第百四十一話 一万を養う家
三家との話し合いは、景継が考えていたよりも早くまとまった。
最初に訪れたのは、林道領の北に土地を持つ国人だった。
望んでいるのは臣従ではない。
林道領へ続く道を整え、互いの商人が行き来しやすくすること。
道中の盗賊を共同で取り締まること。
そして林道領の市へ入る際、自領の商人だけが不利にならないようにすること。
景継にとって、断る理由はほとんどなかった。
二人目も似たような話だった。
三人目だけは少し違った。
「有事の際には、兵を出していただきたい」
景継がそう言うと、向かいに座る男が眉を寄せた。
「兵を?」
「はい」
「それでは、林道様の家臣になるのと変わらぬのでは?」
「私の戦に兵を出してください、という意味ではありませんよ」
「では?」
「道です」
景継は二つの領地と周辺を描いた絵図を広げた。
「これから皆さんの土地と私の土地を道で繋ぐのでしょう?」
「はい」
「もし、この道を誰かが塞いだら?」
男が黙った。
「盗賊なら一緒に追い払う。それはもう決めました。でも、百人、二百人の兵を持つ者が道を塞いだら、盗賊ではないから知らない、では困ります」
「その時は共に守る、と」
「はい」
「林道様が攻められた場合も?」
「この道が危なくなるならお願いします」
「逆に、我らが攻められれば?」
「同じです」
男が景継を見る。
「林道様が兵を?」
「道と市場を守るためなら」
「我が家を守るため、ではなく?」
「そこは分けましょう」
景継ははっきり答えた。
「あなた方の争いすべてに林道家が兵を出す約束をすれば、結局私があなた方を守ることになります」
「……」
「そこまではしません。ただ、皆で使う道や市場を力で奪おうとする者が出た場合は、一緒に守る。それならできます」
男はしばらく考えた後、頭を下げた。
「承知いたしました」
「では、それで」
こうして三家との取り決めがまとまった。
林道家の領地が増えたわけではない。
三家が景継の家臣になったわけでもない。
それでも絵図の上では、それまで途切れていた道が繋がった。
◇
それから半月。
最初に変わったのは兵の数ではなかった。
荷車だった。
「多いですね」
景継が道の脇に立って言った。
目の前を何台もの荷車が通っていく。
米俵。
塩。
布。
油。
農具。
その間を商人や農民が歩いている。
「三家との取り決めが効いているようです」
隣にいた弥兵衛が答えた。
「河瀬側から来る者も増えました」
「道を直した甲斐がありましたね」
「まだ途中ですが」
「全部直すのに、どれくらいかかります?」
「場所によります。雨が続けば遅れますし、人足を増やせば田畑の仕事に響きます」
「それは駄目ですね」
「ですから急がせておりません」
「お願いします」
景継は歩き始めた。
以前は、領地の境を越えるたびに銭を取られる場所があった。
橋を渡る。
また取られる。
別の領地へ入る。
さらに取られる。
それでは商人も遠くまで来たがらない。
今回、三家との間で勝手な徴収を減らし、どこでどれだけ取るのかを決めた。
結果は分かりやすかった。
通る者が増えた。
「市の方は?」
「先月より増えております」
「銭が?」
「人も銭も」
「どれくらい?」
「まだ集計中です」
「早く知りたいですね」
「殿」
「はい」
「こういう時だけ急かすのはやめてください」
「気になるでしょう?」
「正確な数字が欲しいと仰ったのは殿です」
「そうでした」
景継が笑う。
道の先から、一人の商人がやって来た。
景継に気づくと頭を下げる。
「林道様」
「どうです?」
「何がでございますか」
「道です」
商人は少し考えた。
「以前より随分と楽になりました」
「本当に?」
「はい。ただ――」
「ただ?」
「東へ抜けるところに、まだ狭い場所がございます」
弥兵衛がすぐに書付を出す。
「どの辺りです?」
商人が場所を説明する。
弥兵衛が記す。
「他には?」
「橋が一つ。荷を多く積むと少々怖うございます」
「それも見てもらいましょう」
「ありがとうございます」
商人が去っていく。
弥兵衛が景継を見る。
「また仕事が増えました」
「聞いたのは弥兵衛でしょう」
「聞けという顔をしておられました」
「そんな顔あります?」
「あります」
二人は再び歩き始めた。
景継は行き交う人々を見る。
兵ではない。
武将でもない。
だが、こういう者たちが動かなければ国は大きくならない。
戦で土地を取るだけなら、一日で変わることもある。
こちらは違う。
一つ道を直しても、すぐには何も起きない。
市場の日を変えても、翌日から急に銭が倍になるわけではない。
それでも少しずつ人が増える。
物が増える。
銭が増える。
その積み重ねが、最後には兵を支える。
◇
さらに数日後。
景継の屋敷へ、丹羽長秀と池田恒興が来ていた。
「珍しいですね」
景継が二人を見る。
「何がだ」
恒興が答える。
「二人一緒なのが」
「別に示し合わせたわけではない」
長秀が言う。
「たまたまだ」
「そうですか」
「それより景継」
「はい」
「お前、また兵を増やしたそうだな」
「少しだけですよ」
河瀬領を加えた後、景継は五百の兵を新たに召し抱えた。
林道家の兵は、およそ七千五百。
だが、そこからは増やしていない。
「八千にできると聞いたぞ」
恒興が言う。
「できますね」
「なぜしない」
「急ぐ理由がないので」
「徳川が動いているぞ」
「知っています」
「信雄様とも会った」
「それも」
「秀吉殿も信雄様へ使者を送り続けている」
「はい」
恒興が眉を寄せた。
「それで急ぐ理由がないのか?」
景継は茶を一口飲んだ。
「今、八千にして何が変わります?」
「五百増える」
「それは分かります」
「なら――」
「秀吉様が怖くなくなります?」
恒興が黙った。
「家康様より強くなります?」
「……ならん」
「勝家様より?」
「ならんな」
「でしょう?」
景継は湯呑みを置いた。
「七千五百が八千になったところで、天下の形は変わりません」
「では、いつ増やす」
「必要になった時です」
長秀が口を開く。
「その時に集めて間に合うのか」
「だから、養えるところまでは先に作っておきます」
「兵を持たずに?」
「人まで消えるわけではありませんから」
景継は別の書付を出した。
「農をしている者。仕官を望んでいる者。元兵だった者。必要なら声をかけられる人間は把握しておく」
「普段は田畑を耕させる?」
「はい」
「戦になれば集める?」
「必要な分だけ」
恒興が腕を組んだ。
「お前、前より兵を持つことに慎重になっておらんか」
「領地を持ったからでしょうね」
「どういうことだ」
「昔は自分で食わせる必要がありませんでしたから」
景継が笑う。
「今は一人増やしたら、その人の飯まで私の仕事です」
長秀が小さく笑った。
「領主らしくなったな」
「嫌な褒め方ですね」
「褒めておる」
「なら受け取っておきます」
恒興は二人のやり取りを聞きながら、机に置かれた絵図を見た。
「しかし」
「何です?」
「随分広くなったな」
景継も絵図を見る。
林道家の領地そのものは、まだ大きくない。
旧高坂領。
河瀬領。
だが、その周囲には三家との道が伸びている。
「色だけ見れば、お前の領地ではないところまで林道家に繋がって見える」
「実際、繋がっていますからね」
「これを続けるつもりか」
「向こうが望むなら」
「気づけば周り全部がお前の市場を使っているかもしれんぞ」
「それは嬉しいですね」
「怖いと言っておる」
「どうしてです?」
恒興が呆れた顔をした。
「お前、本当に分かっておらんのか」
「何がです?」
「戦わずに周りがお前を頼り始めておる」
景継は少し黙った。
河瀬と野洲の争いもそうだった。
今回の三家もそうだ。
景継が命じたわけではない。
だが林道家の領地が安定し、市場に人が集まり、道が整い始めれば、その近くにいる者も利用したくなる。
利用するためには、話をしなければならない。
取り決めが増える。
関わりが増える。
そうして、少しずつ林道家を無視できなくなっていく。
「悪くないですね」
景継が言った。
「やはり分かっておったな」
「今、分かりました」
「嘘をつけ」
恒興が吐き捨てた。
◇
その日の夕方。
長秀と恒興が帰った後も、景継と弥兵衛は帳面を見ていた。
「出ました」
弥兵衛が言った。
「何が?」
「殿がずっと知りたがっていた数字です」
景継の手が止まる。
「市場?」
「それも出ました」
「収穫?」
「それも」
「では?」
弥兵衛が一冊の帳面を景継の前へ置いた。
「林道家が、どこまで兵を支えられるかです」
景継の表情が変わった。
「もう出たんですか」
「河瀬領を加えた分。市場から入る銭。三家との道が繋がったことで見込める増収。現在の蔵米。来年の種籾。用水や橋の修繕費」
「凶作は?」
「平年を下回った場合も計算しております」
「戦が長引いた場合は?」
「それもある程度は」
「ある程度?」
「未来のすべてを帳面には書けません」
「それはそうですね」
景継が帳面へ手を伸ばす。
だが弥兵衛が押さえた。
「先に言います」
「何です?」
「以前、殿は仰いましたな」
「いろいろ言ってますけど」
「一万の兵が欲しいのではない、と」
景継が弥兵衛を見る。
「はい」
「一万を養える林道家にしたい、と」
「言いました」
弥兵衛が帳面から手を離した。
「ならば、届きました」
景継は動かなかった。
「……何に?」
「一万です」
「兵が?」
「違います」
弥兵衛が笑った。
「今の林道家なら、一万の兵を養えます」
景継はしばらく何も言わなかった。
それから帳面を開く。
数字が並んでいる。
収穫。
備蓄。
市場。
税。
必要経費。
兵糧。
馬。
荷駄。
もちろん、余裕が無限にあるわけではない。
一万を常に動かせるという意味でもない。
大凶作が来れば話は変わる。
長い戦が続けば蓄えも減る。
それでも、普通に領地を維持しながら一万規模の軍を抱えられるところまで、ようやく来た。
「……本当に?」
「私が何日かかったと思っております?」
「ありがとうございます」
「そこは素直ですな」
「嬉しいですから」
景継はもう一度、帳面を見る。
北ノ庄では五千だった。
あの時は勝家がいた。
上杉を動かした。
人と人の繋がりを使い、秀吉を破った。
だが今は、自分自身の足元に力が生まれ始めている。
土地がある。
市場がある。
道がある。
米がある。
兵を集める仕組みもでき始めている。
「では、一万にしますか?」
弥兵衛が尋ねた。
景継は少し考えた。
「いいえ」
「やはり?」
「今すぐはいりません」
「では七千五百のまま?」
「まず八千にしましょう」
「五百だけ増やす?」
「はい」
「一万を養えるのに?」
「養えることと、養わなければならないことは違うでしょう」
弥兵衛が頷く。
「残り二千の余裕を残す」
「兵だけじゃありません」
景継は帳面を閉じた。
「米も銭も、人も。余裕がある方がいい」
「では八千」
「お願いします」
景継は立ち上がった。
窓の外を見る。
遠くに、夕暮れの中を進む荷車が見える。
あれも林道家の力だ。
田畑で働く者も。
市で銭を動かす者も。
橋を直している者も。
刀を持っていないからといって、天下に関係がないわけではない。
「弥兵衛」
「はい」
「やっとですね」
「何がです?」
「自分の家になってきました」
弥兵衛は少しだけ笑った。
「最初から林道家でしょう」
「名前だけじゃなくて、ですよ」
景継は外を見たまま答えた。
「自分の土地で、自分の人たちが働いて、その力で自分の兵を養う」
前の生では持てなかったものだった。
誰かが作った国の中で生き残るのではない。
自分で最初から作る。
まだ小さい。
天下には遠い。
それでも確かに、最初の形はできた。
◇
その夜。
景継が休もうとしていたところへ、廊下を走る音が近づいてきた。
「殿!」
弥兵衛だった。
「どうしました?」
「尾張から急報です」
景継が立ち上がる。
「信雄様ですか」
「はい」
「家康様との会談に何か?」
「それだけではありません」
弥兵衛は受け取ったばかりの書状を差し出した。
景継が開く。
読み進めるうちに、その表情から笑みが消えた。
信雄が、自らの家中について調べさせていた。
そこで複数の重臣が、信雄に知らせぬまま秀吉側と連絡を取っていた疑いが浮かんだという。
まだ処分は決まっていない。
証拠も調べている最中。
だが信雄は激怒している。
「これは……」
景継が呟く。
「まずいですか?」
「分かりません」
景継はもう一度、書状を見る。
家康が信雄と会った。
その直後、信雄が自分の家中を調べ始めた。
そして秀吉と繋がっている疑いのある者が出てきた。
「勝家様にも同じ報せが?」
「おそらく」
「秀吉様は?」
「まだ分かりません」
「信孝様には?」
「こちらも確認します」
「お願いします」
弥兵衛が頷き、出ていこうとする。
「待ってください」
「はい?」
「もう一つ」
景継は少し考えた。
「八千への増員」
「はい」
「予定通り進めてください」
弥兵衛の表情が変わる。
「急ぎますか?」
「いいえ」
景継は首を横に振った。
「予定通りでいいです」
「承知しました」
弥兵衛が退出する。
一人になった景継は、尾張から届いた書状と林道領の絵図を並べた。
一万を養えるところまで来た。
そして、まるでそれを待っていたかのように尾張が揺れ始めた。
偶然だ。
少なくとも、この騒ぎを景継が起こしたわけではない。
だが――。
「……間に合いましたね」
景継は小さく呟いた。
まだ戦は始まっていない。
信雄が誰を処分するのかも分からない。
家康がどこまで関わるのかも分からない。
秀吉がどう出るのかも分からない。
それでも一つだけ、以前とは違う。
何かが起きた時、景継には自分自身の力で選べるだけの土台がある。
北ノ庄の戦いを終えた時から置き続けてきた布石。
人。
土地。
道。
市場。
北条。
上杉。
そして自らの軍。
尾張で生まれた小さな亀裂が、やがて天下を巻き込む戦へ変わっていく。
その戦の先で、林道景継の名はもう一段、大きく天下へ刻まれることになる。
第七章 覇道布石編完。




