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『乱世にて、我は待つ』~知略を秘めた軍師は、やがて天下を動かす~  作者: ダイヤマ
第七章 覇道布石編

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第百三十話 縁を結ぶということ



「我が娘を娶れ」


 北条氏政の言葉を聞いてから、しばらく景継は動かなかった。


 小田原へ来るまでに、いくつもの条件を想定していた。


 金を求められる。


 領地について約束を求められる。


 上杉との停戦に厳しい条件をつけられる。


 あるいは、秀吉との戦いにおいて林道家がどこまで北条を守れるのかを問われる。


 その程度なら、いくらでも考えてきた。


 だが。


「……殿」


 隣に控えていた弥兵衛が、小さな声をかける。


「何です?」


「こういう時の策は?」


「……ありません」


 景継は正直に答えた。


 氏政の口元に笑みが浮かぶ。


「天下を取ろうという男が、婚姻一つで随分と困るのだな」


「戦や領地の話なら、もう少し考えようがあるんですが」


「婚姻も戦と変わらぬ」


「私はそう思ったことがありません」


「だから困っておるのだろう」


「はい」


 あっさり認めると、氏政が笑った。


 景継は少し考えてから尋ねた。


「一つ、よろしいですか?」


「何だ」


「娘御は、おいくつです?」


「十九だ」


「……十九」


 景継が止まった。


 弥兵衛が横を見る。


 氏直も景継の反応を窺っている。


「どうした」


「いえ……」


 景継は自分を指した。


「私は四十一ですよ?」


「知っておる」


「二十二も違います」


「計算くらいできる」


「そういうことではなくてですね」


「何が問題だ」


 氏政は本当に不思議そうだった。


「婚姻であろう。お前と北条の縁を結ぶためのものだ。歳が二十二離れているから何だというのだ」


「……私の方が気にしているのがおかしいんでしょうか」


 景継が弥兵衛を見る。


「私に聞かないでください」


「弥兵衛ならどう思います?」


「北条との縁談を私に置き換えて考えること自体が間違っております」


「確かに」


「納得するところですか?」


 氏政が二人のやり取りを見ながら鼻を鳴らした。


「歳の差が気になるから断るというのか」


「いえ」


 景継は首を振った。


「北条との婚姻が持つ意味は分かります」


 氏政の表情が戻る。


 ここからは、笑い話ではない。


 景継と北条氏政の娘が婚姻する。


 それは単に男女が夫婦になるという話ではなかった。


 林道家と北条家が血縁で結ばれる。


 景継が天下を取れば、北条は天下人の縁戚となる。


 そして景継にとっても、関東の大勢力である北条を簡単に切り捨てられなくなる。


 氏政が求めているのは、言葉ではない。


 形だった。


「昨日、お前は言ったな」


 氏政が口を開く。


「人は状況が変われば考えも変わる、と」


「はい」


「今のお前は北条を滅ぼすつもりがない。それは本当なのだろう」


「本当です」


「だが、五年後は?」


 景継は答えなかった。


「十年後は?」


「……」


「お前が畿内を押さえ、織田を越え、秀吉を倒し、今とは比べものにならぬ兵を持った時。それでも同じことを言うと、どう証明する」


 景継は氏政を見た。


「できません」


「そうであろう」


「はい」


 景継自身が、人の心は変わると言っている。


 今の自分が未来の自分を完全に保証することなどできない。


「ならば縛れ」


 氏政は言った。


「お前自身を」


 その声から、先ほどまでの笑みは消えていた。


「我が娘を娶れば、北条はお前の妻の実家となる」


「……」


「お前が天下を取った後、北条を滅ぼそうとすれば、自らの妻の家を滅ぼすことになる」


「そうですね」


「それでも絶対ではない」


「はい」


「だが、言葉よりは重い」


 景継は頷いた。


 そこは否定できなかった。


「それに」


 氏政の目が細くなる。


「北条にも利がある」


「天下を取れれば、ですね」


「取るつもりなのであろう?」


「そのつもりです」


「ならば我らも、それに賭ける」


 氏政は堂々と言った。


「お前が天下を取れば、北条は天下人の縁戚となる」


 景継が少し笑った。


「私が負けたら?」


「見る目がなかったと諦める」


「ずいぶん大きな賭けですね」


「だから、お前を見ている」


 氏政は景継をまっすぐ見据えた。


「北条の娘を預けるに値する男かどうかをな」


 景継は黙った。


 やはりこの男は強い。


 領地が大きいからではない。


 兵が多いからでもない。


 こちらの言葉を利用し、そのまま条件として返してきた。


 景継が北条を利用しようとしたように、氏政も景継を利用する。


 しかも将来まで見据えて。


「分かりました」


 景継が言った。


「ほう」


「婚姻そのものについては、受けることを考えます」


「考える?」


「一つだけ、確認したいことがあります」


 氏政の眉が動いた。


「申せ」


「娘御は、この話をご存じなのですか?」


 氏政が黙った。


「……何?」


「婚姻の話です」


「それがどうした」


「本人は、私との婚姻を望んでいるのでしょうか」


 広間が静かになった。


 氏直が景継を見る。


 氏政の顔からも、わずかに表情が消えた。


「お前は」


 氏政がゆっくり言った。


「我が娘が嫌だと言えば、断るつもりか」


「はい」


 今度は景継が即答した。


「北条との同盟を失うことになっても?」


「困ります」


「ならば」


「それとこれとは別です」


 景継の声は穏やかだった。


「私は北条様と縁を結びたい。上杉との争いも一時止めたい。秀吉様がこれ以上大きくならない形も作りたい」


「ならば娘を娶ればよい」


「娘御が望んでいるなら」


「政略の婚姻だぞ」


「分かっています」


「本人が望むかどうかなど――」


 氏政はそこまで言って止まった。


 景継は氏政を見ていた。


「氏政様」


「何だ」


「北条家が私を信用できるか確かめたいのでしょう?」


「そうだ」


「でしたら」


 景継は静かに言った。


「私も、北条家とどういう縁を結ぶのかを大事にしたい」


 氏政の目が細くなる。


「嫌がっている娘御を無理に妻にして、北条との縁が強くなるとは思えません」


「……」


「私が天下を取った後まで続く縁を作るのであれば、なおさらです」


 氏政はしばらく答えなかった。


 弥兵衛も口を挟まない。


 やがて氏直が父へ顔を向けた。


「父上」


「分かっておる」


 氏政が小さく息を吐いた。


「呼べ」


 控えていた家臣が頭を下げた。


「はっ」


 家臣が広間を出ていく。


 景継が目を瞬いた。


「今からですか?」


「本人に聞きたいのであろう」


「そうですが」


「ならば本人に聞け」


「……直接?」


「何を驚いておる」


「もう少し後かと」


「お前は本当に、妙なところで臆病だな」


「戦とは違いますから」


 弥兵衛が小さく呟いた。


「殿にも苦手なものがあったのですな」


「弥兵衛」


「何でしょう」


「楽しんでません?」


「少しだけ」


「正直ですね」


「長く殿を見ておりますので」


 氏直が口元を緩めた。


 氏政だけは、呆れたように二人を見ている。


 しばらくして。


 廊下の向こうから足音が聞こえた。


 家臣の声がする。


「楓姫様、お入りくださいませ」


 景継の表情が変わった。


 襖が開く。


 一人の娘が、静かに広間へ入ってきた。


 年は十九。


 派手な装いではない。


 だが大国北条の姫として育てられたことは、その立ち居振る舞いだけでも分かった。


 娘は氏政へ頭を下げる。


「父上、お呼びでしょうか」


「ああ」


 氏政が景継を見る。


「楓」


「はい」


「この男が林道景継だ」


 楓姫の視線が景継へ向いた。


 景継も頭を下げる。


「林道景継にございます」


「楓にございます」


 互いに頭を上げた。


 楓姫は景継をじっと見る。


 景継は少し居心地が悪くなった。


「……何か?」


「いえ」


 楓姫は首を振った。


「思っていたより、お若く見えましたので」


 景継が固まった。


 弥兵衛が下を向いた。


「……四十一です」


「存じております」


「そうですか」


「はい」


 景継が弥兵衛を見る。


「何です?」


「笑ってません?」


「笑っておりません」


「顔を上げてください」


「嫌です」


 楓姫の口元が、わずかに緩んだ。


「景継」


 氏政が低い声を出す。


「何をしに娘を呼んだのか忘れたか」


「ああ、そうでした」


「お前……」


 氏政が額に手を当てる。


 景継は姿勢を正した。


「楓姫様」


「はい」


「突然このようなことを聞いて申し訳ありません」


「何でしょう」


「私との婚姻について、聞いておられますか?」


「はい」


 楓姫の答えは意外なほど早かった。


 景継が氏政を見る。


「知っているじゃないですか」


「話があることは伝えておった」


「先ほどの間は何だったんです?」


「最後まで聞け」


「はい」


 景継が楓姫へ向き直る。


「では、もう一つ」


「はい」


「嫌ではありませんか?」


 楓姫が少し目を見開いた。


 氏政も景継を見る。


「景継」


「大事なところです」


 景継は氏政を見ずに答えた。


「私は四十一です。楓姫様は十九と伺いました」


「はい」


「二十二も離れています」


「存じております」


「皆さん計算が早いですね」


「そこではない!」


 とうとう氏政が声を荒らげた。


 景継が少し肩をすくめる。


 楓姫は笑いそうになるのを堪えていた。


「それだけではありません」


 景継は続けた。


「私はこれから天下を取るつもりです」


 楓姫の表情が変わる。


「つまり、戦は続きます」


「はい」


「私が負けることもあります」


「……」


「死ぬこともあるでしょう」


「景継」


 氏政の声が低くなる。


「娘を不安にさせてどうする」


「後から知るよりいいでしょう」


 景継は楓姫から目を逸らさなかった。


「北条との婚姻だから安全になる、と約束することもできません。むしろ私の妻になれば、林道家の敵から狙われることもある」


「……」


「それでも」


 景継は一度言葉を止めた。


「私との婚姻を、受けてもよいと思われますか?」


 楓姫は答えなかった。


 広間に沈黙が落ちる。


 景継は急かさなかった。


 待つ。


 こういう時だけは、やはり待てる。


 やがて楓姫が口を開いた。


「一つ、私からもお聞きしてよろしいでしょうか」


「もちろんです」


「林道様は」


 楓姫は景継を見る。


「北条のために、私を娶られるのですか?」


「はい」


 氏政が眉をひそめる。


 景継は続けた。


「今のところは」


「……今のところ?」


「今日初めてお会いしたばかりですから」


 楓姫が瞬きをする。


「好きだから娶りますと言ったら、嘘になります」


「……」


「北条家と縁を結ぶため。それが今の理由です」


 楓姫はしばらく景継を見ていた。


「正直なのですね」


「嘘をついても、すぐ分かると思いますので」


「では」


 楓姫が少しだけ身を乗り出した。


「夫婦になった後も、ずっと北条のためだけですか?」


 景継が止まった。


「それは……」


 考える。


 氏政も氏直も口を挟まない。


 弥兵衛だけが、少し楽しそうな顔で主君を見ている。


「分かりません」


 景継は答えた。


「またそれですか」


 弥兵衛が小さく呟いた。


「仕方ないでしょう」


 景継は楓姫を見る。


「ただ」


「はい」


「夫婦になったなら、北条の姫としてだけ扱うつもりはありません」


 楓姫の表情がわずかに変わった。


「私の妻として、大事にしたいと思います」


 今度は氏政が景継を見た。


「思います、か」


「まだ夫婦になっていないので」


「本当にお前は……」


 氏政が呆れる。


 だが楓姫は、少し笑っていた。


「父上」


「何だ」


「もう少し、この方とお話ししてもよろしいでしょうか」


 氏政の眉が動いた。


「今ここでか?」


「できれば」


 楓姫は景継を見る。


「私も、自分の目で確かめたいのです」


 景継は何も言わなかった。


 だが氏政は、その言葉の意味を理解した。


 景継が北条に値する男か。


 北条が景継に賭けるべきか。


 そして何より。


 自分が、この男の妻になってもよいのか。


 楓自身が確かめようとしている。


「よかろう」


 氏政が言った。


「ただし、今日中に答えを出す必要はない」


「ありがとうございます」


 楓姫が頭を下げた。


 景継も頷いた。


「私もその方が助かります」


「なぜお前まで安心しておる」


「いきなり十九歳の方に結婚するか決めてくださいと言うのは、さすがに……」


「お前が言い出したのだろう!」


「本人に聞きたいとは言いましたけど、今日決めてほしいとは言ってませんよ」


 氏政が何かを言おうとして、やめた。


「……もうよい」


 その様子を見て、楓姫がとうとう声を立てて笑った。


 景継が振り向く。


「何かおかしかったですか?」


「申し訳ありません」


 楓姫は笑みを残したまま首を振った。


「天下を取ると聞いていたので、もっと恐ろしい方だと思っておりました」


「よく言われます」


「それもですか?」


「最近は特に」


「では、本当は恐ろしい方なのですか?」


 景継は少し考えた。


「敵になれば、そう思われるかもしれません」


 楓姫の笑みが少し消えた。


 その答えだけは軽くなかった。


 景継は天下を取る。


 そのために戦う。


 必要なら人を倒す。


 穏やかに話しているからといって、その野心まで穏やかなわけではない。


 楓姫は、しばらく景継を見つめた。


「……分かりました」


「何がです?」


「もう少し、お話ししてみたいということが」


「それはよかったです」


「まだ婚姻を受けるとは申しておりません」


「分かっています」


 景継は笑った。


「待ちますよ」


 弥兵衛が小さく笑う。


「そこだけは、いつもの殿ですな」


「そこだけって何ですか」


 氏政はそんな二人を見ながら、静かに目を細めていた。


 婚姻を持ち出したのは自分だった。


 北条のため。


 娘のため。


 そして、将来天下人になるかもしれない男を北条へつなぎ止めるため。


 だが。


 景継はその条件を、そのまま受けなかった。


 娘本人の意思を確かめた。


 それが甘さなのか。


 あるいは、この男なりの国の作り方なのか。


 氏政にはまだ分からない。


 ただ一つ。


 昨日までの交渉とは、少しだけ意味が変わった。


 北条と林道が結ぶのは、約定だけではない。


 もし楓がこの婚姻を受ければ。


 二つの家は、血で結ばれることになる。


 そしてその縁は、景継が天下へ近づくほど重くなっていく。


 楓姫はもう一度、景継を見た。


 四十一歳。


 自分より二十二も年上。


 信長亡き後の乱世で急速に名を上げ、秀吉を破り、今度は天下を取ると言っている男。


 聞いていた話だけなら、もっと恐ろしい人物を想像していた。


 だが実際に会った男は、年齢差を気にし、自分が嫌ではないかと尋ねてきた。


 それでいて。


 天下を取るという言葉だけは、一度も曖昧にしなかった。


 楓はまだ知らない。


 この男がどこまで行くのか。


 自分がその隣に立つことになるのか。


 だからこそ。


 もう少しだけ、自分の目で見てみたいと思った。

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― 新着の感想 ―
四十一歳ですか。時間経過のわからない作品だとは思っていましたが。まだ小僧だと思っていたのでびっくりです。
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