第百二十六話 大きくなるほど
林道家が最初の領地を得てから、半月ほどが過ぎた。
戦の傷跡は、少しずつ消え始めている。
止まりかけていた市には商人が戻り、村では田畑の手入れが再開された。問題となっていた用水にも人が入り、崩れた場所の修繕が始まっている。
景継が新たに召し抱えた兵は百五十ほど。
五千を超える軍勢から見れば、大きな増加ではない。
だが景継にとって重要なのは、百五十という数字そのものではなかった。
自分の土地から得られる米と銭で、自分の兵を養う。
小さいながらも、その仕組みが初めて動き始めたのだ。
「殿」
「はい」
「また来ております」
弥兵衛が三通の書状を机へ置いた。
景継は一通目を開き、二通目を読み、三通目まで読み終えると小さく息を吐いた。
「増えましたね」
「昨日よりは」
「昨日も来ましたよね?」
「二通ほど」
「その前は?」
「一通」
「綺麗に増えているじゃないですか」
「喜ばしいことでしょう」
「中身によりますよ」
景継が三通を並べた。
すべて近隣の国人からだった。
林道家に臣従したいというものではない。
友好関係を築きたい。
必要ならば兵を出してもよい。
今後も領地を守っていきたいので、林道家との関係を確認したい。
表現は違っても、言いたいことは似ていた。
景継がどこまで大きくなるのか。
そして、自分たちはどうすればいいのか。
皆、それを探っている。
「この方は?」
「城持ちでございます。兵は三百ほど」
「こちらは?」
「二百前後でしょう」
「最後の方は?」
「百にも届かないかと」
景継は三通目をもう一度開いた。
「では、この方に会いましょう」
弥兵衛が少し意外そうな顔をした。
「兵が最も少ない方ですが」
「土地がいいです」
景継は地図を広げた。
林道領から南へ伸びる街道。
その途中に、相手の支配する土地がある。
「ここです」
「街道ですか」
「はい。それに市もある」
「また市ですか」
「大事なんですよ」
「最近はよく聞きます」
「天下を取るには必要ですから」
弥兵衛が景継を見る。
「殿が天下について語っているのか、市場について語っているのか、時々分からなくなります」
「両方です」
景継は真面目な顔で答えた。
「兵三百を一度借りるより、ここを人や荷が安全に通れる方が長く使えます」
「では臣従を求めるので?」
「いいえ」
「兵も求めない?」
「今すぐには」
「では、何を?」
「道を使わせてもらいます。それと、こちらの商人が通るのを邪魔しないでもらう。向こうの商人にもこちらへ来てもらえれば、なおいいですね」
弥兵衛が頷く。
「向こうは領地の保証を求めておりますが」
「それは言い方を考えましょう」
「保証しないので?」
「今の私が『あなたの領地は私が保証します』と言っても、おかしいでしょう」
景継は苦笑した。
「近江一国すら持っていない人間ですよ?」
「天下を取るとは言っておりますが」
「未来の話です」
景継は地図を指で叩いた。
「今できない約束までして人を集めるつもりはありません。私と敵対しない限り、こちらから領地を奪うつもりはない。それで十分です」
「分かりました」
弥兵衛が書状をまとめようとした時だった。
「景継、いるか」
丹羽長秀が部屋へ入ってきた。
その後ろには池田恒興もいる。
「ちょうどよかった」
「何かありました?」
「わしのところにも来た」
長秀が書状を置く。
恒興も続いた。
「わしにもだ」
景継が二人の書状を読む。
どちらも旧知の者からだった。
近況を尋ねる言葉が並んでいる。
だが、本当に知りたいことは別にあった。
林道景継とはどのような男なのか。
このまま大きくなるのか。
その近くにいる長秀や恒興は、これからどうするつもりなのか。
「私に直接聞いてくれればいいのに」
景継が言うと、恒興が呆れた顔をした。
「聞けるか」
「答えますよ」
「では、『林道景継についていって本当に大丈夫か』と聞かれたら何と答える?」
景継は少し考えた。
「絶対に大丈夫とは言えませんね」
「ほら見ろ!」
「でも、絶対に大丈夫な主君なんているんですか?」
「そういうところだ!」
「何がです?」
「お前に聞いても安心できん!」
弥兵衛が横を向いて笑いを堪えている。
長秀は二人のやり取りを遮った。
「問題はそこではない」
景継が長秀を見る。
「では?」
「お前を見る目が変わり始めている」
長秀が二通の書状を指した。
「以前は、お前が秀吉に勝てるのかを見ていた」
「はい」
「今は違う」
「何を見ているんです?」
「お前が、どこまで大きくなるのかだ」
景継の表情が少し変わった。
「味方になろうと考える者もいる。その一方で、今のうちに距離を取った方がよいと考える者も出始めている」
「なるほど」
「驚かんのか」
「多少は」
景継は自分の前にある三通の書状を見る。
「でも、当然なのかもしれません」
「何がだ?」
「小さいうちは、誰も怖がりませんから」
五千の兵しかいなかった時ですら、景継は勝家や上杉を動かした。
今はそこに自分の土地が加わった。
まだ小さい。
それでも、昨日より今日の方が強い。
そして周囲から見れば、明日はさらに強くなるかもしれない。
「大きくなれば、味方が増える」
景継が言った。
「同時に、敵になるかもしれない人も増えるということですね」
「そういうことだ」
「困りましたね」
「天下を取ろうとしている人間が何を言う」
「天下を取るのが簡単だとは思っていませんよ」
景継は少し笑った。
「ただ、やることが増えるなと」
「今さらか」
「領地を持ってから、本当に増えたんです」
長秀がため息をついた。
「お前は天下を何だと思っていたのだ」
「もっと戦が多いものだと思っていました」
「これから嫌というほどある」
「それはそれで困りますね」
「どちらなのだ!」
恒興の声に、今度は長秀まで笑った。
◇
その日の夕刻。
笑ってばかりもいられない報せが届いた。
「織田信雄様の周辺で、羽柴方の動きが増えております」
報告を受けた景継は、すぐに地図の前へ移った。
一益も呼ばれている。
「秀吉様の使者ですか?」
「はい。何度か出入りしております」
「内容は?」
「詳しくは分かりませぬ。ただ、信雄様の周囲では林道様についての話が増えているようにございます」
「私の?」
「はい」
報告役が一度言葉を選んだ。
「林道様が今後さらに勢力を広げた場合、織田家がどうなるのか。そのような話が交わされていると」
一益が鼻を鳴らした。
「官兵衛だな」
「でしょうね」
景継も否定しなかった。
「信雄にこちらを警戒させるつもりだ」
「それもあると思います」
「それも?」
一益が景継を見る。
「全部が官兵衛殿の作った不安とは限りません」
「何?」
「信雄様自身が不安に思っていても、おかしくないでしょう」
景継は地図へ目を落とした。
自分には自分の理由がある。
織田家を奪うつもりはない。
三法師から何かを取り上げるつもりもない。
信孝とは主従ではなく同盟を結んだ。
だが、それを全部知っていたとしても。
林道家が大きくなっている事実そのものは変わらない。
「私が信雄様だったら、気になると思います」
一益が腕を組んだ。
「だから放っておくのか?」
「いいえ」
「なら使者を出せ。織田家を奪う気はないと、もう一度伝えればよい」
景継はすぐには答えなかった。
「それだけでは足りない気がします」
「なぜだ」
「私が『奪いません』と言っても、林道家が大きくなることは止まりませんから」
一益が黙る。
「私はこれからも領地を増やします。兵も増やす。天下を取ると言った以上、それはやめません」
「なら、信雄が恐れるのは当然だと?」
「はい」
景継はあっさり認めた。
「だからこそ、何を恐れているのか本人から聞いた方がいい」
「会うつもりか」
「会えるなら」
弥兵衛が景継を見る。
「殿から申し入れるので?」
「はい」
「何と伝えます?」
景継は少し考えた。
「一度、お話ししたいと」
「それだけですか?」
「長い書状を書いても仕方ないでしょう」
一益が嫌そうな顔をした。
「お前の短い書状は、かえって何を考えているか分からん時があるぞ」
「では少し長くします?」
「いや。余計なことを書く前にそのまま出せ」
「分かりました」
弥兵衛が笑いながら頭を下げた。
使者は翌朝、信雄のもとへ向かった。
◇
織田信雄は、景継から届いた書状を前にしていた。
短い。
相変わらず、余計なことはほとんど書かれていない。
一度、会って話をしたい。
要点はそれだけだった。
「……今さら、何を話す」
信雄は呟いた。
机の上には、羽柴方から届いた書状もある。
だが、そちらを開く必要はなかった。
秀吉が何を言いたいのかは、もう十分に分かっている。
景継が大きくなっている。
そんなことは、秀吉に教えられなくても知っていた。
だからこそ信雄は、景継の短い書状から目を離せなかった。
「織田を奪うつもりはない、か」
景継がそう考えていることも知っている。
少なくとも、そう言っていることは。
以前は、その言葉そのものを疑った。
だが今の信雄を苛立たせているのは、それだけではなかった。
もし。
本当に景継が織田家を奪うつもりなどないのだとしたら。
それでも、あの男が天下を取った時。
「織田は……どうなる」
信雄は小さく呟いた。
滅ぼされない。
だから安心できる。
そんな単純な話ではない。
林道家が織田家より遥かに大きくなれば、織田家が残っていたとしても、その立場は今までとはまるで違う。
三法師はどうなる。
自分はどうなる。
信孝は。
父が作ったものは。
何が残り、何が変わる。
景継が何を奪うのかではない。
景継が天下を取った後に、織田家が何になるのか。
信雄はそこまで考えて、初めて気づいた。
自分はこれまで、景継が何をするのかばかりを考えていた。
だが景継が本当に天下へ向かうのであれば、自分も決めなければならない。
織田信長の子として、何を守るのか。
何を求めるのか。
そして、誰と立つのか。
「殿」
家臣が声をかけた。
「羽柴様の使者がお待ちでございます」
「後にしろ」
家臣が驚いた。
「よろしいので?」
「ああ」
信雄は景継の書状を手に取った。
「先に、こちらへ返事を出す」
「林道様へ?」
「会うと伝えろ」
「はっ」
家臣が頭を下げる。
だが信雄は、その家臣を呼び止めた。
「待て」
「はっ」
「もう一つ伝えろ」
「何と?」
信雄は少し考えた。
やがて、景継の書状を机へ置く。
「わしも、聞きたいことがあるとな」
家臣が下がった。
信雄は一人になってから、もう一度景継の書状を見た。
「景継……」
お前は、織田を奪わないと言う。
ならば聞かせてもらう。
お前が天下を取った時。
織田家を、どうするつもりなのか。
◇
信雄が景継との対話を受け入れたという報せは、やがて秀吉のもとにも届いた。
「会うそうじゃ」
秀吉は書状を置いた。
「よかったのか、官兵衛」
「何がでございます?」
「景継と信雄を会わせることじゃ」
「構いませぬ」
「景継は人を丸め込むぞ」
「存じております」
「恒興もそうじゃ。信孝とも結んだ。信雄まで景継の側へ行けば面倒になる」
官兵衛は少し考えた後、静かに答えた。
「今回、林道様が何を仰るかは、それほど重要ではございません」
「どういうことじゃ」
「信雄様は、すでに見ておられます」
「何を」
「林道様が大きくなっていることを」
秀吉が黙る。
「言葉で不安を作る段階は、もう終わっております」
官兵衛は続けた。
「今の信雄様が知りたいのは、林道様が織田家を奪うかどうかだけではございません」
「では何じゃ」
「林道様が天下を取った時、自分たちはどうなるのか」
官兵衛はそこで一度言葉を切った。
「おそらく、それを考え始めておられます」
秀吉の目が細くなる。
「景継が安心させれば?」
「安心するかもしれません」
「ならば駄目ではないか」
「いいえ」
官兵衛は首を振った。
「安心した上で林道様につくのであれば、それもまた信雄様の選択でございましょう」
秀吉が眉を寄せた。
「随分と余裕じゃな」
「余裕ではございません」
官兵衛は地図へ視線を落とした。
「ただ、人は不安だから敵になるとは限りませぬ」
不安だから近づく者もいる。
守ってもらおうとする者もいる。
距離を取る者もいる。
そして。
恐れるからこそ、先に刃を向ける者もいる。
「信雄様がどちらへ動くかは、まだ分かりませぬ」
「ならば待つのか?」
官兵衛はわずかに笑った。
「はい」
「景継の真似か」
「使えるものは、使わせていただきます」
秀吉も小さく笑った。
だが官兵衛の目は、地図から離れなかった。
林道景継は大きくなった。
だから人が集まる。
そして大きくなったからこそ、恐れる者も生まれる。
力とは、味方だけを増やすものではない。
景継自身も、ようやくそれを目の前の問題として受け止め始めていた。
織田信雄と林道景継。
二人が改めて向き合う時が、近づいていた。




