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『乱世にて、我は待つ』~知略を秘めた軍師は、やがて天下を動かす~  作者: ダイヤマ
第七章 覇道布石編

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第百三十二話 東と北の間で



 楓との話を終えた景継は、そのまま北条氏政のもとへ戻った。


 広間には氏政と氏直が待っていた。


 弥兵衛もすでに戻っている。


 景継が座ると、氏政は開口一番に尋ねた。


「どうであった」


「お受けいただけました」


「そうか」


 氏政はそれだけ答えた。


 あまりにも反応が薄い。


 景継が首を傾げる。


「もう少し喜ばれるかと思いました」


「なぜわしが喜ばねばならん」


「娘御の婚姻が決まったのですが」


「お前が相手なのだぞ」


「……それはどういう意味です?」


「そのままの意味だ」


 氏直がわずかに顔を伏せた。


 笑っているようにも見える。


「氏直様まで」


「いや、私は何も」


「顔に出ていますよ」


「申し訳ない」


 氏直はそう言いながらも、完全には笑みを消せなかった。


 氏政が二人を無視して話を戻す。


「それで?」


「はい?」


「楓は何と言っておった」


「私が間違っていると思った時は、本当に止めるそうです」


 氏政の眉が動いた。


「……何の話だ」


「私がそう言いましたので」


「お前は娘に何を約束してきた」


「意見を聞くと」


「それだけか?」


「従うとは約束していません」


「ならばよい」


「そこはいいんですか?」


「何でも妻の言う通りにする男に、天下を任せられるか」


「なるほど」


 景継は妙に納得した。


 氏政がため息をつく。


「婚姻については、これでよい」


「はい」


「だが、まだ終わっておらぬぞ」


「もちろんです」


 景継の表情が変わった。


 ここからが、本来の交渉だった。


 氏政の前に置かれていた書状が広げられる。


 昨日まで話し合った内容。


 林道家と北条家の関係。


 互いの領域へ軽々しく兵を入れないこと。


 秀吉の勢力拡大について情報を交換すること。


 そして、景継が仲介する上杉との一時的な停戦。


「三年」


 氏政が言った。


「はい」


「本当に景勝が飲むと思うか」


「分かりません」


「またそれか」


「まだ話していませんから」


「お前は昨日から、分からぬことばかりだな」


「分からないものを分かると言う方が危ないでしょう」


「それで天下を取れるのか?」


「分からないから準備するんです」


 氏政が景継を見た。


 昨日から何度も聞いた考え方だった。


 未来が分からない。


 だから一つの結果に賭けない。


 相手が思い通りに動くとも考えない。


 そのうえで、自分にとって悪くない形を少しずつ増やしていく。


「では聞こう」


 氏政が言った。


「景勝が断れば?」


「北条様との話は、その部分だけ成立しません」


「我らとの縁も切るのか」


「いいえ」


「ならばどうする」


「別の形を考えます」


「例えば?」


「北条と上杉が直接戦わない地域を限定する。期間を短くする。互いに兵を動かす時の条件を決める。できることはいくつかあります」


「それでも景勝が断れば?」


「諦めます」


 氏政が目を細めた。


「随分と簡単に言うな」


「上杉様には上杉様の都合がありますから」


「お前の天下取りに必要なのであろう?」


「必要と、絶対に必要は違います」


 景継は即答した。


「一人が動かなければ崩れるような形にはしたくありません」


 弥兵衛が景継を見る。


 最近、何度も聞くようになった言葉だった。


 以前の景継なら、相手の考えを読み、その先を読んで動くことにもっと重きを置いていた。


 今もそれは変わらない。


 だが、読みが外れた時にどうするか。


 そこまでを最初から考えるようになっている。


「三年という期間にもこだわりません」


 景継は続けた。


「二年なら二年。一年なら一年。それでも意味はあります」


「短すぎれば意味がないぞ」


「まったくないよりはいいでしょう」


 氏政が小さく笑った。


「欲がないのか、欲深いのか分からぬ男だ」


「欲深いですよ」


「自分で言うか」


「天下が欲しいと言っているんですから、今さらでしょう」


 氏直が口を開いた。


「父上」


「何だ」


「私は三年でよいと思います」


 氏政が息子を見る。


「理由は」


「上杉が飲むのであれば、ですが」


 氏直は地図へ視線を落とした。


「三年間、北を気にする必要が減る。その間に我らが東や南へ目を向けられる利は小さくありません」


「完全に気にしなくてよいわけではないぞ」


「承知しております」


 氏直は景継を見る。


「林道殿も、上杉が絶対に約定を守るとは言っていない」


「はい」


「ならば我らも、守られることを前提にはしない。ただ、破った時に何を失うかを明確にする」


 景継が頷く。


「その方がいいと思います」


 氏政が二人を交互に見た。


「景勝が破れば?」


「北条様は、その時点で縛られない」


「我らが破れば?」


「上杉様も同じです」


「お前は?」


「林道家は、破った側には加担しません」


 氏政の目が鋭くなった。


「北条と婚姻してもか」


「はい」


「楓を娶っても?」


「はい」


 景継は氏政を正面から見た。


「婚姻したから北条様が何をしても味方する、では約定の意味がありません」


「我らと上杉が再び争えば、妻の実家を見捨てるのか」


「どちらが先に約定を破ったかによります」


「北条が破れば?」


「止めます」


「それでも止まらなければ」


「加担しません」


 広間の空気が少し重くなる。


 弥兵衛は黙っていた。


 氏直も父の反応を見ている。


 氏政はしばらく景継を睨むように見ていたが、やがて口元を緩めた。


「それでよい」


「……試しました?」


「当たり前だ」


「娘を嫁がせる相手を試しすぎでは?」


「天下を取ると言っている男なのだ。いくら試しても足りぬ」


「それは確かに」


「納得するな」


 氏政が呆れたように言った。


 だが、その表情は悪くなかった。


 婚姻した途端に北条へ都合のいいことを言い始める男なら、それこそ信用できない。


 昨日まで言っていたことを、今日も言える。


 それを氏政は確かめたかった。


「では」


 氏政が書状を閉じた。


「我らの側は、これでよい」


「ありがとうございます」


「礼を言うのはまだ早い」


「上杉様ですね」


「ああ」


 氏政の声が低くなる。


「景勝を納得させてみせよ」


「やってみます」


「できると言わぬのだな」


「交渉ですから」


 景継は笑った。


「私一人で決められるなら、交渉とは言いません」


          ◇


 その日の夕刻。


 景継と弥兵衛は、小田原城内に用意された部屋へ戻っていた。


 弥兵衛が荷を整理する傍ら、景継は机に向かっている。


 目の前には二通の書状があった。


 一通は、北条との交渉内容を林道家側へ知らせるもの。


 もう一通は――上杉景勝へ送るものだった。


「本当に書かれるのですか」


 弥兵衛が尋ねた。


「何をです?」


「婚姻のことです」


「書きますよ」


「氏政様は秘密にすることを認めております」


「上杉様には別です」


 景継は筆を止めなかった。


「北条と上杉の争いを一時止めてほしいと頼むんです。その仲介をする私が、北条の娘御と婚姻することを隠していたらどう思います?」


「北条側に立ったと思われるでしょうな」


「でしょう?」


「ですが、書状が誰かの手に渡れば」


「だから全部は書きません」


 弥兵衛が景継を見る。


「では?」


「私自身が行きます」


「……またですか」


「またですね」


「小田原まで来て、今度は越後ですか」


「忙しくなりましたね」


「誰のせいです?」


「秀吉様?」


「殿です」


「そうですか」


「そうです」


 弥兵衛はため息をついた。


「せめて一度、領地へ戻りませんか」


「戻りますよ」


「本当に?」


「さすがに確認したいことが多いですから」


「用水ですか」


「用水もです」


「橋も?」


「橋も」


「兵も?」


「もちろん」


 弥兵衛が少し安心した。


 景継が天下へ目を向けるほど、自分の足元が疎かになるのではないか。


 弥兵衛はそれを心配していた。


 だが景継は、小田原まで来ても領地の用水を気にしている。


 少なくとも今のところは、大丈夫らしい。


「戻って状況を確認したら、越後へ行きます」


「勝家様には?」


「話します」


「長秀様たちには?」


「北条と話したことまでは」


「婚姻は?」


 景継が止まった。


「……まだいいでしょう」


「なぜです?」


「決まったとはいえ、まだ正式な輿入れをするわけではありませんし」


「それだけですか?」


「それだけですよ」


 弥兵衛が景継を見る。


「本当に?」


「……勝家様が知ったら面倒そうだなとは思っています」


「やはり」


「だって絶対に騒ぐでしょう」


「それは否定しません」


 景継は苦笑した。


「必要な時には話します」


「分かりました」


「それまでは弥兵衛も」


「もちろん黙っております」


 弥兵衛はそこで少し間を置いた。


「しかし」


「何です?」


「殿」


「はい」


「北条の姫君を娶るということは、林道家にとって非常に大きな話でございます」


「分かっています」


「本当に?」


「分かっていますよ」


「ならばもう少し嬉しそうにされては?」


「嬉しいですよ」


「そう見えません」


「まだ実感がないんです」


 景継は筆を置いた。


「昨日会ったばかりですから」


「それはそうですが」


「それに」


 景継は少し笑った。


「今は、結婚より上杉様にどう話すかの方が怖いです」


「……確かに」


 弥兵衛も考える。


 北条氏政の娘との婚姻を決めた直後に、上杉景勝のもとへ赴く。


 しかも目的は。


 北条との戦いを一時止めてほしい。


 どう考えても簡単な話ではない。


「怒られますかね」


「私に聞かないでください」


「怒られたらどうしましょう」


「策は?」


「……ありません」


「またですか」


「正直に話すしかないでしょう」


 景継は再び筆を取った。


 策がないわけではない。


 上杉にも利はある。


 北条との戦いを止めれば、上杉も別の方向へ力を使える。


 北陸。


 越中。


 あるいは中央の動き。


 秀吉がこれ以上大きくなることが上杉にとって本当に望ましいのか。


 そこを話すことはできる。


 だが最後に決めるのは景勝だ。


 景継ではない。


「弥兵衛」


「はい」


「北条様との婚姻が決まったからといって、上杉様との関係を軽く扱わないようにしましょう」


「もちろんです」


「むしろ逆です」


 景継は書状へ目を落とした。


「先に北条様と縁を結んだからこそ、上杉様には今まで以上に誠実に話さないといけない」


「疑われぬために?」


「それもあります」


「他には?」


「上杉様にとっても、私と付き合う意味を残すためです」


 弥兵衛が少し考えた。


「北条と結んだから上杉を捨てる、ではないと」


「はい」


「両方と付き合うおつもりですか」


「できれば」


「欲張りですな」


「天下を取ると言っている人間に、今さらそれを言います?」


 弥兵衛が笑った。


「確かに」


          ◇


 翌日。


 景継が小田原を発つ前に、氏政と最後の挨拶を交わした。


「次は越後か」


「一度戻ってからですが」


「景勝に何と話す」


「北条様との話を、そのまま話します」


「婚姻もか」


「はい」


 氏政の眉がわずかに動く。


「秘密にするのではなかったか」


「秀吉様たちには、です」


「景勝はよいと?」


「隠した方が危ないと思います」


「なぜだ」


「逆に考えてください」


 景継は言った。


「氏政様のところへ私が来て、『上杉との戦を止めてください』と頼んだとします」


「今そうしておるな」


「その私が、実は昨日、上杉の娘御との婚姻を決めていた」


「……」


「それを隠していたと後で知ったら?」


 氏政の顔が険しくなる。


「二度と信用せぬ」


「でしょう?」


「分かった」


 氏政は頷いた。


「景勝には話せ」


「ありがとうございます」


「ただし、そこから秀吉へ漏れぬようにせよ」


「できる限りは」


「絶対とは言わぬのだな」


「氏政様も、もう分かっているでしょう」


 氏政が鼻を鳴らした。


「本当に可愛げのない婿だ」


「まだ婿になってませんよ」


「なるのであろう」


「楓姫様が気を変えなければ」


「お前はまだ娘を迷わせる気か!」


「違いますって」


 氏直が横で笑った。


 その時。


 廊下の向こうから、一人の侍女が現れた。


 その後ろに楓がいる。


「父上」


「どうした」


「林道様がお発ちになると聞きましたので」


 楓は景継へ向き直った。


「もう小田原を出られるのですね」


「はい」


「次は越後へ?」


「その前に自分の領地へ戻ります」


「また用水ですか?」


 氏政と氏直が景継を見る。


「……楓姫様」


「はい」


「その話、覚えていたんですか」


「大事なのでしょう?」


「大事です」


「でしたら、きちんと直してから越後へ行ってください」


 景継が少し笑った。


「そうします」


 楓も微笑む。


「それから」


「はい」


「上杉様とのお話がうまくいくことを願っております」


 氏政が娘を見る。


「北条の姫が上杉との話がうまくいくことを願うか」


「北条のためでもあるのでしょう?」


 楓は父へ答えた。


「林道様がそう仰っていました」


 氏政は一瞬黙り、それから笑った。


「もう影響されておるではないか」


「まだ一日しかお話ししておりません」


「一日でそれなら十分だ」


「氏政様」


 景継が口を挟む。


「私のせいにしないでください」


「お前以外に誰がおる」


 景継は困ったように笑った。


 やがて、出立の時が来た。


 景継と弥兵衛が馬へ乗る。


 供の者たちが続く。


 小田原城を振り返ると、景継は少しだけ目を細めた。


「殿」


「何です?」


「これで北条は味方になったのでしょうか」


 景継はすぐには答えなかった。


「味方という言い方は、まだ少し違う気がします」


「では?」


「北条様は北条様のために動く」


「はい」


「私たちは私たちのために動く」


「それで?」


「互いに同じ方が得なら、一緒に動けます」


 弥兵衛が頷く。


「上杉様も?」


「そうなってくれると助かります」


「北条と上杉が、同じ方を向きますかね」


「同じ方を見る必要はありませんよ」


 景継は前を向いた。


「しばらく、お互いを見なければいいんです」


 北条と上杉。


 長く争ってきた二つの大国。


 その間から、ほんの一時だけでも戦を取り除く。


 それができれば、二つの国は別の場所を見ることができる。


 北条は北条のために。


 上杉は上杉のために。


 誰も景継の家臣になる必要はない。


 誰も景継の命令で動く必要もない。


 それでも。


 それぞれが自分の利益のために動いた結果、同じ一人の男にとって都合の悪い状況が生まれることはある。


 景継はまだ、その先を口にしなかった。


 北条氏政との間で交わした、もう一つの話についても。


 弥兵衛にさえ、すべては話していない。


 いつ必要になるか分からないからこそ、今はまだ伏せておく。


 まずは足元を固める。


 そして次は――越後。


「さて」


 景継が手綱を握り直した。


「景勝様に、怒られに行きましょうか」


「怒られる前提なのですか」


「北条の娘御と婚姻することになりました。そのうえで北条と戦うのを止めてください、と頼むんですよ?」


「……怒られそうですな」


「でしょう?」


「殿」


「はい」


「今から戻りませんか」


「どこへ?」


「小田原へ」


「何でです?」


「私まで一緒に怒られるのは嫌になってきました」


「駄目です」


「即答ですか」


「弥兵衛も一緒です」


「こういう時だけ主君らしく命令しないでください」


 景継が笑った。


 二人の馬が西へ進んでいく。


 その先には、景継がようやく手に入れた自分の領地がある。


 そしてさらにその先。


 越後には、上杉景勝がいる。


 北条との縁を得ただけでは、まだ足りない。


 東の大国と北の大国。


 その二つの間に、わずかな時間を作る。


 それが何を生むことになるのか。


 この時点では、まだ誰にも分からなかった。

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