第百三十一話 姫が見るもの
翌朝。
景継が目を覚まして最初に聞いたのは、北条との交渉の話でも、上杉との停戦条件の話でもなかった。
「楓姫様から?」
「はい」
弥兵衛が答える。
「本日、もう一度お話ししたいとのことでございます」
「氏政様ではなく?」
「楓姫様からです」
「……何を話すんでしょう」
「私に聞かれても困ります」
「昨日かなり話しましたよね」
「殿が本人に決めてもらうと言ったのでしょう」
「言いましたけど」
景継は少し考えた。
「婚姻って大変ですね」
「まだ婚姻しておりません」
「する前からこれなら、した後はもっと大変なんでしょうか」
「私は知りません」
「弥兵衛」
「何でしょう」
「今日、代わりに――」
「行きません」
「まだ何も言ってませんよ」
「どうせ代わりに楓姫様と話してこいと仰るのでしょう」
「長い付き合いって怖いですね」
「殿が分かりやすすぎるのです」
景継が小さく笑った。
「分かりました。行ってきます」
「当たり前です」
立ち上がった景継に、弥兵衛が一枚の書状を差し出した。
「それと、こちらも」
「何です?」
「昨日までの交渉内容をまとめたものです。北条側から修正が入っております」
景継の表情が変わる。
書状を受け取り、目を通した。
北条と林道家の関係。
上杉との一時的な停戦。
秀吉の動向についての情報交換。
互いの領地と立場を尊重すること。
まだ正式に結ばれたわけではない。
特に上杉との停戦については、景勝の了承が必要になる。
「婚姻が決まれば、こちらも一気に進みそうですね」
「おそらく」
「逆に決まらなかったら?」
「氏政様がどこまで条件を変えるかでしょうな」
「ですよね」
景継は書状を畳んだ。
北条との交渉は重要だった。
それでも。
だから楓に婚姻を受けろとは言いたくなかった。
「行ってきます」
「はい」
景継が歩き出す。
弥兵衛はその背中を見送ってから、小さく呟いた。
「戦へ行く時より緊張しておられるではないか」
「聞こえてますよ」
「聞こえるように申しました」
◇
楓姫が待っていたのは、昨日の広間ではなかった。
小田原城の一角。
庭を望む部屋だった。
当然、完全に二人きりではない。
少し離れた場所には北条の侍女たちが控えている。
景継が入ると、楓は頭を下げた。
「お呼び立てして申し訳ございません」
「いえ。私も話した方がいいと思っていました」
「本当ですか?」
「……半分くらいは」
楓が笑う。
「残り半分は?」
「何を聞かれるのか怖いです」
「天下を望む方でも、怖いものがあるのですね」
「たくさんありますよ」
景継は楓の向かいへ座った。
「秀吉様も怖いですし、戦も怖い。領地を持ってからは米が足りなくなるのも怖くなりました」
「米?」
「兵は食べますから」
「それはそうでしょうけれど……」
「用水が壊れるのも困ります。橋が壊れるのも困る。商人が来なくなるのも困る」
楓が景継を見つめる。
「天下人というより、村の庄屋のようなお話をされるのですね」
「最近、私もそう思います」
楓がまた笑った。
昨日より、少し話しやすい。
だが今日は、ただ景継の人柄を知るためだけに呼んだわけではなかった。
「林道様」
「はい」
「昨日、一つ聞けなかったことがあります」
「何でしょう」
「なぜ天下を望まれるのです?」
景継の表情が変わった。
楓は続ける。
「父から聞きました。林道様は、織田家を奪うつもりはない。それでも御自分の家で天下を取ると仰っていると」
「はい」
「なぜです?」
景継はすぐには答えなかった。
庭へ視線を向ける。
前世。
司馬懿仲達として生きた人生が、一瞬だけ頭をよぎった。
曹操に仕え。
曹丕に仕え。
曹叡に仕え。
魏という国の中で生きた。
力を持った。
多くのものを手にした。
そして最後まで、誰かが作った国の中にいた。
今世でも。
信長の下で戦った。
信長は曹操だった。
二度も、自分はあの男の下にいた。
だが三度目はない。
「自分のものが欲しくなったんです」
景継が答えた。
「自分のもの?」
「はい」
「天下が?」
「そう言うと、とても欲深く聞こえますね」
「実際、欲深いのでは?」
「否定できません」
景継は少し笑った。
「長い間、人の下で生きてきました」
「信長様の?」
「それもあります」
楓はその言葉に少し引っかかったようだった。
だが景継は、それ以上説明しなかった。
「上様の天下を受け継ぐこともできたかもしれません。織田家の中で、もっと大きな力を持つ道もあった」
「それでは駄目だったのですか?」
「駄目というより」
景継は言葉を選んだ。
「それでは結局、上様が作ったものの続きを生きるだけだと思ったんです」
「……」
「一度くらい、自分で最初から作ってみたくなりました」
「国を?」
「はい」
景継は頷いた。
「林道家の国を」
楓は黙って景継を見ていた。
「そのために、多くの人が死んでも?」
景継の笑みが消えた。
「死ぬでしょうね」
「……」
「私が天下を望まなくても、戦がなくなるとは思っていません」
「だから自分が戦う?」
「それだけではありません」
景継は少し考えた。
「天下を取りたいから取る。それも本当です」
楓がわずかに目を見開く。
「民のためだけだと言った方が、聞こえはいいでしょうけど」
「言わないのですね」
「嘘になりますから」
景継は続けた。
「ただ、取るなら取った後まで責任を持ちたい」
「取った後?」
「領地を一つ持っただけでも分かりました」
景継は苦笑する。
「戦に勝った翌日から、田畑と用水と橋と米の話ばかりです」
「先ほどから、そればかりですね」
「大事なんですよ」
「分かりました」
「本当に?」
「林道様が非常に気にしていることだけは」
「それで十分です」
楓は少し笑った。
だが、すぐに真剣な顔へ戻る。
「では、もう一つ」
「はい」
「林道様が天下を取った時」
楓の声が静かになる。
「北条は、本当に残るのでしょうか」
景継は楓を見た。
「父上の前ではなく、私に答えてください」
「……」
「私は北条の娘です」
楓は目を逸らさなかった。
「もし林道様に嫁げば、林道の妻になります。それでも北条がどうなるかを気にすると思います」
「当然でしょうね」
「その時、私はどちらなのでしょう」
景継が少し眉を寄せる。
「どちら?」
「北条でしょうか。それとも林道でしょうか」
景継は考えた。
「両方では駄目ですか?」
楓が瞬きをした。
「両方?」
「北条氏政様の娘であることは、私と結婚しても変わらないでしょう」
「ですが林道の妻にもなります」
「それも変える必要はないと思います」
「もし北条と林道が争えば?」
「困ります」
「そうではなく」
「分かっています」
景継は少し息を吐いた。
「その時は、私が何とかします」
「どうやって?」
「そうならないようにします」
「もし、なったら?」
「……その時に考えます」
楓が景継をじっと見る。
「それは答えになっておりません」
「そうですね」
「天下を取ろうという方なのに」
「天下を取ろうとしているからこそ、分からないことを分かったふりはしたくありません」
楓は黙った。
「ただ」
景継は続ける。
「私が北条を攻めたいと思った時、楓姫様が『やめてください』と言える夫婦にはしたいと思います」
「私が?」
「はい」
「妻が政に口を出すことを許すのですか?」
「意見くらい聞きますよ」
「従うとは限らない?」
「それは約束できません」
景継は正直に答えた。
「でも聞きます」
「……」
「私が間違っていると思えば、止めてください」
楓は景継を見つめた。
「止まりますか?」
「内容によります」
「そこは、止まると言ってくださらないのですね」
「何でも止まる夫では困るでしょう」
「それは……そうかもしれません」
楓が小さく笑った。
「ですが、聞きもしない夫よりはいいと思います」
景継も笑う。
「それならよかったです」
◇
それから二人は、しばらく別の話をした。
楓が小田原のことを話した。
景継は自分が最初に得た領地のことを話した。
高坂領を手に入れた翌日から、帳面ばかりを見ることになったこと。
兵を二百人近く雇いたいと言われたのに、土地が養える人数を考えて百五十人に抑えたこと。
用水の修繕に思った以上の銭がかかること。
楓は時々笑いながら聞いていた。
「林道様」
「はい」
「本当に天下を取られる方なのですか?」
「そのつもりなんですが」
「昨日から聞いている話の半分が、米と道と橋です」
「天下に必要ですよ」
「戦のお話は?」
「必要になればします」
「戦はお嫌いなのですか?」
景継は少し考えた。
「勝つのは好きです」
「では戦も?」
「戦わずに勝てるなら、その方が楽です」
「武将らしくありませんね」
「よく言われます」
「それも?」
「いえ、それは今初めて言われました」
「では私が最初ですね」
「そうなります」
楓は少し嬉しそうに笑った。
その時だった。
「一つ、お願いがあります」
景継が言った。
「何でしょう」
「もし婚姻を受けるのであれば」
「はい」
「しばらく公にはしないでいただきたいんです」
楓の表情が変わった。
「婚姻を隠すのですか?」
「正確には、約定を結んだことをです」
「なぜ?」
景継は少し考えた。
「今、北条と林道が婚姻で結ばれたと知れば、動く人が多すぎます」
「秀吉様ですか」
「まずは」
楓は驚いた。
「父上から聞きました。羽柴秀吉様と争っておられると」
「はい」
「では、北条との縁を見せた方が有利なのでは?」
「今は、見せない方が使えると思っています」
楓の目が少し細くなった。
「使う?」
「すみません。言い方が悪かったですね」
「いいえ」
楓は首を振った。
「続けてください」
景継は頷いた。
「北条様が私と結んだと皆が知れば、秀吉様は北条を敵として考えます」
「はい」
「そうなれば、北条様が何をするかも考えやすくなる」
「……」
「逆に、どこまで話が進んでいるか分からなければ」
景継はそこで止めた。
「秀吉様は、北条様を完全な敵とも味方とも決められません」
「その方が困る?」
「私はそう思っています」
楓はしばらく景継を見ていた。
「林道様」
「はい」
「先ほどまで米と橋のお話をされていた方と、同じ方ですよね?」
「一応」
「少し安心しました」
「何がです?」
「本当に天下を取ろうとしているのだと」
景継が苦笑した。
「疑っていたんですか?」
「少しだけ」
「酷いですね」
「だって、米のお話ばかりでしたから」
二人が笑う。
だが景継は、すぐに表情を戻した。
「もちろん、氏政様にも正式にお願いします」
「私だけに決められる話ではありませんからね」
「はい」
「上杉様には?」
景継が楓を見る。
「何がです?」
「婚姻のことです」
「……」
「上杉との停戦を求めるのでしょう?」
「はい」
「その上杉に、北条と婚姻したことを隠すのですか?」
景継は少しだけ驚いた。
楓は静かに続ける。
「後から知られれば、上杉はどう思うでしょう」
景継は答えなかった。
やがて小さく笑った。
「楓姫様」
「はい」
「それ、氏政様から教わりました?」
「いいえ」
「そうですか」
「何かおかしなことを?」
「逆です」
景継は頷いた。
「上杉様には話します」
「よろしいのですか?」
「はい」
景継はすぐに決めた。
「上杉様に北条との争いを止めてほしいと頼むのに、婚姻を隠すのは失礼でしょう」
「では秘密ではなくなるのでは?」
「知る人を選びます」
景継は指を折った。
「北条側でもごく一部。私の側も必要な者だけ。そして上杉景勝様」
「柴田様たちには?」
「……」
景継が少し考え込む。
「勝家様に言うと、声が大きいんですよね」
楓が吹き出した。
「それが理由ですか?」
「半分は冗談です」
「残り半分は?」
「必要になれば話します」
「またそれですね」
「便利なんですよ」
「少し分かってきました」
楓は笑った。
◇
話が終わりに近づいた頃。
楓は庭へ目を向けた。
昨日から考えていた。
父が持ってきた縁談。
相手は二十二も年上。
しかも天下を狙っている。
普通に考えれば、穏やかな人生になるはずがない。
この男が敗れれば、自分も巻き込まれる。
勝てば勝ったで、天下を巡る争いの中心へ近づく。
だが。
目の前の男は、自分に都合のいいことだけを言わなかった。
戦が続くと言った。
死ぬかもしれないと言った。
北条と争う可能性すら、絶対にないとは言わなかった。
それでも、自分の意見を聞くと言った。
そして。
天下を取るという一点だけは、一度も揺らがなかった。
「林道様」
「はい」
「昨日の答えを申し上げてもよろしいでしょうか」
景継が姿勢を正した。
「もう決めたんですか?」
「はい」
「もう少し考えてもいいんですよ」
「林道様」
「はい」
「今、私が決めようとしているのに、なぜ迷わせるのです?」
景継が黙った。
「……最近、似たようなことを言われました」
「どなたに?」
「池田恒興様です」
「何と?」
「せっかく決めてきたのに、お前が迷わせてどうする、と」
楓が笑った。
「では、二度目です」
「気をつけます」
楓は景継をまっすぐ見た。
「この婚姻」
景継は待った。
「お受けいたします」
景継の表情がわずかに変わった。
「本当に?」
「また迷わせるおつもりですか?」
「いえ」
景継は小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
「ただし」
「……条件があります?」
「一つだけ」
「何でしょう」
「先ほど仰いましたね」
「何をです?」
「林道様が間違っていると思った時は、止めてもよいと」
「はい」
「では、本当に止めます」
景継が少し笑った。
「分かりました」
「嫌がっても?」
「話は聞きます」
「従うとは言わない?」
「そこは約束できません」
楓も笑った。
「それで構いません」
こうして。
林道景継と北条氏政の娘・楓。
二人の婚姻は、本人同士の間でも合意された。
だが、この時点でそれを知る者はまだ少ない。
天下を狙う林道景継と、関東の大国・北条。
二つの家が血縁で結ばれようとしていることを、秀吉はまだ知らない。
そして景継は、この婚姻だけで北条との交渉を終えるつもりもなかった。
楓との話を終えた景継は、再び氏政のもとへ向かった。
残っている話がある。
上杉との停戦。
北条との約定。
そして――
昨日、氏政にだけ伝えた、もう一つの頼み。
それが必要になる日がいつ来るのか、景継にもまだ分からない。
だからこそ。
必要になる前に、準備しておく。
待つために。
いつでも動けるように。




