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『乱世にて、我は待つ』~知略を秘めた軍師は、やがて天下を動かす~  作者: ダイヤマ
第八章 覇道躍進編

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第百四十八話 長久手



 夜明け前。


 徳川軍は静かに陣を出た。


 松明は必要な場所にだけ使われ、声を張る者はいない。馬のいななきさえ気にするように、一隊ずつ間を空けて進んでいく。


 家康は馬上から何度も後方を振り返った。


 急がなければならない。


 だが、急ぎすぎてもならない。


 羽柴方の別働隊より先へ回り込みながら、自分たちの動きを悟らせない。それができなければ、秀吉本隊まで動き出す。


「小牧から報せは」


「まだ異変はございません」


「羽柴本隊は?」


「大きな動きなしとのこと」


「よし」


 家康は前を向いた。


「このまま進む」


「はっ」


 先行していた斥候が戻ってくる。


「申し上げます。敵勢、なお東へ進んでおります」


「こちらには気づいているか」


「その様子はございません」


「距離は」


 斥候が答える。


 家康は頭の中で道筋を組み直した。


 森長可勢。


 羽柴秀次勢。


 そして、それに続く軍勢。


 ひとまとまりではない。


 細長く伸びている。


 同じ道を進んでいても、先頭と後方では距離が開いている。


「……急いだな」


 家康が呟いた。


「は?」


「三河へ入ることを優先したのであろう」


 敵は家康が追ってくると考えている。


 だから前へ進む。


 少しでも早く三河へ入ろうとする。


 だが、速く進もうとすれば軍勢の間隔は開く。


 家康はそこを見ていた。


「先頭を追うな」


 家臣が驚いて家康を見る。


「よろしいので?」


「構わぬ」


「しかし、三河へ近づきます」


「先頭を追えば、我らまで東へ引っ張られる」


 家康は低い声で続けた。


「狙うなら、離れたところからだ」


 敵が大軍であることに意味はない。


 一度にすべてと戦わなければよい。


「どこを狙われます」


「もう少し見る」


 家康は答えた。


 焦らない。


 敵が自分から崩れる場所まで待つ。


 ただし、待てる時間は長くない。


 三河へ入られる前に決めなければならなかった。



          ◇



 一方、羽柴方の別働隊は東進を続けていた。


「徳川は動いていないのか」


 秀次が尋ねる。


「今のところ、その報せはございません」


「ならば急げ」


 秀次は前方を見た。


「三河へ入れば、家康も動かざるを得ぬ」


 計画はうまく進んでいるように見えた。


 徳川方から大きな妨害はない。


 家康は小牧を離れられない。


 そう考えるには十分だった。


 少し離れた場所では、森長可も兵を進めていた。


「遅れているぞ!」


 長可の声が飛ぶ。


「前へ詰めろ!」


 兵たちが足を速める。


 荷駄が遅れ、その後ろでさらに兵が詰まった。


 道はどこまでも広いわけではない。


 大勢が同時に進めば、どうしても列は伸びる。


 だが長可は止まらなかった。


 今は速さが必要だった。


「徳川が気づく前に進むぞ!」


 長可が馬を進める。


 その言葉を聞いた者の中に、すでに徳川軍が動いていると知る者はいなかった。



          ◇



 家康のもとへ、次の報せが届いた。


「敵の先陣と後続の間が開いております」


「どれほどだ」


 説明を聞きながら、家康は絵図へ目を落とす。


「秀次はどこだ」


「この辺りかと」


「長可は」


「こちらに」


 家康の指が止まった。


 軍勢が一つの塊ではなく、いくつかに分かれている。


 前へ進むことを急いだ結果だった。


「殿」


 家臣の一人が家康を見る。


「好機では」


「ああ」


 家康はようやく頷いた。


「ここを叩く」


 指したのは、別働隊のすべてではなかった。


 後方寄りに位置する一隊。


 前方の軍勢がすぐには助けに戻れない場所だった。


「一気に潰す」


「その後は?」


「留まらぬ」


 家康は即答した。


「一つを崩したら、次が来る前に位置を変える」


「追撃は」


「深追いするな。今日の目的は敵を三河から遠ざけることだ。首を集めることではない」


「はっ」


「こちらが欲を出せば、今度は秀吉殿に捕まる」


 家康は周囲を見渡した。


「忘れるな。羽柴本隊はまだ健在だ」


 勝ったつもりになった瞬間、今度はこちらが分断される。


 それだけは避けなければならない。


「行くぞ」


 家康が馬を進めた。



          ◇



 最初に異変へ気づいたのは、羽柴方の後方を進んでいた兵だった。


「何だ?」


 遠くから音が聞こえる。


 地面を打つ無数の足音。


 馬蹄。


 そして次の瞬間。


「敵だ!」


 叫び声が上がった。


「徳川勢だ!」


「何っ!」


 隊列が乱れる。


「どこから来た!」


「西ではない!」


「南だ!」


「違う、あちらだ!」


 情報が交錯した。


 追ってくると思っていた敵が、予想していた場所にいない。


 それだけで判断が遅れた。


「陣を組め!」


 指揮官が叫ぶ。


 だが行軍中の軍勢が、即座に戦う形へ変わるのは容易ではない。


 槍を構える者。


 荷駄を避けようとする者。


 前方へ知らせようと走る者。


 命令を聞き取れず、その場で立ち尽くす者。


 そこへ徳川勢が襲いかかった。


「押せ!」


 徳川方の声が響く。


 最初の衝突で羽柴勢の一角が崩れた。


 家康は後方から戦場を見ていた。


「前へ出すぎるな!」


 伝令を走らせる。


「崩れたところだけを押せ! 横へ広がるな!」


 勝っている時ほど兵は前へ出たがる。


 逃げる敵を追いたがる。


 それを家康は抑えた。


 目の前の敵だけを崩す。


 それ以上は求めない。


 やがて羽柴方の一隊が耐えきれず後退を始めた。


「退け!」


「前へ知らせろ!」


「徳川が来た!」


 逃げる兵が道を逆に走る。


 それが後続の隊列へぶつかった。


「何があった!」


「徳川だ!」


「家康が来た!」


「家康が!?」


 その報せは、森長可のもとにも届いた。


 長可が馬を止める。


「どこだ」


「後方にございます!」


「数は!」


「分かりませぬ!」


 長可が舌打ちした。


「戻るぞ!」


「しかし三河は――」


「後ろを食われたまま進めるか!」


 長可勢が反転を始める。


 だが、狭い道を進んでいた軍勢が向きを変えるだけでも時間がかかった。


 前へ進もうとしていた兵。


 戻ろうとする兵。


 荷駄。


 伝令。


 それらが入り乱れる。


「道を空けろ!」


 長可が怒鳴る。


「急げ!」


 ようやく軍勢が西へ向き始める。


 その時、別の伝令が飛び込んできた。


「申し上げます! 徳川勢、すでに移動しております!」


「何?」


「先ほど戦った場所から離れ始めております!」


 長可の眉が動いた。


「逃げるつもりか」


 違う。


 徳川軍は逃げているのではなかった。


 次に戦う場所を選び直していた。



          ◇



 秀次のもとにも混乱は伝わっていた。


「徳川が後ろに出た?」


「はっ!」


「家康は小牧にいたのではないのか!」


「すでに兵を率いて出ていたものと思われます!」


「なぜ分からなかった!」


 答えられる者はいなかった。


 秀次は周囲を見る。


「戻るぞ」


「三河への進軍は」


「このまま進めば軍が分かれる!」


 判断そのものは間違っていなかった。


 だが、すでに遅れ始めていた。


 別々に進んでいた軍勢が、それぞれ別の時刻に異変を知った。


 ある隊は止まり、ある隊は戻り、別の隊は命令が届かずそのまま進んだ。


 羽柴方の別働隊は、大きな軍勢でありながら、一つの軍として動けなくなりつつあった。



          ◇



 家康は丘の上からその動きを見ていた。


「戻ってくるな」


「森長可勢と思われます」


「秀次は」


「こちらも進軍を止めたとのこと」


 家康が頷く。


 これで三河への進軍は止まった。


 だが、それだけでは足りない。


 別働隊が態勢を整えれば、再び動くことができる。


 そして時間をかければ、秀吉本隊もこちらの動きを知る。


「次で決める」


 家康が言った。


「長可勢を?」


「向こうもこちらを探している」


 家康は周囲の地形を見る。


 道。


 林。


 起伏。


 開けた場所。


 どこなら兵を動かせるか。


 どこなら相手の数を使わせずに済むか。


「こちらへ引く」


 家臣が驚く。


「退くのでございますか」


「少しだけな」


「長可を誘うと」


「来るならば」


 家康は答えた。


「来なければ、こちらから別の隊を叩く」


 どちらでもよかった。


 長可が追えば迎え撃つ。


 追わなければ、分かれた別隊を狙う。


 家康は使者を走らせた。



          ◇



「徳川勢が退いております!」


 報告を聞いた長可は、すぐに馬を進めた。


「追うぞ」


 側近が止める。


「お待ちください。秀次勢との合流を待った方が――」


「待っている間に逃げられる」


「しかし」


「家康が出てきたのだぞ」


 長可の目が鋭くなる。


「ここで叩けば終わる」


 兵を前へ出す。


 先ほどまで三河へ向かっていた軍勢が、今度は家康を追って西へ走り始めた。


 だが、家康は遠くまで退かなかった。


 追えば届く。


 そう思わせるだけの距離を保ちながら動いた。


「近いぞ!」


 長可が声を上げる。


「逃がすな!」


 やがて視界が開けた。


 前方に徳川勢がいる。


 長可は槍を握った。


「行くぞ!」


 森勢が前へ出る。


 その瞬間。


 家康が手を上げた。


「止まれ」


 徳川勢の動きが変わった。


 退いていた兵が振り返る。


 槍が並ぶ。


 横へ回っていた兵も姿を現した。


 長可の顔から笑みが消えた。


「……待っていたか」


 次の瞬間、両軍がぶつかった。



          ◇



 戦は激しかった。


 森長可は自ら前へ出た。


「押せ!」


 槍を振るい、崩れかけた兵を立て直す。


 徳川方も容易には進めない。


「森勢、強うございます!」


 報告を受けても、家康は動かなかった。


「正面だけを見るな」


 家康が命じる。


「横を使え」


「はっ!」


 徳川勢の一部が動く。


 長可勢の正面を押し切ろうとはしない。


 側面へ圧力をかける。


 長可はそれを見て兵を回す。


「右だ!」


 右へ兵が動く。


 すると別の場所が薄くなる。


 家康はそこを見逃さなかった。


「今だ」


 新たな隊が前へ出た。


 森勢が押し返す。


 また別の場所で徳川勢が動く。


 長可は何度も兵を回した。


 強い。


 だが、戦場全体を見るには忙しすぎた。


 一方の家康は、自ら槍を振るわない。


 少し離れた場所から、どこが押し、どこが止まり、どこが薄くなったかを見続けていた。


「左をもう一度押せ」


「はっ!」


「中央は進むな」


「はっ!」


「騎馬を回せ」


 命令が次々に飛ぶ。


 森勢の形が少しずつ歪んでいく。


 それでも長可は退かなかった。


「まだだ!」


 長可が叫ぶ。


「ここで家康を討てば我らの勝ちだ!」


 兵が応える。


 再び押し返す。


 徳川勢の一角が下がった。


「殿!」


「構わぬ」


 家康は動じない。


「下がらせろ」


「よろしいので?」


「あそこだけ前へ出れば、長可は食いつく」


 家康の言葉通りだった。


「押しているぞ!」


 長可勢がさらに前へ出る。


 その分、後ろとの間が開く。


 家康が静かに言った。


「そこだ」


 左右から徳川勢が動いた。


「何っ!」


 長可が振り返る。


 前へ出た森勢の横腹へ徳川兵がぶつかった。


 隊列が揺れる。


「崩れるな!」


 長可が叫ぶ。


 だが、一度乱れた隊列へさらに圧力がかかる。


 後方から来るはずの援軍は、まだ届かない。


 秀次勢との間には距離があった。


 長可は歯を食いしばった。


「退くな!」


 その声を掻き消すように、鉄砲の音が響いた。


 一発。


 続いて数発。


 周囲の兵が倒れる。


 長可の馬が大きく暴れた。


「長可様!」


 側近が叫ぶ。


 長可は馬を抑えようとする。


 その直後だった。


 再び銃声が響いた。


 長可の身体が揺れた。


「……っ」


 槍が手から落ちる。


「長可様!」


 周囲の兵が駆け寄る。


 長可は馬上で身体を支えようとした。


 だが力が入らない。


 そのまま地面へ落ちた。


「長可様!」


 叫び声が広がった。


 それが森勢を決定的に崩した。


「退け!」


「長可様を!」


「徳川が来るぞ!」


 兵が後ろへ走り始める。


 家康はその様子を見ても、すぐには追撃を命じなかった。


「殿、敵が崩れます!」


「見えている」


「追えば――」


「秀次がいる」


 家康は即答した。


「こちらも乱れれば同じことになる」


 勝っている。


 だからこそ、止まる。


「隊列を整えろ」


「はっ!」


「負傷者を下げよ。鉄砲隊は弾を確かめろ」


「はっ!」


「次が来るぞ」


 家康は森勢の向こうを見た。


 砂埃が上がっている。


 別の羽柴勢が近づいていた。



          ◇



「森長可殿、討死!」


 その報せを受けた秀次は言葉を失った。


「……何だと」


「森勢は崩れております!」


「家康は?」


「なお戦場に!」


 秀次は前方を見る。


 ここで退けば、三河を狙った策は完全に潰れる。


 だが進めば、すでに待ち構えている家康と戦うことになる。


「軍を集めろ!」


 秀次が命じる。


「散った兵をまとめよ!」


 しかし、すぐにはまとまらない。


 森勢から逃れてきた兵が入り込み、道を塞ぐ。


 何が起きたのか分からない者もいる。


 家康がどれほどの兵を率いているのかさえ、情報が一致しない。


「急げ!」


 秀次が叫ぶ。


 その時。


「徳川勢、動きました!」


「こちらへか!」


「はい!」


 秀次の顔が強張った。



          ◇



 家康は、今度は待たなかった。


「行くぞ」


 森勢を崩した兵のすべてを使うわけではない。


 疲れた隊を下げる。


 まだ動ける隊を前へ出す。


 乱れたままの秀次勢へ向かわせる。


「敵が形を整える前に当たれ」


「はっ!」


「ただし深く入るな」


 家康自身も前へ進む。


 すでに三河を狙った羽柴方の策は崩れ始めていた。


 あとは、どこまで損害を与えられるか。


 秀次勢の前方に徳川の旗が見えた。


「来たぞ!」


 羽柴兵が叫ぶ。


「陣を組め!」


 秀次の命令が飛ぶ。


 だが、その前に徳川勢がぶつかった。


 槍と槍が交わる。


 銃声が響く。


 羽柴勢の一部が押し返される。


 秀次は必死に兵を立て直した。


「退くな!」


 しかし、先ほど森勢が崩れたという報せが兵の間を走っている。


 後ろには敗兵がいる。


 前には家康がいる。


 それだけで士気が揺れた。


「殿!」


 秀次の側近が叫ぶ。


「これ以上は危険にございます!」


「まだ――」


「ここで秀次様まで討たれれば、軍そのものが持ちませぬ!」


 秀次が歯を食いしばる。


 前方では徳川勢が押してくる。


「……退く」


 ついに命じた。


「退け!」


 羽柴勢が後退を始めた。


 家康は追った。


 だが一定のところで止めた。


「そこまでだ!」


「殿、まだ追えます!」


「追わぬ!」


 家康の声が響く。


「秀吉殿の本隊が来る前に戻るぞ!」


 家臣たちが我に返る。


 今日戦っているのは羽柴軍の一部にすぎない。


 秀吉自身の軍が消えたわけではない。


「勝ったからこそ帰る」


 家康は言った。


「ここで欲を出せば、今日の勝ちまで失う」


 命令が伝わる。


 徳川勢は追撃を切り上げた。


 羽柴方の別働隊は大きく崩れ、三河への進軍を断念する。


 森長可は戦場に倒れた。


 秀次は敗走した。


 家康は敵本隊が動く前に兵をまとめ、再び守りへ戻ろうとしていた。


 戦場に残ったのは、折れた槍と旗、そして無数の足跡だった。



          ◇



 報せは、やがて秀吉のもとへ届いた。


「申し上げます」


 使者の顔を見ただけで、官兵衛は良い報せではないと悟った。


「別働隊、徳川勢と交戦」


 秀吉が立ち上がる。


「どうなった」


「敗れました」


 室内が静まり返った。


「森長可殿――討死」


 秀吉の顔から表情が消えた。


「秀次は」


「退いております」


「家康は」


「すでに追撃を緩め、兵をまとめているとのこと」


 秀吉は何も言わなかった。


 官兵衛が絵図を見る。


 すぐに分かった。


「……やられましたな」


 秀吉が官兵衛を見る。


「家康は我らの本隊を避け、別働隊だけを叩いた」


「はい」


「こちらが分けた兵を、分けたまま食われたということか」


「その通りにございます」


 秀吉は拳を握った。


 敗北。


 だが、まだ戦そのものに負けたわけではない。


 本隊は残っている。


 兵もいる。


 領地もある。


 立て直すことはできる。


「官兵衛」


「はっ」


「終わっておらんぞ」


「もちろんにございます」


 官兵衛も頷いた。


「別働隊を収容します。家康殿が勝ちに乗じて出てくるなら、今度はこちらが迎えます」


「出てくると思うか」


 官兵衛は少し考えた。


「おそらく、出てこないでしょう」


「……だろうな」


 秀吉は悔しそうに吐き捨てた。


 勝った時に欲を出さない。


 だから家康は厄介なのだ。


「ならば立て直す」


「はっ」


「信雄も揺さぶれ。戦だけで決める必要はない」


 官兵衛が顔を上げた。


 秀吉の目は死んでいなかった。


 負けても、次の手を考えている。


 兵で家康を崩せないなら、別の場所を崩せばよい。


 信雄。


 織田家中。


 周囲の国人。


 まだ使えるものはいくらでもある。


「急がせます」


「ああ」


 秀吉は再び絵図を見た。


 長久手で敗れた。


 それでも、天下まで失ったわけではない。



          ◇



 その報せが林道領へ届いたのは、少し後だった。


 弥兵衛が景継の前へ書状を置く。


「徳川方の勝利にございます」


 景継が書状を開く。


 詳しい経緯を読み進めていく。


 羽柴方が三河を狙った。


 家康が察知した。


 正面の秀吉本隊とは戦わず、東へ進んだ別働隊へ向かった。


 離れた軍勢を順に叩いた。


 森長可、討死。


 秀次勢、敗走。


「……見事ですね」


 景継が言った。


 弥兵衛が頷く。


「徳川様が、でございますか」


「ええ」


 景継は書状を畳んだ。


「秀吉様の本隊には触れず、勝てる場所だけを選んだ。勝った後も追いすぎていない」


 景継の指が絵図の上を動く。


「怖い方です」


 その言葉に、弥兵衛が景継を見る。


 景継が他人をそう評することは多くない。


「では、羽柴方は苦しくなりましたな」


「苦しくはなりました」


 景継は否定しなかった。


「ですが、秀吉様はまだ負けていません」


「これだけの敗戦でも?」


「軍の一部が敗れただけです。本隊は残っています。領地も、人も、金もある」


 そして何より。


 秀吉には、戦場以外で相手を崩す力がある。


 ここから信雄へ手を伸ばすこともできる。


 家康との間に亀裂を作ろうとするかもしれない。


 時間を与えれば、立て直すだろう。


 景継は立ち上がった。


「弥兵衛」


「はっ」


「勝家様へ使者を」


 弥兵衛の表情が変わる。


「何と?」


 景継は北ノ庄の方角へ目を向けた。


「もう少し、前へ出ていただきます」


「近江へ?」


「ええ」


 これまでは、見せるだけでよかった。


 秀吉に北を意識させれば、それで十分だった。


 だが状況が変わった。


 家康が羽柴方の別働隊を破った。


 秀吉は立て直そうとする。


 ならば、その時間を与えなければいい。


「一益殿にも知らせてください」


「滝川様にも?」


「近江の道を、これまで以上によく見ていただきたい」


「承知しました」


 弥兵衛が頭を下げる。


 景継は絵図を見つめた。


 徳川家康は、自分の戦に勝った。


 景継はその戦場へ兵を出していない。


 助けてもいない。


 勝利は、間違いなく家康のものだった。


 だからこそ。


 ここから先は、別の戦になる。


「秀吉様」


 景継が小さく呟いた。


「立て直すのは、もう少し待ってください」


 長久手で生まれた傷が塞がるより先に。


 景継は、次の一手を打とうとしていた。




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