第百四十六話 戦の中へ
尾張へ入った徳川軍を、信雄は自ら迎えた。
家康が城へ入ったのは昼を少し過ぎた頃だった。
すでに羽柴軍の先鋒は尾張へ入り、いくつかの街道では斥候同士の接触も始まっている。
まだ大きな戦は起きていない。
だが、もはや使者の往来だけで収まる段階ではなかった。
「家康殿」
「信雄様」
家康が頭を下げる。
「来てくれたか」
「お約束いたしましたゆえ」
信雄は家康を見つめた。
「……礼を言う」
「まだ早うございます」
家康は顔を上げた。
「羽柴殿を退かせてから、お聞きいたします」
「そうだな」
二人はそのまま評定の間へ入った。
すでに尾張の絵図が広げられている。
羽柴軍がどこから入り、どの道を使っているのか。
集まった報せが次々と書き込まれていた。
「思ったより速い」
信雄が言った。
「準備は以前から進めていたのでしょう」
家康が答える。
「こちらが条件を拒んでから兵を集めたわけではない。拒まれた時には動けるようにしていた」
「最初から戦うつもりだったということか」
「そこまでは申せません」
家康は絵図を見たまま答えた。
「信雄様が折れれば、兵を動かさずに済んだはずです。しかし折れなかった場合に備えていた。それだけでも十分厄介です」
信雄も絵図を見る。
「勝てるか」
家康はすぐには答えなかった。
「羽柴殿の軍勢を、まともに受け止め続けるつもりはございません」
「では?」
「こちらには、こちらの戦い方がございます」
家康の指が尾張のいくつかの道を辿る。
「羽柴殿は大軍を動かす。ならば、その大軍すべてと一度に戦う必要はない」
信雄が家康を見る。
「分かれたところを叩くのか」
「機会があれば」
家康はそれ以上語らなかった。
まだ羽柴軍の配置は固まっていない。
今ここで戦い方を決め切る必要はなかった。
「信雄様」
「何だ」
「一つだけ、お願いがございます」
「申せ」
「焦って城を出ぬことです」
信雄の眉が動いた。
「わしに籠もっておれと?」
「必要なら出ていただきます。ただ、羽柴殿が来たからといって、こちらから決戦を急ぐ必要はございません」
「……分かった」
「尾張は信雄様の土地です。道も城も、こちらの方が知っている。それを捨てて、向こうの望む場所で戦う理由はございません」
信雄はゆっくり頷いた。
家康は再び絵図へ視線を落とす。
秀吉は強い。
だからこそ、秀吉が望む形で戦わない。
まずはそれだった。
◇
羽柴方の本陣でも、同じ絵図を前に評定が開かれていた。
「家康は尾張へ入った」
秀吉の言葉に、諸将が顔を上げる。
「信雄と合流したか」
「はい」
官兵衛が答えた。
「徳川方も各所へ兵を置き始めております。ただし、こちらへ一気に攻め寄せる様子はございません」
「家康らしいな」
秀吉は腕を組んだ。
「こちらから来るのを待つ気か」
「その可能性は高いかと」
「なら、待たせてやればいい」
秀吉の言葉に、一人の武将が尋ねた。
「攻めぬのでございますか」
「攻める」
秀吉は即答した。
「だが、家康が待っている場所へそのまま突っ込む必要はない」
官兵衛が頷いた。
秀吉も家康を軽く見てはいない。
むしろ警戒しているからこそ、力だけで押し潰そうとはしなかった。
「信雄の城を一つずつ揺さぶる」
秀吉が言った。
「家康を助けに走らせる。動けば隙ができる」
「徳川方が動かなければ?」
「ならば信雄が困る」
秀吉が笑った。
「助けに来た家康が、織田の城を見殺しにしてみろ。信雄との間に亀裂が入る」
官兵衛は何も言わなかった。
悪くない。
信雄と家康は同じ敵を見ているが、同じ家ではない。
守りたいものも違う。
そこを突くことはできる。
「官兵衛」
「はい」
「どこから崩す」
官兵衛が絵図へ手を伸ばした。
「まず、ここを」
一つの城を指す。
「大城ではございません。しかし、ここを押さえれば周囲の道へ圧力をかけられます」
「家康は出るか」
「出なければ、そのまま取ります」
「よし」
秀吉が頷いた。
「やれ」
命令が下る。
羽柴軍の一部が本隊から離れた。
◇
最初の戦は、小さかった。
羽柴方が狙った城へ兵を進める。
信雄方は籠城。
それを知った信雄は、すぐに援軍を出そうとした。
だが家康が止めた。
「待ってください」
「なぜだ。あの城を取られれば道が危うくなる」
「分かっております」
「ならば!」
「羽柴方が、それを待っております」
家康は届いた報せを信雄へ見せた。
「城へ向かった軍勢とは別に、その後ろにも兵がおります」
「援軍を叩くためか」
「おそらく」
信雄は唇を噛んだ。
「では、見捨てろというのか」
「いいえ」
家康は別の道を指した。
「こちらから向かいます」
「正面からではなく?」
「羽柴方が我らの援軍を待っているなら、その待っている場所へ行かなければよい」
その日の夜。
徳川方の一隊が別の道から動いた。
羽柴方が予想していた援軍の道には現れない。
代わりに、城を囲む軍勢へ物資を運んでいた道へ近づいた。
異変に気づいた羽柴方は、慌てて兵を戻した。
城攻めは止まった。
大きな戦にはならなかった。
だが、最初の攻防は家康が秀吉の狙いを外した形になった。
◇
「退いたか」
報告を受けた秀吉は、不機嫌そうに言った。
「はい。こちらの補給路へ徳川方が近づいたため、攻城を続けるのは危険と判断したようです」
「家康め」
秀吉は舌打ちした。
官兵衛は絵図を見ていた。
「こちらが援軍を待っていると読まれました」
「見れば分かる」
「次は同じ手は使えません」
「なら、別の手を使う」
秀吉は椅子へ腰を下ろした。
「一つの城で駄目なら、二つだ」
官兵衛が顔を上げる。
「同時に?」
「ああ」
「兵が分かれます」
「家康も分かれる」
秀吉は笑った。
「全部守れるものなら守ってみろ」
官兵衛は少し考えた。
「悪くはございません。ただし、こちらも分けすぎれば危険です」
「分かっている」
「徳川方は、こちらの小さな隙を狙っております」
「ならば隙を見せるな」
秀吉は立ち上がった。
「家康に好きなようにはさせん」
次の命令が出た。
今度は二方向。
羽柴軍が再び動き始める。
◇
戦は、すぐには大きくならなかった。
城を巡る攻防。
街道を巡る駆け引き。
小さな衝突。
斥候同士の戦い。
羽柴方が押せば徳川方がずらし、徳川方が狙えば羽柴方が兵を戻す。
一度の戦で決着をつけようとする者はいなかった。
だからこそ、戦は長引いた。
兵が動けば米が減る。
馬が疲れる。
矢が消える。
傷ついた者が増える。
戦場で死ぬ者だけが損耗ではない。
軍を置き続けるだけでも、少しずつ力は削られていく。
十日。
二十日。
そして一月。
尾張とその周辺には、羽柴と徳川の軍勢が居座り続けた。
秀吉は信雄を折れさせられない。
家康も秀吉を追い返せない。
互いに決定的な一撃を与えられぬまま、戦だけが深くなっていった。
◇
その間も、景継は動かなかった。
届く報告は増えている。
一益からは、近江を通る荷駄について。
勝家からは、羽柴方の北側の動きについて。
恒興からは、尾張の城々と信雄家中について。
長秀からは、各地の武将たちがこの戦をどう見ているか。
景継はそれらを読み、必要なものだけを残していった。
「一月です」
弥兵衛が言った。
「ええ」
「羽柴様も家康様も、まだ退きません」
「退けなくなってきましたね」
景継は書状を置いた。
最初なら、まだ話し合いで終われた。
だが今は違う。
城を攻めた。
兵が傷ついた。
味方の諸将にも出陣を命じた。
大量の兵糧も使った。
何も得ずに帰れば、それまで費やしたものすべてについて説明しなければならない。
家康も同じだった。
信雄を支えると約束し、実際に尾張へ入った。
ここで信雄を置いて三河へ戻れば、次に同じ言葉を口にしても誰が信じるのか。
「殿」
「はい」
「まだ、待たれますか」
景継は返事をせず、一益から届いた書状を取った。
そこには羽柴方の物資の流れが詳しく書かれている。
以前より増えていた。
しかも一時的ではない。
尾張方面へ軍勢を置き続けるための流れになっている。
次に勝家からの書状を開く。
越前方面へ向けられていた羽柴方の警戒が、以前より薄くなっている。
景継は二枚を並べた。
「弥兵衛」
「はい」
「勝家様へ使者を」
弥兵衛の顔が変わった。
「何とお伝えしますか」
「私が会いたがっていると」
「こちらへお呼びになるので?」
「いえ」
景継は立ち上がった。
「私が北ノ庄へ行きます」
「殿ご自身が?」
「ええ」
弥兵衛が一瞬、絵図へ目を落とした。
「家康様との約束は」
「覚えていますよ」
「では……」
景継は答えず、出立の支度を命じた。
◇
数日後。
景継は北ノ庄城にいた。
勝家は広間ではなく、小さな一室で景継を迎えた。
机の上には越前と近江の絵図が広げられている。
「尾張は随分と長引いているようだな」
「ええ」
「秀吉も苦労しておるらしい」
「家康様もですが」
「それで?」
勝家は景継を見る。
「わざわざお前が来たのだ。戦見物の話ではあるまい」
「もちろんです」
景継は絵図へ近づいた。
勝家も隣へ立つ。
「羽柴方が尾張へ兵を置いてから、こちらへの備えはどうなっています?」
「薄くなった」
勝家は即答した。
「完全に消えたわけではない。だが、以前ほどではない」
「どの程度まで近づけます?」
勝家の目が細くなる。
「何を考えている」
「確認しているだけです」
「お前がそう言う時は、大抵確認だけでは終わらん」
景継は苦笑した。
「では、もう一つ確認を」
「何だ」
「今、勝家様が兵を動かせば、秀吉様はどうします?」
「こちらへ兵を戻すだろう」
「戻さなければ?」
「ならば、取れるものを取る」
「ですよね」
勝家が景継を睨んだ。
「景継」
「はい」
「はっきり言え」
景継は少しだけ黙った。
そして絵図の尾張へ指を置く。
「秀吉様は、家康様と戦っています」
「見れば分かる」
「その秀吉様に、こちらも見ていただきたい」
勝家の表情が変わった。
「……わしに動けと?」
「まだ戦えとは言いません」
「では何をする」
「兵を見せてください」
勝家は黙った。
「越前から近江へ向けて、いつでも動けると分かる形で」
「秀吉を脅すのか」
「ええ」
「それだけか?」
景継は勝家を見る。
「秀吉様が無視するなら」
僅かに間を置いた。
「その時は、本当に動いてください」
勝家の口元が、ゆっくりと上がった。
「面白い」
「まだ戦になるとは限りませんよ」
「構わん」
勝家は絵図へ手を置いた。
「秀吉がわしを見なければ、見ざるを得なくしてやればよいのだな」
「そういうことです」
勝家は景継をじっと見た。
「家康には話したのか」
「いいえ」
「お前、家康に何か約束したのではなかったか」
景継は少しだけ目を細めた。
「徳川様の邪魔はしないと約束しました」
「これは邪魔ではないと?」
「勝家様が動けば、秀吉様は徳川様へ向ける力を減らさなければならないかもしれません」
景継は淡々と続けた。
「家康様にとって、困ることでしょうか」
勝家は一瞬黙り――やがて笑った。
「なるほどな」
景継は絵図へ視線を戻した。
「ただし、まだ大きく攻め込まないでください」
「なぜだ」
「秀吉様がどう反応するか見たい」
「兵を戻せば?」
「それで十分です」
「戻さなければ?」
景継は越前と近江の境へ指を置いた。
「少しだけ、前へ」
勝家の笑みが深くなる。
「少し、か」
「ええ」
「お前の少しは信用ならんな」
「今回は本当に少しです」
「今回は、な」
勝家が立ち上がった。
「よし」
その声から笑みが消える。
「兵を整える」
景継は頭を下げた。
「お願いします」
◇
三日後。
北ノ庄周辺で柴田軍が動き始めた。
まだ戦ではない。
城を出た軍勢も、近江深くへ入ってはいない。
だが、誰の目にも分かる形で兵が集まり、街道へ姿を見せた。
その報せは、すぐに尾張の羽柴本陣へ届いた。
「柴田が?」
秀吉が顔を上げる。
「はい」
使者が答えた。
「北ノ庄周辺で軍勢を集めております」
「どこへ向かっている」
「まだ、はっきりとは」
「景継は?」
「林道軍に大きな動きはございません」
秀吉が眉を寄せた。
「勝家だけか」
「今のところは」
官兵衛が絵図へ近づいた。
尾張。
三河。
近江。
越前。
視線がゆっくりと動く。
「どう思う」
秀吉が尋ねた。
「無視はできません」
「やはりそうか」
「柴田様が本当に近江へ入れば、こちらの後方にも影響します」
秀吉は舌打ちした。
「家康と睨み合っている時に……」
官兵衛は返事をしなかった。
ただ、越前の先にある北ノ庄を見つめる。
勝家が自分で動いたのか。
景継が何か言ったのか。
それはまだ分からない。
分からないが、一つだけ確かなことがある。
尾張だけを見ていればよかった昨日までとは、状況が変わった。
「官兵衛」
「はい」
「北へ回せる兵を考えろ」
「承知いたしました」
秀吉は再び尾張を見る。
家康は目の前にいる。
信雄もいる。
そこへ今度は、勝家が動いた。
官兵衛の指が、絵図の上で止まった。
まだ、それだけだった。
まだ――一つ増えただけだった。




