第百四十七話 崩すための一手
柴田軍が北ノ庄周辺で動き始めた。
その報せを受けた秀吉は、越前方面への備えを厚くするよう命じた。
とはいえ、尾張から大きく兵を抜くことはできない。
目の前には家康がいる。
信雄もまだ折れていない。
勝家が本当に近江へ入ってくるかも分からない以上、秀吉にできるのは、何かあった時に対応できるだけの兵を北へ備えることだった。
だが、それだけでも意味はあった。
尾張へ向けられるはずだった力の一部が、別の場所へ向いた。
「柴田殿は、まだ越前を出ておりません」
官兵衛が報告する。
「だが兵は集めている」
「はい」
「景継は?」
「変わらず、大きな動きはございません」
秀吉は露骨に顔をしかめた。
「勝家が勝手に動いたと思うか」
「断定はできませぬ」
「なら、お前はどう見る」
官兵衛は少し考えた。
「林道殿が関わっている可能性はございます」
「やはりそう思うか」
「ただ、仮にそうであったとしても、今のところ我らへ直接兵を向けているのは柴田殿です」
「景継ではない」
「はい」
秀吉は鼻から息を吐いた。
景継は、こちらから兵を出すつもりはないと言った。
実際、林道軍は動いていない。
少なくとも、今の時点では景継が約束を違えたとは言えなかった。
「面倒な奴だ」
秀吉が呟く。
「だが、今は景継のことばかり考えている場合でもないか」
「まずは徳川殿を崩すべきかと」
「分かっている」
秀吉は尾張へ視線を戻した。
戦が始まってから、思うように進んでいない。
信雄の城を揺さぶれば家康が動く。
家康を狙えば退く。
こちらが兵を集めれば、相手はまともに受けない。
戦えば勝てないという話ではない。
こちらの望む形で戦わせてもらえないのだ。
「家康を小牧から引きずり出せんか」
秀吉が言った。
官兵衛の目が絵図の上を動く。
「正面からでは難しいでしょう」
「なら、正面から行かなければよい」
秀吉は三河を指した。
官兵衛の視線が止まった。
「……三河でございますか」
「家康が尾張にいる間に、後ろへ回る」
その場にいた諸将が顔を見合わせた。
秀吉は続ける。
「三河を脅かせば、家康も座ってはおれん」
「しかし、徳川方に気づかれれば」
「だから速く動く」
秀吉は三河へ続く道を指でなぞった。
「別働隊を出す。家康の背後へ回り込ませる」
官兵衛は黙って絵図を見つめた。
家康は守りを固め、正面からの決戦を避けている。
このままでは時間だけが過ぎる。
しかも北では勝家が動き始めた。
戦が長引けば、それだけ考えなければならない相手が増える。
ならば、こちらから戦場そのものを変える。
「誰を向かわせます」
官兵衛が尋ねた。
秀吉は少し考えた。
「恒興――」
そこで言葉が止まった。
池田恒興は、ここにはいない。
今は景継の近くにいる。
秀吉は一瞬だけ顔を歪めた。
「……森長可を呼べ」
「はっ」
「それから秀次もだ」
官兵衛が頷く。
「他にも加えますか」
「必要だ。だが多すぎても動きが鈍る」
秀吉は絵図から目を離さない。
「家康の本拠を落とすことだけが目的ではない」
「家康殿を動かすこと」
「ああ」
秀吉の指が小牧から三河へ動いた。
「家康が追えば、そこで叩く。追わなければ三河を脅かす」
官兵衛は静かに頷いた。
危険はある。
だが、成功すれば戦況そのものを変えられる。
「準備いたします」
「急げ」
「はっ」
官兵衛が退出する。
秀吉は一人、絵図を見つめた。
「いつまでも好きにはさせんぞ、家康」
次の一手で、止まっていた戦を動かす。
そのつもりだった。
◇
数日後。
羽柴方の陣へ森長可が呼ばれた。
「三河へ?」
「ああ」
秀吉は長可を前に座らせていた。
「家康の後ろへ回る」
長可の顔に笑みが浮かぶ。
「面白そうですな」
「遊びではないぞ」
「分かっております」
「本当に分かっている顔には見えん」
秀吉が呆れたように言う。
長可は笑みを消さなかった。
「家康と正面から睨み合い続けるより、よほど性に合っていると思っただけにございます」
「だからといって、勝手な真似はするな」
「はっ」
今度は一応、頭を下げた。
秀吉は息を吐く。
「秀次も行かせる」
長可の表情が少し変わった。
「秀次殿も?」
「ああ」
「では、それなりの軍勢になりますな」
「そうなる」
秀吉は長可を見る。
「だが勘違いするな。三河へ入って好き勝手に暴れろという話ではない」
「家康を動かすため、ですな」
「そうだ」
家康が小牧周辺に居座る限り、正面から崩すのは難しい。
ならば本拠を脅かす。
三河が危うくなれば、家康は動かざるを得ない。
動けば陣形が変わる。
守りから出てくる。
そこに機会が生まれる。
「見つかるなよ」
「難しい注文ですな」
「見つかるなら、できるだけ遅く見つかれ」
「それならば、何とかしてみましょう」
長可が笑う。
秀吉はその顔を見ながら言った。
「死ぬなよ」
「承知しております」
長可が頭を下げ、部屋を出ていった。
入れ替わるように官兵衛が入ってくる。
「話されましたか」
「ああ」
「長可殿は?」
「乗り気だ」
「でしょうな」
官兵衛は苦笑したが、すぐに表情を戻した。
「道の確認が進んでおります」
「徳川に悟られていないか」
「今のところ、大きな反応はございません」
「なら急がせろ」
「はい」
官兵衛は頭を下げた。
ただ、胸の内には小さな不安が残っていた。
家康はここまで、羽柴方の動きをよく見ている。
小さな城を攻めた時も、援軍を誘い出そうとしたこちらの狙いを外された。
今回だけ見落とすとは限らない。
それでも、何もしなければ戦況は変わらない。
危険を承知で踏み込むしかなかった。
◇
尾張。
家康のもとへ最初の報せが入ったのは、その二日後だった。
「羽柴方の一部に動きがございます」
家康は顔を上げた。
「どこだ」
「東へ向かっております」
「東?」
「はい。ただ、数も行き先もまだ掴めておりません」
家康はすぐに絵図を広げさせた。
東。
その先には三河がある。
「誰の軍だ」
「森長可の旗を見た者がおります」
家康の指が止まった。
「他には」
「羽柴秀次勢も動いたとの報せが」
周囲の家臣たちの空気が変わった。
「殿」
「ああ」
家康は絵図を見つめる。
ただの配置替えではない。
森長可と秀次。
それだけの軍勢を、戦の中心から外して東へ動かす。
「三河を狙っておりますな」
家臣の一人が言った。
「まだ決めつけるな」
家康は答えた。
「だが、そのつもりで見ろ」
「はっ」
「道ごとに人を出せ。村にも聞け。何人通ったかだけではない。馬、荷駄、進む速さまで知りたい」
家臣たちが動く。
信雄も報せを聞き、家康のもとへ来た。
「三河へ向かっているのか」
「その可能性が高うございます」
「戻るのか?」
家康は信雄を見た。
「まだ戻りません」
「しかし本拠を狙われれば――」
「だからこそ、慌てて戻れば向こうの思うところです」
「ではどうする」
「まず、どこにいるのかを掴みます」
家康は絵図へ視線を戻した。
「三河へ入られてから追えば遅い」
信雄が家康の横へ立つ。
「途中で叩くのか」
「そのつもりです」
「秀吉本隊は?」
「こちらが動いたと知れば、何かしてくるでしょう」
「挟まれるぞ」
「そうならぬように動きます」
信雄は家康の横顔を見た。
焦っているようには見えなかった。
だが、楽観しているわけでもない。
家康の目は先ほどから一度も絵図を離れていなかった。
「信雄様」
「何だ」
「こちらの動きを、できる限り隠していただきたい」
「分かった」
「それから、小牧の備えを緩めぬように」
「お前が兵を連れて出てもか」
「だからこそです」
家康は顔を上げた。
「私が大きく動いたと秀吉殿に知られれば、本隊まで動きます」
「……なるほど」
「こちらも、相手に見せるものを選びましょう」
その日の夜から、徳川方の斥候が各地へ走った。
◇
林道領にも、羽柴方の別働隊が東へ向かったという報せが届いた。
景継は一益から送られてきた書状を読んでいた。
「森長可殿に、秀次殿……」
弥兵衛が言う。
「三河を狙っているのでしょうか」
「その可能性は高そうですね」
「家康様は?」
「もう気づいているでしょう」
景継は書状を畳んだ。
「知らせなくてよろしいので?」
「必要ありません」
「ですが、もし気づいていなければ」
「私たちのところまで届いた報せです。家康様のところにも、すでに届いていると考えるべきでしょう」
景継は別の書状を手に取った。
勝家の動きに対し、羽柴方が北への備えを増やしたというものだった。
まだ大きくはない。
それでも秀吉は、勝家を無視しなかった。
「勝家様は?」
「先日のご指示通り、まだ近江へ深く入っておられません」
「それでいいです」
弥兵衛が景継を見る。
「羽柴方は東へ別働隊を出しました。北にも備えを置いております」
「ええ」
「こちらも動きますか」
「まだです」
景継は絵図へ目を落とした。
「今動けば、秀吉様は林道家を見るでしょう」
「それは避けたいと」
「今は、まだ」
景継の指が尾張から東へ進む。
「まずは、こちらを見ましょう」
森長可。
秀次。
そして家康。
誰が勝つかなど分からない。
ただ、羽柴方がこれまでとは違う手を打った以上、戦況が大きく動く可能性はある。
「勝家様には、今の位置を保っていただきます」
「承知しました」
「一益殿には引き続き、近江を通る羽柴方の動きを」
「はい」
「何か変化があれば、すぐ知らせてください」
弥兵衛が退出する。
景継は一人、絵図を眺めた。
羽柴軍の一部が東へ向かっている。
北では勝家を警戒しなければならない。
秀吉本隊は尾張にいる。
まだ軍そのものが崩れたわけではない。
だが、秀吉が一つの場所だけを見ていられる状況ではなくなりつつあった。
◇
翌朝。
家康のもとへ、斥候が駆け込んできた。
「申し上げます!」
「見つけたか」
「はっ!」
斥候は荒い息を整えながら答える。
「森長可勢、さらに羽柴秀次勢――東へ進んでおります!」
「道は」
家康が問う。
斥候が絵図の上を指した。
「こちらにございます」
家康はその道を目で追った。
三河へ続いている。
もはや疑う理由はなかった。
「殿」
家臣たちが家康を見る。
「出ますか」
家康は立ち上がった。
「出る」
短く答えた。
「ただし、奴らの後ろを追うだけでは駄目だ」
家康の指が、別働隊の進む先ではなく、その途中へ動く。
「先へ回る」
「先へ?」
「向こうは、こちらが三河を守るため後ろから追ってくると思っている」
家康の目が細くなる。
「ならば、その前に捕まえる」
家臣たちが一斉に立ち上がった。
「小牧の陣には、私がまだ大きく動いていないように見せよ」
「はっ!」
「信雄様の軍にも協力していただく」
「はっ!」
「急ぐぞ」
家康は絵図を畳んだ。
秀吉がようやく見せた、大きな一手。
それを見逃すつもりはなかった。
羽柴方の別働隊は、まだ三河を目指して進んでいる。
その行く手へ回り込むため、家康もまた動き始めた。




