第百三十六話 北ノ庄の報せ
北ノ庄へ向かうことが決まった翌朝、景継は出発する前に兵の確認を済ませていた。
「今すぐ出せるのは?」
「およそ四千五百」
弥兵衛が答える。
「残りは?」
「領内各地におります。すべて集めて七千を動かすとなれば、兵だけでは済みません。馬、兵糧、荷駄まで揃える必要があります」
「どれくらいかかります?」
「まだ確認中です」
「それでいいです」
景継は頷いた。
昨日命じたばかりなのだ。今すぐ正確な数字が出る方がおかしい。
「急がせなくていいですよ。知りたいのは、都合のいい数字ではありませんから」
「承知しております」
「それと、兵を集めないように」
「分かっております。確認だけでしょう?」
「はい。今、七千を集めたら周りが驚きます」
「殿が戦を始めると思うでしょうな」
「私だって思います」
「殿が?」
「七千も集まっていたら、何か始めないともったいない気がするでしょう」
「絶対に集めないでください」
「冗談ですよ」
「殿の冗談は、時々笑えません」
弥兵衛はそう言って、手元の書付を畳んだ。
景継は立ち上がる。
「では、北ノ庄へ行きましょうか」
「今度こそ遠出ですな」
「勝家様に呼ばれたんですから仕方ないでしょう」
「昨日、しばらく遠出したくないと仰ったばかりですが」
「だから私のせいではありません」
「天下を取ろうとする者に、平穏な日などありませんな」
「まだ取ってませんけどね」
「取った後はもっと忙しいのでは?」
景継の足が止まった。
「……それは考えないようにしましょう」
「考えてください」
弥兵衛に言われながら、景継は屋敷を出た。
◇
北ノ庄城へ到着すると、景継はほとんど待たされることなく勝家のもとへ通された。
部屋へ入った景継は、すぐにいつもと様子が違うことに気づいた。
勝家の前には尾張から三河にかけての地図が広げられ、その脇には何通もの書状が置かれている。
「来たか」
「はい」
「座れ。すぐに見せたいものがある」
挨拶もそこそこに、勝家が一通の書状を差し出した。
景継は受け取りながら、勝家を見る。
「信雄様のことですか」
「もう耳に入っておったか」
「徳川家の使者が入ったことだけは」
「ならば話が早い」
勝家が地図の尾張を指で叩いた。
「わしが気にしておるのは、使者が来たことだけではない」
景継が書状を開く。
そこには尾張で起こり始めている変化が記されていた。
羽柴家から信雄のもとへ入る使者が増えている。
一方で徳川家からも使者が入った。
さらに信雄の家中では、秀吉との距離を縮めるべきだという者と、それを警戒する者の間で意見が分かれ始めているという。
「信雄様の家中まで動き始めていますね」
「ああ」
「この報せは?」
「尾張にいる者からだ。一つの話だけでは信用できんから、別の筋にも確かめさせておる」
景継は書状から目を上げた。
勝家がただ噂を聞いて自分を呼んだわけではないらしい。
「信雄様自身は?」
「まだ何も決めておらんようだ」
「でしょうね」
「お前は驚かんのだな」
「以前、直接お話ししましたから」
景継は書状を置いた。
「信雄様は、私が織田家を奪うのではないかと恐れていました」
「それはわしも聞いておる」
「だから、奪うつもりはないと伝えました。ただし、織田家を守り続けるとも約束していません」
勝家が眉を寄せた。
「そこまで言ったのか」
「はい」
「もう少し言い方というものがあろう」
「曖昧にして、後で話が違うと言われる方が困ります」
「それで信雄が余計に迷っておるのではないか?」
「そうかもしれません」
「お前な……」
勝家が何か言いかけたが、景継は先に続けた。
「でも、迷うこと自体は悪いことではないでしょう」
「何?」
「信雄様にとって大事なのは、私を信用するかどうかだけではありません。秀吉様とどう付き合うのか、織田家をどう残すのか、三法師様をどうするのか。それを全部考えなければならない」
景継は尾張へ視線を落とした。
「簡単に決められる話ではありませんよ」
「だから待つのか?」
「私が決めさせる話ではありません」
勝家が腕を組む。
「では信雄が秀吉を選んでも、お前は黙って見ておるのか」
「秀吉様と親しくするだけなら、それだけで私が口を出す理由はありません」
「お前の敵になったら?」
「その時は話が変わります」
勝家はしばらく景継を見た後、地図の三河へ指を移した。
「わしが本当に気になっておるのはこちらだ」
「家康様ですね」
「ああ」
景継も同じ場所を見る。
「秀吉が信雄へ近づく理由は分かる。信孝はお前と盟を結び、長秀や一益、恒興までお前の側におる。信雄までお前に近づけば、秀吉にとっては面白くあるまい」
「そうでしょうね」
「だが家康は違う」
勝家の指が三河から尾張へ動く。
「今まで大きく前へ出てこなかった男が、なぜこの時になって信雄へ使者を出す?」
「私も、それが気になっています」
「何を狙っておると思う」
「分かりません」
景継は即答した。
「秀吉様が大きくなるのを警戒しているのかもしれない。信雄様との関係を作っておきたいだけかもしれない。私の動きを見ている可能性だってあります」
「全部あり得るということか」
「今ある情報だけなら」
勝家は不満そうだったが、それ以上は追及しなかった。
「お前でも読めん相手か」
「会って話したことはありますが、家康様が腹の中を全部見せてくれたことなんてありませんよ」
「当然だろう」
「だから、使者を一度送っただけで決めつける方が危ないです」
景継は書状をもう一度手に取った。
「むしろ、こちらの方が知りたいですね」
「何だ」
「徳川の使者が誰と会ったのか。何日いたのか。一度きりなのか、また来るのか」
「話した内容ではなく?」
「内容も分かれば欲しいです。でも、それを無理に探れば間違った話を掴むこともあります」
景継は信雄家中について記された部分を指した。
「誰が徳川の使者と会ったか。その後、信雄様の家中で誰が動いたか。そちらの方が確かめやすいでしょう」
勝家が頷く。
「調べさせよう」
「お願いします」
「それで、お前はどうする」
「私ですか?」
「秀吉も家康も信雄へ近づいておる。このまま何もせんつもりか」
「今は」
「今は?」
「林道家を大きくします」
勝家が黙った。
「……この話を聞いて、その答えになるのか」
「この話を聞いたからですよ」
景継は地図から目を離した。
「家康様が何を考えているのか分からない。信雄様が何を選ぶのかも分からない。秀吉様が次に何をするのかも分からない」
「だから自分を強くする?」
「はい」
「随分と単純だな」
「単純なことほど大事ですよ」
勝家が鼻を鳴らした。
「今、お前の兵はいくらだ」
「およそ七千です」
「北ノ庄では五千だったな」
「はい」
「もう二千増えたか」
「土地を持てましたから」
「それでも七千だ。秀吉が本気で軍を出せば、それだけでは足りんぞ」
「分かっています」
「ならば、さらに増やすのか」
「いずれは」
景継はすぐに続けた。
「でも、兵だけ一万にしても意味がありません」
「食わせられぬからか」
「はい。七千の兵を抱えたまま領地が痩せれば、戦う前に負けます」
「では、次に欲しいのは土地か」
「土地も欲しいですね」
「も?」
「米も、市場も、道も、人も」
勝家が呆れたように景継を見る。
「欲張りだな」
「天下を取ると言っている人間に、今さらそれを言います?」
「天下より先に道を欲しがる奴は珍しい」
「兵は道を通ります。米も道を通ります。商人も道を通る。城だけあっても、腹は膨れません」
「またそれか」
「大事なんですって」
景継が笑う。
勝家は地図から離れ、背を預けた。
「お前、本当に自分の国を作り始めたのだな」
その言葉に、景継は一瞬だけ黙った。
「まだ国と呼べるほどではありませんよ」
「だが以前は土地すらなかった」
「そうですね」
「北ノ庄では五千を連れてきた。だが、お前自身の領地から出てきた五千ではなかった」
「はい」
「今は違う」
景継は静かに頷いた。
前の生では、すでに国があった。
軍があり、役人がいて、税を集める仕組みもあった。
その中でどう生き残るかを考えてきた。
今は何もかも違う。
自分で土地を取り、自分で人を抱え、自分で兵を養う。
小さくても、そこから始めるしかない。
「まずは一万を養えるようになりたいですね」
景継が言った。
「一万か」
「兵を一万にする、ではありませんよ」
「分かっておる。一万を養える国にする、だろう」
「さすが勝家様」
「何度も聞かされれば覚える!」
景継は笑った。
「でも、その前に一つ聞いていいですか」
「何だ」
「勝家様、私が北条と上杉のところへ行った理由も気になってます?」
勝家の目が鋭くなった。
「当然だ」
「やっぱり」
「北条へ行ったと思えば、今度は越後だ。何も気にするなという方が無理だろう」
「では、一つだけ」
「何だ」
「北条と上杉が、二年間戦わないことになりました」
勝家の表情が固まった。
「……何?」
「二年間の停戦です。正式にまとまりました」
「待て」
勝家が身を乗り出す。
「北条と上杉が?」
「はい」
「お前が間に入ったのか」
「そうなりますね」
「そうなりますね、ではない!」
勝家は驚きを隠そうともせず、地図の関東と越後を交互に見た。
「よく景勝が受けたな」
「怒られましたけどね」
「何をした」
「いろいろありまして」
「そこを話せ!」
「それはまた今度で」
「景継!」
「大事なのは、まとまったことです」
勝家はしばらく景継を睨んでいたが、やがて視線を地図へ戻した。
「二年……」
「はい」
「それで、お前は何をするつもりだ」
「今言ったでしょう。林道家を大きくします」
「それだけのために北条と上杉を止めたのか?」
「それだけ、とは言っていません」
勝家が景継を見る。
「では何だ」
「今のところは、それで十分です」
景継は穏やかに答えた。
勝家は納得していない。
それでも、景継はそれ以上話さなかった。
まだ形になっていないものを、すべて言葉にする必要はない。
「一つだけ頼みがあります」
「何だ」
「家康様について、もう少し調べてもらえますか」
「尾張と三河か」
「はい。何を話したかまで分からなくても構いません。使者が誰と会ったのか。信雄様の周囲で誰が動き始めたのか。それと――」
景継が畿内へ目を向ける。
「秀吉様の軍に、大きな動きがあれば知らせてください」
「戦になると思うか」
「そこまでは分かりません」
「またそれか」
「分からないものを分かったことにはできませんよ」
勝家は苦笑した。
「分かった。調べさせる」
「ありがとうございます」
「お前は?」
「領地へ戻ります」
「もう戻るのか」
「話すことは話しましたから」
「お前を呼ぶと、こちらの仕事が増えるな」
「情報を集めるだけですよ」
「十分増えておる!」
景継が立ち上がる。
その時、勝家が呼び止めた。
「景継」
「はい?」
「信雄が秀吉を選んだら、本当に何もせんのだな」
景継は少し考えた。
「秀吉様と手を結ぶ。それだけなら」
「家康となら?」
「同じです」
「では、何をすればお前は動く」
景継は勝家を見た。
「私の領地や、私と共にいる者へ手を出せば」
短い答えだった。
「その時は、こちらも自分を守ります」
「なるほどな」
勝家は頷いた。
「ならば今は、信雄より自分の家か」
「はい」
「七千を一万にするために?」
「違いますよ」
「何が違う」
「一万を養える林道家にするためです」
勝家が少し笑った。
「面倒な違いだ」
「大事な違いです」
景継はそう答え、部屋を後にした。
◇
同じ頃、尾張。
織田信雄は徳川家から訪れた使者と向き合っていた。
すでに形式的な挨拶は終わっている。
だが信雄には、どうしても分からないことがあった。
「家康殿は、わしに何を望んでおる」
使者は静かに頭を下げた。
「今すぐ何かをお決めいただきたい、ということではございません」
「では、なぜ使者を寄越した」
「我が殿は、信雄様とお話しできる道を作っておきたいと申しております」
「話すための道?」
「はい」
信雄は眉を寄せた。
秀吉から来る使者とは違う。
秀吉側は、景継が大きくなっていることを語る。
織田の者たちが景継の周囲へ集まっていることを語り、このまま林道家が大きくなれば織田家がどうなるのかと問いかけてくる。
言っていることのすべてが嘘というわけではない。
だからこそ、信雄も迷っていた。
景継自身と話したから分かる。
あの男は、織田家を奪うために動いているわけではない。
だが同時に、織田家のために天下を取ろうとしているわけでもない。
景継が欲しいのは、林道景継自身の天下なのだ。
そこへ今度は家康が現れた。
「家康殿は、秀吉と景継をどう見ておる」
「それは我が殿から直接お話しするべきことかと」
「直接?」
「はい」
信雄の目が細くなる。
「わしに三河へ来いと?」
「いいえ」
使者が頭を下げた。
「信雄様がお許しくださるのであれば、我が殿が参ります」
「家康殿が?」
「はい」
信雄は黙った。
自ら来る。
それが何を意味するのか。
ただの挨拶のためだけとは思えない。
「家康殿は、わしと何を話すつもりだ」
「申し訳ございません。それを私の口から申し上げることはできません」
「何も聞いておらぬのか」
「一つだけ」
「何だ」
使者は少し間を置いた。
「信雄様のお考えを、まず聞きたいと」
「わしの?」
「はい」
「秀吉についてか。景継についてか」
「織田家について、と」
信雄の表情が変わった。
使者はそれ以上、何も言わなかった。
答えを求めることもない。
味方になれとも、秀吉を敵とせよとも、景継を警戒せよとも言わない。
ただ、家康自身が来て話を聞きたいという。
信雄は自分の手を見る。
父が生きていた頃なら、こんなことで悩む必要はなかった。
父が決めた。
家臣はそれに従った。
だが、その父はもういない。
信忠もいない。
信孝は自分の道を決めた。
景継も、自分の天下を取ると決めた。
ならば、自分だけがいつまでも誰かの答えを待っているわけにはいかない。
「……分かった」
信雄が顔を上げる。
「家康殿に伝えよ」
使者が頭を下げた。
「会おう、と」
「はっ」
「ただし」
「はい」
「わしも聞く」
信雄の声が少し強くなった。
「家康殿が、何を望んでいるのかをな」
「そのようにお伝えいたします」
使者が退出した。
一人になった信雄は、しばらく動かなかった。
秀吉は自分へ近づいてくる。
景継は自分の土地を持ち、さらに大きくなろうとしている。
そして今まで大きく前へ出てこなかった徳川家康まで、自ら尾張へ来るという。
「家康……」
信雄はその名を呟いた。
まだ、何を考えているのか分からない。
だからこそ、会わなければならない。
その数日後。
三河から一行が尾張へ向けて出立した。
その中心にいる男の名は、徳川家康。
静かに情勢を見続けていた男が、ついに信雄と直接向き合おうとしていた。




