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『乱世にて、我は待つ』~知略を秘めた軍師は、やがて天下を動かす~  作者: ダイヤマ
第七章 覇道布石編

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第百二十四話 勝った翌日



 林道軍が川を渡り始めた時、高坂勢はすでに軍としての形を失いかけていた。


 兵の数だけなら、まだ八百を超えている。


 だが、その八百が同じ気持ちで立っているわけではない。


 主君である高坂頼綱と共に最後まで戦うつもりの者。


 逃げる機会を探している者。


 周囲が動かないから、仕方なく槍を握っている者。


 そして、つい先ほど仲間たちが武器を置いて去っていく姿を見てしまった者。


 そこへ五千を超える林道軍が押し寄せてくる。


「構えろ! 構えぬか!」


 高坂頼綱の怒声が響いた。


「敵は川の中だ! 今ならば止められる! 弓を放て!」


 命令を受け、弓兵が前へ出る。


 だが、その数は少ない。


 放たれた矢が川へ降り注いだ。


 林道軍の何人かが倒れる。


 それでも進軍は止まらなかった。


「盾を前へ! 急ぐ必要はありません! 隊列を崩さないように!」


 景継の命令が伝わっていく。


 兵たちは盾を掲げ、足元を確かめながら川を進んだ。


 敵が混乱しているからといって、無理に急がせるつもりはなかった。


 川の中で足を滑らせれば、それだけで隊列は乱れる。


 乱れたところへ敵が突っ込んでくれば、勝てる戦でも死人が増える。


 景継が欲しいのは派手な勝利ではない。


 土地だった。


 そして、その土地を治めるために必要な兵と人だった。


「景継!」


 少し離れた場所から一益の声が飛んできた。


「左から回れるぞ!」


「お願いします! ただし深追いはしないでください!」


「分かっておる!」


 一益の部隊が川下へ回る。


 反対側では恒興も動き始めていた。


 高坂勢から見れば、正面だけでも自分たちより遥かに多い。


 そのうえ左右から別の部隊が迫ってくる。


「殿!」


 高坂家の家臣が頼綱へ駆け寄った。


「このままでは囲まれます!」


「分かっておる!」


「城へお戻りを!」


「ここで退けば追われるぞ!」


「しかし――」


 その時だった。


 高坂勢の左側で声が上がった。


「もう無理だ!」


 一人の足軽が槍を捨てた。


「俺は帰る!」


「待て!」


 近くの武士が止めようとした。


 だが、別の男も槍を落とした。


「俺もだ!」


「林道は戦わなければ殺さぬと言った!」


「村へ帰る!」


 十人。


 二十人。


 また兵が抜け始める。


「逃げる者は斬れ!」


 頼綱が叫んだ。


 家臣の一人が馬を走らせ、逃げようとした足軽へ刀を振り上げる。


 その光景を、対岸へ上がった景継が見ていた。


「……まずいですね」


 長秀が横を見る。


「何がだ?」


「あれを続けられると、逆に兵がまとまるかもしれません」


「逃げれば殺されるとなれば、戦うしかなくなるか」


「はい」


 追い詰められた人間は強い。


 選択肢がなくなれば、戦いたくない者まで必死に戦う。


 それでは困る。


「前へ伝えてください」


「何と?」


「高坂勢に聞こえるように言わせます」


 景継は前方を見た。


「武器を捨ててこちらへ来る者は、その場で保護する。高坂家の者がそれを妨げるなら、林道軍が守る、と」


 長秀が頷いた。


「なるほど」


 すぐに命令が伝えられた。


 前列の兵たちが声を張り上げる。


「聞け! 林道様からの命である!」


「武器を捨てる者には手を出さぬ!」


「こちらへ来る者は保護する!」


「降る者を斬ろうとする者があれば、我らが守る!」


 声は何度も繰り返された。


 高坂勢の中に広がっていく。


 頼綱の顔色が変わった。


「聞くな! 敵の言葉だ!」


 だが遅かった。


 逃げても斬られる。


 そう思っていた者たちに、別の道が示された。


 一人が走った。


 今度は後ろではない。


 林道軍へ向かって。


 槍を捨て、両手を上げて走ってくる。


 林道軍は攻撃しなかった。


 男はそのまま兵の後方へ通された。


 それを見た別の兵が続いた。


 さらに三人。


 五人。


 十人。


 高坂勢の中央からも人が抜ける。


「止めろ!」


 頼綱が叫んだ。


 だが、止めようとした家臣の前へ林道軍が迫っていた。


 もう逃亡者だけを追っている余裕はない。


「押せ!」


 一益の声が響いた。


 左翼で高坂勢が崩れた。


 恒興も右から圧力をかける。


 中央では景継と長秀の部隊が前進していた。


 高坂勢は三方から押された。


 それでも景継は、全軍で一気に包囲しなかった。


 一か所だけ、意図的に開けてある。


 城とは反対の方向だった。


 恒興が馬を寄せる。


「景継! 後ろが空いているぞ!」


「空けています!」


「逃げるぞ!」


「逃がしてください!」


「本気か!」


「今ここで囲んだら、死ぬまで戦うでしょう!」


 恒興が振り返った。


 確かにそうだった。


 完全に囲まれれば、高坂勢には戦う以外の道がなくなる。


 だが逃げ道があれば、命を惜しむ者はそちらへ向かう。


 そして一人が逃げれば、隣の者も迷う。


「……分かった!」


 恒興は追撃を止めた。


 ほどなくして、高坂勢の後方が崩れた。


「退け!」


 誰が最初に叫んだのかは分からなかった。


 だが、その一言で十分だった。


 兵が走り出す。


 武器を捨てる者。


 そのまま逃げる者。


 林道軍へ降る者。


 高坂家の旗が次々と倒れていく。


「殿!」


 家臣が頼綱の馬を引いた。


「お退きください!」


「まだだ!」


「もう軍が持ちませぬ!」


 頼綱が周囲を見る。


 先ほどまで八百以上いた兵が、今では半分も残っていない。


 その残った兵も、戦うより逃げる場所を探している。


 正面には林道軍。


 左には一益。


 右には恒興。


 それでも後方だけは空いていた。


 頼綱は唇を噛んだ。


「……城へ戻る」


「城へは戻れませぬ!」


「何?」


「城への道は滝川勢に押さえられております!」


 頼綱が一益の旗を見る。


 その瞬間、ようやく理解した。


 空いている道は一つしかない。


 林道景継が、自分に残した道だ。


 城を捨てて逃げる道。


「……最初からか」


 頼綱が呟いた。


 敵は自分の首を取りに来たのではない。


 城を取りに来たのだ。


「殿!」


 頼綱は歯を食いしばった。


「退く!」


 残った家臣たちと共に馬を走らせた。


 恒興の部隊が追おうとする。


「追うな!」


 命令が飛んだ。


 景継だった。


「頼綱は行かせて構いません!」


 一益が馬上で呆れた顔をする。


「本当に逃がすのか!」


「城へ向かってください!」


「首を取れば終わりだぞ!」


「城を取っても終わります!」


「普通は逆だ!」


「今日はこっちでいいんです!」


 一益は何か言い返そうとして、やめた。


「もう好きにしろ!」


「ありがとうございます!」


「褒めておらん!」


 高坂勢は潰走した。


 戦そのものは、あっけないほど早く終わった。


 だが景継は追撃を命じなかった。


 逃げる兵を斬っても土地は増えない。


 むしろ明日から働く人間が減るだけだった。


 負傷者を集めさせる。


 敵味方を分けない。


 武器を捨てた者は一か所へ集め、名前と村を確認させる。


 村へ帰りたい者は、確認が終われば帰す。


 高坂家の家臣で残りたい者については、後で話を聞く。


 そして景継は軍を城へ向けた。


 城に残されていた兵は三百にも満たなかった。


 頼綱が敗走したことは、すでに伝わっている。


 城門は閉じられていた。


 景継はその前で軍を止めた。


「攻めるか?」


 長秀が尋ねる。


「その前に話します」


 使者を送った。


 要求は簡単だった。


 城を開けること。


 武器を置くこと。


 従えば命は取らない。


 抵抗するなら攻める。


 返事を待つ間、景継は城壁を見上げていた。


 一益が横へ来る。


「ここまで来て、また待つのか」


「少しだけです」


「昨日から待ってばかりではないか」


「必要なところでは待ちますよ」


「第六天魔王の後に仕えるなら、もう少し勢いのある奴がよかった」


「もう上様はいませんよ」


 景継が何気なく答えた。


 一益が黙った。


 景継も自分の言葉に気づいた。


 二人の間に少しだけ沈黙が落ちる。


「……そうだったな」


 一益が言った。


「はい」


 それ以上、二人とも何も言わなかった。


 やがて城門の上に白い布が上がった。


「開門!」


 重い音を立てながら、城門が開いていく。


 高坂家の家臣たちが武器を置き、外へ出てきた。


 先頭の老臣が景継の前で膝をつく。


「城を、お渡しいたします」


「分かりました」


「我らの命は……」


「取るつもりはありません」


 老臣が顔を上げる。


「ただし、話は聞かせてください。高坂家の領内について、一番よく知っているのは皆さんでしょうから」


「は……?」


「田畑がどれくらいあるのか。去年どれくらい米が取れたのか。どの村に何人いるのか。市場はいつ開くのか。川が氾濫する場所はどこか。道が悪い場所はどこか」


 老臣は呆然としていた。


「それを……我らに?」


「はい」


「処罰ではなく?」


「処罰が必要な人については後で調べます」


 景継は城を見上げる。


「ですが、それより先に知らないと困ります」


「何をでございますか」


 景継は老臣を見る。


「今日からここを治めるのは、私ですから」


 その日の夕方。


 高坂家の旗が下ろされた。


 代わりに林道家の旗が上がる。


 景継は城の一室にいた。


 戦勝の宴はない。


 首実検もない。


 目の前に積まれているのは帳面だった。


「……何ですか、これ」


 景継が一冊を持ち上げる。


 長秀が答えた。


「年貢の記録だ」


「これは?」


「村ごとの田畑」


「こっちは?」


「借財だろうな」


 景継の手が止まった。


「借金があるんですか?」


「領主なのだから、あることも珍しくない」


「聞いてません」


「誰に聞くつもりだったのだ」


「……頼綱殿ですかね」


「逃がしたではないか」


 景継は黙った。


 一益が腹を抱えて笑った。


「だから首を取れと言ったのだ!」


「首を取ったら借金が消えるんですか?」


「消えん!」


「じゃあ同じじゃないですか」


「そういう問題ではない!」


 恒興も帳面を一冊開いた。


「こちらは用水の修繕費だな」


「まだあるんですか?」


「橋も傷んでいるそうだ」


 長秀が別の紙を置いた。


「春までには直した方がいい」


「いくらかかります?」


「これから調べる」


 景継は目の前の帳面の山を見る。


 戦う前に地図を見ていた時には、この土地には田畑があり、市があり、川があり、人がいると考えていた。


 もちろん間違ってはいない。


 だが、実際に手に入れてみると、それだけではなかった。


 壊れた橋。


 修繕が必要な用水。


 領主の借財。


 年貢を滞納している村。


 境界を巡って争っている村同士。


 そして戦のため急に徴発され、不満を抱えている民。


 一益が楽しそうに景継を見る。


「どうした、天下人」


「まだ天下人じゃありません」


「では領主殿」


「それも今はあまり呼ばれたくありません」


「なぜだ」


 景継は帳面を持ち上げた。


「思っていたより大変そうなので」


 一益がまた笑った。


 長秀だけは笑わなかった。


「これが国を持つということだ」


 景継が長秀を見る。


「戦に勝てば国が手に入るわけではない」


 長秀は帳面を指した。


「戦に勝ってから、国にするのだ」


 景継はしばらく黙っていた。


 やがて小さく頷いた。


「覚えておきます」


 その夜。


 景継は一人で城から城下を見ていた。


 ところどころに灯りが見える。


 今日まで、自分のものではなかった土地。


 いや。


 自分のもの、という言い方も少し違う気がした。


 城を取ったからといって、そこに暮らす人間まで自分の所有物になったわけではない。


 だが、その者たちが明日食べられるかどうか。


 道を歩けるか。


 田へ水を引けるか。


 戦になった時に守れるか。


 その責任の一部は、今日から自分にある。


「……重いですね」


 誰に言うでもなく呟いた。


 前世では魏に仕えた。


 大きな国がすでに存在していた。


 官僚がいて、制度があり、税が集まり、兵がいた。


 その中でどう生きるかを考えてきた。


 今は違う。


 何もないところから、自分で作る。


 林道家の領地。


 まだ小さい。


 天下から見れば、地図の上のわずかな場所にすぎない。


 それでも景継にとっては、五千の兵を持った時とは違う意味があった。


 兵は戦が終われば散ることがある。


 人は心が変われば離れることもある。


 だが土地には、そこで暮らす人間の生活がある。


 その生活を支え続けられれば、そこから次の兵が生まれ、米が生まれ、銭が生まれる。


 そして、それを積み重ねた先に国ができる。


 景継は暗い城下を眺めながら、ようやく実感した。


 天下を取るという言葉が、ほんの少しだけ形になった気がした。


 翌朝。


 まだ日が昇り切らないうちに、使者が城へ駆け込んできた。


「林道様!」


「どうしました?」


「羽柴方へ向かった使者についてございます!」


 一益が景継を見る。


 昨日、意図的に一人だけ通した使者。


 景継は帳面から顔を上げた。


「秀吉様のところへ着きましたか?」


「おそらくは」


「そうですか」


 景継は帳面を閉じる。


 長秀が尋ねた。


「いよいよ知られるぞ」


「はい」


「怖くないのか?」


 景継は少し考えた。


「怖いですよ」


 昨日と同じ答えだった。


 だが、その後に続く言葉は違った。


「でも、知られて困ることでもありません」


 景継は窓の外を見る。


 城には林道家の旗が上がっている。


「五千の兵を持つ林道景継ではなく――」


 そこで一度言葉を切った。


「領地を持つ林道家が、今日から始まったんですから」


          ◇


 数日後。


 羽柴秀吉のもとへ、一通の報せが届いた。


「……景継が?」


 秀吉が書状から顔を上げる。


「はい」


 黒田官兵衛が静かに答えた。


「高坂頼綱を破り、その城と領地を林道家のものとしたようにございます」


 秀吉は鼻を鳴らした。


「たかが一城ではないか」


「左様でございますな」


「勝家や上杉を動かした時に比べれば、随分と小さな話じゃ」


「はい」


 官兵衛は否定しなかった。


 秀吉が書状を置く。


「ならば、放っておけ。城を一つ二つ取ったところで、天下は取れぬ」


 官兵衛は返事をしなかった。


「官兵衛?」


「……以前、私は林道様について申し上げました」


「何をじゃ」


「五千のうちに止めねばならぬ、と」


 秀吉の顔から笑みが少し消えた。


「覚えておる」


「北ノ庄で、それは叶いませんでした」


「だから何じゃ」


 官兵衛は景継から届いた報告の写しを見た。


 そこには戦の結果だけではない。


 村を焼かなかったこと。


 降伏兵を帰したこと。


 城を取った直後から土地の調査を始めたこと。


 そんな話まで記されている。


「これまでの林道様には、一つ足りないものがございました」


「領地か」


「はい」


 官兵衛は頷いた。


「人を集めることはできた。人を動かすこともできた。しかし、その者たちを長く養うための土地がなかった」


 秀吉が黙る。


「今はまだ一城です」


 官兵衛は静かに続けた。


「大したものではございません」


 そして最後に、地図へ目を落とした。


「ですが、次に増えるのは――兵でございます」


 秀吉も地図を見た。


 ほんの小さな一点。


 林道景継が初めて、自分の意思で戦い、自分のものとした土地。


 北ノ庄で五千だった男が、初めて根を張った場所だった。



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