第百三十九話 国になっていく
河瀬領を手に入れてから十日ほどが過ぎた。
景継の前には、二つの領地から集められた帳面が積み上がっていた。
田畑の広さ。
去年取れた米。
蔵に残っている米。
市場から上がる銭。
道や橋の修繕に必要な人足。
そして、現在抱えている兵。
景継は一枚ずつ目を通していた。
「殿」
「はい」
「朝からずっと見ておりますぞ」
「そうですね」
「もう昼です」
「そうですね」
「飯は?」
景継の手が止まった。
「……まだですね」
「でしょうな」
弥兵衛が呆れたように膳を置く。
「兵を食わせることばかり考えて、ご自分が食べるのを忘れないでください」
「それは困りますね」
「困るなら食べてください」
「はい」
景継は帳面を脇へ寄せた。
だが、膳へ手を伸ばす前に一枚の書付を取る。
「これだけ」
「駄目です」
弥兵衛が取り上げた。
「食べてからです」
「私のですよ?」
「知っております」
「返してください」
「食べ終わったら」
「最近、強くなりましたね」
「誰のせいです?」
「私ですか?」
「他に誰がおります」
景継は諦めて箸を取った。
河瀬領を取ったことで、林道家が治める土地は確実に広がった。
だが、戦に勝った翌日から景継がやっていることは、ほとんど戦とは関係がない。
河瀬家が管理していた道の修繕。
野洲領との境にある市の取り決め。
村々からの訴え。
旧河瀬家の役人の扱い。
年貢の確認。
さらに、元河瀬兵の仕官希望者。
土地が増えれば、その分だけ決めることも増える。
「ところで」
飯を食べながら景継が言った。
「河瀬殿は?」
「まだ屋敷におります」
「どうしています?」
「大人しくしておりますよ」
「そうですか」
河瀬重房を処刑することも、すぐに追放することもしていなかった。
今は武器を取り上げ、景継の管理下に置いている。
「家臣たちは?」
「何人かは重房殿と共に残りたいと。林道家へ仕えたいと申している者もおります」
「難しいですね」
「どうなさいます?」
「重房殿と話してから決めます」
「仕官を許すので?」
「それも話してからです」
景継は飯を口へ運んだ。
重房は自分に逆らった。
しかも一度裁定に従うと約束した後で兵を出した。
簡単に許せば、今後同じことをする者が出る。
だからといって、殺せばいいとも思わない。
「殿」
「はい」
「今度は何を考えております?」
「顔に出てました?」
「箸が止まっております」
「ああ」
景継は再び食べ始めた。
「重房殿をどう使えるかな、と」
「やはり使うつもりではありませんか」
「まだ決めてませんよ」
「殿が『どう使えるか』と言った時点で、かなり決まっている気がしますが」
「そうです?」
「はい」
弥兵衛がため息をついた。
◇
午後。
河瀬重房が景継の前へ連れてこられた。
縄はかけられていない。
ただし腰に刀もない。
重房は景継の前へ座ると、頭を下げた。
「何の用だ」
「今後の話です」
「今後?」
「はい」
重房が顔を上げる。
「わしを殺すのではなかったのか」
「そのつもりなら、十日も飯を食べさせませんよ」
「追放か」
「それも考えました」
「では何だ」
景継は重房を見る。
「河瀬領について教えてください」
「……何?」
「道のことです」
重房の眉が寄る。
「あなた、かなり前からあの道に金を使っていますよね」
「それがどうした」
「帳面を見ました」
景継は一冊を前へ置いた。
「橋を直して、道を広げて、盗賊への備えまでしている。思っていたよりずっとちゃんとやっていました」
「馬鹿にしておるのか」
「褒めてるんですよ」
「お前に褒められても嬉しくない」
「でしょうね」
景継は気にせず続けた。
「どうしてです?」
「何が」
「あの道です。以前は今ほど商人も多くなかった。それなのに何年も前から金を使っている」
重房はしばらく黙っていた。
「……いずれ人が増えると思った」
「どうして?」
「南の市が少しずつ大きくなっていた。道を直せば、こちらへ来る商人も増える」
「なるほど」
「だが」
重房の顔が歪んだ。
「お前が高坂領を取ってから、一気に変わった」
「私の市場へ向かう商人が増えた」
「ああ」
「だから野洲殿と揉めた」
「そうだ」
景継は少し考える。
「やっぱり、あなたを殺すのはもったいないですね」
「……何?」
「道を見る目があります」
重房が景継を睨んだ。
「わしに何をさせるつもりだ」
「今までやっていたことを」
「河瀬領はお前が取ったのであろう」
「取りました」
「なら、わしはもう領主ではない」
「はい」
「それでも働けと?」
「嫌ですか?」
「当たり前だ!」
重房の声が響く。
景継は黙って聞いていた。
「先祖から受け継いだ土地を奪った男に仕えろというのか!」
「嫌なら無理には言いません」
「ならばなぜ呼んだ!」
「聞きたかったからです」
「何を!」
「あなたが、土地を失っても河瀬の人たちを気にするのか」
重房の声が止まった。
景継は続ける。
「領主でなくなったら、村も道もどうでもいいですか?」
「……」
「それなら追放します」
重房の拳が握られる。
「卑怯な聞き方をする」
「そうですか?」
「どうでもいいと言えるわけがなかろう!」
重房が吐き捨てた。
「わしが生まれた土地だぞ」
「なら、残ってください」
「お前は……」
「領主には戻せません」
景継の声が少し強くなる。
「そこを曖昧にはしません。河瀬領は林道家の領地です」
重房は何も言わない。
「ですが、あなたが今までやってきたことまで捨てる必要はないでしょう」
「わしに、お前の家臣になれと?」
「すぐにそう決めなくても構いません」
「何?」
「しばらく道と市を見てください」
「その後は?」
「その後に決めましょう」
「わしが裏切るとは思わんのか」
「思っていますよ」
重房が目を見開く。
「だから兵は預けません」
「……」
「刀もまだ返しません」
「そこまで言うか」
「だって十日前に戦ったばかりでしょう」
重房が黙る。
やがて、ほんの少しだけ口元が緩んだ。
「妙な男だな」
「よく言われます」
「誰にだ」
景継は一瞬止まった。
以前にも似たことを言われた気がした。
「……いろんな人にです」
「そうか」
重房は俯いた。
長い沈黙の後、低い声で答えた。
「考えさせろ」
「どうぞ」
「逃げるかもしれんぞ」
「その時は探します」
「殺すために?」
「逃げた理由によります」
重房が景継を見る。
「最後までそれか」
「何がです?」
「何でも、その時になってから決める」
「先に全部決められるほど、頭が良くないので」
「……嘘をつけ」
重房はそう言って立ち上がった。
◇
数日後。
景継、弥兵衛、長秀の三人は、二つの領地をまとめた数字を確認していた。
「まず兵です」
弥兵衛が書付を広げる。
「現在、およそ七千」
「はい」
「河瀬家の旧兵で、仕官を望む者が百八十二」
「全員はいりません」
「分かっております。調べたところ、すぐに使えそうなのは百二十ほど」
「残りは?」
「農へ戻ることを望む者、年齢の高い者、負傷している者。それから素行に問題のある者もおります」
「では百二十を候補に」
「さらに周辺から、林道家へ仕官したいという者が増えております」
「どれくらい?」
「今のところ二百余り」
景継が眉を上げた。
「そんなに?」
「河瀬との戦が影響したのでしょう」
長秀が口を挟む。
「お前が二千を動かして、ほとんど損害を出さず勝った。仕えたいと思う者が増えてもおかしくはない」
「全部雇ったら?」
「三百を超えます」
弥兵衛が答えた。
「でも雇わない?」
長秀が尋ねる。
「はい」
景継は即答した。
「なぜだ。土地も増えたのだろう」
「増えたからこそです」
「どういう意味だ」
「今なら雇えます」
景継は帳面を指す。
「問題は、来年も再来年も雇えるかです」
長秀が黙る。
「今年、蔵に米があるから兵を増やす。来年不作になったら食わせられない。それでは困ります」
「どれくらいなら安全だ」
景継が弥兵衛を見る。
「そこです」
弥兵衛が別の書付を広げた。
「今の収穫だけを基準にすれば、さらに千五百ほど増やす余地はあります」
「昨日もそのくらいでしたね」
「ただし、余裕をかなり削ります」
「それは嫌ですね」
「はい。凶作、戦、道や用水の修繕。何か一つ大きな出費が出れば苦しくなります」
「なら?」
「まず五百」
弥兵衛が答えた。
「五百?」
「今の状態なら、五百増やしても余裕を残せます」
「八千にも届かないな」
長秀が言う。
「七千五百ですからね」
景継は笑った。
「不満か?」
「いいえ」
「一万を目指すと言っていたではないか」
「一万を養えるようになりたいとは言いましたけど、明日一万にするとは言ってませんよ」
「では五百でよい?」
「まずは」
景継は二つの領地を記した絵図を見る。
「その代わり、先にこちらを増やします」
「何を?」
「銭です」
長秀が景継を見る。
「兵ではなく?」
「市場を大きくします」
景継は河瀬領から旧高坂領へ続く道を指した。
「今、この二つの土地に別々の市があります。でも商人が行き来しにくい」
「道が悪いからか」
「それもあります。途中で取られる銭も違う。市が開く日も重なっています」
弥兵衛が頷く。
「市の日をずらしますか」
「はい」
景継が答える。
「こちらの市が終わった翌日に、向こうへ行けるようにする。道も直す。途中で勝手に銭を取らせない」
「商人が二つの市を回れる」
「そうです」
長秀が腕を組む。
「それで銭を増やし、その銭で兵を養う?」
「米もですけどね」
「遠回りだな」
「そうです?」
「兵が欲しいなら兵を集めれば早い」
「でも、その兵に毎日飯を食べさせるのは遠回りできませんよ」
長秀は何も言わなかった。
やがて笑う。
「信長様なら、もっと一気にやったかもしれんな」
「でしょうね」
「お前は違う」
「同じことをしても勝てませんから」
「誰に?」
景継は少し考えた。
「これから会う人たちに、ですかね」
長秀が目を細める。
景継はそれ以上説明しなかった。
◇
それから林道領では、いくつもの変化が同時に始まった。
河瀬領と旧高坂領を結ぶ道の修繕。
二つの市場が開かれる日の調整。
橋の補修。
道中で商人から勝手に銭を取ることの禁止。
さらに新しく召し抱える兵の選別。
元河瀬兵百二十。
周辺から集まった者の中から三百八十。
合わせて五百。
林道家の兵は、およそ七千五百となった。
だが景継が気にしていたのは、五百増えたことより、その五百を既存の軍へどう入れるかだった。
「全部、新しい者だけで一隊にしないでください」
兵の編成を担当する家臣に景継が言う。
「では、古参の兵と混ぜますか」
「はい。できれば北ノ庄以前からいる者も入れてください」
「なぜでしょう」
「新しい人だけ集めても、私たちのやり方を誰も知らないでしょう」
「なるほど」
「それと、河瀬の人たちだけで固めるのもやめましょう」
「反乱を恐れて?」
「それも少しあります」
「少し?」
「一番は、いつまでも『元河瀬兵』のままにしたくないからです」
家臣が頷いた。
「林道兵にする」
「はい」
景継は編成表を見る。
「私が欲しいのは七千五百人の集まりじゃありません」
「軍、ですか」
「そうです」
北ノ庄から帰った後、弥兵衛に調べさせた動員の結果も出ていた。
今すぐ動かせる兵。
各地にいる兵を集めるまでの日数。
兵糧。
馬。
荷駄。
七千を超える軍勢を動かすとなれば、ただ号令をかければ済む話ではない。
河瀬との戦で見つかった問題もある。
命令の伝達。
行軍速度。
荷駄との間隔。
追撃時の統制。
一つずつ直していく。
兵を増やすことと、軍を強くすることは別だった。
◇
さらに十日ほど経った頃。
林道領の市場を、景継と弥兵衛が歩いていた。
「増えましたね」
「何がです?」
「人です」
景継が周囲を見る。
以前より明らかに商人が多い。
河瀬側から来た者もいる。
荷を積んだ馬。
米。
布。
塩。
農具。
小さな市場ではあるが、声が絶えない。
「市の日をずらしたのが効いているようですな」
「河瀬側は?」
「向こうも増えております」
「よかった」
景継は満足そうに頷いた。
「殿」
「はい」
「兵が五百増えた時より嬉しそうですな」
「そうです?」
「はい」
「だって、この人たちが増えたら兵をもっと養えますよ」
「結局そこですか」
「もちろん、それだけじゃありません」
景継は一軒の店を見る。
以前はなかった店だ。
河瀬側から移ってきた商人が出しているという。
「人が増えると、いろいろできるようになりますから」
その時だった。
「林道様」
声をかけられた。
振り返ると、一人の男が立っている。
五十ほどの商人だった。
「何でしょう」
「河瀬の方から参りました」
「ああ」
「一つ、お礼を」
「私に?」
「はい」
男が頭を下げた。
「道中で二度、銭を取られておりました。それが一度になりました」
「二度?」
景継が弥兵衛を見る。
「旧河瀬領へ入るところと、こちらへ入るところでしょう」
「ああ」
「今は林道領としてまとめましたので」
「なるほど」
景継は男を見る。
「その分、たくさん来てください」
商人が笑った。
「商売になりますれば、いくらでも」
「それでお願いします」
男が去っていく。
景継はその背中を見送った。
「殿」
「何です?」
「少しずつ繋がってきましたな」
景継が二つの領地の方角を見る。
「はい」
一つ目の土地を取った時は、まだ一つの点だった。
今は二つ。
その間を道が繋ぎ、人が動き始めている。
まだ国と呼ぶには小さい。
それでも以前とは違う。
林道家の領地として、一つにまとまり始めていた。
◇
その日の夕方。
屋敷へ戻った景継の前へ、弥兵衛が一通の書状を置いた。
「今度は何です?」
「北ノ庄からです」
「勝家様?」
「いいえ」
「では?」
「勝家様が調べてくださっていた件です」
景継の表情が変わった。
「家康様ですか」
「はい」
書状を開く。
徳川家康が、織田信雄と直接会った。
その事実が確認されたという。
何を話したのかまでは分からない。
ただし会談は短い挨拶だけではなく、かなり長い時間に及んだ。
さらにその後、信雄の家中で動きがあった。
秀吉との関係を巡って、重臣たちの間で対立が強くなっている。
「……会いましたか」
景継が呟いた。
「どうします?」
弥兵衛が尋ねる。
景継は書状を読み返した。
「何もしません」
「よろしいので?」
「今は」
「信雄様が秀吉様と敵対する可能性も?」
「ありますね」
「家康様と組む可能性も?」
「あります」
「それでも?」
「まだ何も決まっていないでしょう」
景継は書状を畳んだ。
「それより、こちらを続けましょう」
「こちら?」
「市場と道です」
弥兵衛が少し笑った。
「天下が動くかもしれない時に?」
「だからですよ」
景継は窓の外を見る。
「何か起きるたびに領地の仕事を止めていたら、いつまで経っても強くなれません」
「では、信雄様のことは?」
「見ておいてください」
「家康様も?」
「もちろん」
「秀吉様も?」
「お願いします」
弥兵衛がため息をつく。
「結局、全部ではありませんか」
「見るのと動くのは違いますから」
「では殿は、まだ動かない?」
「はい」
景継は机の上に置かれた二つの領地の絵図へ目を落とした。
「今は、こっちです」
兵は七千五百。
二つの領地。
繋がり始めた道と市場。
少しずつ増える銭と人。
そして、その外では家康と信雄が直接向き合い、秀吉もまた信雄へ手を伸ばしている。
大きな流れが動き始めていることを、景継も感じていた。
それでも今は、まだ飛び込まない。
次に動く時。
北ノ庄で五千を率いていた頃よりも、確実に大きな力を持って動くために。
林道家は、静かに国の形を整え始めていた。




