第百二十九話 東の大国
北条へ使者を出す。
そう決めた景継だったが、問題はすぐに出てきた。
「それで、何を頼むのです?」
弥兵衛に聞かれ、景継は黙った。
「……まず話をしたい、と」
「それだけで関東まで使者を?」
「駄目ですか?」
「駄目とは申しませんが、北条は大国ですよ」
「知っています」
「向こうからすれば、殿は近江にようやく最初の領地を得たばかりです」
「それも知っています」
「では、何を材料に話すので?」
景継は地図を見た。
近江。
越前。
越後。
東海。
そして、さらに東へ。
関東に広大な勢力を築く北条。
兵力でも領地でも、今の林道家とは比べものにならない。
景継が天下を取ると言っているからといって、北条が頭を下げる理由などどこにもなかった。
「だから、こちらから何かを与えて従わせる話ではありません」
「では?」
「北条にも得をしてもらいます」
弥兵衛が地図を覗き込む。
「北条が欲しいものを、殿が持っているのですか?」
「持っていません」
「……話が終わったではありませんか」
「まだです」
景継は笑った。
「私一人では持っていませんが、作れるものはあります」
「何を?」
景継の指が、越後へ動いた。
「上杉との時間です」
弥兵衛の表情が変わった。
「上杉景勝様と北条を?」
「仲良くしてもらう必要はありません」
「では」
「しばらく戦わないでもらいます」
弥兵衛はしばらく地図を見ていた。
「それを北条が受けるでしょうか」
「分かりません」
「上杉様も」
「そちらも分かりません」
「殿」
「はい」
「分からないことが多すぎませんか?」
「だから話すんですよ」
景継は平然としていた。
「最初から全部決まっているなら、交渉なんて必要ありません」
「それはそうですが……」
「北条と上杉に友人になってもらおうとは思っていません」
景継は二つの勢力を指した。
「互いに嫌いでもいい。信用していなくてもいい。ただ、一定の間だけ兵を向けない」
「その間に何をするので?」
景継は答えなかった。
少しだけ笑う。
「まだ決めていないこともあります」
「またですか」
「考えていないわけではありませんよ」
「では教えてください」
「もう少し形になってから」
弥兵衛は景継をじっと見た。
「最近、殿は私にも隠すようになりましたな」
「必要な時には言います」
「昔より偉くなられましたから?」
「それを言われると少し寂しいですね」
「では教えてください」
「それは別です」
「殿」
弥兵衛の呆れた声が部屋に響いた。
◇
北条へ送った書状には、余計なことを書かなかった。
林道景継が天下を取るつもりであること。
そのために北条と敵対するつもりはないこと。
そして、一度直接話をしたいこと。
それだけではない。
最後に一つだけ、北条が無視しにくい言葉を加えた。
『上杉とのことについても、お話ししたきことがございます』
その書状が小田原へ届いてから、返事はすぐには来なかった。
一日。
三日。
七日。
「遅いですね」
景継が言うと、長秀が呆れた。
「北条だぞ」
「分かっています」
「向こうからすれば、お前の都合ですぐ返事を出す必要などない」
「それも分かっています」
「なら待て」
「待っていますよ」
「顔が待っておらん」
「どんな顔ですか」
「そわそわしている」
「私が?」
弥兵衛が横から頷いた。
「しております」
「そんなに?」
「朝から三度、使者はまだかと聞かれました」
「確認です」
「それを、そわそわしていると言うのです」
恒興が笑った。
「待つのが得意ではなかったのか?」
景継は少し嫌そうな顔をした。
「待つのが得意でも、待つのが好きとは限りませんよ」
「初めて聞いたぞ」
「言ってませんでしたから」
「便利な言い訳だな」
そんなやり取りをしているところへ、廊下を走る足音が近づいた。
「申し上げます!」
全員が振り向く。
「小田原より返書にございます!」
景継がすぐに立ち上がった。
「来ましたか」
「ほら見ろ」
長秀が呟いた。
「待てておらんではないか」
景継は聞かなかったことにした。
書状を開く。
内容は簡潔だった。
北条氏政は、景継との対話を受け入れる。
ただし、場所は小田原。
景継自身が来るのであれば、話を聞く。
「……小田原ですか」
恒興が眉を寄せた。
「向こうへ来いということだな」
「当然でしょう」
長秀が答える。
「北条からすれば、景継が頼みに行く側だ」
勝家も呼ばれた。
書状を読み終えるなり、景継を睨む。
「お前、本当に行くのか」
「はい」
「小田原まで?」
「はい」
「遠いぞ」
「知っています」
「危険だぞ」
「それも」
「ならば何人連れていく」
「多すぎない方がいいですね」
勝家の眉間に皺が寄る。
「また少人数で行く気か」
「大軍で小田原へ行ったら、交渉どころではないでしょう」
「限度というものがある!」
「分かっていますよ」
弥兵衛がすぐに口を挟んだ。
「今回は私が決めます」
「弥兵衛?」
「殿に任せれば、本当に十人ほどで行きかねません」
「そこまでは」
「何人を考えておられました?」
「……二十人くらい」
「ほとんど同じです!」
勝家が大きく頷いた。
「もっと連れていけ!」
景継は二人に挟まれ、少し困った顔をした。
「交渉しに行く前から、味方との交渉の方が難しいんですが」
「お前が原因だ!」
◇
小田原までの道のりは長かった。
景継にとっても、関東へ足を運ぶのは大きな意味を持っていた。
道中、景継は何度も土地を見た。
街道。
宿。
川。
城。
田畑。
「殿」
「何です?」
「また見ておりますね」
「何をです?」
「全部です」
弥兵衛が馬上から言った。
「以前なら、敵の城を見る目でした」
「今は?」
「領地を見る目になっています」
景継は少し考えた。
「そうですかね」
「高坂領を持ってから変わりました」
「自覚ありませんでした」
「この辺りの米はどれくらい取れるのか、さっき聞いておられました」
「気になっただけです」
「橋も見ていました」
「大事でしょう」
「宿場の人の数も」
「人が通る道ですから」
弥兵衛が笑った。
「完全に領主ですな」
「褒めています?」
「半分は」
「残り半分は?」
「面倒なことを覚えたと思っています」
景継も笑った。
だが、進むにつれて笑みは少なくなった。
北条の勢力圏へ近づくほど、その大きさが分かる。
城がある。
村が続く。
街道が整えられている。
人が多い。
今の林道家とは、比べることすら難しい。
「大きいですね」
景継が呟いた。
「今さら怖くなりましたか?」
「少し」
「帰ります?」
「それはもっと怖いです」
「なぜ」
「ここまで来て帰ったら、何をしに来たのか分からないでしょう」
やがて、小田原城が見えた。
景継はしばらく何も言わなかった。
「……立派ですね」
弥兵衛も見上げる。
「殿」
「はい」
「城を欲しがらないでくださいね」
「言われなくても分かっています」
「本当に?」
「今攻めたら負けますよ」
「そういう意味ではございません」
景継が笑った。
◇
景継は小田原城へ迎え入れられた。
当然ながら、歓迎一色ではない。
北条からすれば、景継は遠方から突然現れた野心家だ。
信長亡き後の混乱の中で頭角を現し、秀吉を北ノ庄で破り、織田家の有力者を周囲へ集め、自分の領地まで取り始めた男。
注意する理由はあっても、信用する理由はまだない。
通された広間。
上座にいる男を見た瞬間、景継は背筋を伸ばした。
北条氏政。
名目上、家督はすでに氏直へ譲っている。
だが北条家の大きな判断において、この男の存在を無視できないことくらいは景継にも分かっていた。
傍らには氏直もいる。
景継が頭を下げた。
「林道景継にございます」
「顔を上げよ」
氏政の声は静かだった。
景継が顔を上げる。
氏政はしばらく何も言わず、景継を見ていた。
「思っていたより若いな」
「よく言われます」
「天下を取ると言っているそうだな」
「はい」
「そこは否定せぬか」
「否定したら、ここへ来た意味がありませんので」
氏政の口元がわずかに動いた。
「面白い」
褒めているのかどうかは分からない。
「それで?」
氏政が続ける。
「天下を取る男が、北条に何の用だ」
「お話をしに来ました」
「書状にもそうあった」
「はい」
「何を話す」
景継は一度息を整えた。
「北条様には、秀吉様をこれ以上大きくしていただきたくありません」
広間の空気が変わった。
氏直が景継を見る。
氏政は表情を変えない。
「なぜ我らが、お前と秀吉の争いに付き合わねばならぬ」
「付き合っていただくつもりはありません」
「何?」
「北条様ご自身のためです」
氏政の目がわずかに細くなった。
景継は続ける。
「仮の話をします」
「申せ」
「秀吉様が私を倒したとします」
景継は指を一つ立てた。
「次に勝家様も倒した」
二つ。
「織田家の中も押さえた」
三つ。
「畿内から北陸まで、その影響を広げた」
景継は氏政を見る。
「その大軍は、次にどちらを向くでしょうか」
氏政は答えなかった。
氏直も黙っている。
「西へ行くかもしれぬ」
氏政が言った。
「はい」
「ならば北条とは関係ない」
「その間は」
景継は即座に返した。
氏政の表情が少し変わる。
「秀吉様が西を取れば、さらに大きくなります」
「それで?」
「その後も永遠に西だけを見るとは限りません」
「お前は未来が分かるのか」
「分かりません」
景継は首を振った。
「だから困るんです」
氏政が黙る。
「北条様に私を助けていただきたいのではありません」
景継は言った。
「秀吉様が、誰にも止められないほど大きくなる前に、止められる状態を残していただきたい」
「そのためにお前を残せと?」
「私も含めて、です」
「ずいぶん都合がいいな」
「はい」
景継は認めた。
「私には都合がいいです」
氏直が少し驚いたように景継を見る。
氏政は逆に笑った。
「そこまで堂々と言うか」
「隠しても分かるでしょう」
「なるほどな」
氏政は肘掛けに手を置いた。
「だが、北条にも都合がよいと言いたいのだろう」
「はい」
「何がある」
景継は地図を出す許しを求めた。
氏政が認める。
家臣が広げた地図。
景継の指が関東と越後の間へ置かれた。
「上杉です」
氏政の表情から笑みが消えた。
氏直も視線を地図へ落とす。
「お前」
氏政の声が低くなる。
「北条に上杉と手を結べと言うのか」
「いいえ」
「では何だ」
「しばらく戦わないでいただきたい」
「同じようなものだ」
「違います」
景継は首を振った。
「仲良くする必要はありません。信用する必要もない。国境の問題を全部解決する必要もありません」
「ならば?」
「期限を決めて、互いに大きな兵を向けない」
氏政が地図を見る。
「その間、我らに何の得がある」
「北条様は、北を気にせず別の方向を見られます」
「上杉も同じではないか」
「はい」
「上杉を楽にしてどうする」
「北条様も楽になります」
氏政は景継を見た。
「両方に得をさせる気か」
「片方だけ得をする話では、もう片方が受けないでしょう」
氏政はしばらく景継を見つめていた。
「上杉は受けるのか」
「まだ話していません」
広間が静まり返った。
氏直が思わず口を開く。
「まだ?」
「はい」
「では、北条が受けても上杉が断れば終わりではないか」
「そうなります」
氏政が景継を睨む。
「我らを試しに来たのか」
「違います」
「ならばなぜ先に上杉と話をつけてこなかった」
「北条様の条件を知らないからです」
景継は落ち着いていた。
「先に上杉様と話を決めてから北条様のところへ来て、『これを受けてください』では、北条様に選ぶ余地がありません」
「……」
「私は、両方の条件を聞いてから、重なる場所を探したいと思っています」
氏政が目を細める。
「見つからなければ」
「諦めます」
「簡単に言うな」
「見つからないものを無理につないでも、後で戦になるだけですから」
氏政は黙った。
やがて氏直が尋ねる。
「期限は?」
「三年ほどを考えています」
「三年」
「短すぎれば意味がなく、長すぎれば互いに状況が変わりすぎます」
氏政が口を開く。
「上杉が約束を破れば?」
「その時は、北条様にも約束を守っていただく理由はありません」
「お前が責任を取るのか」
「取れる範囲では」
「曖昧だな」
「上杉様のすべてを私が支配しているわけではありませんので」
「それで交渉になると思っているのか」
「逆に、私が『上杉は絶対に破りません』と言った方が信用できますか?」
氏政が止まった。
景継は続ける。
「人は状況が変われば、考えも変わります」
その言葉を、氏政は静かに聞いた。
「ですから、絶対を約束するより、破った時にどうするかまで決めておいた方がいいと思っています」
氏政の指が、ゆっくり地図を叩いた。
「……お前が北ノ庄で勝った理由が、少し分かった気がする」
「そうですか?」
「褒めてはおらん」
「残念です」
「だが」
氏政の目は笑っていなかった。
「厄介な男だということは分かった」
「それもよく言われます」
「誰にだ」
「最近は皆さんに」
氏直が思わず少し笑った。
氏政は息子を横目で見た後、再び景継へ戻る。
「仮に上杉との話がまとまったとしよう」
「はい」
「それだけで北条がお前と組むと思っているのか」
「思っていません」
「ならば何を差し出す」
「差し出す、という言い方が正しいかは分かりませんが」
景継は少し姿勢を正した。
「私が天下を取った場合、北条家を滅ぼすつもりはありません」
氏政の表情が冷たくなる。
「ずいぶん上から物を言うようになったな」
「そう聞こえたなら、すみません」
「今のお前に北条を滅ぼせるのか」
「無理です」
即答だった。
氏直が再び景継を見る。
「では何を言っている」
「今の話ではありません」
景継は氏政を見る。
「私が天下を取れた時の話です」
「取れる前提か」
「取るつもりなので」
「……」
「その時に、関東のすべてを林道家の直轄にするつもりはありません」
氏政が目を細める。
「北条を残すと?」
「北条家が私と戦い続けないのであれば」
「臣従を求めるか」
景継は少し考えた。
「今、それを決める必要はないと思っています」
「逃げたか」
「決められないだけです」
「違いがあるか」
「あります」
景継は真面目な顔で答えた。
「天下を取ってもいない私が、今から北条家の立場を全部決めるのは早すぎます」
氏政は何も言わなかった。
「ただ、北条家を潰して関東を全部奪わなければ天下人になれない、とは私は考えていません」
「それを我らに信じろと?」
「いいえ」
景継は首を振った。
「今の私の言葉だけで信用しろとは言いません」
氏政の目が一瞬だけ鋭くなった。
「……ほう」
景継は気づかなかった。
その言葉を、氏政が覚えたことに。
「ですから」
景継は地図へ目を戻した。
「まずは互いに利用できるところから始めたいと思っています」
「利用?」
「はい」
「北条を、お前の天下取りに利用すると?」
「はい」
氏直の眉が動く。
だが景継は続けた。
「そして北条様にも、私を利用していただきます」
氏政が笑った。
今度ははっきりと。
「面白い」
「ありがとうございます」
「まだ褒めておらん」
「今日二度目です」
「口の減らぬ男だな」
それでも氏政の空気は、最初より少し変わっていた。
景継はそれを感じた。
だが、交渉がまとまったとは思わない。
むしろここからだった。
領地。
国境。
上杉との期限。
互いに軍を動かした場合の扱い。
秀吉に対してどこまで協力するのか。
細かな条件が次々と出てくる。
景継もすべてを受けなかった。
北条側も譲らない。
話は長く続いた。
日が傾いても終わらなかった。
そして、ひとまず休憩を挟むことになった時。
景継は、もう一度地図を見た。
「氏政様」
「何だ」
「それと、もう一つお願いがあります」
氏政が景継を見る。
「まだあるのか」
「はい」
「申してみよ」
景継は口を開いた。
その後の話は、随分と長くなった。
◇
翌日。
交渉は再開された。
昨日までに、いくつかの条件は形になり始めている。
上杉との停戦が成立した場合、北条も一定期間これを守る。
北条と林道は、互いの領地を安易に侵さない。
秀吉が大きく勢力を伸ばす場合、情報を共有する。
ただし、北条が景継の命令で動くわけではない。
北条は北条の利益のために動く。
景継もそれを認める。
「ここまではよい」
氏政が言った。
「はい」
「だが、一つ足りぬ」
景継が顔を上げる。
「何でしょう」
「信用だ」
氏政の声は静かだった。
「お前は昨日、人は状況が変われば考えも変わると言ったな」
「言いました」
「そして、天下を取った後も北条を滅ぼすつもりはないと言った」
「はい」
「だが」
氏政は景継を見据えた。
「今のお前と、天下を取った後のお前が同じだと、どうして我らに分かる」
景継は答えられなかった。
「お前自身が言ったことだ」
氏政は続ける。
「人は変わる」
「……はい」
「ならば、我らが今のお前の言葉だけを信用する方がおかしいとは思わぬか」
景継は少し黙った後、頷いた。
「思います」
「素直だな」
「私が言ったことなので」
「ならば」
氏政の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
「お前自身を縛れ」
景継の眉が動いた。
「私を?」
「ああ」
「どうやって?」
氏政は少しだけ身を乗り出した。
「我が娘を娶れ」
景継が止まった。
弥兵衛も止まった。
氏直だけは、どうやら事前に聞いていたのか、黙っている。
「……はい?」
「聞こえなかったか」
「いえ」
景継は珍しく、言葉に困った。
「聞こえたので困っています」
「何が困る」
「話が急すぎませんか?」
「天下を取る男が婚姻程度で狼狽えるな」
「程度って……」
氏政は笑っていた。
昨日まで景継が北条を利用しようとしていた。
そして今。
北条氏政もまた、景継を利用しようとしている。
「北条を信用させたいのであろう」
「はい」
「ならば言葉だけでは足りぬ」
氏政は景継を見据える。
「お前が天下を取った後も北条を粗末にせぬというのなら――」
一つずつ、言葉を置く。
「北条を、お前の家族にしてみせよ」
景継は何も言えなかった。
小田原へ来るまで、いくつもの展開を考えていた。
交渉が決裂する場合。
上杉との停戦を拒まれる場合。
秀吉への協力を断られる場合。
もっと厳しい条件を出される場合。
だが。
北条氏政の娘を妻にしろと言われる場合だけは。
考えていなかった。
弥兵衛が、隣で小さく呟いた。
「殿」
「何です?」
「こういう時の策は?」
景継は氏政から目を離さないまま答えた。
「……ありません」
北条氏政の笑みが、少しだけ深くなった。




