第百二十七話 奪わないということ
織田信雄との対話は、数日後に行われることになった。
場所は、どちらの城でもない。
互いに余計な兵を連れてくる必要がないよう、両者の勢力圏の間にある寺が選ばれた。
景継が連れてきたのは弥兵衛と、わずかな供だけだった。
「少なすぎませんか?」
寺へ向かう道中、弥兵衛が尋ねた。
「そうですか?」
「相手は織田信雄様ですよ」
「知っています」
「何かあったらどうするので?」
「何かあると思います?」
「思っているから聞いております」
景継は少し考えた。
「逃げます」
「殿」
「冗談です」
「最近、その言葉を信用できなくなってきました」
「大丈夫ですよ。信雄様も、ここで私を殺して得をする状況ではありません」
「だからといって、供を減らす理由にはならないでしょう」
「大勢で話しに行ったら、向こうも大勢連れてこないと不安になるでしょう?」
弥兵衛は何も言わなかった。
理屈は分かる。
分かるのだが、この主は時々、自分の命まで損得の中に入れて考える。
「殿」
「はい」
「天下を取るまでは、できるだけ死なないでください」
「取った後ならいいんですか?」
「そういう意味ではございません!」
景継が笑った。
「分かっています」
「本当に分かっておられるのか……」
弥兵衛のため息を聞きながら、景継は寺の門をくぐった。
信雄はすでに来ていた。
供の数はこちらより多い。
だが、軍勢と呼ぶほどではない。
景継が部屋へ入ると、信雄は座ったままこちらを見た。
「お久しゅうございます、信雄様」
「ああ」
短い返事だった。
景継が向かいへ座る。
弥兵衛たちは少し離れた場所へ控えた。
しばらく、誰も話さなかった。
先に口を開いたのは景継だった。
「お会いいただき、ありがとうございます」
「わしも聞きたいことがあった」
「伺います」
「ならば余計な話はやめよう」
「助かります」
信雄の眉が動いた。
「……お前は相変わらずだな」
「そうでしょうか」
「そういうところだ」
信雄は一度息を吐いた。
そして景継を正面から見た。
「お前は、織田家を奪うつもりはないと言ったな」
「はい」
「今もか」
「変わっておりません」
「では、なぜだ」
信雄の声が強くなった。
「なぜ父上の家臣がお前のところへ集まる」
景継は黙って聞いた。
「勝家はお前と組んだ。長秀も、一益も、恒興までお前の側にいる。信孝とも手を結んだ」
信雄の手に力が入る。
「今度は自分の領地まで取り始めた!」
「はい」
「それで、どうしてわしにお前を恐れるなと言える!」
景継は少しだけ首を傾けた。
「言いませんよ」
信雄が止まった。
「……何?」
「私を恐れるな、とは言いません」
「お前……」
「信雄様が不安に思われるのは、当然だと思っています」
信雄は返す言葉を失った。
景継が否定すると思っていた。
誤解だと言う。
織田家を害するつもりはないから安心しろと説く。
そう考えていた。
「私はこれからも大きくなるつもりです」
景継は続けた。
「領地も増やします。兵も増やす。人も集めます」
「……」
「天下を取ると言った以上、そこを誤魔化すつもりはありません」
「ならば!」
信雄が身を乗り出した。
「いずれ織田より大きくなるつもりなのだろう!」
「そうならなければ、天下は取れないでしょうね」
「それをわしの前で言うのか!」
「嘘を言った方がよろしいですか?」
「そういう話ではない!」
信雄の声が部屋に響いた。
控えていた家臣たちが身じろぎする。
弥兵衛も景継を見ていた。
だが景継は動かなかった。
「お前は織田家を奪わないと言う」
信雄は続けた。
「だが、お前が織田より大きくなれば同じではないか」
「同じでしょうか」
「何?」
「織田家が残るのなら、同じではないと思います」
「名だけ残せばよいと?」
「そんなことは言っていません」
「では、どうする!」
景継はすぐには答えなかった。
今回、自分から会いたいと言った理由。
それは信雄を言い負かすためではない。
何を恐れているのか。
それを本人から聞くためだった。
そして今、ようやく見えてきた。
「信雄様」
「何だ」
「信雄様が守りたい織田家とは、何ですか?」
信雄の顔が険しくなった。
「またそれか」
「また?」
「自分で考えろ、自分で選べと、お前はそういう話ばかりする!」
景継は目を瞬いた。
少し離れた場所で、弥兵衛がわずかに視線を落とした。
「今回は、それを言うつもりはありません」
「では何だ」
「私が分からないんです」
信雄が黙った。
「城でしょうか。領地でしょうか。三法師様を中心とした家でしょうか。それとも、上様が作られた織田の力を維持することでしょうか」
「……」
「どれを守りたいかによって、私ができることも変わります」
「お前ができること?」
「はい」
景継は静かに頷いた。
「私は織田家を滅ぼすつもりはありません。それは今も変わらない」
「ならば、織田を天下に残すのか」
「残します」
信雄が景継を見た。
景継は続ける。
「ただし、私が織田家の家臣として天下を取ることはありません」
「……」
「林道家で取ります」
その言葉だけは、譲らなかった。
「その時、織田家が林道家より大きいままであると約束することもできません。今ある領地が永遠に一寸も変わらないとも言えません。戦が続けば、何が起きるか分からない」
「それのどこが、織田を守るというのだ」
「私は、守るとは言っていません」
信雄が目を細めた。
「滅ぼさないと言ったんです」
「同じではないのか」
「違います」
景継の答えは早かった。
「私が織田家を守ると約束すれば、織田家は私に守られる家になります」
信雄の表情が変わった。
「それは、信雄様が望んでいることですか?」
「……」
「私は違うと思っていました」
景継は信雄を見る。
「信孝様は、三法師様を支えて織田家を残すと決められた。だから私は、信孝様とは同盟を結びました」
「信孝の話は聞いている」
「ならば分かるでしょう。信孝様は私の家臣ではありません」
「だが、お前と組んだ」
「はい」
「お前が大きくなるのを助けているではないか」
「私も、信孝様が織田家を守るのを助けることがあります」
「それでは結局、お前の方が得をする!」
「そうなる時もあるでしょうね」
「景継!」
信雄が声を荒らげた。
景継は困ったように眉を下げた。
「信雄様」
「何だ!」
「同盟は、片方だけが損をするために結ぶものではないでしょう」
信雄が言葉に詰まった。
「私は信孝様を利用します。信孝様にも私を利用していただく。それで互いに必要なものを守れるなら、私は問題ないと思っています」
「……父上なら、そのようなことは言わぬ」
「でしょうね」
景継の答えは静かだった。
「上様なら、もっと強い方法を選ばれたかもしれません」
信雄が景継を見る。
「ですが私は、上様ではありません」
「……」
「なるつもりもありません」
景継はそこで一度言葉を止めた。
信長。
そして曹操。
前世と今世。
二度、自分の上に立った男。
あの男なら、もっと強引に人を従わせただろう。
もっと早く。
もっと激しく。
それで天下へ向かったかもしれない。
だが景継は、その後を歩くつもりはなかった。
「信雄様」
「何だ」
「私が天下を取ったとしても、三法師様から織田の名を奪うつもりはありません」
信雄は黙って聞いている。
「信雄様から織田を名乗る権利を奪うつもりもない。信孝様からもです」
「領地は?」
「私と敵対すれば話は別です」
信雄の目が鋭くなった。
「結局、従わねば奪うということではないか」
「違います」
「何が違う!」
「従わなくても構いません」
景継は即座に答えた。
「私に臣従する必要はありません。信孝様と同じように、別の家として存在していただいてもいい」
「ならば敵対とは何だ」
「兵を向けることです」
信雄が止まった。
「私が天下を狙うことを気に入らない。それだけなら構いません」
「……」
「私の悪口を言うくらいなら、もっと構いません」
「誰が言うか!」
「例えばの話です」
「お前は本当に……!」
信雄は言いかけて、息を吐いた。
怒っているはずなのに、景継と話していると時々調子が狂う。
「では、わしがお前の天下を認めなければ?」
「認めなくても構いません」
「お前に従わなくても?」
「構いません」
「それでも織田を残す?」
「はい」
信雄は景継を睨んだ。
「……そんな天下があるのか」
景継は少し考えた。
「作ろうと思っています」
「できるのかと聞いている」
「分かりません」
信雄の顔が引きつった。
「お前な!」
「まだ取っていないんですから、絶対にできるとは言えないでしょう」
「ならばなぜそんなことを言える!」
「やるつもりだからです」
景継の声から、わずかに柔らかさが消えた。
「できるか分からないことと、やらないことは違います」
信雄は黙った。
そこだけは、景継の目に迷いがなかった。
「私は、自分の国を大きくします」
景継は続けた。
「その過程で、私と一緒に戦う人も増えるでしょう。私の下に入る人もいる。入らないまま力を貸してくれる人もいる」
「……」
「でも、全部を林道にする必要はないと思っています」
「天下を取るのにか?」
「天下を治めることと、全部の土地を自分一人のものにすることは違うでしょう」
信雄は考え込んだ。
すぐには理解できなかった。
いや。
理解したくない部分もあった。
父・信長は織田家を強くした。
織田家の領地を増やした。
家臣を従え、敵を倒し、天下へ近づいた。
信雄にとって天下とは、その延長にあるものだった。
だが景継は違う。
林道家を大きくすると言いながら、すべてを林道家にする必要はないと言う。
「では」
信雄が口を開いた。
「お前が天下を取った後、織田家は何になる」
景継は答えようとして――やめた。
「何だ」
「それは、私だけでは決められません」
信雄の顔に再び苛立ちが浮かぶ。
「また選べと言うつもりか!」
「違います」
景継は苦笑した。
「私が勝手に決めたら、それこそ織田家を奪うことになるでしょう」
信雄が黙った。
「三法師様が成長された時、どうしたいのか。信雄様や信孝様が、織田家をどうしたいのか。私が天下を取るまでに何が起きるのか」
「……」
「それが分からないのに、今ここで『織田家はこうします』と私が決める方がおかしい」
信雄は返せなかった。
景継は続ける。
「ただ、一つだけ約束できます」
「何だ」
「織田家を、私の天下取りの邪魔だからという理由だけで滅ぼすことはしません」
静かな声だった。
「それだけです」
「……それだけか」
「今の私が約束できるのは」
信雄は長く黙った。
安心できたわけではない。
むしろ景継が本気で天下を取ろうとしていることは、以前よりはっきり分かった。
この男は止まらない。
領地を増やす。
兵を増やす。
自分の国を作る。
そして、いずれ織田家より大きくなることすら否定しない。
恐ろしい。
その感覚は消えなかった。
だが同時に、一つだけ分かったこともあった。
景継は自分に安心してほしいのではない。
自分の野心を小さく見せようともしていない。
「……景継」
「はい」
「わしは、お前を信用したわけではないぞ」
「はい」
「まだ恐ろしいとも思っている」
「それでいいと思います」
「腹が立つな、お前は」
「すみません」
「本当に思っているか?」
「少しは」
「少しか!」
信雄が睨む。
だが、先ほどまでとは少しだけ空気が違った。
「今日は帰る」
「分かりました」
信雄が立ち上がる。
景継も立った。
信雄は部屋を出ようとして、足を止めた。
「景継」
「はい」
「もし」
信雄は振り返らなかった。
「もし、お前が本当に織田を奪おうとした時は」
景継は待った。
「わしは、お前の敵になる」
「分かりました」
「……それだけか」
「その時は戦います」
信雄が振り返った。
景継は笑っていなかった。
「ですが」
「何だ」
「そうならない方が、私は嬉しいです」
信雄はしばらく景継を見ていた。
「……変な男だ」
それだけ残し、部屋を出ていった。
◇
信雄を見送った後。
弥兵衛が景継の隣へ来た。
「よろしかったので?」
「何がです?」
「もう少し安心させる言い方もあったでしょう」
「ありましたね」
「なぜしなかったので?」
景継は寺の庭を見る。
「今だけ安心してもらっても、仕方ないでしょう」
「と申しますと?」
「私はこれから大きくなります」
弥兵衛は黙って聞いた。
「今日『大丈夫です、何も変わりません』と言って、数年後に林道家が今の何倍にもなっていたら、信雄様はどう思います?」
「騙されたと思われるでしょうな」
「でしょう?」
景継は小さく息を吐いた。
「だったら今のうちに、怖いものは怖いと思ってもらった方がいい」
「随分と思い切った話です」
「私だって、少し怖いですよ」
「何がです?」
「信雄様が秀吉様のところへ行くかもしれないことです」
弥兵衛が景継を見る。
「分かっていて、あのように話されたので?」
「はい」
「止めなくてよかったのですか?」
景継は少し考えた。
「止められるなら止めたいです」
「では――」
「でも」
景継は弥兵衛を見る。
「そのために、できない約束をする方が後で困ります」
弥兵衛はしばらく何も言わなかった。
「殿」
「はい」
「天下を取るというのは、面倒ですな」
景継が笑った。
「最近、本当にそう思います」
◇
寺を離れた信雄は、馬上でもほとんど口を開かなかった。
家臣たちも話しかけない。
景継の言葉が、頭から離れなかった。
恐れるなとは言わない。
従わなくてもいい。
織田家を滅ぼさない。
だが林道家は大きくする。
敵になれば戦う。
どれも信雄を完全に安心させる言葉ではなかった。
むしろ逆だった。
「……本気なのだな」
信雄が呟いた。
近くの家臣が顔を向ける。
「何か?」
「いや」
景継は本気で天下を取るつもりだ。
そのことだけは、疑いようがなくなった。
だからこそ信雄は迷う。
あの男の言葉を信じるのか。
それとも、大きくなる前に止めるのか。
答えは出ていない。
だが以前とは違う。
景継が何を考えているか分からないから迷っているのではない。
分かってしまったから、迷っている。
そして、その迷いを利用しようとしている男がいることを、信雄はまだ知らなかった。
◇
「なるほど」
黒田官兵衛は報告を最後まで聞くと、静かに目を閉じた。
景継と信雄が何を話したのか。
すべてを知ることはできない。
だが信雄が帰路についてからも答えを出していないことは分かった。
「どう見る?」
秀吉が尋ねる。
「悪くございません」
「景継につかなかったからか」
「それもございます」
「なら今のうちに信雄をこちらへ引き込むか」
官兵衛はすぐには頷かなかった。
「急げば、かえって林道様の方へ押すかもしれませぬ」
「では、また待つのか」
「少しだけ」
秀吉が苦笑する。
「お前まで景継のようなことを言い始めたな」
「敵から学ぶことを恥じる必要はございません」
官兵衛は地図を見た。
信雄。
景継。
そして秀吉。
信雄の迷いを、無理に答えへ変える必要はない。
迷ったままでも使える。
「人は、答えを出した時だけ動くわけではございません」
「どういう意味じゃ」
「答えが出ないからこそ」
官兵衛の指が、信雄の領地に触れた。
「自分を守るために、動くこともございます」
秀吉は官兵衛を見る。
「何をするつもりじゃ」
「今すぐには何も」
官兵衛は答えた。
「ただ、信雄様が次に何を恐れるのか。それを見ます」
景継は信雄の不安を消さなかった。
消せなかったのではない。
自分が大きくなる以上、消えるはずがないと分かっていたからだ。
ならば。
その消えない不安を、こちらが使えばいい。
官兵衛は地図から手を離した。
林道景継が大きくなるほど。
その力に引かれる者が増える。
同時に、その力を恐れる者も増えていく。
景継が初めて自分の領地を手に入れたことで、天下を巡る争いは少しずつ形を変え始めていた。




