第百四十二話 亀裂
織田信雄の屋敷では、朝から何人もの家臣が呼び出されていた。
普段の評定とは違う。
誰が呼ばれたのか。何を聞かれたのか。先に部屋を出た者がどんな顔をしていたのか。
それだけで、家中には重苦しい空気が広がっていた。
「次の者を」
信雄が命じると、襖が開いた。
一人の家臣が入ってきて、信雄の前で深く頭を下げる。
「お呼びにございますか」
「座れ」
「はっ」
信雄の前には、何通もの書状が置かれていた。
ここ数日で集めさせたものだ。
秀吉側の者と連絡を取っていた家臣。秀吉との関係を深めるべきだと主張していた家臣。そして、その周囲を頻繁に出入りしていた使者。
一つ一つなら、それほど不自然ではない。
織田家の者が秀吉と書状を交わしただけで、すぐ裏切りとは言えない。秀吉もまた、もとは信長の家臣だった男だ。
信雄自身、これまで何度も秀吉からの使者を受け入れている。
だが調べれば調べるほど、見過ごせないものが増えていった。
「お前は先月、羽柴方の者と三度会っているな」
「……はい」
「なぜ報告しなかった」
「特に申し上げるほどの話ではないと考えまして」
「何を話した」
「今後の織田家についてでございます」
信雄の目つきが変わった。
「誰の許しを得て?」
男が黙る。
「答えよ」
「……誰からも」
「では、お前が勝手に織田家の今後を秀吉の者と話したのか」
「決して、そのようなつもりではございません!」
「ならば、どのようなつもりだ」
「羽柴様と争うことになれば、織田家にとって大きな損となります。ゆえに、少しでも関係を――」
「待て」
信雄が遮った。
「わしは秀吉と争うと言ったか?」
「いえ」
「ならば、なぜそこまで先回りしておる」
「それは……林道景継が勢力を伸ばしております。信孝様は林道と盟を結び、柴田様も健在。丹羽様、滝川様、池田様まで林道に近い。ならば我らも羽柴様との関係を深めておくべきだと……」
筋は通っている。
少し前の信雄なら、それで納得していたかもしれない。
景継が大きくなる。
ならば秀吉と近づき、均衡を取る。
それ自体は間違った考えではない。
だが今の信雄が気にしているのは、そこではなかった。
「誰が決める」
「は?」
「秀吉との関係を深めるかどうか、誰が決めるのだ」
「それはもちろん、信雄様が……」
「ならば、なぜわしが決める前に、お前たちが話を進めておる」
「……」
「わしが知らぬところで道だけ作っておいて、後からその道を進めと言うつもりだったのか?」
「そのような意図ではございません!」
「意図など聞いておらぬ」
信雄の声が低くなる。
「何をしたのかを聞いておる」
男は答えられなかった。
信雄はしばらく男を見つめた後、手を振った。
「下がれ」
「信雄様!」
「まだ処分はせぬ。下がれ」
男は何か言いたそうだったが、やがて頭を下げて退出した。
襖が閉まる。
信雄は大きく息を吐いた。
これで四人目だった。
程度に差はある。
秀吉から金を受け取った証拠が出た者はいない。信雄を追い落とそうとしていた証拠もない。
だが、誰もが似たようなことを言う。
景継が危険だ。
信孝が景継と組んだ。
勝家もいる。
だから秀吉との関係を強くするべきだ。
「……妙だな」
信雄が呟いた。
側に控えていた家臣が顔を上げる。
「何がでございましょう」
「皆、同じところへ話を持っていく」
「確かに」
「考えが同じになることはある。だが、ここまで揃うものか?」
家臣は答えなかった。
信雄は机の上の書状を見る。
秀吉から届いた話にも、似たものがあった。
景継が力を伸ばしている。
勝家も信孝も、その近くにいる。
織田家も備えなければならない。
そして、その先には必ず秀吉との連携が出てくる。
「もっと調べよ」
「まだ続けますか」
「続ける。秀吉の者と会った者だけではない。その者たちが、家中で誰と話していたのかも調べよ」
「かなりの人数になるやもしれません」
「構わぬ」
「疑われていると知れば、反発する者も出ましょう」
「それでもだ」
信雄は机の上の書状を握った。
「わしの知らぬところで、わしの家の行く先を決められるよりはよい」
家臣が頭を下げる。
「承知いたしました」
「それから、徳川殿にも使者を出せ」
「家康様へ?」
「ああ」
「何とお伝えいたしますか」
信雄は少し考えた。
「もう一度、話したいとな」
「承知いたしました」
家臣が退出する。
信雄は一人になった。
家康は、秀吉を疑えとは一度も言わなかった。
誰を信じろとも言わなかった。
ただ、自分が織田家をどうしたいのかを問うた。
その答えを考えた結果、今まで気にならなかったものが気になり始めた。
一度見えてしまったものを、もう見なかったことにはできなかった。
◇
その報せは、数日後には秀吉のもとにも届いていた。
「信雄様が、家中を調べておられる?」
「はい」
報告した家臣が頭を下げる。
「我らと接触した者について、かなり細かく調べているようでございます」
「誰か捕らえられたのか」
「まだ、そのような報せはございません」
「そうか」
秀吉は腕を組んだ。
向かいに座る黒田官兵衛は、報告書へ目を落としたまま何も言わない。
「官兵衛」
「はい」
「何か気になるか」
「徳川様との会談の後、という点が」
秀吉の表情から、僅かに笑みが消えた。
「家康か」
「はい」
「何を話したか分かるか」
「詳しくは。かなり人数を絞った会談だったようでございます」
「家康が何か吹き込んだと思うか?」
「その可能性はございます」
「景継と組め、とでも?」
「それは考えにくいかと」
「では、わしと戦えと?」
「それも早すぎます」
秀吉が眉を寄せた。
「では何だ」
「徳川様から、何か明確な答えを渡したとは限りません」
「どういう意味だ」
官兵衛は少し考えてから答えた。
「信雄様ご自身が、今の状況に疑問を持つような話をしたのかもしれません」
秀吉が黙る。
「答えを教えるより、自分で気づいたと思わせた方が、人はその答えを捨てにくい」
「……厄介だな」
「はい」
官兵衛にも思い当たるところがあった。
これまで秀吉側は、信雄の不安を利用してきた。
景継が大きくなっている。
信孝が景継と組んだ。
勝家も生きている。
それらを見せれば、信雄は自らを守るために秀吉へ近づく。
その考え自体は間違っていなかった。
実際、信雄の周囲には秀吉との関係を重視する者が増えている。
しかし、その者たちを通じて先回りしすぎた。
「こちらが急ぎすぎたのかもしれません」
官兵衛が言った。
「急ぎすぎた?」
「信雄様が羽柴様を頼るところまではよかった。しかし、信雄様が決める前に家臣たちとの繋がりを増やしすぎました」
「備えのつもりだったがな」
「はい。しかし信雄様から見れば、自分の知らぬところで羽柴家が家中へ入り込んでいるようにも見えるでしょう」
秀吉の目が細くなる。
「家康は、そこに気づいたか」
「断言はできません。ただ、結果として信雄様はそこを見始めています」
「景継はどうしている」
「今のところ、尾張へ目立った働きかけはしておりません」
「兵は?」
「およそ八千まで増えたとの報せがございます」
秀吉の指が止まった。
「八千か」
「はい」
「北ノ庄では五千だった」
「そうでございます」
「随分と増えたな」
「領地も増えております。それ以上に、市場や街道へ力を入れているようでございます」
秀吉はしばらく黙った。
北ノ庄で敗れた後、景継が何をするかは見ていた。
兵を集める。
味方を増やす。
そこまでは予想できた。
だが景継は、それと同時に兵を支える側まで作っている。
「信雄様へ使者を送る」
秀吉が言った。
「何と伝えますか」
「家臣たちと話したことに、信雄様を蔑ろにする意図はなかったとな。織田家の先を考えてのことだったと伝える」
官兵衛は頷いた。
「使者は慎重に選ぶべきでしょう」
「分かっている」
「それと今は、林道殿の名を出さぬ方がよろしいかと」
「なぜだ」
「また林道殿を理由にすれば、信雄様にはこれまでと同じ話に聞こえます」
秀吉は少し考えた後、頷いた。
「そうだな」
官兵衛は頭を下げた。
だが、胸の奥に残る違和感は消えない。
徳川家康。
これまで大きく動かなかった男が、なぜ今になって信雄へ近づいたのか。
そして林道景継。
信雄の周囲が揺れ始めても、尾張へ手を出していない。
二人の沈黙が、官兵衛には気になった。
◇
林道領では、新たに加えられた兵たちの訓練が始まっていた。
「八千、揃いました」
弥兵衛の報告に、景継は訓練場へ目を向けた。
「人数は、ですね」
「はい。新たに加わった五百は、まだこれからです」
「古参の兵と混ぜていますか?」
「予定通りに」
河瀬から来た者。
周辺から仕官した者。
農村から選ばれた者。
出自ごとに固めず、既存の隊へ振り分けている。
同じ林道家の兵として動かすためだった。
「八千全部を動かした場合の確認は?」
「始めております。特に荷駄は、これまでとは数が違います」
「馬も見ておいてください。あと、命令が最後尾まで届く時間も」
「承知しております」
河瀬との戦では、二千を動かしただけでも問題が出た。
隊列が伸び、荷駄が遅れ、命令が後方まで届くのに時間がかかった。
追撃を止められない隊もあった。
今は、それを八千という規模で起こさないための準備を進めている。
兵を持つだけでは足りない。
必要な時、必要な場所へ連れていけなければ軍とは呼べない。
「ところで殿」
弥兵衛が一通の書状を差し出した。
「尾張から新しい報せです」
景継が受け取る。
「信雄様が、再び家康様へ使者を出されたそうです」
「信雄様の方から?」
「はい」
景継は書状を読み進めた。
前回は家康から信雄へ近づいた。
今度は信雄から家康を求めている。
同じ二人が会うにしても、その意味は違う。
「秀吉様へは?」
「羽柴方から使者が向かったようですが、信雄様から先に送ったという話はございません」
「そうですか」
景継は書状を畳んだ。
「家康様は、信雄様との間に道を作りましたね」
「味方に引き込んだということでしょうか」
「そこまではいっていないでしょう。ただ、何かあった時に信雄様が話を持っていく相手にはなった」
それだけでも十分に大きい。
秀吉との関係に疑念を持った信雄が、相談相手として家康を見るようになった。
「こちらから信雄様へ使者を送りますか?」
「送りません」
景継はすぐに答えた。
「今、私まで近づけば、信雄様から見れば秀吉様も私も同じに見えかねません」
「自分が弱っているところへ近づいてきた、と?」
「ええ。以前、信雄様とは話をしています。今はこちらから重ねて何か言う必要はないでしょう」
「では、尾張には触れない」
「その代わり、別のところを見ます」
景継は屋敷へ戻ると、絵図を広げた。
「北ノ庄へ使者を出してください」
「勝家様に?」
「はい。羽柴軍の動きを、これまでより細かく見てもらいたい」
「承知しました」
「一益殿にもお願いします。近江を通る兵と荷駄の動きを見てほしいと」
「分かりました」
「それから越後にも」
弥兵衛が景継を見る。
「上杉様へ?」
「北条との停戦後、国境で大きな問題が起きていないか確認してください」
「上杉様に何かを頼むわけではなく?」
「今は確認だけです」
景継の視線が、絵図のさらに東へ向かう。
小田原。
弥兵衛もそれに気づいた。
「北条には?」
景継は少し考えた。
「まだ必要ありません」
弥兵衛は頷いた。
尾張で何かが起きたからといって、すぐすべてを動かす必要はない。
信雄と秀吉の関係が戻るなら、それで終わる。
戻らないなら、その時に必要になるものがある。
景継が今確かめているのは、その時に手を伸ばせる状態にあるかどうかだった。
◇
さらに数日後。
尾張で再び評定が開かれた。
今度は、以前よりも空気が重かった。
調べが進み、三人の重臣について新たな事実が出ていた。
三人はいずれも信雄の許可なく羽柴方と何度も接触していた。
そのうち一人は、信雄が秀吉との距離を置こうとした場合、家中から考えを改めさせる必要があるという話までしていた。
別の一人は、信雄軍の兵数や配置について羽柴方へ伝えていた疑いがある。
そして三人目は、今後も織田家と羽柴家の結びつきを強くするために力を貸してほしいと頼まれ、それを受け入れていた。
「これは何だ」
信雄の声が響いた。
三人は平伏している。
「織田家を守るためにございます!」
一人が叫んだ。
「羽柴様と争ってはなりませぬ! 林道景継はすでに八千の兵を持ち、柴田、信孝らとも――」
「また景継か」
信雄が遮った。
男が言葉を失う。
「何を聞いても景継。何を聞いても勝家。だから秀吉と結べ。そればかりではないか」
「事実にございます! 今の織田家が力を保つためには、羽柴様との関係を――」
「秀吉との関係を保つために話をした。それはまだ分かる」
信雄は机の上に置かれた書状を手に取った。
「だが、なぜ兵の配置まで教えた!」
「それは――」
「兵の配置は、親交を深めるために教えるものではなかろう!」
「……」
「わしに黙って軍の内情まで渡しておいて、それでも織田家のためだと言うのか!」
男は何も答えられなかった。
信雄の怒りは、すでに疑いの段階を越えていた。
自分の知らぬところで秀吉と話をするだけなら、まだ弁明の余地はあった。
だが軍の内情まで渡したとなれば話は違う。
それは織田家と羽柴家の関係を良くするために必要なことではない。
「信雄様!」
別の家臣が声を上げる。
「お待ちください。この者たちに謀反の意図があったとは限りませぬ」
「分かっておる」
「ならば――」
「だが、わしを主と考えていたとも思えぬ」
その一言で、部屋が静まった。
信雄は三人を見た。
迷いがなかったわけではない。
ここで重臣を処分すれば家中は揺れる。
秀吉も黙ってはいないかもしれない。
だが、このまま残せばどうなる。
また自分の知らぬところで秀吉と話すのではないか。
次は何を伝える。
兵数か。
城の備えか。
それとも、自分をどう動かすかまで話すのか。
「三名を捕らえよ」
「信雄様!」
家臣たちがざわめく。
「お待ちください!」
「まだ申し開きが――」
「聞いた!」
信雄が声を上げた。
「何度も聞いた。その上で決めた!」
兵が入ってくる。
三人の顔から血の気が引いた。
「信雄様! 我らは織田家のために――!」
「ならば」
信雄が三人を睨む。
「なぜ、わしに言わなかった」
誰も答えられなかった。
信雄は目を閉じた。
そして命じた。
「三名、処断せよ」
その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が変わった。
もう疑いではない。
もう調べでもない。
血が流れる。
◇
報せが林道領へ届いたのは、その翌々日だった。
「殿、尾張より急報にございます」
家臣から書状を受け取った景継は、その場で封を切った。
読み進めるうちに、表情が変わる。
「信雄様が?」
「はい。羽柴方と内通した疑いのある重臣三名を処断されたとのこと」
「三人とも秀吉様との接触は確認されたのですか」
「そのようです。一名は、信雄様の兵の配置まで羽柴方へ伝えていた疑いがあると」
景継は最後まで読むと、書状を机に置いた。
弥兵衛が近くへ寄る。
「これで、かなり状況が変わりましたな」
「ええ」
景継は絵図を広げた。
尾張と秀吉の勢力圏を見比べる。
「信雄様は、自分の重臣を三人処断しました。その理由が秀吉様との内通です」
「今さら何もなかったように秀吉様へ近づくのは難しい」
「そうなります。家中に対して説明がつかない」
景継の指が、今度は秀吉の側へ動く。
「秀吉様にとっても厄介でしょうね」
「なぜです?」
「秀吉様と通じた者が処断された。それを何もせず見捨てれば、他の家にいる協力者たちはどう思います?」
弥兵衛が理解する。
「いざとなれば見捨てられる、と」
「少なくとも、そう考える者は出るでしょう」
信雄だけではない。
秀吉にも、この処断を無視しにくい理由がある。
双方の間にあった亀裂へ、血が流れ込んだ。
「次は徳川様ですね」
景継が言った。
「家康様が信雄様を支えるかどうか」
「ええ。信雄様も、それを確かめるために使者を出したのでしょう」
「林道家は?」
弥兵衛が尋ねる。
景継は八千の兵がいる自領へ目を落とした。
「今は出しません」
「理由は?」
「ここで私が信雄様を助ければ、秀吉様と林道家の争いに変わってしまいます」
景継は三河を指した。
「今、秀吉様が見なければならない相手は私ではない」
「徳川家康」
「はい」
家康が信雄を支える。
秀吉がそれを認めない。
そうなれば両者の間に軍が集まり始める。
その時になれば、今まで見えなかったものが見える。
秀吉がどれほどの兵を出すのか。
どこから集めるのか。
誰を残すのか。
どの道を使うのか。
景継は絵図の上から手を離した。
「勝家様への使者を急がせてください」
「はい」
「一益殿には、近江を通る羽柴方の兵と荷駄を引き続き見てもらう」
「長秀様は?」
「こちらへ来ていただきましょう」
「評定ですか」
「ええ」
景継は尾張から届いた書状をもう一度手に取った。
三人が死んだ。
それだけで天下が動くわけではない。
だが、これまで言葉だけで続いていた駆け引きに、初めて血が流れた。
そして血が流れれば、人はそれ以前と同じ場所には戻りにくくなる。
信雄は一歩を踏み出した。
秀吉が次に何をするのか。
家康がその一歩を支えるのか。
景継は自らの兵を動かすより先に、その二つを見ようとしていた。




