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『乱世にて、我は待つ』~知略を秘めた軍師は、やがて天下を動かす~  作者: ダイヤマ
第七章 覇道布石編

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第百三十五話 動ける者たち



 越後を発つ朝。


 景継は上杉景勝から渡された条件を書き留めた書状を、もう一度読み返していた。


 二年。


 互いに国境を越えて兵を入れない。


 国境付近で争いが起きた場合も、まず使者を立てる。


 どちらかが約定を破れば、もう一方は縛られない。


 そして停戦を利用し、相手を害するための備えを国境へ積み上げない。


「氏政様は飲むでしょうか」


 弥兵衛が尋ねた。


「どうでしょうね」


「殿」


「何です?」


「ここ数日、そればかりではありませんか」


「何がです?」


「分かりません、どうでしょう、相手次第です」


「だって相手が決めることですから」


 景継は書状を畳んだ。


「私がここで『氏政様は必ず飲みます』と言ったら、何か変わります?」


「私が少し安心します」


「それは大事ですね」


「でしょう?」


「では、必ず飲みます」


「急に信用できなくなりました」


「難しいですね」


 景継が笑いながら立ち上がる。


 上杉との交渉は、ひとまずここまでだった。


 まだ約定は成立していない。景勝が条件を出しただけだ。


 これを小田原へ送り、氏政が受けるかを確認しなければならない。


「北条へは使者を出します」


「殿が行かれないので?」


「行きませんよ」


「珍しいですな」


「何度も小田原と越後を往復していたら、天下を取る前に馬の上で死にます」


「ようやく気づかれましたか」


「前から気づいていました」


「では、なぜ最初は自分で行ったのです」


「最初だからです」


 景継は弥兵衛を見る。


「氏政様にも景勝様にも、最初の大事な話を人任せにはしたくなかった。ですが、互いに何を求めているかは分かりました。ここから先は使者でも話せます」


「なるほど」


「それに、私には私のところでやらなければならないことがあります」


「領地ですな」


「はい」


「用水」


「それもです」


「橋」


「それも」


「市場」


「大事です」


「兵」


「もっと大事です」


 弥兵衛が笑った。


「ようやく武将らしいものが出ましたな」


「私はずっと武将ですよ」


「最近は庄屋に近くなっておりましたので」


「天下を取る庄屋でもいいでしょう」


「聞いたことがありません」


 二人はそんな話をしながら、越後を後にした。



          ◇



 景継が領地へ戻るより早く、上杉が出した条件は使者によって小田原へ届けられた。


 北条氏政は書状を読み終えると、しばらく何も言わなかった。


 傍らにいた氏直が父を見る。


「二年ですか」


「ああ」


「我らが求めた三年より短い」


「一年短いな」


「断りますか」


 氏政は答えなかった。


 もう一度、書状へ目を落とす。


「国境に、上杉を害するための備えを増やすな、か」


「景勝らしい条件かと」


「こちらを信用しておらぬ」


「父上も上杉を信用しておられないでしょう」


「当たり前だ」


 氏政が即答した。


「ならば、お互い様では?」


 氏政が息子を見る。


 氏直は表情を変えない。


 やがて氏政が鼻を鳴らした。


「景継と話したせいか」


「何がでしょう」


「お前まで妙な言い方をするようになった」


「そうでしょうか」


「信用せずとも約定は結べる、などと言い出しそうだ」


 氏直が少し笑った。


「それは悪いことでしょうか」


「……いや」


 氏政は再び書状へ目を落とした。


 二年間。


 上杉との大きな戦を避けられる。


 もちろん完全に北を無視できるわけではない。約定が破られる可能性も考えておく必要がある。


 それでも、これまで北へ向けていた兵や兵糧、そして何より意識の一部を、別のところへ回す余裕は生まれる。


「受ける」


 氏政が言った。


「よろしいのですか」


「ああ」


「三年を求め直さず?」


「景勝が二年と言ったのなら、まず二年でよい」


 氏政は書状を置いた。


「ただし、一つ加えろ」


「何を?」


「二年が終わる半年前に、延長するかを話し合う」


 氏直が頷く。


「上杉が応じれば?」


「その時に考える」


「応じなければ」


「二年で終わりだ」


「承知しました」


 氏直が使者へ伝えるため立ち上がろうとする。


「待て」


 氏政が止めた。


「もう一つ」


「はい」


「林道との婚姻については、一切書くな」


「上杉はすでに知っております」


「景勝が知ることと、書状として残すことは違う」


「なるほど」


「楓との話を知る者も増やすな」


「承知しております」


 氏政は少し考えた。


「景継にも伝えろ。北条は条件を受ける、と」


 そこで言葉を切る。


「それだけでよい」


「……それだけですか?」


「何だ」


「婿殿への言葉などは」


「いらぬ」


「楓には?」


「お前は何を期待しておる」


 氏直が笑った。


「いえ、何も」


「ならば行け」


「はっ」


 氏直が退出する。


 一人残った氏政は、しばらく地図を見ていた。


 上杉との二年。


 景継との縁。


 そして、先日の話。


 景継が最後に頼んできた、もう一つのこと。


 氏政の指が、地図の上をゆっくりと動く。


 やがて、その指がある場所で止まった。


 だが氏政は何も言わず、静かに地図から手を離した。



          ◇



 数日後。


 林道領へ戻った景継のもとに、北条からの返事が届いた。


「受けるそうです」


 景継が書状を読みながら言った。


「本当に?」


 弥兵衛が身を乗り出す。


「はい。二年で受けると」


「では、これで――」


「まだです」


「まだ?」


「景勝様にも、北条様が受けたことを伝えないと」


「それは使者でよろしいでしょう」


「もちろんです」


「よかった」


「何を安心しているんです?」


「また殿が越後へ行くと言い出すかと思いました」


「行きませんよ」


「本当に?」


「私を何だと思ってるんですか」


「必要ならどこへでも自分で行く人です」


「……否定しにくいですね」


 景継は苦笑した。


 北条の返答には、もう一つ条件が加えられていた。


 二年の期限が切れる半年前に、延長について協議する。


「悪くありませんね」


「上杉様が受ければ?」


「成立です」


「北条と上杉が、本当に二年間戦わない」


「大きな戦は、ですね」


 景継は念を押した。


「小さな揉め事まで全部なくなるとは思わない方がいいです」


「それでも大きい」


「はい」


 弥兵衛は地図を見る。


 越後の上杉。


 関東の北条。


 長く争ってきた二つの大勢力の間に、わずか二年とはいえ空白が生まれようとしている。


「殿」


「何です?」


「これで次は?」


「次?」


「北条と上杉の話をまとめるために、随分走り回ったでしょう。これで殿も少しは腰を据えられるのかと思いまして」


「ああ」


 景継は机の上に積まれている書状へ目を向けた。


 留守にしていた間に届いた報告である。


「むしろ、ここからでしょうね」


「まだ働くので?」


「私の領地、まだ一つですよ?」


「そうでしたな」


「忘れないでください」


「殿が北条だ上杉だと大国ばかり相手にするので、忘れそうになります」


「私も時々忘れそうになります」


「忘れてはいけません」


「はい」


 景継は一通の報告を手に取った。


 近隣の国人からだった。


 林道領の市場を利用したい。


 代わりに道の一部を整え、通行する商人の安全を保証するという。


「これ、受けましょう」


「兵の話ではありませんぞ」


「だからいいんです」


「また道ですか」


「道は大事ですよ」


「最近の殿は、城より道を欲しがりますな」


「城は動きませんからね」


「道も動きません」


「人が動くでしょう」


 弥兵衛が黙った。


「……たまに上手いことを言いますな」


「たまに?」


「たまにです」


 景継は笑いながら次の報告を開いた。


 別の村からは橋の修繕。


 さらに別の場所からは、兵として雇ってほしいという男たちの話。


 北条や上杉を相手にした大きな話とは比べものにならないほど、小さなことばかりだった。


 だが景継にとっては、こちらも同じくらい重要だった。


 天下を口にしても、足元の一領すら治められなければ話にならない。


 そして、この土地を手に入れてから、林道家の力は少しずつ形になり始めていた。


 北ノ庄で秀吉と戦った頃、景継が直接動かせる兵はおよそ五千だった。


 今は違う。


 高坂領を手に入れ、旧高坂家の兵を選んで召し抱え、周辺から景継のもとへ集まってきた者たちもいる。


 さらに近隣との結びつきも増えた。


 急激に膨らませたわけではない。


 食わせられる数を確かめ、武具を揃え、働ける者を選びながら増やしてきた。


 その結果、林道家が自らの力として動かせる軍勢は、今やおよそ七千に達していた。


 まだ大軍とは呼べない。


 秀吉や上杉、北条と正面から兵数だけを比べれば、はるかに小さい。


 それでも五千の頃とは違う。


 何より、その七千を養うための土地を、景継は初めて自分で持っている。


「弥兵衛」


「はい」


「次に兵を増やすなら、あとどれくらい食わせられます?」


「また増やすおつもりで?」


「天下を取るのに七千で足りるなら、増やしませんよ」


「足りると思っておられない顔ですな」


「全然」


 弥兵衛は少し考えた。


「今の領地だけで一気に一万まで増やすのは、やめた方がよろしいかと」


「私もそう思います」


「用水も市場も、ようやく形になってきたところです。兵だけ増やして領地が痩せれば、何のために高坂領を取ったのか分かりません」


「では、次に必要なのは」


「兵より先に、兵を食わせるものですな」


「土地ですね」


「土地だけではありません」


 弥兵衛が先ほどの書状を指した。


「殿が好きな道と市場もです」


 景継が笑う。


「分かってきましたね」


「毎日のように聞かされておりますので」


「では、その辺りも増やしましょう」


「簡単に言わないでください」


「大丈夫ですよ。すぐに一万にするつもりはありません」


「本当ですな?」


「たぶん」


「今の一言で不安になりました」


 景継は笑いながら、次の報告へ手を伸ばした。



          ◇



 さらに数日が過ぎた。


 上杉から返事が届いた。


 北条が加えた、期限終了半年前からの延長協議。


 景勝はそれを受け入れた。


 これで北条と上杉の二年間の停戦が、正式に成立した。


 ただし、それを大々的に触れ回ることはしない。


 必要な範囲で双方の家中と国境の将へ伝えられる。


 林道景継が仲介したことも、広く知らせる必要はなかった。


 まして北条氏政の娘・楓との婚姻については、ごく一部の者しか知らない。


「これで一つ終わりましたな」


 弥兵衛が言った。


「今度こそ終わりましたね」


「珍しく素直ですな」


「何ですか、それ」


「また『まだです』と言われるかと思いました」


「約定はまとまりましたから」


 景継は届いた書状を箱へ収めた。


 長かった。


 北条氏政と向き合い、思いがけず婚姻まで持ち出され、今度は越後まで行って景勝を怒らせた。


 それでも、どうにか形になった。


「しばらく遠出はしたくないですね」


「その言葉、覚えておきます」


「信用してません?」


「しておりません」


「ひどいですね」


 そんな話をしているところへ、一人の家臣が入ってきた。


「殿」


「何です?」


「柴田様より使者が参っております」


「勝家様から?」


「はい」


 景継が顔を上げる。


「急ぎですか?」


「できれば早く北ノ庄へ来ていただきたいとのことです」


 弥兵衛が横から景継を見る。


「……」


「何です、その顔」


「先ほど何と仰いました?」


「何のことです?」


「しばらく遠出はしたくないと」


「私は何も言ってません」


「言いました」


 家臣が困ったように二人を見る。


「それと、もう一つ報告がございます」


 景継の顔から笑みが消えた。


「聞きましょう」


「徳川家の使者が、織田信雄様のもとへ入ったとのことです」


「家康様が?」


「はい」


「いつです?」


「詳しい日は確認中ですが、つい先日のことかと」


 景継は少し考えた。


「秀吉様の使者は?」


「以前にも増して、信雄様のもとへ出入りしているようです」


「……そうですか」


 景継は立ち上がり、壁際に広げてある地図の前へ移動した。


 尾張。


 三河。


 その西には、秀吉の勢力圏。


 景継の目が三河で止まる。


「家康様が、ですか……」


 これまで徳川家康は、景継から見れば不気味なほど静かだった。


 秀吉と勝家が争った時も、北ノ庄で大きく情勢が動いた時も、景継の周囲に人が集まり始めた時も、決して無関心だったわけではない。


 だが、自ら大きく前へ出ることもなかった。


 その家康が、信雄へ使者を送った。


 ただの挨拶かもしれない。


 探りを入れただけかもしれない。


 あるいは、信雄の周囲で何かが変わり始めているのかもしれない。


「殿?」


 弥兵衛の声に、景継は顔を上げた。


「北ノ庄へ行く前に、兵糧の量を確認しておいてください」


「兵を動かすのですか?」


「まだ分かりません」


「では、なぜ」


「家康様が動いた理由が分からないからです」


 景継はもう一度、三河へ目を落とした。


「分からない相手が動いた時ほど、こちらは動けるようにしておいた方がいい」


 弥兵衛が頷く。


「兵の状態も確認しておきます」


「お願いします」


「七千の兵を、すべてですか?」


「はい。ただし、今すぐ集める必要はありません」


「いつでも動かせるかだけ確かめる?」


「そうです。今すぐ出せる兵が何人いるか。残りを集めるには何日かかるのか。七千を動かすなら、兵糧と馬を揃えるまでどれほど必要なのか。全部、確かめておいてください」


「戦になると?」


「そこまでは分かりません」


 景継は首を振った。


「だから今は、戦を始める準備ではなく、始まった時に慌てないための確認だけです」


「承知しました」


 弥兵衛が部屋を出ようとする。


「ああ、弥兵衛」


「まだ何か?」


「領地の仕事を止めないでくださいね」


「七千の兵の動員まで確認しろと言った直後に、それを仰いますか」


「戦が起こるかもしれないからといって、田畑が待ってくれるわけではないでしょう」


「分かっております」


「橋も」


「分かっております」


「市場も」


「殿」


「はい」


「全部やりますから、もう増やさないでください」


「お願いします」


 弥兵衛が呆れながら退出した。


 一人になった景継は、再び地図を見る。


 三河から尾張へ。


 そして、その先へと視線を動かした。


 北条と上杉の話をまとめたばかりだというのに、天下は景継を待ってはくれない。


「家康様……」


 その名を、小さく口にする。


 何を考えている。


 何を見ている。


 そして、なぜ今になって信雄へ近づいた。


 まだ答えはない。


 だからこそ、景継は三河から目を離さなかった。


 北ノ庄の頃、景継の手にあった兵は五千だった。


 今は七千。


 増えたのは二千。


 数字だけなら、まだ天下を左右するほどの違いではない。


 だが景継にとっては、その中身が大きく違っていた。


 必要な時に、自分の判断で動かせる林道家の兵。


 そして、その兵を支える自分の土地。


 五千だった頃と、同じ戦い方をする必要はない。


 さらに兵を増やすために、次に何を手に入れるべきかも見え始めている。


 その一方で。


 徳川家康という男もまた、静かに動き始めていた。




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