第百四十四話 動き出す軍勢
羽柴方の諸将へ、出陣に備えるよう命が下った。
その報せを持ってきた一益の使者は、景継の前に広げられた絵図を挟んで座っていた。
「命が出たのは、いつです?」
「二日前にございます」
「集結する場所は?」
「まだ一つには定められておりませぬ。ただ、近江ではすでに兵を集め始めた者がおります。羽柴方の領内でも同様の動きがあると」
「尾張へ向かうよう命じられた者は?」
「そこまでは掴めておりません」
「分かりました」
景継は頷いた。
「一益殿には、引き続き道を見ていただくよう伝えてください。どの将が何人連れているかより、どこへ向かっているのかを知りたい」
「はっ」
「それから荷駄も」
「承知しております。滝川様からも、兵より先に荷駄を見ろと言われております」
景継が僅かに笑った。
「なら、私から言うことはありませんね」
使者が退出すると、弥兵衛が絵図へ近づいた。
「いよいよ秀吉様が動きますか」
「出陣の準備を命じた。それだけです」
「ですが――」
「兵を集めることと、戦を始めることは同じではありません」
景継は絵図の上に置かれた小さな駒を動かした。
「秀吉様が欲しいのは、信雄様を滅ぼすことではないでしょう」
「従わせることですか」
「おそらくは」
信雄が折れれば、それで済む。
家康が手を引けば、それでも済む。
軍勢を見せるだけで二人が退くなら、秀吉にとってはその方がいい。
大軍を動かせば銭も米も減る。
勝っても兵は死ぬ。
戦わずに相手を屈服させられるなら、それに越したことはない。
「長秀殿は?」
「すでにこちらへ向かっております」
「恒興殿からは?」
「まだです」
恒興は自ら尾張へ人を送っている。
信雄が何を考え、家中がどう動いているのか。
その報せが戻れば、羽柴側から見たものとは違う景色が見えるはずだった。
景継は立ち上がった。
「軍の訓練は予定通り続けてください」
「出陣の支度は?」
「いつでもできる状態にはしておきます。ただし、兵は集めない」
「羽柴方に知られぬためですか」
「それもあります」
景継は庭へ目を向けた。
「こちらが軍勢を集めれば、それだけで意味が生まれますから」
秀吉も見る。
家康も見る。
信雄も見る。
そして、景継の近くにいる者たちも見る。
まだ何も決めていない段階で、余計な答えを周囲に与える必要はなかった。
◇
尾張では、羽柴方が軍勢を集め始めたという報せが信雄のもとにも届いていた。
「間違いないのか」
「はい。複数の場所で兵が集められております」
「こちらへ向かっているのか」
「まだ確認できておりませぬ」
信雄は黙った。
評定の間には十数人の家臣がいる。
少し前までなら、ここで秀吉との関係を重んじる者が声を上げていただろう。
だが三人の処断以降、家中の空気は変わっている。
誰もが言葉を選ぶようになっていた。
「信雄様」
年嵩の家臣が口を開いた。
「今からでも、羽柴様へ使者を送るべきかと」
「何を伝える」
「戦う意思はないと」
「それはすでに伝えた」
「ならば、もう一度」
「何度伝えればよい」
信雄の声に怒気はなかった。
だからこそ、家臣は返答に詰まった。
「わしは秀吉と戦いたいわけではない。だが、秀吉に従うと決めたわけでもない」
「……はい」
「それを伝えて、向こうは兵を集め始めた」
信雄は家臣たちを見回した。
「ならば次に考えるべきは、何を言えば秀吉が喜ぶかではない」
誰も口を挟まなかった。
「秀吉が兵を向けてきた時、どうするかだ」
その言葉を聞いて、一人の家臣が尋ねた。
「徳川様からの返事を、お信じになるのですか」
「信じるかどうかではない」
信雄は机の上に置かれた家康の書状を見た。
「家康殿は、羽柴が兵を向ければわしを一人にはしないと言った」
「ですが、実際にその時となれば――」
「来ぬかもしれぬな」
家臣が黙る。
「だからといって、秀吉に従えば必ず織田家が残るのか?」
「それは……」
「どちらにも絶対などない」
信雄はそこで言葉を切った。
以前なら、誰かに答えを求めていたかもしれない。
景継が何を考えている。
秀吉ならどうする。
家康ならどうする。
だが今は、自分が決めなければならない。
それだけは分かっていた。
「城々へ伝えよ」
信雄が言った。
「備えを始める」
家臣たちの顔が変わった。
「兵を集められますか」
「必要以上には集めぬ。田畑から人を引き剥がすな。ただし、武具と兵糧を確認させよ。道も見張らせる」
「羽柴様が、それを知れば……」
「向こうも同じことをしておる」
信雄は立ち上がった。
「それから家康殿へ使者を」
「何と?」
「羽柴が出陣の支度を始めたと伝えよ」
「援軍を求めますか」
信雄は少し考えた。
「まだ求めぬ」
家臣が意外そうに顔を上げる。
「来てくれと言うのは、羽柴の軍がこちらへ向かってからだ」
「承知いたしました」
命令を受けた者たちが次々に立ち上がる。
評定の間から人が減っていく。
最後に残った家臣が、信雄へ尋ねた。
「信雄様」
「何だ」
「もし羽柴様が、本当にこちらへ来られたなら」
信雄は家臣を見る。
「その時は、戦う」
短い答えだった。
だが今度は、誰も聞き返さなかった。
◇
三河へ尾張からの使者が入った。
家康は報告を聞き終えると、すぐに家臣たちを集めた。
「羽柴方が出陣の支度を始めた」
ざわめきは起こらなかった。
すでに想定していたことだった。
「信雄様は?」
「城々の備えを確認している。ただし、まだ大きく兵を集めてはおられぬ」
「援軍の要請は?」
「ない」
家康の言葉に、家臣の一人が眉を上げた。
「ございませぬか」
「ああ」
「こちらから兵を出しますか」
「出さぬ」
家康は即答した。
「信雄様が求めていないうちに徳川軍を尾張へ入れれば、羽柴殿に口実を与える」
「では、こちらも支度だけを?」
「そうする」
家康は命じていく。
兵糧の確認。
馬の確保。
各城への連絡。
道の状態。
川を渡る場所。
必要になった時、どこからどれだけ早く尾張へ入れるのか。
派手な命令は一つもなかった。
だが、家臣たちはその意味を理解している。
徳川もまた、軍を動かす準備へ入った。
「殿」
一人の家臣が尋ねた。
「羽柴方へ使者を出されますか」
「出す」
「警告を?」
「違う」
家康は首を横に振った。
「信雄様との争いを、兵で解決するつもりなのか。それを尋ねる」
「答えるでしょうか」
「答えなければ、それも答えになる」
家康は書状を用意させた。
言葉は短くした。
織田家との間に生じた問題について、武力を用いる意思があるのか。
もし話し合いで収める意思があるなら、徳川としてもそれを望む。
それだけだった。
家臣が書状を持って退出した後、別の者が尋ねた。
「林道殿には、やはり何も?」
「何も伝えぬ」
「羽柴方が林道殿へ使者を送ったとの話がございます」
家康の目が僅かに動いた。
「何を聞いた」
「そこまでは」
「そうか」
「探らせますか」
「必要ない」
家康はすぐに答えた。
「景継殿が動けば、嫌でも分かる」
今、見るべきなのは秀吉だった。
誰を呼ぶ。
どこへ集める。
どこまで本気で尾張へ入るつもりなのか。
家康もまた、相手の次の一手を待った。
◇
秀吉のもとへ、二つの報せがほぼ同時に届いた。
一つは尾張。
信雄が城々へ備えを命じた。
もう一つは三河。
家康が軍を動かすための準備を始めた。
「来たな」
秀吉は書状を机へ置いた。
官兵衛が向かいに座っている。
「まだ双方とも兵を出してはおりません」
「分かっている」
「徳川様からも使者が来ております」
「何と?」
「信雄様との問題を、武力で解決する意思があるのかと」
秀吉が笑った。
「自分も支度をしておいて、それを聞くか」
「向こうから見れば、先に支度を始めたのはこちらでございます」
「そう言うだろうな」
秀吉は立ち上がった。
壁に掛けられた絵図の前へ進む。
「景継からの返事は?」
「こちらから兵を出すつもりはない、と」
「それだけか」
「信雄様と羽柴様の間の問題であり、徳川様が加わっただけでは林道家が兵を出す理由にはならない、と」
「……そうか」
秀吉はしばらく景継の領地がある辺りを見つめた。
「信じますか」
官兵衛が尋ねる。
「全部は信じん」
「では?」
「だが今、景継が兵を出していないのは事実だ」
「はい」
「ならば、まず家康を見る」
官兵衛が頷いた。
それは妥当だった。
目の前で信雄を支えようとしている家康を放置し、まだ動いていない景継へ兵を割く理由はない。
「信雄様へ最後にもう一度、使者を送る」
秀吉が言った。
「条件は?」
「処断の件は、これ以上責めぬ」
官兵衛が秀吉を見る。
「譲られますか」
「三人のために尾張と戦うつもりはない」
「では、何を求めます」
「家康との軍事的な結びつきを深めないこと。それから、今後の重要な話はわしにも通すこと」
官兵衛は少し考えた。
「信雄様が受け入れるでしょうか」
「受け入れれば終わりだ」
「受け入れなければ」
秀吉の視線が尾張で止まった。
「その時は、兵を出す」
官兵衛は静かに頭を下げた。
「承知いたしました」
秀吉は家臣を呼び、使者を選ばせた。
これが最後の話し合いになる。
そのことを、誰も口にはしなかった。
◇
林道領へ、恒興が送った者が戻ってきた。
景継、長秀、恒興が報告を聞いている。
「信雄様は、羽柴方が尾張へ兵を向けた場合には戦うと、家臣たちへ明言されたそうです」
恒興が目を閉じた。
「そうか」
「ただし、こちらから羽柴領へ攻め込むつもりはないとも」
「家康殿への援軍要請は?」
長秀が尋ねる。
「まだ出しておられません」
「思ったより慎重だな」
恒興が呟く。
景継は報告書へ目を落とした。
「それでいいでしょう」
「何がだ」
「先に徳川軍を尾張へ入れれば、秀吉様に『徳川が織田家を使ってこちらへ向かってきた』と言わせることができます」
長秀が頷いた。
「羽柴が先に尾張へ入れば、逆になる」
「はい」
どちらが先に境を越えるか。
戦の勝敗そのものとは別に、その後に人を動かす理由になる。
「殿」
弥兵衛が部屋へ入ってきた。
「羽柴様から信雄様へ、再び使者が向かったとのことです」
「またか」
恒興が言う。
「随分と粘るな」
「戦を始めれば、終わらせる方が難しいですから」
景継は書状を受け取った。
「条件は分かりますか」
「まだ」
「なら、それを待ちましょう」
恒興が景継を見る。
「もし信雄様が条件を呑めば?」
「それで終わりです」
「惜しくないのか」
景継が顔を上げる。
「何がです?」
「秀吉殿と家康殿がぶつかれば、お前にとって悪い話ではないだろう」
部屋が静かになった。
長秀も景継を見る。
景継は少しだけ考えた。
「悪くはありません」
あっさり認めた。
「ですが、そのために信雄様へ条件を拒めとは言いません」
「なぜだ」
「信雄様の家だからです」
恒興が黙る。
「自分の家をどうするかくらい、ご自分で決めてもらわないと」
「お前が天下を取るために都合が悪くてもか」
「ええ」
景継は書状を畳んだ。
「私が天下を取りたいからといって、何もかも私の思い通りに動いてくれるわけではありませんから」
恒興はしばらく景継を見た後、鼻から息を吐いた。
「分かった」
景継は再び絵図を見る。
秀吉から最後の使者が向かった。
信雄がそれを受け入れれば、軍勢は止まるかもしれない。
拒めば、次に動くのは言葉ではない。
◇
羽柴の使者が尾張へ入った。
信雄はその日のうちに会った。
「羽柴様は、このたび処断された三名について、これ以上争うおつもりはございません」
使者の言葉に、信雄は僅かに眉を動かした。
「そうか」
「ただし、今後の両家の関係について、二つお願いがございます」
「申せ」
「一つ。徳川様との軍事的な結びつきを、これ以上深められぬこと」
信雄の表情が消えた。
「もう一つは?」
「織田家に関わる重要な事柄について、今後は羽柴様とも十分に話し合っていただきたいとのこと」
「それは、わしが何かを決める前に秀吉へ相談せよという意味か」
「決してそのような――」
「では、どういう意味だ」
使者が言葉を選ぶ。
「羽柴様は、信雄様と共に織田家を支えていきたいとお考えです」
「そのために、家康殿と離れろと?」
「徳川様が羽柴様との対立を望んでおられるのであれば、無用な争いを避けるためにも――」
「家康殿は、わしに秀吉と戦えとは一度も言っておらぬ」
使者が黙った。
「秀吉は、わしに家康殿から離れろと言う」
「それは――」
「ならば、どちらがわしの決めることへ口を出しておる?」
返事はなかった。
信雄は目を閉じた。
少し前までなら迷ったかもしれない。
秀吉の力は大きい。
敵に回したくない。
家中を守るためなら、多少譲ることも必要だ。
今も、その考えが消えたわけではない。
だが。
三人の家臣が、自分の知らぬところで秀吉と繋がっていた。
兵の内情まで伝えられていた。
それを調べれば、今度は家康との関係に条件を付けられた。
ここで受け入れれば、次は何を求められる。
信雄は目を開いた。
「秀吉へ伝えよ」
「はっ」
「その条件は受け入れぬ」
使者の顔が強張った。
「信雄様。今一度お考えを――」
「考えた」
「これを拒まれれば、両家の間に何が起きるか――」
「それも考えた」
信雄は真っ直ぐ使者を見る。
「わしは秀吉の敵になりたいわけではない」
「ならば!」
「だが、秀吉の許しを得なければ誰とも手を結べぬ立場になるつもりもない」
使者は、それ以上何も言えなかった。
「返事はそれだけだ」
信雄が告げる。
使者は深く頭を下げ、部屋を出ていった。
襖が閉じる。
信雄はしばらく動かなかった。
やがて家臣たちへ顔を向ける。
「家康殿へ使者を出せ」
「はっ」
「羽柴の条件を拒んだと伝えよ」
「承知いたしました」
「それから――」
信雄は一度、息を吐いた。
「城々へ、もう一度伝えろ」
家臣たちが信雄を見る。
「備えを強めよ」
今度は誰も迷わなかった。
◇
返事が秀吉へ届いた。
使者の報告を聞き終えた秀吉は、目を閉じた。
官兵衛は黙って待っている。
長い沈黙の後、秀吉が目を開いた。
「拒んだか」
「はい」
「家康から離れる気もない」
「ございません」
秀吉は立ち上がった。
そして、絵図の前へ歩いた。
ここまでだった。
使者を送った。
言葉を選んだ。
三人の処断についても譲った。
それでも信雄は退かなかった。
「官兵衛」
「はっ」
「諸将へ伝えろ」
秀吉の指が尾張へ向く。
「出るぞ」
官兵衛は一瞬だけ目を閉じた。
そして深く頭を下げる。
「承知いたしました」
その日のうちに、羽柴方の各地へ使者が走った。
集められていた米が動き始める。
馬が引き出される。
武具が運ばれる。
諸将が兵を率いて、それぞれの城を出る。
これまで準備だけだったものが、一斉に形を持ち始めた。
そして翌日。
林道領にも、その報せが届いた。
「殿」
弥兵衛が景継のもとへ駆け込んだ。
「羽柴軍が動きました」
景継は手元の書状から顔を上げた。
「どちらへ?」
「尾張にございます」
景継は静かに立ち上がった。
壁際に広げられていた絵図へ向かう。
その視線は、羽柴軍の出発地点ではなく――三河へ向いた。
「家康様へは?」
「すでに尾張から使者が走ったとのことです」
「そうですか」
景継はそれだけ言った。
弥兵衛が尋ねる。
「こちらは?」
景継の視線が三河から尾張へ戻る。
「何もしません」
「……このまま?」
「はい」
羽柴軍が動いた。
ならば次に動く者は、もう決まっている。
景継は絵図の上へ手を置いた。
「まずは、家康様に立っていただきましょう」




