第百四十三話 支える者
信雄が三人の重臣を処断してから、まだ数日しか経っていない。
それでも尾張を巡る空気は、明らかに変わっていた。
景継の屋敷には、丹羽長秀、滝川一益、池田恒興が集まっている。
机の上には尾張、三河、近江を中心とした絵図と、各地から届いた書状が並べられていた。
「秀吉殿の使者は、すでに信雄様と会った」
一益が報告する。
「話は?」
「まとまらなかったようだ。追い返したわけではないが、信雄様も譲らなかったらしい」
「秀吉様は何を求めたんです?」
「処断された三名について、改めて事情を説明してほしい。それと、羽柴方との内通という扱いを改めてもらいたいそうだ」
「なるほど」
景継は書状へ目を落とした。
秀吉の立場からすれば当然だった。
三人が勝手に羽柴方と接触していたというだけなら、まだ話は小さい。
だが信雄は、羽柴方との内通を理由に三人を処断した。
それをそのままにすれば、秀吉が信雄の家臣を使って織田家の内側へ手を伸ばしていたことになる。
「信雄様は認めなかったのか」
恒興が尋ねた。
「少なくとも、処断の理由を変えるつもりはないらしい」
「今さら変えられんだろうな」
恒興が腕を組む。
「三人も斬った後で、あれは内通ではなかったなどと言えば、今度は信雄様自身が家中から疑われる」
「でしょうね」
景継は静かに答えた。
言葉の行き違いだけなら、まだ戻れる。
だが、すでに三人が死んでいる。
昨日までと同じ関係に戻るには、互いに捨てなければならないものが増えすぎていた。
「それで」
長秀が景継を見る。
「我らを集めた理由は何だ」
「今、分かっていることを揃えておきたかったんです。それと、これから何を見るべきかを」
景継は一益へ顔を向けた。
「近江は?」
「動きがある」
一益が一枚の書付を絵図の上へ置いた。
「羽柴方が米を集めている。馬もだ。縄や矢も普段より動いている」
長秀の目つきが変わった。
「兵は?」
「まだ大きくは動いておらん。だが、何かあればすぐ軍を出せるようにしているようには見える」
「勝家様からも似た報せが来ています」
景継が続けた。
「越前へ兵が向かっているわけではありません。ただ、羽柴方の領内で軍を動かすための準備が進んでいる、と」
「信雄様への使者を送りながら、裏では戦支度か」
恒興が言った。
「おかしなことではありません」
景継は首を横に振った。
「話で収まれば使わずに済む。収まらなければ、すぐ動ける。秀吉様なら、そのくらいは備えるでしょう」
一益が頷く。
「問題は、どこまで備えているかだな」
「ええ」
景継は絵図の尾張へ指を置いた。
そして、その隣の三河へ移す。
「信雄様だけを相手にするのか。そこへ家康様が入るのか。それで秀吉様の動きも変わります」
「林道家はどうする」
恒興が尋ねた。
「今は兵を動かしません」
「羽柴方が準備を始めていてもか」
「だからこそ、先に見ます」
「何をだ」
「秀吉様が、どこへ兵を集めるのかです」
景継は一益が持ってきた書付を手に取った。
「今こちらが動けば、秀吉様はこちらも見なければならなくなる。そうなれば、本来どこへ力を向けるつもりだったのかが分かりにくくなる」
長秀が景継を見る。
「黙っていれば、向こうが先に形を見せるということか」
「はい」
「相変わらずだな」
「何がです?」
「相手が先に動くまで、よく我慢できる」
景継は僅かに笑った。
「必要なら、先に動きますよ」
河瀬との戦ではそうした。
待つことそのものに価値があるわけではない。
先に動く方が得なら動く。
相手に動かせた方が得なら待つ。
それだけだった。
「信雄様へ兵を貸す気はないのか」
恒興が尋ねた。
「今はありません」
「織田家が危うくなっても?」
「信雄様は、まだ私に助けを求めていません」
恒興が黙る。
「頼まれてもいないのに軍勢を連れて近づけば、それは助けではなく圧力になります」
「……確かにな」
「それに信雄様は、すでに自分で頼る相手を選んでいます」
「家康殿か」
「はい」
信雄自身が家康へ使者を送った。
ならば、その返事を待つ。
景継が横から割って入る理由はなかった。
「わしは今のところ動かん」
長秀が言った。
「ただし、尾張の争いが他へ広がれば別だ。その時は改めて判断する」
「分かりました」
一益も絵図を見ながら口を開く。
「わしは近江を見ておこう。兵だけではなく荷駄もな。軍勢は隠せても、腹までは隠せん」
「お願いします」
最後に恒興が言った。
「わしは尾張へ人を送る」
「信雄様のところへ?」
「ああ。長く織田家に仕えてきた。何が起きているのか、自分の耳でも確かめておきたい」
「分かりました」
景継は止めなかった。
三人が同じ場所に集まっていても、同じことをする必要はない。
それぞれが見られる場所を見ればいい。
今は、その方が多くのものが見える。
◇
三河。
信雄からの使者を前に、徳川家康は届けられた書状を読み終えていた。
前回とは違う。
今回、信雄は明確な答えを求めている。
もし秀吉が兵をもって尾張へ迫った時、徳川はどうするのか。
家康は書状を畳んだ。
「信雄様は、羽柴殿と戦うと決められたのか」
「いいえ」
使者が答える。
「信雄様は戦を望んではおられません」
「ならば、なぜ私にこれを?」
「羽柴方が兵糧や馬を集め始めているとの報せがございます」
家康の周囲にいた家臣たちが僅かに反応した。
「信雄様は、羽柴様が話し合いだけで済ませるおつもりなのか、疑っておられます」
「なるほど」
家康は立ち上がり、絵図の前へ移った。
三河の西には尾張がある。
その尾張が秀吉の影響下へ完全に入れば、次に何が起きるか。
少なくとも徳川にとって、喜ぶべき状況ではない。
「信雄様へお伝えいただきたい」
「はっ」
「徳川から戦を勧めることはない」
使者が頭を下げる。
「ただし、信雄様がご自身の家を守るために立たれ、それに対して羽柴殿が兵を向けるのであれば――」
家康は使者を見た。
「徳川は、信雄様を一人にはしない」
使者が顔を上げた。
「それは……」
「そのままお伝えください」
「承知いたしました」
深く頭を下げ、使者が退出する。
足音が遠ざかってから、家臣の一人が口を開いた。
「殿。羽柴様が兵を出せば、我らも動くという意味に取られます」
「そのつもりで言った」
「よろしいのでございますか」
家康は絵図へ視線を戻した。
「ここで信雄様が呑まれれば、尾張に巨大な力が入る」
「はい」
「その時になって危険だと騒いでも遅い」
家臣が頷く。
別の家臣が尋ねた。
「林道殿にも話を通しておきますか」
「いや」
家康は即座に否定した。
「今は必要ない」
「しかし林道殿には、柴田殿をはじめ、多くの者との繋がりがございます。協力を得られれば大きな力になるかと」
「だからこそ、今は呼ばぬ」
家臣が家康を見る。
「今の話は、信雄様がご自分の家を守れるかどうかだ。そこへ別の天下を望む者まで呼べば、話そのものが変わる」
「林道殿を警戒されているのですか」
「警戒しない理由はない」
家康はそう答えてから、僅かに間を置いた。
「だが、今は敵でもない」
「では、放っておくと?」
「林道殿が何も言わぬなら、こちらも何も言わぬ」
家康は再び机へ戻った。
紙を一枚引き寄せる。
信雄への返書だった。
口頭だけではない。
自らの言葉を、形として残す。
筆を取った家康は、一度も手を止めなかった。
◇
家康の返事が尾張へ届いたのは、それから三日後だった。
信雄は使者から家康の言葉を聞き、しばらく黙っていた。
「徳川は、わしを一人にはしない……か」
「はい」
「戦えとは言わなかったのだな」
「一度も」
「そうか」
信雄は手元の書状へ目を落とした。
家康は、決めることそのものは信雄に委ねている。
だが、もし自分で決めた結果として秀吉から兵を向けられたなら、徳川は支える。
それは信雄にとって大きかった。
秀吉からは、すでに再度の使者が来ている。
三人の処断について説明を求め、両家の関係をこれ以上悪化させるべきではないと伝えてきた。
一方で、羽柴方が米や馬を集めているとの報せも入っている。
「羽柴の使者を呼べ」
「はっ」
ほどなくして、秀吉の使者が通された。
「信雄様。羽柴様は、このたびのことを大変憂慮されております」
「そうか」
「これ以上、互いに疑いを深めることは織田家のためにもなりませぬ」
「わしもそう思う」
使者の表情が僅かに緩む。
だが信雄は続けた。
「ゆえに、一つ聞く」
「何でございましょう」
「なぜ兵糧を集めておる」
使者の表情が止まった。
「……兵糧、でございますか」
「米だけではない。馬も、矢も集めていると聞いておる」
「それは常の備えにございます」
「この時期にか?」
「何が起きても対処できるよう備えることは、当然のことかと」
「ならば、わしも備えてよいのだな」
使者が答えに詰まる。
「羽柴が備えるのは当然。わしが備えれば敵意と取る。そのような話ではあるまいな?」
「決して、そのようなことは……」
「ならば秀吉に伝えよ」
信雄は使者を真っ直ぐ見た。
「わしは戦を望んでおらぬ」
「はい」
「だが、わしの家のことは、わしが決める」
使者の顔が強張った。
「わしの家臣と話すなら、まずわしを通せ。わしの兵のことを知りたいなら、わしに聞け」
「信雄様――」
「それができぬなら」
信雄はそこで言葉を切った。
「今までと同じ関係には戻れぬ」
使者は何も返せなかった。
深く頭を下げる。
その言葉を、そのまま持ち帰るしかなかった。
◇
「今までと同じ関係には戻れぬ、か」
使者から信雄の返答を聞き終えた秀吉は、低く呟いた。
隣には官兵衛がいる。
「徳川からの返事が届いた後だな」
「そのようでございます」
「家康は何と答えた」
「信雄様が羽柴方から兵を向けられれば、見捨てぬと」
秀吉の表情が変わった。
「そこまで言ったか」
「はい」
官兵衛は絵図の前へ進んだ。
信雄だけなら、まだ押せたかもしれない。
だが今は違う。
信雄の背後に家康が立つことが、はっきりした。
「官兵衛」
「はい」
「軍の支度を進めろ」
官兵衛はすぐには返事をしなかった。
「話し合いを打ち切られますか」
「いや。使者は送る」
「では――」
「話をしながら備える」
秀吉は絵図へ歩み寄った。
「こちらが兵を持たずに話せば、家康はさらに前へ出る」
官兵衛も異論はなかった。
「承知いたしました」
「ただし、まだ尾張へは入れるな」
「はい」
「集めるだけだ」
その命令を受け、官兵衛は必要な兵糧、荷駄、馬、諸将への連絡を頭の中で組み立て始めた。
そして、ふと尋ねる。
「林道殿は、変わらず?」
「動いていない」
「そうですか」
官兵衛の視線が絵図の上を移る。
信雄が秀吉から離れ始めた。
家康がその後ろに立った。
秀吉も軍を集め始める。
それでも景継は、まだ姿を見せない。
「……何だ」
秀吉が官兵衛を見る。
「いえ」
「気になるなら言え」
官兵衛は少し考えてから答えた。
「林道殿へ使者を送ってみてはいかがでしょう」
「何を聞く」
「この件へ介入する意思があるかどうかを」
「正直に答えると思うか?」
「答えそのものより、どう答えるかを見たいのです」
秀吉はしばらく考えた。
「分かった。送れ」
「はっ」
◇
数日後。
秀吉の使者が景継の屋敷を訪れた。
「羽柴様より、お尋ねしたいことがあるとのことでございます」
「私に?」
「はい」
「聞きましょう」
使者は姿勢を正した。
「現在、信雄様と羽柴様の間に行き違いが生じております」
「そのようですね」
「徳川様も信雄様を支えるお考えを示されたと聞いております」
「ええ」
「羽柴様は、この争いを必要以上に広げることを望んでおられません」
景継は黙って続きを待った。
「もし信雄様と徳川様が、羽柴様と争うことになった場合――」
使者が景継を見据える。
「林道様は、兵を出されますか」
弥兵衛が景継を見る。
景継は少し考えてから答えた。
「こちらから兵を出すつもりはありません」
「では、この件には介入されないと?」
「今起きているのは、信雄様と秀吉様の間の問題でしょう」
「徳川様が加わっても?」
「それだけで、私が兵を出す理由にはなりません」
使者は景継の言葉を確かめるように頷いた。
「そのお言葉、羽柴様へそのままお伝えしても?」
「構いません」
「承知いたしました」
使者が深く頭を下げ、部屋を出ていった。
足音が完全に遠ざかってから、弥兵衛が景継を見る。
「殿」
「何です?」
「本当に、こちらからは動かれないのですか」
「ええ」
景継は机の上に広げた絵図へ視線を落とした。
信雄が秀吉から距離を取った。
家康は、その信雄を支えると決めた。
秀吉は軍を集め始めている。
景継が何かを言わなくても、それぞれが自らの理由で動いている。
「今、私が出れば」
景継の指が尾張から三河へ動いた。
「秀吉様は、こちらにも目を向けます」
「それを避けたい?」
「ええ」
景継は静かに答えた。
「秀吉様にはまず、目の前の相手を見ていただきましょう」
弥兵衛はそれ以上尋ねなかった。
景継の兵は動かない。
だが近江では一益が道を見ている。
北ノ庄では勝家が羽柴方の動きを探っている。
長秀も、いつでも話ができる場所にいる。
景継自身は、ただ届く報せを待っていた。
そして数日後。
近江から、一益の使者が駆け込んできた。
「申し上げます!」
景継が顔を上げる。
「羽柴方に動きがございます」
使者は息を整える間も惜しむように続けた。
「諸将へ、出陣に備えるよう命が下りました」
弥兵衛が景継を見る。
景継は何も言わず、絵図へ視線を落とした。
尾張へ向かう道の上に、その目が止まった。




