第百三十七話 裁きを求める者
北ノ庄から戻った景継を待っていたのは、戦の報せではなかった。
徳川家康が信雄と会ったという知らせでもない。
屋敷へ戻った翌朝、弥兵衛が持ってきたのは二通の書状だった。
「こちらをご覧ください」
「また道ですか?」
「まだ何も言っておりません」
「最近、道の話が多いので」
「残念ながら今回は違います」
景継は一通目を受け取った。
差出人は近江の国人、野洲宗清。
林道領から東へ少し離れた場所に、いくつかの村と小さな砦を持つ男だった。
兵は多くない。
おそらく三百ほど。
以前から林道領の市場へ商人を送り、景継とも使者を通じて何度かやり取りをしている。
その宗清が、景継に会いたいという。
「何か困ってるんです?」
「隣と揉めているようです」
「隣?」
景継が二通目へ手を伸ばした。
今度の差出人は、河瀬重房。
野洲領と隣接する国人である。
こちらは野洲より少し大きく、動かせる兵も五百ほどいるという。
「二人とも会いたい?」
「はい」
「同じ日に?」
「それを望んでおります」
「私に喧嘩を見せたいんですかね」
「仲裁してほしいのでしょう」
景継の手が止まった。
「私に?」
「そう書いてあります」
「どうして?」
「殿」
「はい」
「そこからですか」
「だって、二人とも私の家臣じゃないでしょう?」
「家臣ではありません」
「なら、自分たちで話せばいいのに」
「話してまとまらなかったから、殿のところへ来るのでは?」
景継は改めて書状を読む。
争いの原因は、一つの村だった。
正確には村そのものではない。
村の近くを通る道と、その先にある小さな市。
近年まで人の往来はそれほど多くなかったが、景継が高坂領を取ってから状況が変わり始めていた。
林道領の市場へ向かう商人が増えたことで、その道を利用する者も増えている。
すると、誰が道を管理するのか。
誰が市から銭を取るのか。
どちらが周辺の村を守るのか。
以前なら小さかった問題が、急に大きくなった。
「……私のせいです?」
「殿の市場へ行く者が増えた結果ではありますな」
「困りましたね」
「喜ぶところでは?」
「揉め事まで増えるとは聞いてません」
「領地を治めるとは、そういうことでしょう」
弥兵衛が淡々と言う。
景継はしばらく書状を眺めた。
「それで、二人とも私に決めてほしいと」
「少なくとも書状にはそうあります」
「本当に従うんですかね」
「会って確かめるしかないかと」
「そうですね」
景継は二通の書状を机へ置いた。
「呼びましょう」
「両方とも?」
「はい。同じ日に」
「承知しました」
「ただし、一つ伝えてください」
「何でしょう」
「私のところへ来たからといって、私が二人の主になるわけではない、と」
弥兵衛が景継を見る。
「わざわざ言いますか?」
「言っておいた方がいいでしょう。後で『林道に従ったつもりはない』とか『林道が勝手に命じた』とか言われても困ります」
「では、仲裁を頼むなら、その裁定には従うと約束させる?」
「それでお願いします」
「両方が受けなければ?」
「会いません」
景継はあっさり答えた。
「私の話を聞く気がない人たちの喧嘩に、わざわざ首を突っ込む必要はありませんから」
弥兵衛が頷いた。
「分かりました」
部屋を出ようとして、ふと振り返る。
「殿」
「はい?」
「以前なら、殿が相手のところへ行っておりましたな」
景継は少し考えた。
「そうでしたっけ」
「北ノ庄の前など、ずっとそうだったでしょう」
「今回は呼ばれてるんだから、行かなくてもいいでしょう」
「そういう意味ではありません」
弥兵衛はそれだけ言って部屋を出た。
景継は一人残される。
少しして、二通の書状を見た。
以前なら、自分から会いに行った。
自分から話を持ちかけた。
丹羽長秀にも。
滝川一益にも。
上杉景勝にも。
北条氏政にも。
だが今は違う。
向こうから、自分のところへ話が持ち込まれた。
「……そういうことですか」
景継は小さく呟いた。
◇
五日後。
野洲宗清と河瀬重房が林道領へやって来た。
二人は別々に屋敷へ入り、同じ部屋へ通された。
景継の隣には弥兵衛。
少し離れたところに丹羽長秀も座っている。
長秀は本来、この程度の国人同士の争いに顔を出す必要はなかった。
だが景継から話を聞くと、
「一度見ておきたい」
と言って同席した。
野洲宗清は四十代ほどの痩せた男だった。
対する河瀬重房は、宗清より十ほど若く、身体も大きい。
二人は同じ部屋に入ってから、一度も目を合わせようとしない。
「では、始めましょうか」
景継が言った。
「その前に確認します」
二人が景継を見る。
「今日、私に話を持ってきたのは、お二人です」
「はい」
宗清が答える。
重房も頷いた。
「私が無理に呼びつけたわけではありませんね?」
「ございません」
「では、私が双方の話を聞いて決めたことには従っていただきます」
重房が少し眉を動かした。
「どのような裁定であっても?」
「もちろん、話を聞く前から無茶なことを言うつもりはありません」
「しかし――」
「嫌なら、今帰っていただいて構いませんよ」
景継は穏やかに言った。
「お二人の土地です。私には止める権利はありません」
重房が黙る。
宗清が先に頭を下げた。
「私は従います」
景継は重房を見る。
しばらくして、重房も頷いた。
「……私も従いましょう」
「では聞きます」
景継は弥兵衛に用意させた簡単な絵図を広げた。
問題の村。
道。
市。
周辺の川。
そして両者の領地。
「まず宗清殿から」
「はい」
宗清によれば、その村は以前から野洲家の支配下にあるという。
年貢も野洲へ納めてきた。
したがって村に付随する道と市も、野洲が管理するべきだという主張だった。
「なるほど」
景継は次に重房を見る。
「重房殿は?」
「道は我が領内を長く通っております」
重房が答える。
「道の修繕も、盗賊への備えも我らがしてきた。ところが商人が増えた途端、野洲殿が市も道も自分のものだと言い始めたのです」
「市は我が村のものだ!」
宗清が声を上げる。
「道を使えなければ市など成り立たぬ!」
「だからといって、お前が市から銭を取る理由にはならん!」
「我らが守っているから商人が通れるのだ!」
二人の声が大きくなる。
景継は止めなかった。
しばらく聞いていた。
どちらも完全に間違っているわけではない。
だから揉めている。
「分かりました」
景継が言うと、二人が口を閉じた。
「他にも聞きます」
宗清が怪訝そうな顔をする。
「まだ何を?」
「去年、この道を通った商人はどれくらいです?」
「それは……」
「道の修繕に何人使いました?」
今度は重房へ。
「正確な数は――」
「市は月に何度開いています?」
「五度ほど」
「商人から取っている銭は?」
「それは……」
「盗賊は去年何件?」
二人が顔を見合わせた。
景継は弥兵衛を見る。
「分かります?」
「事前に調べさせました」
弥兵衛が書付を出す。
宗清と重房の表情が変わった。
「市場は月五度。ただし、この半年で商人の数は以前のおよそ倍。道の修繕は主に河瀬側が行っておりますが、村周辺の警護は野洲側も出しております」
「盗賊は?」
「確認できたものが三件。そのうち二件は河瀬勢が捕らえております」
「なるほど」
景継は頷いた。
「では、こうしましょう」
二人が身を乗り出す。
「村は今まで通り野洲殿」
宗清の表情が緩む。
「道の管理は河瀬殿を中心に。ただし野洲殿も人を出してください」
今度は重房が頷く。
「市から上がる銭は、まず道の修繕と警護に使う。それを引いた残りを野洲と河瀬で分ける」
「分ける?」
宗清が声を上げた。
「市は我が村にございます!」
「でも商人は河瀬殿の道を通って来るのでしょう?」
「それは……」
「逆に重房殿」
「はい」
「道を管理しているからといって、市そのものを取ることは認めません」
「しかし――」
「最初に言いましたよね」
景継が二人を見る。
「私が決めたことには従う、と」
沈黙が落ちた。
「取り分については、今後の負担を見て決め直してもいいでしょう。ただし、勝手に関所を増やしたり、商人から別々に銭を取ったりするのは禁止です」
宗清が驚く。
「関所まで?」
「両方が好きに取ったら、商人が来なくなるでしょう」
「しかし銭が――」
「今来ている商人からたくさん取るより、来る商人を増やした方がいいと思いますけどね」
景継は絵図の道を指でなぞった。
「私の領地の市場へ来る者も、この道を使っています。通りやすくなるなら、こちらからも一部修繕を手伝います」
「林道様が?」
「こちらにも得がありますから」
宗清が考え込む。
重房も黙っていた。
やがて宗清が頭を下げる。
「……承知しました」
景継は重房を見る。
重房はすぐには答えなかった。
「重房殿?」
「一つ、よろしいでしょうか」
「どうぞ」
「もし野洲殿が約束を破った場合は?」
「その時は知らせてください」
「林道様が罰してくださる?」
「まず事情を聞きます」
「また話を?」
「当然でしょう」
重房の口元がわずかに歪んだ。
「随分と悠長ですな」
部屋の空気が変わった。
宗清が重房を見る。
長秀も初めて重房へ視線を向けた。
景継だけが表情を変えない。
「そう見えます?」
「この乱世、話だけで土地を守れるなら苦労はいたしません」
「それはそうですね」
「ならば――」
「でも今日は、戦を止めるためにお二人が私のところへ来たのでしょう?」
重房が黙った。
「戦った方が早いと思っているなら、最初から来る必要はなかったはずです」
「……」
「私は、お二人の争いを利用して土地を奪いたいわけではありません。だから話を聞きました」
景継はそこで言葉を切った。
「ただし」
重房を見る。
「今日ここで決めたことを破って、兵を使って相手から奪おうとするなら、それは別の話になります」
「別の話?」
「はい」
「林道様は、どうなさる」
「その時に決めます」
重房は何も言わなかった。
◇
会談が終わり、二人が屋敷を出た後。
長秀はしばらく閉じた襖を見ていた。
「景継」
「はい」
「あの河瀬という男、納得しておらんぞ」
「でしょうね」
「分かっていたのか」
「顔に出てましたから」
「なら、なぜ帰した」
「約束しましたから」
「約束?」
「裁定に従うと」
長秀が景継を見る。
「それを信じるのか?」
「信じるかどうかは関係ありません」
景継は絵図を畳み始めた。
「守るなら、それでいいです」
「守らなければ?」
「その時に考えます」
「お前は……」
長秀が何か言おうとした時だった。
廊下から慌ただしい足音が聞こえた。
弥兵衛が襖を開ける。
「殿」
その表情を見て、景継の手が止まった。
「何がありました?」
「河瀬重房の兵が動いております」
「いつ?」
「昨日の夜からです」
長秀の顔が険しくなる。
「昨日?」
「こちらへ来る前からか」
景継が尋ねる。
「その可能性が高いかと」
弥兵衛は続けた。
「河瀬領で兵が集められております。数はまだ正確ではありませんが、四百から五百ほど」
「行き先は?」
「野洲領との境です」
部屋に沈黙が落ちた。
長秀が低い声で言う。
「最初から、お前の裁定に従うつもりなどなかったのではないか」
景継は答えなかった。
「宗清殿は?」
「まだこの近くにおります。知らせますか?」
「すぐに」
「はい」
弥兵衛が出ようとする。
「それと」
「何でしょう」
「河瀬殿にも使者を」
長秀が景継を見る。
「まだ話すのか」
「最後の確認です」
景継は静かに答えた。
「今日の裁定に従うのか。それとも兵を進めるのか。直接聞いてください」
「もし進めると答えれば?」
「戻ってきてください」
「それだけで?」
「はい」
弥兵衛は一礼して出ていった。
長秀が景継を見る。
「どうするつもりだ」
「河瀬殿の答えを聞きます」
「すでに兵を集めておる」
「集めるだけなら、まだ戦っていません」
「だが境へ向かっておるぞ」
「だから確認します」
景継は立ち上がった。
「こちらが間違っていた可能性もあります。別の敵に備えた兵かもしれない。報せが間違っているかもしれない」
「可能性は低いぞ」
「低くても、確認できるなら確認した方がいいでしょう」
長秀はそれ以上言わなかった。
景継は窓の外を見る。
今日、自分の前で重房は約束した。
その言葉が嘘だったのか。
それとも別の理由があるのか。
答えはすぐに出た。
◇
翌朝。
河瀬重房のもとへ向かった使者が戻った。
景継の前には、弥兵衛と長秀。
そして野洲宗清もいた。
「申し上げます」
使者が頭を下げる。
「河瀬重房殿は兵を止めるつもりはない、と」
宗清の顔色が変わった。
「やはり……!」
景継は使者を見る。
「私の裁定については?」
「林道様には感謝している。しかし、河瀬家の土地のことは河瀬家が決める、と」
「他には?」
使者が一瞬ためらった。
「構いません」
「……野洲宗清殿が林道様を頼るのであれば、今後は野洲を林道方と見なす、と」
宗清が息を呑む。
長秀の目が細くなる。
景継だけは黙っていた。
「つまり」
景継がゆっくり口を開く。
「私に仲裁を頼んでおいて、気に入らない結果なら従わない」
誰も答えない。
「その上、私に話を持ってきた宗清殿を、私の側だから敵と見る」
景継は宗清を見る。
「宗清殿」
「は、はい」
「あなたはどうします?」
「どう、とは」
「河瀬殿と戦いますか」
宗清は少し迷った。
やがて、景継をまっすぐ見る。
「このままでは我が領へ入ってまいります」
「でしょうね」
「ならば戦うしかございません」
「私に助けを求めますか?」
宗清が息を止めた。
長秀は何も言わず、その様子を見ている。
しばらくして宗清が頭を下げた。
「……お願いいたします」
「何を?」
「我らだけでは河瀬には勝てませぬ」
「だから?」
「林道様のお力を、お貸しください」
景継はすぐには答えなかった。
「一つ確認します」
「はい」
「私が兵を出した後も、あなたは今まで通り自分の家を残したいですか?」
宗清が驚いたように顔を上げた。
「もちろんでございます」
「分かりました」
「では――」
「野洲家を取るつもりはありません」
宗清の顔に安堵が浮かぶ。
「ただし、今回の戦で河瀬領を取った場合」
景継の声が少し変わった。
「それを河瀬家へ返すつもりもありません」
宗清が黙った。
長秀が景継を見る。
「景継」
「はい」
「出るのだな」
「はい」
「七千すべてか?」
「必要ありません」
景継は絵図を広げた。
河瀬の兵は五百前後。
野洲には三百。
相手がさらに兵を増やす可能性を考えても、林道軍七千すべてを動かす必要はない。
「二千で十分です」
「二千?」
「一益殿にも声をかけます。道を押さえてもらいたい」
「お前自身は?」
「行きます」
景継は河瀬領へ続く道を指でなぞった。
「大きな戦にする必要はありません」
長秀がその言葉を聞き、少し笑った。
「河瀬にとっては十分大きな戦だろう」
「そうですね」
景継も小さく笑った。
だが、すぐに表情を戻した。
「弥兵衛」
「はい」
「出せる二千を選んでください。ただし、昨日確認した『今すぐ出せる兵』を全部使う必要はありません」
「兵糧は?」
「まず十日分。長引きそうなら追加します」
「馬と荷駄も確認します」
「お願いします」
宗清が景継を見る。
「林道様」
「何でしょう」
「本当に……来てくださるのですか」
「あなたが頼んだんでしょう?」
「そうですが……」
「なら行きますよ」
景継は立ち上がった。
以前とは違う。
高坂頼綱との戦では、景継自身が敵と定め、自分から土地を取りに行った。
今回は違う。
自分のところへ争いが持ち込まれた。
話を聞いた。
裁定を出した。
それを受け入れると約束した者が、自ら約束を破り、兵を動かした。
景継は河瀬領の絵図を見る。
「一度決めたことを気に入らないからと兵で覆すなら、最初から私のところへ来なければよかったんです」
長秀が静かに尋ねる。
「怒っておるのか?」
景継は少し考えた。
「少し」
「少しか」
「かなり怒って見えます?」
「いや」
「なら少しです」
景継は絵図を畳んだ。
「でも、怒っていることと戦うことは別です」
「では、なぜ戦う」
景継は長秀を見る。
「私に助けを求めた者を、私に近づいたという理由で攻めるそうですから」
それだけ答えると、景継は弥兵衛へ向き直った。
「出陣の準備を」
「はっ」
林道家が初めて土地を手にしてから、まだそれほど時は経っていない。
それでも周囲から見る林道景継の立場は、少しずつ変わり始めていた。
自分から人を求めて歩いていた男のもとへ、人が話を持ち込むようになった。
そして今度は、その裁定を巡って兵が動いた。
二千の林道軍が、河瀬領へ向けて動き始める。




