第百三十三話 北へ持っていくもの
小田原を発ってから数日。
景継たちは、ようやく自らの領地へ戻った。
城へ入った景継を最初に待っていたのは、戦の報告でも、秀吉の動向でもなかった。
「用水の修繕は、予定より三日ほど遅れております」
「やっぱり」
景継は席に着くなり、差し出された帳面を開いた。
「原因は?」
「人手でございます。上流側の土が思った以上に崩れておりまして」
「追加で何人必要です?」
「二十人ほど入れれば早まりますが、その分、銭が」
「出しましょう」
即答した景継を見て、弥兵衛が呆れたような顔をする。
「小田原から帰って最初に決めることが、それですか」
「大事でしょう」
「北条氏政様と何日も天下の話をしていた人とは思えませんな」
「だから大事なんです。天下を取ると言っている人間が、自分の領地の用水一つ直せない方が困るでしょう」
「それはそうですが」
景継は次の帳面へ目を移した。
橋の修繕。
市場の取引。
街道を行き来する商人の数。
新たに加えた兵百五十人の配置。
高坂家に仕えていた者たちのうち、役人として残した者の働き。
近隣の国人から届いた書状。
小田原にいる間にも、領地は動き続けていた。
当たり前のことだった。
主がいないからといって、田畑が待ってくれるわけではない。
商人も待たない。
民も兵も腹が減る。
「市場は?」
「少しずつ戻っております」
「街道を使う商人は?」
「増えております。林道家の兵が街道を巡回するようになってから、野盗が減ったと」
「それはいいですね」
「ただし」
報告していた役人が帳面をめくる。
「近隣から入ってくる商人の中には、様子見の者も多いようです」
「様子見?」
「林道様の領地が、本当にこのまま続くのかを見ているのではないかと」
「なるほど」
景継は笑った。
「それは仕方ありませんね」
「よろしいので?」
「昨日まで高坂殿の土地だった場所ですよ。いきなり私を信用しろという方が無理でしょう」
景継は帳面を閉じた。
「来てもらえるようにしておけばいいです」
「税を下げますか?」
「それも一つですが、下げすぎればこちらが困ります」
少し考える。
「街道の安全を優先しましょう。荷を奪われない。勝手な関銭を取られない。市場で揉めた時には話を聞く。それが続けば、商人は勝手に判断します」
「承知しました」
「それから、近隣の国人にも同じ話を」
「臣従を求めますか?」
「いいえ」
景継は首を振った。
「まず道を使ってもらいましょう」
弥兵衛が景継を見る。
「兵ではなく?」
「兵を百人増やすより、商人が百人増える方が今は嬉しいです」
「殿がそのようなことを言うようになるとは」
「私も驚いています」
「自分で言いますか」
「領地を持ってみないと分からないものですね」
景継は苦笑した。
兵が欲しい。
それは変わらない。
天下を狙う以上、今の五千余りで足りるはずがない。
七千。
一万。
さらにその先。
いずれ、それだけの兵を自らの力で動かさなければならない。
だが兵だけ増やせばいいわけではなかった。
一万の兵には、一万の腹がある。
一万の兵が歩けば、それだけ道が傷む。
武具が要る。
馬が要る。
米が要る。
銭が要る。
そのすべてを、誰かから借り続けるわけにはいかない。
勝家でも。
長秀でも。
一益でも。
恒興でも。
彼らの力を借りることはできる。
だが林道家の天下を取るなら、最後には林道家自身が立たなければならない。
「殿」
弥兵衛の声で景継が顔を上げる。
「何です?」
「こちらを」
一通の書状が差し出された。
「どこから?」
「越後です」
景継の手が止まった。
「早いですね」
「小田原から出した書状への返事でしょう」
景継は封を開いた。
長いものではなかった。
景継から話があること。
北条との件を含むこと。
それを受けて、景勝は景継が越後へ来るのであれば会うと返してきている。
ただし。
「……」
「何と?」
「『北条との話について、詳しく聞きたい』と」
「当然でしょうな」
「怒ってます?」
「文字だけで私に分かると思いますか?」
「弥兵衛なら何となく」
「分かりません」
景継はもう一度書状を見る。
「行くしかないですね」
「その前に、やることがございます」
「分かっています」
「本当に?」
「何日ここを空けたと思っているんですか」
「殿がそれを言います?」
「私だから言うんですよ」
弥兵衛がため息をついた。
景継は笑いながら立ち上がった。
「見に行きましょう」
「どこへ?」
「用水です」
「やはりそこですか」
◇
修繕中の用水には、多くの人間が集まっていた。
農民だけではない。
林道家の兵も混じっている。
土を運び、石を積み、水の流れを変える。
景継が来ると、何人かが慌てて手を止めようとした。
「そのままでいいですよ」
景継が声をかける。
「私を見るより、そっちを直してください」
農民たちが顔を見合わせる。
景継は弥兵衛とともに上流へ歩いた。
確かに、報告より酷い。
雨で崩れた土が水路の一部を塞いでいる。
「これなら三日どころか、もっと遅れません?」
「だから人を増やすのでしょう」
「二十人で足ります?」
弥兵衛が作業を取り仕切る男へ確認する。
「あと十人あれば、かなり違います」
「三十人ですね」
景継が言った。
「殿」
「何です?」
「先ほど二十人分の銭を出すと決めたところです」
「十人増えましたね」
「簡単に言わないでください」
「でも遅れたら田植えに響くでしょう?」
「……響きます」
「なら出しましょう」
弥兵衛が頭を抱える。
「北条から何か貰ってくればよかったのでは」
「娘御をいただくことになったのに、さらに銭までくださいとは言えませんよ」
「声が大きい!」
弥兵衛が慌てて周囲を見る。
幸い、作業の音に紛れて聞こえてはいないようだった。
「秘密なのでしょう!」
「あ」
「『あ』ではありません!」
「すみません」
「殿は本当に秘密を守れるのですか?」
「大丈夫です」
「今ので信用がなくなりました」
「一回だけでしょう」
「その一回で漏れるのが秘密です!」
景継が苦笑する。
「気をつけます」
「絶対ですよ」
「はい」
二人が話していると、一人の老人が近づいてきた。
以前、景継にこの土地へ再び戦が来るのかと尋ねた老人だった。
「林道様」
「お久しぶりです」
「小田原へ行かれていたとか」
景継と弥兵衛の動きが一瞬止まった。
「……どこまで聞いています?」
「北条様とお話をされたと」
景継が弥兵衛を見る。
「そこまでは公にして構いません」
「よかった」
「何を安心しておるのです」
老人は不思議そうに二人を見る。
「北条と戦をするので?」
「今のところ、そのつもりはありません」
「では、味方に?」
「それを話し合っています」
景継は曖昧に誤魔化さなかった。
ただし、言う必要のないことまでは言わない。
「大きな戦になるのでしょうか」
老人が尋ねる。
「分かりません」
景継は答えた。
「ただ、なるかもしれません」
「またですか」
「はい」
「せっかく用水を直しても?」
景継は崩れた水路を見る。
「だから直すんです」
「……」
「戦が来るかもしれないから田畑を放っておいたら、戦が来なくても皆が困るでしょう」
老人はしばらく景継を見ていた。
「林道様は、不思議なお方ですな」
「よく言われます」
「天下を取りたいのでしょう?」
「はい」
「それなのに、こんなところまで見に来る」
「天下を取ったら、こういうところがもっと増えるんですよね」
景継は水路を指した。
「それを考えると、最近ちょっと怖くなってきました」
老人が笑った。
「それでも取るので?」
「取ります」
その答えだけは早かった。
◇
数日後。
用水の修繕に追加の人手が入り、橋の工事も進み始めた。
市場についても、新しい取り決めを作った。
街道を使う商人への勝手な徴収を禁じ、林道家の兵による巡回を増やす。
近隣の二つの国人からは、兵を出す話ではなく、街道と市場の利用について返事が届いた。
一方で、軍備も止めてはいない。
新たに加えた百五十人の訓練。
武具の不足。
馬の数。
兵糧の蓄え。
景継は一つずつ確認した。
北条と話をしたからといって、突然林道家が強くなるわけではない。
上杉と北条が戦わなくなったとしても、それだけで天下が転がり込んでくるわけでもない。
結局、自分の力を増やすことは必要だった。
その夜。
景継のもとに、丹羽長秀と池田恒興がやって来た。
「越後へ行くそうだな」
長秀が言った。
「はい」
「北条の次は上杉か」
「そうなります」
恒興が景継を見る。
「何をしておる」
「交渉です」
「それは分かっておる」
「では?」
「何を作ろうとしておるのだ」
景継は少し黙った。
恒興の目は鋭かった。
「北条へ自ら行き、今度は上杉へ自ら行く。ただ挨拶をして回っているわけではあるまい」
「もちろんです」
「ならば何だ」
「北条と上杉に、しばらく戦わないでいただこうと思っています」
長秀の眉が動いた。
「北条と上杉を?」
「はい」
「できるのか」
「分かりません」
「お前は最近そればかりだな」
「氏政様にも言われました」
恒興が腕を組む。
「なぜそんなことをする」
「二つの大国が互いに戦っていると、二つともそこへ力を使います」
「当然だ」
「戦わなくなれば、その力を別のところへ使える」
長秀が景継を見る。
「別のところとは?」
景継は少し笑った。
「それを決めるのは、北条様と上杉様です」
「お前ではない?」
「はい」
「ならば、お前に何の得がある」
「ありますよ」
景継はそれ以上、すぐには答えなかった。
長秀はしばらく景継を見つめる。
「……全部は話すつもりがないな」
「今は」
恒興が鼻を鳴らす。
「わしらまで信用せぬのか」
「信用とは別です」
「では何だ」
「決まっていないことまで話して、皆さんの考えを縛りたくないんです」
「我らの考えを?」
「はい」
景継は二人を見る。
「長秀様にも、恒興様にも、それぞれの立場があります。私が先に大きな話をしてしまえば、それを前提に考えてしまうでしょう」
「……」
「必要になった時に、必要なことをお願いします」
恒興は不満そうだった。
「相変わらず、人を使う気だけは満々だな」
「使えるものは使えと教わりましたので」
「誰にだ」
「勝家様です」
「なら勝家に全部やらせろ」
「それは無理でしょう」
長秀が吹き出した。
「お前たちは、随分と似たやり取りをするようになったな」
「笑い事ではない」
恒興はそう言いながらも、少し口元を緩めていた。
「一つだけ教えろ」
「何でしょう」
「北条は、お前と話す気になったのか」
「はい」
「敵にはならぬ?」
景継は少し考える。
「少なくとも、今すぐ敵になる理由は減りました」
「それだけか」
「十分でしょう」
長秀が頷いた。
「では、上杉も同じか」
「同じようにしたいと思っています」
「北条を得るために、上杉を失うなよ」
「そのつもりはありません」
「ならばよい」
長秀は立ち上がった。
「行ってこい」
「ありがとうございます」
「ただし」
「はい?」
「帰ってきたら、もう少し説明しろ」
「……考えておきます」
「説明すると言え!」
景継が笑った。
◇
翌朝。
越後へ向かう一行が城を出た。
今回も弥兵衛が同行している。
「結局、私も行くのですな」
「嫌ですか?」
「嫌と言えば置いていってくださるので?」
「いいえ」
「なら聞かないでください」
「会話ですよ」
「殿の会話は時々面倒です」
二人の馬が街道へ出る。
しばらく進んだところで、弥兵衛が口を開いた。
「殿」
「何です?」
「景勝様には、最初から婚姻の話を?」
「します」
「どのように?」
「そのままです」
「そのまま?」
景継は前を向いたまま答えた。
「北条氏政様の娘、楓姫様との婚姻を受けることになりました、と」
「その直後に?」
「北条との戦を三年ほど止めていただけませんか、と」
弥兵衛が顔をしかめる。
「やはり怒られそうですな」
「でしょう?」
「何か手土産はないのですか」
「ありますよ」
「何を?」
景継は少しだけ笑った。
「上杉様が、北条と戦わなくてもいい時間です」
「それは手土産なので?」
「北条様にも同じものを渡します」
弥兵衛は考え込んだ。
北条には、上杉と戦わなくてよい時間。
上杉にも、北条と戦わなくてよい時間。
どちらか一方だけが得をする話ではない。
「ですが」
「はい」
「その時間を、両家が何に使うかは分からない」
「そうですね」
「それでよいのですか?」
「そこまで私が決めたら、二人とも私の家臣みたいでしょう」
「違いますな」
「だからいいんです」
景継は静かに言った。
「私は上杉様を動かしたいわけではありません」
「では?」
「動けるようにしておきたいんです」
弥兵衛が景継を見る。
「北条も?」
「はい」
「勝家様も?」
景継は答えなかった。
「……殿?」
「さて」
「今の間は何です?」
「何でもありません」
「絶対に何か考えておりますな」
「考えるくらいはいつもしていますよ」
「教えてください」
「まだ駄目です」
「私にも?」
「弥兵衛にも」
「信用がない」
「違います」
景継は笑った。
「まだ形になっていないんです」
北条。
上杉。
柴田。
信孝。
利家。
長秀。
一益。
恒興。
そして自分。
誰も同じ立場ではない。
誰も同じ目的だけで動いているわけでもない。
だからこそ、全員を一つの命令で動かそうとは思わない。
そんなものは、一人が拒めば崩れる。
必要なのは。
それぞれが、自分の理由で動ける状態だった。
景継は前を向いた。
その考えが本当に形になるのか。
まだ分からない。
形になったとして、いつ使うことになるのかも分からない。
秀吉が次にどこへ動くのか。
信雄が何を選ぶのか。
家康がいつまで静かにしているのか。
何一つ決まってはいない。
だから、今できることを増やしておく。
選べる道を、一つでも多く。
「殿」
「はい?」
「越後が見えてきました」
遠くに山々が連なっていた。
その向こうに、上杉景勝がいる。
北条との婚姻を決めた景継が、次に会う相手。
かつて勝家を救うため、景継と手を結んだ男。
今度は。
北条との戦を止めてほしいと頼む。
景継は小さく息を吐いた。
「行きましょうか」
「はい」
「怒られないといいですね」
「無理では?」
「弥兵衛」
「何でしょう」
「少しは主君を励ましてください」
「では」
弥兵衛は少し考えた。
「怒られるだけで済むよう願っております」
「全然励まされませんね」
二人は笑いながら馬を進めた。
そして数日後。
越後。
上杉景勝の前に座った景継は、挨拶を終えると余計な前置きをしなかった。
「景勝様」
「何だ」
「まず、先にお伝えしておかなければならないことがあります」
景勝が景継を見る。
「申せ」
「北条氏政様の娘、楓姫様との婚姻を受けることになりました」
沈黙が落ちた。
景勝の表情は動かなかった。
景継は続ける。
「そのうえで、お願いがあります」
隣に座る弥兵衛が、ほんの少しだけ顔を伏せた。
景継はまっすぐ景勝を見る。
「北条との戦を」
一拍置いた。
「三年ほど、止めていただけませんか」
景勝は何も言わなかった。
長い沈黙の後。
ようやく、その口が開いた。
「景継」
「はい」
「お前は」
景勝の目が細くなる。
「わしを怒らせに越後まで来たのか」
「……やっぱり怒りますよね」
弥兵衛が小さく息を吐いた。
景継と上杉景勝の交渉は
予想通り、簡単には始まらなかった。




