第百二十五話 領地を持つということ
高坂の城に林道家の旗が上がってから、五日が過ぎた。
戦は終わった。
だが、景継の仕事はむしろ増えていた。
「殿」
「はい」
「こちらをご確認ください」
「……まだあるんですか?」
「あります」
景継の前へ、新しい帳面が置かれた。
置いたのは弥兵衛だった。
城の一室。
以前は高坂頼綱が政務を執っていた場所に、今では景継、弥兵衛、丹羽長秀が座っている。
机の上には帳面と書状が積み上げられていた。
戦場であれば、敵がどこにいるかは見える。
だが、領地を治める仕事には終わりが見えない。
「これは?」
「村ごとの年貢についてです」
「昨日も見ませんでした?」
「あれは昨年分です」
「これは?」
「今年の見込みです」
「こっちは?」
「戦で徴発された分です」
景継は弥兵衛を見た。
「……詳しいですね」
「殿よりは」
「頼もしいです」
「比較する相手が殿では、あまり嬉しくありません」
長秀が堪えきれず笑った。
景継は不満そうに二人を見る。
「私だって頑張っているんですよ」
「分かっております」
弥兵衛はそう言いながら、さらに一枚の紙を置いた。
「ですから、こちらもお願いします」
「増えたじゃないですか」
「頑張っておられるので」
「褒められた気がしません」
戦が終わってから、弥兵衛はこうして景継の側で領内の整理に追われていた。
新しく景継の周囲に集まった者は多い。
丹羽長秀。
滝川一益。
池田恒興。
そして独立した同盟者として柴田勝家や織田信孝もいる。
名を挙げれば、誰もが知るような者ばかりだった。
だが、景継がまだ天下を口にするより前から、その側にいた者たちもいる。
弥兵衛はその一人だった。
「弥兵衛」
「はい」
「どう思います?」
「何がでしょう」
「この土地です」
弥兵衛が少し考えた。
「悪くはないかと」
「それだけですか?」
「では、何と申し上げればよろしいので?」
「もう少しこう……最初の領地ですから」
「感動してほしいと?」
「そこまでは言いませんけど」
弥兵衛は部屋の外へ目を向けた。
「殿」
「はい」
「私は、殿が五千ほどの兵を率いるようになった時の方が驚きました」
「そうなんですか?」
「ええ」
「では今回は?」
「殿なら、いずれ領地くらい持つだろうと思っておりましたので」
景継が瞬きをした。
「ずいぶん信用されていますね」
「長く見ておりますから」
弥兵衛はそれだけ言うと、帳面へ視線を戻した。
「ですから、取った後で潰さないようにしてください」
「急に厳しくなりましたね」
「領地を取るより、そちらの方が難しいでしょう」
長秀が大きく頷いた。
「弥兵衛の言う通りだ」
「長秀様まで」
「事実だ」
景継はため息をつき、帳面を開いた。
そこには村ごとの田畑、収穫、年貢について細かく記されている。
高坂領は決して豊かな土地ばかりではない。
山に近い村では田が少なく、収穫も安定しない。
一方で街道沿いには市があり、周辺の村から物が集まる。
川を使えば荷も運べる。
問題は、その川だった。
「この用水ですか」
「はい」
長秀が地図を指した。
「数年前から傷んでいる。高坂家も直そうとはしていたようだが、戦続きで後回しになったらしい」
「直すと、どれくらい変わります?」
「すぐに石高が倍になるような話ではないぞ」
「それくらいは分かっています」
「本当か?」
「……たぶん」
長秀が呆れた顔をする。
弥兵衛が説明を続けた。
「水が安定すれば、下流の三つの村は今より収穫が安定するでしょう。大雨の際に水が溢れる場所もございますので、そちらも合わせて直せれば」
「いくらかかります?」
「そこが問題です」
「やっぱり」
景継は天井を見上げた。
「国を作るって、お金がかかりますね」
「今さら何を言っている」
「もっとこう、天下取りというのは戦に勝って城を増やしていくものだと思っていました」
長秀が景継を見る。
「お前は前から米だの道だの言っていただろう」
「知っていることと、自分で払うことは違います」
弥兵衛が小さく笑った。
そこへ足音が近づいてきた。
「景継!」
声だけで誰か分かる。
滝川一益が部屋へ入ってきた。
「何です?」
「兵の話だ」
景継の表情が少し変わった。
一益は景継の前に座る。
「高坂勢のうち、こちらへ仕えたいという者が出ている」
「何人くらいです?」
「今のところ二百ほどだ」
「そんなに?」
「驚くことか?」
「もう少し帰ると思っていました」
「帰った者も多い。だが、元から高坂家の兵として働いていた者もいる。領主が逃げた以上、新しい領主へ仕えることを考えるのはおかしくない」
「なるほど」
「どうする?」
景継はすぐには答えなかった。
「全員入れるつもりはありません」
一益の眉が上がった。
「兵が欲しかったのではないのか?」
「欲しいですよ」
「なら入れればよい」
「食わせられるなら」
景継は帳面を軽く叩いた。
「今の領地で、無理なく何人増やせるかを先に知りたいです」
「二百くらいどうにでもなるだろう」
「その二百人にも家族がいます」
一益が黙った。
「兵として使うなら武具も必要です。給金や扶持もいる。馬を持つ者なら、その維持も必要になる」
「……お前は本当に兵の話をすると米の話になるな」
「兵は霞を食べて生きているわけではありませんから」
長秀が一益を見る。
「景継の言っていることは正しい」
「分かっておる。分かっておるが、こいつから天下という言葉を聞きすぎたせいで、もっと景気よく増やすと思っていたのだ」
「私だって増やしたいですよ」
景継は地図を見る。
「でも、五千を一万にすることだけならできます」
「ほう?」
「無理やり人を集めれば」
景継は続けた。
「その一万を一年後も一万のまま持っていられるかは、別の話です」
一益が景継を見つめる。
「私は、一度だけ一万の兵を集めたいわけではありません」
景継の指が、自分の領地となった場所をなぞった。
「一万を養える国が欲しいんです」
部屋が静かになった。
長秀がわずかに笑った。
「ようやく領主らしいことを言ったな」
「今までは違ったんですか?」
「五日前に領主になったばかりだろう」
「そうでした」
その日の午後。
景継は城を出た。
供は多くない。
弥兵衛と数人の兵、それに領内の事情を知る旧高坂家の役人が同行していた。
「こちらです」
役人に案内され、問題の用水へ向かう。
途中で村を通った。
景継を見る村人たちの目には、まだ警戒がある。
当然だった。
数日前まで敵だった男が、突然新しい領主になったのだ。
景継は無理に声をかけなかった。
ただ、道を歩き、田畑を見た。
やがて川沿いへ出る。
「……これは」
景継が足を止めた。
思っていたより酷い。
土を積んで作られた水路の一部が崩れ、木組みも傷んでいる。
役人が説明した。
「昨年の大雨で大きく崩れました。それ以前から傷んではいたのですが」
「高坂殿は?」
「修繕を命じてはおりました。しかし、兵を整えることが優先されまして」
景継はしゃがみ込んだ。
流れる水を見る。
「これを直せば、三つの村が助かるんですね?」
「はい」
「どれくらいの人手が必要です?」
「それは……」
役人が考える。
弥兵衛が景継を見る。
「やるおつもりですか?」
「直さない理由があります?」
「銭がかかります」
「知っています」
「先ほどまで、それで頭を抱えておられましたが」
「今も抱えていますよ」
景継は立ち上がった。
「でも、放っておけば来年も困るんでしょう?」
「そうでしょうな」
「なら直します」
弥兵衛が少し笑った。
「分かりました」
その時、少し離れたところに村人が立っているのが見えた。
年老いた男だった。
こちらをじっと見ている。
景継が気づくと、男は慌てて頭を下げた。
「近くの村の方ですか?」
「……へい」
「この用水を使っています?」
「へい」
「困っています?」
老人は一瞬、役人の顔を見た。
何を答えていいか迷っている。
景継は待った。
「……困っております」
「そうですか」
「去年は、水が途中で止まりまして」
「田が駄目になった?」
「全部ではございません。ただ、取れ高は随分と」
景継は頷いた。
「直します」
老人が顔を上げた。
「へ?」
「これ」
景継が用水を指す。
「直します」
「ですが……」
「何です?」
「戦が、またあるのでは」
景継は黙った。
老人の言っている意味は分かった。
新しい領主が来る。
用水を直すと言う。
だが、すぐにまた戦が起これば、そんな約束など消えてしまう。
景継は少し考えた。
「あると思います」
老人が驚いた。
弥兵衛も景継を見る。
「私は天下を取るつもりなので、これから戦がなくなるとは言えません」
「殿」
「嘘を言っても仕方ないでしょう」
弥兵衛は何も言えなくなった。
景継は老人へ向き直る。
「でも、だから直さないという話にはなりません」
「……」
「戦があっても田は必要です。人は食べないと生きられない。私の兵も、あなたたちも同じです」
老人は黙って景継を見ている。
「それに」
景継は周囲の田畑を見た。
「私がこの土地を取った以上、次の戦で簡単に取られるつもりもありません」
老人がゆっくり頭を下げた。
その日の夕方。
城へ戻った景継を、池田恒興が待っていた。
「どこへ行っていた」
「用水を見ていました」
「……お前は本当に天下を取るつもりなのだな?」
「なぜ用水を見ただけで疑われるんです?」
「逆だ」
恒興が笑った。
「少し分かってきた」
「何がです?」
「お前が何をしようとしているのかだ」
景継は首を傾げた。
「わしは、お前がどんな天下を作るのか見たいと言った」
「はい」
「だからついてきた」
恒興は城の外を見る。
「戦で見せてもらえると思っていた」
「違いました?」
「いや。戦も見た」
恒興は景継を見る。
「だが、どうやらそれだけではなさそうだ」
景継は何も言わなかった。
「信長様は、古いものを壊した」
恒興が静かに続ける。
「誰も逆らえぬほど強くなり、道を開いた。あの方にしかできぬことだった」
景継の脳裏に、信長の顔が浮かんだ。
そして、そのさらに奥。
曹操。
前世で仕えた男。
今世でも仕えた男。
二度とも、自分より先に死んだ。
「お前は違うのだな」
恒興が言った。
「そうかもしれません」
「否定せぬか」
「上様と同じことをしても、上様にはなれませんから」
恒興が少し笑う。
「それでよい」
景継は恒興を見る。
「私は私のやり方でやります」
「ああ。だから見ている」
恒興は立ち上がった。
「それで、用水はいくらかかる?」
「聞かないでください」
「領主だろう」
「領主だから困っているんです」
恒興の笑い声が部屋に響いた。
◇
数日後。
林道家による新領地の調査がひとまずまとまった。
長秀が作った数字を、景継たちが囲んでいる。
「無理をしなければ、今すぐ大きく兵を増やすべきではない」
長秀が言った。
「分かりました」
「だが、今回加わりたいと言っている者の中から、使える者を選んで召し抱える程度なら問題ない」
「どれくらいです?」
「まず百五十ほどだな」
一益が不満そうな顔をする。
「二百全員ではないのか」
「必要になれば増やす」
長秀は一益を一蹴した。
「兵だけではない。領内を治める者も必要だ」
「そっちもですか」
景継が呟いた。
「当たり前だ」
長秀が答える。
「お前が全部の村を回るつもりか?」
「無理ですね」
「なら人を使え」
弥兵衛も頷いた。
「旧高坂家の役人にも、そのまま使える者がおります」
景継が少し考える。
「調べてください」
「何をです?」
「仕事ができるかどうか。それと、領民から恨まれすぎていないか」
「分かりました」
「高坂家に仕えていたこと自体は問題にしなくていいです」
長秀が景継を見る。
「裏切りを警戒しないのか?」
「します」
「ならば」
「でも、昨日まで高坂家の土地だったんですから、高坂家に仕えていたのは普通でしょう」
景継は帳面を閉じた。
「必要なのは、昨日誰に仕えていたかより、明日ここで何をしてくれるかです」
弥兵衛がその言葉を聞き、静かに頷いた。
こうして林道家は、最初の領地を少しずつ自分たちの国へ変え始めた。
兵はわずかに増えた。
役人も増えた。
用水の修繕が決まった。
市場についても、戦の前と同じように開くことが認められた。
目を見張るような変化ではない。
城が十も増えたわけではない。
兵が一万になったわけでもない。
それでも、景継にとっては確かな一歩だった。
そして、その一歩を見ている者は、味方だけではなかった。
◇
「林道景継が、高坂領の統治を始めたそうにございます」
羽柴秀吉の前で、黒田官兵衛が報告した。
「知っておる」
秀吉は不機嫌そうに答えた。
「用水まで直すそうです」
「……何の話じゃ」
「領地の話でございます」
「そんなことまで調べさせておるのか」
「はい」
官兵衛は平然としている。
秀吉が呆れたように笑った。
「官兵衛。景継が溝を直したくらいで、わしにどうしろと言うのじゃ」
「何も」
「何?」
「今は、何もする必要はございません」
秀吉が目を細めた。
「ではなぜ報告した」
官兵衛は少しだけ考えてから答えた。
「確認しておきたかったのでございます」
「何を」
「林道様が、本当に国を作ろうとしているのかを」
秀吉の表情が変わった。
官兵衛は続ける。
「城を取る者は大勢おります。領地を欲しがる者も大勢いる」
「当たり前じゃ」
「ですが、取った直後から、次の収穫を考える者はそれほど多くございません」
「景継は昔から、そういう細かい男じゃ」
「ええ」
官兵衛は静かに笑った。
「ですから厄介なのでございます」
秀吉は黙った。
「北ノ庄では、人が林道様のもとへ集まり始めました」
官兵衛の指が地図をなぞる。
「今度は、その人を養う場所を作り始めた」
小さな領地。
天下全体から見れば、まだ取るに足らない。
「一つなら、何でもございません」
官兵衛が言った。
「二つ、三つと増えれば?」
秀吉は答えなかった。
「そのたびに兵を養える。銭が入る。人が増える。そして、その土地を治めた実績まで残る」
「……何が言いたい」
「林道様を止めるのであれば」
官兵衛は地図から顔を上げた。
「土地を取るたびに強くなることを、忘れてはならないということでございます」
秀吉の目が細くなる。
「ならば、次を取らせなければよい」
「はい」
官兵衛は頷いた。
「その通りでございます」
そして地図の別の場所へ指を置いた。
「ですので、こちらを使いましょう」
秀吉がその場所を見る。
「……信雄か」
「はい」
官兵衛の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
「林道様が大きくなればなるほど、最も不安になる方がおられます」
北ノ庄。
長秀。
一益。
恒興。
信孝との同盟。
そして今度は、自分の領地。
官兵衛は知っていた。
力が増えるということは、味方が安心するだけではない。
それを恐れる者も増えるということを。
「林道様には、もう少し大きくなっていただきましょう」
秀吉が官兵衛を見る。
「止めるのではなかったのか?」
「止めます」
官兵衛は答えた。
「ただし――」
地図の上。
織田信雄の領地と、景継が手に入れた土地。
その二つを指で結ぶ。
「我らだけで止める必要はございません」
景継が自分の国を作り始めたその時。
その成長を利用しようとする者もまた、動き始めていた。




