第百四十話 家康が問うもの
織田信雄と徳川家康の会談は、尾張の一室で人目を避けるように始まった。
同席する者は少ない。
信雄側からは、ごく近しい家臣が二人。
家康側も同様だった。
互いに大勢の供を連れて威勢を示すような場ではない。
信雄は向かいに座る家康を見ていた。
これまで何度も名を聞き、その動向を気にしてきた男ではある。
だが、こうして二人だけに近い形で話す機会は多くない。
「わざわざ尾張まで来てもらって、すまぬな」
「いえ。私がお話ししたいと申し上げたのです。こちらから参るのが筋でしょう」
家康は静かに頭を下げた。
声にも表情にも、力みはない。
それがかえって信雄には気になった。
秀吉から来る使者は違う。
林道景継がどれほど大きくなっているかを語り、柴田勝家、織田信孝、丹羽長秀、滝川一益、池田恒興らの動きを警戒する。
信雄も備えるべきだと遠回しに促してくる。
言葉の向こうに、秀吉の意図が見える。
だが家康は、まだ何も言わない。
「それで」
信雄が口を開いた。
「家康殿は、わしと何を話したい」
「一つ、お尋ねしたいことがございます」
「何だ」
家康は少しだけ間を置いた。
「信雄様は、これから織田家をどうなされたいのでございますか」
信雄の眉が動いた。
「……織田家を?」
「はい」
「それを聞くために、わざわざ来たのか」
「大切なことだと思っております」
信雄は家康を見つめた。
「わしが何と答えるかで、家康殿の態度が変わるのか?」
「変わるかもしれません」
家康は否定しなかった。
「ずいぶん正直だな」
「嘘を申し上げても仕方がございません」
「では先に、家康殿の考えを聞きたい」
「私の?」
「そうだ」
信雄が少し身を乗り出す。
「秀吉をどう思う」
家康はすぐには答えなかった。
「景継は?」
さらに信雄が問う。
「柴田勝家は。信孝は。そして三法師は」
「信雄様」
「何だ」
「それを私がお答えする前に、やはり信雄様のお考えを聞きとうございます」
信雄の表情に不満が浮かんだ。
「答えぬつもりか」
「いいえ」
家康は首を横に振る。
「ただ、私が先に答えれば、信雄様は私の言葉を聞いた後で考えることになります」
「それの何が悪い」
「信雄様ご自身のお考えを知りたいのです」
部屋が静かになった。
信雄は家康から視線を外した。
同じようなことを、以前にも考えさせられたことがある。
景継と会った時だ。
あの男も、自分に答えを与えなかった。
織田家をどうするのか。
誰と組むのか。
誰を敵とするのか。
最後は自分で決めろという態度だった。
だが、家康は少し違う。
景継は、自分の道と信雄の道を分けていた。
家康は今、信雄の道そのものを聞こうとしている。
「……分からぬ」
やがて信雄が答えた。
家臣の一人が僅かに顔を動かした。
だが家康は表情を変えない。
「分からない、と申されますと?」
「そのままの意味だ」
信雄は苦々しく言った。
「父上が死んだ。兄上も死んだ。三法師はまだ幼い。清須で話を決めても、それで天下が静かになったわけではない」
「はい」
「秀吉は大きくなった。勝家もまだ力を持っておる。信孝は景継と盟を結んだ。景継自身まで天下を取ると言い始めた」
信雄の声に、少しずつ感情が混じる。
「わしにどうしろというのだ」
家康は黙って聞いている。
「皆が父上の死後を見て動いておる。誰もが織田家のためと言う。三法師のためと言う。だが、本当にそれだけなのか?」
「そうではないと?」
「分からぬから困っておる!」
信雄の声が響いた。
それでも家康は動かなかった。
信雄は一度息を吐く。
「……すまぬ」
「いえ」
「景継にも聞いた」
「何をでしょう」
「織田家を奪うつもりなのか、と」
家康の目が僅かに細くなる。
「林道殿は何と?」
「奪わぬと言った」
「そうですか」
「だが、守るとも言わなかった」
家康は少し考える。
「林道殿らしい答えですな」
「分かるのか?」
「少しは」
「わしには分からぬ」
信雄は吐き捨てるように言った。
「奪わぬなら守ればよいではないか」
「それは違うでしょう」
家康が初めて、はっきりと否定した。
信雄が家康を見る。
「何?」
「林道殿は織田家の家臣として天下を望んでいるわけではないのでしょう?」
「そう言っていた」
「ならば、織田家を守ることを約束すれば、自らの望みを織田家へ預けることになります」
「……」
「それをしなかっただけではございませんか」
信雄は黙った。
「家康殿は景継の肩を持つのか」
「いいえ」
「ならばなぜ」
「相手が何を考えているかを誤れば、こちらの判断まで誤るからです」
家康の声は穏やかだった。
「林道殿が織田家を奪おうとしているなら、それに備えるべきでしょう。しかし、本当にそうではないのなら、存在しない敵意を恐れて動くのは危うい」
信雄は眉を寄せる。
「では、景継は恐れる必要がないと?」
「それも違います」
「どちらなのだ」
「力を持つ者は、恐れて当然です」
家康は淡々と答えた。
「ただし、何を恐れるのかを間違えてはならない」
信雄が黙る。
「林道殿が天下を望んでいるなら、その力がどこまで大きくなるのかを見るべきです。秀吉殿も同じ。勝家殿も同じ。私も同じでしょう」
「家康殿も?」
「当然です」
家康は僅かに笑った。
「私だけは何の考えも持たぬ善人だと申し上げても、信じてはいただけないでしょう」
「当たり前だ」
「それでよろしいかと」
信雄は初めて、少しだけ表情を緩めた。
だが家康はすぐに話を戻した。
「ですから、もう一度お尋ねします」
「……何だ」
「信雄様は、織田家をどうなされたいのでございますか」
今度は信雄も、すぐには逃げなかった。
長い沈黙が続く。
やがて信雄は口を開いた。
「父上にはなれぬ」
静かな声だった。
「信長様に?」
「ああ」
信雄は自分の手を見る。
「わしには父上のようなことはできぬ。今になって、それくらいは分かる」
家臣たちは黙っていた。
「だが」
信雄が顔を上げる。
「だからといって、父上が大きくした織田家を、誰かの下へ置くために残されたとも思わぬ」
家康は何も言わない。
「三法師がいる。信孝もいる。わしもいる」
「はい」
「形がどうなるかは、まだ分からぬ」
信雄は一度言葉を切った。
「それでも織田家が、誰か一人の力を大きくするための道具になるのは嫌だ」
「それが、信雄様のお望みですか」
「……今は、そう思う」
「ならば」
家康が初めて少し前へ身を乗り出した。
「そのための力が必要でございます」
信雄の目が細くなる。
「力?」
「はい」
「兵を増やせというのか」
「兵だけではございません」
「では何だ」
「断れる力です」
信雄が黙った。
「誰かから何かを求められた時、それを受け入れるしかないのであれば、いずれその者の下へ入ることになります」
「……」
「嫌なら断る。そのためには兵も必要でしょう。土地も必要です。そして、一人で足りないなら、手を結ぶ相手も必要になる」
信雄は家康を見つめた。
「それは」
少し間を置く。
「家康殿と手を結べ、という意味か」
「それも一つでしょう」
「一つ?」
「私以外でも構いません」
信雄が意外そうな顔をする。
「景継でもよいと?」
「信雄様が、それで織田家を守れるとお考えになるなら」
「秀吉でも?」
「同じです」
「……何を言いたいのだ」
家康は少しだけ目を伏せた。
「相手の名前から決めるのではなく、ご自分の望みから決めるべきだと申し上げています」
信雄は答えなかった。
「織田家を誰かの下へ置きたくない。それが信雄様のお望みなら、次に見るべきは――」
家康が顔を上げる。
「今、誰が織田家の中へ最も深く入ろうとしているのか、ではございませんか」
信雄の表情が止まった。
家康は名前を言わない。
言う必要がなかった。
信雄の頭に、一人の男が浮かぶ。
羽柴秀吉。
清須会議。
三法師。
織田家の家臣たち。
自分のもとへ何度も来る使者。
そして最近、秀吉との関係を深めるべきだと強く主張するようになった家臣たち。
「……秀吉」
信雄自身が、その名を口にした。
家康は何も言わない。
「家康殿」
「はい」
「最初から、それをわしに言わせるつもりだったのか」
家康は僅かに笑った。
「私が秀吉殿を敵だと言えば、私の考えになります」
「……」
「今のお言葉は、信雄様のお考えでしょう」
信雄は家康を睨んだ。
だが、否定できなかった。
「やはり食えぬ男だな」
「よく言われます」
「誰にだ」
「家臣たちに」
あまりに普通に返されたため、信雄は思わず笑ってしまった。
張り詰めていた空気が、ほんの少し緩む。
だが信雄の中では、一つの疑念がはっきりと形になり始めていた。
◇
会談は、その後も長く続いた。
家康は同盟を求めなかった。
秀吉を討とうとも言わなかった。
兵を出すとも約束しなかった。
信雄も、何かを約束したわけではない。
それでも会談が終わった時、二人の間には来た時にはなかったものができていた。
次も話す。
何かあれば使者を送る。
ただそれだけの繋がり。
家康が帰った後、信雄は家臣たちを下がらせ、一人で部屋に残った。
目の前には何通もの書状がある。
秀吉からのもの。
秀吉に近い者からのもの。
そして自分の家臣たちから上がってきた意見書。
信雄は、その中から一通を取った。
秀吉との関係をさらに深めるべきだと主張するものだった。
以前なら、それほど気にしなかった。
景継が大きくなっている。
信孝も景継と組んでいる。
ならば秀吉へ近づくことで釣り合いを取る。
そういう考え方もあると思っていた。
だが今は、違うものが見える。
「誰のためだ……」
信雄が呟く。
織田家のためなのか。
自分のためなのか。
それとも――秀吉のためなのか。
信雄は別の書状を取った。
こちらも秀吉との連携を勧めている。
さらにもう一通。
似たような内容だった。
「……多いな」
偶然なのか。
それとも、すでに自分の知らないところで何かが動いているのか。
信雄は家臣を呼んだ。
「調べさせたいことがある」
「何でございましょう」
「秀吉と直接書状を交わしている者が、我が家中にどれほどいる」
家臣の表情が僅かに変わった。
「それは……」
「分からぬなら調べよ」
「はっ」
「ただし、まだ騒ぐな」
「承知いたしました」
家臣が退出する。
信雄は一人になった。
家康は、秀吉を疑えとは言わなかった。
だが一度疑問を持てば、今まで見過ごしていたものまで気になり始める。
信雄は手元の書状を見た。
「わしの家だ」
小さな声だった。
「父上の家であり、兄上の家であり、三法師へ残すべき家だ」
誰かの天下取りのために使われる家ではない。
その思いだけは、以前よりはっきりしていた。
◇
一方、近江。
林道領では、信雄と家康の会談とはまるで関係のない話が進んでいた。
「三つ?」
景継が聞き返した。
「はい」
弥兵衛が書状を並べる。
「正確には三家です」
「何がです?」
「殿と話をしたいと」
「また仲裁ですか?」
「違います」
景継は一通目を開いた。
差出人は林道領の北側に土地を持つ小国人だった。
兵は百数十。
二通目も同じ程度。
三通目はさらに小さい。
いずれも林道家へ臣従したいという話ではなかった。
「道を繋ぎたい?」
「はい」
「市場も?」
「林道領の市へ商人を自由に通したい。その代わり、自領を通る道の整備と警護に協力するそうです」
「三家とも?」
「細かな条件は違いますが、だいたい同じです」
景継は三通の書状を順番に読む。
「面白いですね」
「何がです?」
「少し前まで、土地を取るには戦うしかないと思っていました」
「今も土地そのものは増えませんぞ」
「でも、人が動ける範囲は増えます」
景継は地図を広げた。
現在の林道領。
旧高坂領。
河瀬領。
その周囲にある三家の土地。
それらを道で結ぶ。
「ここから商人が来る」
「はい」
「こっちからも」
「そうなります」
「だったら、市場はもっと大きくできますね」
「税も増えます」
「兵糧を買える量も増える」
「結局そこへ行きますか」
「大事ですから」
景継は地図を見ながら考える。
「会いましょう」
「三家とも?」
「はい」
「一度に?」
「別々で」
弥兵衛が意外そうな顔をする。
「まとめた方が早いのでは?」
「条件が違うんでしょう?」
「はい」
「なら、一緒に話すと余計に面倒です」
「確かに」
「それと、こちらから臣従の話はしないでください」
「分かりました」
「道と市場の話だけでいいです」
弥兵衛が書状をまとめる。
「殿」
「はい」
「兵を増やす話ですが」
「何か出ました?」
「今の七千五百から、さらに五百ほどなら近いうちに増やせそうです」
景継が顔を上げる。
「もう?」
「河瀬領を加えた後の収入と、仕官希望者を改めて調べました。もちろん、一度に増やす必要はありませんが」
「八千ですか」
「はい」
景継は少し考えた後、首を横に振った。
「まだ増やさなくていいです」
「よろしいので?」
「三家との話を先にしましょう」
「その結果を見てから?」
「はい」
景継は地図を見る。
兵を八千にすることはできる。
だが、それで終わりではない。
もし周囲の道が繋がり、市場へ入る人と物がさらに増えるなら、林道家が支えられる力そのものが大きくなる。
「先に器を広げます」
「兵は後?」
「入れるものを増やす前に、大きい器を作った方がいいでしょう」
「なるほど」
弥兵衛が頷く。
景継は三通の書状をもう一度見た。
北ノ庄で秀吉を破った時、景継が直接率いていた兵は五千。
今は七千五百。
領地も増えた。
市場も大きくなった。
そして今度は、自分の土地ではない場所まで林道家の市場と道で繋がろうとしている。
景継自身が求めに行ったわけではない。
向こうから話が来た。
「弥兵衛」
「はい」
「一万まで、あとどれくらいでしょうね」
「兵ですか?」
「違いますよ」
景継が笑った。
「一万を養える家までです」
「それなら」
弥兵衛は机の上の三通の書状を見た。
「案外、近いかもしれませんな」
景継も同じものを見る。
「では、確かめましょう」
外では、信雄と家康が向き合ったことで、新たな流れが生まれ始めている。
だが景継は、まだそこへ手を伸ばさない。
今は自分の足元を広げる。
土地だけではない。
道を繋ぎ、市を繋ぎ、人を繋ぐ。
やがて大きな戦が起きた時、そのすべてを自らの力へ変えられるように。
景継が置き続けてきた石は、少しずつ一つの形を作り始めていた。




