第百四十五話 邪魔をしないということ
羽柴軍が動いた。
その報せは、尾張から三河へもすぐに届いた。
信雄からの使者が岡崎へ入ったのは、その翌日のことだった。
家康は使者を待たせなかった。
「羽柴軍が、尾張へ向かっております」
「数は」
「まだ全容は掴めておりませぬ。複数の軍勢が、それぞれ進んでいるとのことにございます」
「先鋒は、もう尾張へ?」
「間もなく入るかと」
家康は黙って報告を聞いていた。
ここまでは予想していた。
秀吉が兵を集めていることも知っていたし、信雄が最後の条件を拒んだことも聞いている。
だが、準備と出陣は違う。
一度境を越えれば、言葉だけで元へ戻すことは難しくなる。
「信雄様から、お言葉を預かっております」
「聞こう」
使者が姿勢を正した。
「徳川様のお力を、お借りしたい――と」
家康の周囲にいた家臣たちが僅かに身じろぎした。
ついに来た。
信雄は、羽柴軍が実際に動くまで援軍を求めなかった。
そして今、求めてきた。
「分かった」
家康は静かに答えた。
「信雄様へお伝えせよ。以前申し上げた言葉を違えるつもりはない、と」
「では……」
「徳川も兵を出す」
「ありがとうございまする!」
使者が深く頭を下げた。
家康はすぐに家臣たちへ向き直った。
「各将へ伝えよ。支度を整え次第、尾張へ向かう」
「はっ!」
「先に兵糧を確認せよ。道を塞ぐな。急ぐあまり荷駄を置いていくことも許さぬ」
次々と命令が飛ぶ。
家臣たちが動き始める。
だが家康は、一人の重臣を呼び止めた。
「待て」
「はっ」
「出陣の前に、一つ済ませておきたいことがある」
「何でございましょう」
家康は少し考えてから答えた。
「景継殿に会う」
重臣が目を見開いた。
「林道殿に?」
「ああ」
「使者ではなく、殿ご自身が?」
「だからこそだ」
家康は立ち上がった。
景継が羽柴方からの問いに対し、自ら兵を出すつもりはないと答えたことは、家康の耳にも入っていた。
だが、それは秀吉に対しての言葉だ。
家康がこれから何をするかは、すでに決まった。
信雄を支え、羽柴軍と対峙する。
その前に、確かめておきたい。
「林道殿を味方に誘われるので?」
「いや」
家康は首を横に振った。
「それはしない」
「では、何を」
「会えば分かる」
家康はそれ以上答えなかった。
◇
徳川家康本人が来る。
その知らせを受けた景継は、少しだけ驚いた。
「使者ではないのですか」
「はい。家康様ご本人が、直接お話ししたいと」
弥兵衛が答える。
「供は?」
「ごく少数とのことです」
「そうですか」
景継は手にしていた書状を置いた。
秀吉が動き、信雄が家康へ援軍を求める。
そこまでは自然な流れだった。
だが家康が、自らこちらへ来るとは思っていなかった。
「お断りになりますか」
「まさか」
景継は立ち上がった。
「せっかく来てくださるのです。お会いしましょう」
家康が景継の屋敷へ入ったのは、その日の午後だった。
供は必要最低限。
仰々しい行列もない。
これから戦場へ向かおうとしている者の訪問とは思えないほど静かだった。
景継は広間で家康を迎えた。
「わざわざお越しいただくとは思いませんでした」
「急な訪問をお許しくだされ」
「いえ。こちらこそ」
二人が向かい合って座る。
弥兵衛を含め、同席する者は僅かだった。
最初に口を開いたのは家康だった。
「羽柴殿が動きました」
「聞いております」
「信雄様より、援軍を求められました」
「では、徳川様も?」
「兵を出します」
景継は静かに頷いた。
「以前、信雄様に申し上げました。羽柴殿が兵を向けるなら、一人にはしないと」
「聞いております」
「ゆえに、その言葉を違えるつもりはございません」
「よいのではありませんか」
家康が景継を見る。
「驚かれぬのですな」
「驚くところがありますか?」
「羽柴殿は強い」
「知っています」
「徳川が負けることもある」
「あるでしょうね」
家康の目が僅かに細くなった。
景継は家康を励まそうとも、止めようともしない。
ただ、起こり得ることとして受け止めている。
「景継殿」
「はい」
「今日は、一つお願いがあって参りました」
「何でしょう」
家康は少し間を置いた。
「この戦、林道家に加わっていただきたいとは申しません」
景継は黙って聞いている。
「信雄様と羽柴殿の間から始まった争いです。そこへ徳川が入るのも、私自身が決めたこと」
「はい」
「景継殿には景継殿のお考えがあることも承知しております」
家康は景継から目を逸らさなかった。
「ただ――」
静かな声だった。
「我らの邪魔をしないでいただきたい」
広間に沈黙が落ちた。
弥兵衛が僅かに景継を見る。
景継はすぐには答えなかった。
「邪魔、ですか」
「はい」
「私が秀吉様へ兵を貸すとお考えで?」
「それだけではございません」
家康は答えた。
「景継殿が何をなさるのか、私には分からない」
「随分と警戒されていますね」
「天下を望むと公言する方を、警戒しない方がおかしいでしょう」
景継が僅かに笑った。
「確かに」
「だからこそ、直接参りました」
家康の言葉には迷いがなかった。
「我らと共に戦っていただく必要はない。羽柴殿を敵とせよとも申しません。ただ、我らが羽柴殿と戦っている間、徳川の邪魔をしないでいただきたい」
「なるほど」
景継は家康を見た。
使者を通しても言える話だった。
だが家康は、自分で来た。
それだけ、この約束を軽く扱っていないということだ。
「分かりました」
家康の目が僅かに動く。
「……よろしいので?」
「ええ」
景継は穏やかに答えた。
「徳川様の邪魔はいたしません」
家康はしばらく景継を見ていた。
「そのお言葉、信じても?」
「信じるかどうかは、家康様がお決めください」
「では、信じましょう」
家康は頭を下げた。
「感謝いたします」
「礼を言われるほどのことではありません」
「私にとっては大きい」
家康は顔を上げた。
「背後を気にしながら秀吉殿とは戦えませぬから」
「秀吉様は、それほどですか」
「それほどです」
家康は即答した。
「侮れば負ける」
景継の表情から僅かに笑みが消えた。
「同感です」
それだけで、二人の間に妙な静けさが生まれた。
互いに秀吉の力を知っている。
だからこそ、家康は余計な敵を増やしたくない。
景継も、それを理解していた。
「では」
家康が立ち上がった。
「私は尾張へ向かいます」
「お気をつけて」
「勝て、と言ってはくださらぬのですな」
「私が言って勝てるなら、いくらでも言いますよ」
家康が小さく笑った。
「それもそうですな」
景継も立ち上がる。
家康は最後にもう一度、景継を見た。
「景継殿」
「はい」
「約束、お願いいたします」
「ええ」
景継はもう一度答えた。
「徳川様の邪魔はいたしません」
家康は頷き、広間を出ていった。
◇
屋敷を出た家康は、馬へ向かう途中で重臣に尋ねられた。
「殿」
「何だ」
「林道殿を信じられるのでございますか」
家康は足を止めなかった。
「約束は守るだろう」
「そう言い切られますか」
「少なくとも、あの場で約束したことを簡単に破る男ではない」
「では、林道家については考えずとも?」
家康はそこで足を止めた。
「それは違う」
重臣が黙る。
「約束を守ることと、何もしないことは同じではない」
「……では」
「だが、今それを考えても仕方あるまい」
家康は馬の前まで来る。
「私が頼んだのは、徳川の邪魔をしないことだ」
「はい」
「景継殿は、それを受けた」
家康が馬へ跨がる。
「ならば私は、秀吉殿を見る」
重臣も馬へ乗った。
家康は振り返らなかった。
ほどなく徳川の一行は、林道領を離れていった。
◇
家康を見送った後、景継は広間へ戻った。
弥兵衛が後ろからついてくる。
二人だけになったところで、弥兵衛が口を開いた。
「殿」
「何です?」
「家康様には、徳川の邪魔をしないと約束されました」
「しましたね」
「この戦には、関わられないのですか」
景継は座り、机の上の書状を手に取った。
「今は関わりません」
「今は?」
景継は答えず、書状へ目を落とした。
近江から届いたものだった。
羽柴方の軍勢が、次々と動いている。
尾張へ。
秀吉の意識も、兵も、物資も、少しずつ一つの方向へ向かい始めている。
「弥兵衛」
「はい」
「勝家様から新しい報せは?」
「まだございません」
「一益殿は?」
「羽柴方の荷駄を引き続き追っております」
「そうですか」
景継は書状を置いた。
「では、そのままで」
弥兵衛が景継を見る。
「何も命じられないので?」
「家康様と約束したばかりですよ」
「それは、そうですが」
「しばらくは本当に何もしません」
弥兵衛は少し意外そうな顔をした。
景継はそれを見て笑う。
「何です、その顔は」
「いえ。殿のことですから、家康様がお帰りになった途端、何か始められるものかと」
「私を何だと思っているんですか」
弥兵衛は答えなかった。
「なぜ黙るんです?」
「答えに困りましたので」
「ひどいですね」
景継は再び絵図へ目を向けた。
だが、表情はすぐに戻った。
「秀吉様は、まだ軍を動かし始めたばかりです」
「はい」
「家康様も、これから尾張へ入る」
「はい」
「なら、まだ早い」
「何がでございますか」
景継は少しだけ間を置いた。
「何もかもです」
それ以上は言わなかった。
◇
数日後。
徳川軍が三河を発った。
家康は自ら軍勢を率い、尾張へ向かう。
その報せはすぐに秀吉のもとへ届いた。
「家康が出たか」
「はい」
官兵衛が答える。
「信雄様の要請を受け、尾張へ向かっております」
「景継は?」
「動いておりません」
秀吉が官兵衛を見る。
「本当か」
「少なくとも、軍勢を集めた様子はございません」
「使者への返事通りということか」
「今のところは」
秀吉は絵図へ目を落とした。
尾張へ入ろうとする羽柴軍。
それを迎える信雄。
三河から進む家康。
そして景継は動かない。
「ならばよい」
秀吉は言った。
「まずは信雄と家康だ」
官兵衛は頷いた。
今、最も危険なのは目の前にいる二人。
動かない景継へ余計な兵を割く必要はない。
「家康を叩けば、信雄も折れる」
秀吉の指が絵図の三河と尾張の境をなぞった。
「こちらの兵を集めろ」
「はっ」
「中途半端にやるな」
「承知しております」
官兵衛は頭を下げた。
秀吉の意識が、完全に尾張と家康へ向いた。
◇
その報せが林道領へ届いた夜。
景継は一人、絵図を見ていた。
秀吉が動いた。
信雄が立った。
家康も立った。
林道家は動いていない。
家康との約束も守っている。
景継は絵図の上へ手を置いた。
まだ早い。
秀吉も家康も、まだ互いの力を削っていない。
兵糧も減っていない。
諸将もそれぞれの戦場へ縛られていない。
何より、まだ引き返せる。
戦が始まっただけでは足りない。
簡単には離れられないところまで、両者が踏み込む必要がある。
景継は絵図から手を離した。
「もう少しです」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
そして翌朝も、林道家から出陣の命令が下ることはなかった。




