る。
「私が和睦を拒めと言えば、今度は私が信雄様の家を動かすことになる」
それでは秀吉と変わらない。
「ただし、条件は知りたい」
「探らせます」
「ああ」
家康は再び絵図へ目を落とした。
戦場では勝った。
だが、この戦が終わったわけではない。
むしろ秀吉は、ここから戦場ではない場所で勝とうとするだろう。
家康はそれを理解していた。
◇
信雄のもとへ羽柴方の使者が到着した。
以前とは違った。
命令に近い条件を突きつけてきた時とは違い、使者の言葉は柔らかい。
「羽柴殿は、これ以上織田家との間で血を流すことを望んでおられません」
信雄は黙って聞いていた。
「三法師様のお立場についても、異を唱えるものではございません。また信雄様の御領地につきましても、現在のものを尊重するお考えにございます」
「徳川との関係は」
「直ちに断たれよとは申しておりません」
信雄の眉がわずかに動く。
以前とは明らかに違う。
「では、秀吉は何を求める」
「まずは兵を退き、話し合いの場を設けていただきたいと」
「その後は」
「互いの誤解を解き、織田家と羽柴家が再び協力できる道を探りたいとのことでございます」
信雄は使者を見つめた。
悪い条件には聞こえない。
少なくとも、以前よりは遥かに受け入れやすい。
家臣たちの中にも表情を変える者がいた。
戦はすでに始まっている。
兵糧も使う。
人も死ぬ。
家康が長久手で勝ったとはいえ、このまま続ければ次も勝てる保証はない。
「返事は後日する」
信雄はそれだけ答えた。
「承知いたしました」
使者が退出する。
部屋に残った家臣の一人が口を開いた。
「殿。考える価値はあるかと」
別の者も頷く。
「羽柴方がここまで譲るのであれば、戦を続ける理由も薄くなります」
「徳川殿も長久手で十分に力を示されました」
信雄は何も言わなかった。
秀吉の条件が変わったのは、こちらが戦ったからだ。
家康が勝ったからだ。
それは分かる。
だからこそ、ここで話を聞くこと自体が間違いだとも思わない。
「少し考えさせろ」
信雄が言う。
家臣たちが頭を下げた。
信雄は一人になってからも、しばらくその場を動かなかった。
◇
その頃。
景継のもとにも、羽柴方が信雄へ和睦を持ちかけたという報せが届いていた。
「早いですね」
景継が言った。
「秀吉様が、でございますか」
弥兵衛が尋ねる。
「ええ。長久手で負けて、そのまま戦場だけを見てはいない」
景継は書状へ目を落とした。
「家康様を崩せないなら、信雄様との戦そのものを終わらせる。立て直し方をよく知っておられます」
「信雄様は受けるでしょうか」
「条件次第でしょう」
「もし受ければ、徳川様は兵を退くことになりますな」
「そうなる可能性は高いですね」
弥兵衛が少し考える。
「では、止めますか」
「誰をです?」
「信雄様を」
景継は首を横に振った。
「止めません」
「よろしいので?」
「ええ。ここで信雄様が和睦を選ぶなら、それも一つの結果です」
「では、秀吉様が立て直すのを見ていると」
「いいえ」
景継は別の書状を手に取った。
勝家からの返書だった。
すでに近江へ向けて一歩前へ出た。
秀吉が来るなら戦う。
短い言葉で、そう記されている。
「信雄様が戦をやめることと、秀吉様を自由にすることは別の話です」
弥兵衛の視線が、景継の手にある書状へ向いた。
「勝家様を、さらに?」
「必要ならお願いすることになります。ただ、今はすでに十分動いていただいています」
景継は書状を置いた。
長久手で羽柴方は傷を負った。
その直後に勝家が近江へ圧力をかけ始めた。
秀吉は北にも目を向けなければならない。
だが、これだけならまだ立て直せる。
勝家へ兵を向け、信雄と話をまとめ、家康を尾張から退かせる。
秀吉ならば、それを同時に進めようとするだろう。
「弥兵衛」
「はっ」
「上杉様へ使者を出してください」
弥兵衛の表情が変わった。
「景勝様に、何と」
景継は北と東が描かれた絵図を見た。
「以前、お話しした件について」
弥兵衛は景継を見る。
その内容までは知らない。
「今が、その時かもしれないと」
「……承知しました」
「ただし、無理に動いていただく必要はないとも添えてください」
「はい」
弥兵衛が退出しようとする。
「ああ、それから」
景継が呼び止めた。
「もう一通お願いします」
「どちらへ」
景継は少しだけ間を置いた。
「小田原へ」
弥兵衛の目がわずかに見開かれた。
「北条様にございますか」
「ええ」
「内容は」
「こちらも同じです」
景継は答えた。
「以前、お話しした件について――状況が変わったと」
それ以上は言わなかった。
弥兵衛も尋ねなかった。
「承知しました」
今度こそ部屋を出ていく。
一人になった景継は、絵図の前へ戻った。
尾張では家康が勝った。
近江へは勝家が進み始めた。
秀吉は信雄との和睦を探っている。
そして今、二通の書状が北と東へ向かおうとしている。
景継自身の兵は、まだ動いていない。
長久手で敗れた秀吉は、すでに傷を塞ごうとしている。
ならば、塞がる前に次の重しを置く。
景継は机上の絵図を見つめたまま、静かに次の報せを待った。




