↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『乱世にて、我は待つ』~知略を秘めた軍師は、やがて天下を動かす~  作者: ダイヤマ
第七章 覇道布石編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
123/258

第百二十三話 これからの土地



 北ノ庄を発ってから三日。


 林道景継の軍は近江へ入り、街道沿いに陣を置いていた。


 空は薄く曇り、遠くの山々にはまだ白いものが残っている。


 陣の中央に張られた幕の中では、景継が地図を広げていた。


 その周囲には丹羽長秀、滝川一益、池田恒興がいる。


 少し離れた場所には、この戦のきっかけとなった近江の国人・青木重久が座っていた。


 青木が動かせる兵は、およそ五百。


 対する敵は、同じ近江の国人である高坂頼綱。


 兵は千五百ほど。


 数だけを見れば、大した相手ではない。


 景継が率いてきた兵だけでも、それを大きく上回っている。


 だが、景継は地図を見たまま、なかなか軍議を始めようとしなかった。


 一益が痺れを切らした。


「まだ見るのか?」


「見ています」


「それは分かっている。何をそんなに見ているのだ」


「道です」


 一益が地図を覗き込む。


「道?」


「それと川。村。田畑。あと、この市場ですね」


 景継が指を置いた。


 高坂の居城から南へ伸びる街道。


 その途中に、小さな市がある。


 長秀が景継を見る。


「城を攻める話をしているのではなかったのか?」


「もちろん、その話もします」


「その割には、城をほとんど見ておらんではないか」


「城は逃げませんから」


 一益が眉を寄せた。


「では何が逃げる?」


「人です」


 幕の中が静かになった。


 景継は地図から顔を上げる。


「戦が始まれば、村の者は逃げます。商人も逃げます。兵糧を奪えば、その土地に食べるものがなくなる。田畑を荒らせば、次の収穫が減る。家を焼けば、住む場所を失った者が出る」


「戦とはそういうものだ」


 恒興が言った。


「はい。必要ならやります」


 景継は否定しなかった。


「ですが、今回は必要ありません」


「なぜ言い切れる?」


「勝った後、この土地を治めるつもりだからです」


 恒興が目を細めた。


 景継は再び地図へ視線を落とした。


「敵の土地だからと荒らして、勝った翌日から『今日から私の民です』と言っても、向こうは困るでしょう」


 一益が鼻で笑った。


「随分と優しい戦をするものだな」


 景継は一益を見た。


「これから私の領地になる場所を、わざわざ壊す必要がありますか?」


 一益の笑みが止まった。


 長秀が小さく息を吐く。


「なるほどな」


「それに、兵糧だってただではありません」


「結局そこか」


「大事ですよ」


 景継は真顔だった。


「天下を取るのに、米がいくらあっても困りません」


「お前と話していると、天下という言葉が妙に地味に聞こえるな」


「私も最近そう思っています」


 恒興が吹き出した。


 北ノ庄へ来てから何度か景継と話したが、やはり掴みにくい男だった。


 天下を取ると言い切るくせに、話していることは米や道や市場ばかり。


 だが、それが冗談ではないことも、少しずつ分かってきた。


 景継は青木へ向き直った。


「高坂殿の領内について、もう一度教えてください」


「はっ」


「特に、頼綱殿に不満を持っている者を」


 青木が少し驚いた。


「城の兵ではなく?」


「両方です」


 景継は地図の城を指した。


「千五百全員が、頼綱殿のために死にたいと思っているわけではないでしょう」


「それは……」


「高坂家に仕えているから戦う者。村を守るために出てきた者。命令されたから槍を持った者。褒美が欲しい者。逃げれば家族に迷惑がかかるから残っている者。色々いるはずです」


 青木はしばらく考えた。


「高坂殿は、北ノ庄で羽柴様が敗れてから兵を増やしております」


「急に?」


「はい。近隣の村々から男を集めております。農民も少なくありません」


「なるほど」


 景継の指が止まった。


「では、その者たちは弱いな」


 一益が言った。


「そうとは限りません」


「農民兵だぞ」


「槍を持たせれば人は死にます。こちらも向こうも」


 景継は青木を見る。


「高坂殿の領内へ人を入れられますか?」


「忍びを、ということで?」


「いえ」


 景継は首を振った。


「普通の人で構いません。商人でも、村の者でもいい」


「何をさせるおつもりで?」


「話をしてもらいます」


 恒興が景継を見る。


「何の話だ?」


「林道軍は、村を焼かない。田畑を荒らさない。戦わず武器を置いた者を殺さない」


 景継は一つずつ言った。


「そして高坂頼綱殿が降伏するなら、家臣や兵までまとめて処罰するつもりはない」


 長秀が腕を組んだ。


「頼綱本人は?」


「それは本人次第ですね」


「曖昧だな」


「今決める必要がありますか?」


 景継は長秀を見る。


「戦う前から、降伏した相手の処分まで決めてしまう必要はないでしょう。どこまで戦うのか。何をするのか。それを見てから決めます」


「では領地は?」


「それはいただきます」


 即答だった。


 一益が笑った。


「そこだけは早いな」


「そのために来ましたから」


 青木が緊張した顔で景継を見る。


「林道様」


「はい」


「高坂殿が、羽柴様に助けを求める可能性がございます」


「あるでしょうね」


「それでも攻めるのですか?」


「そのつもりです」


「羽柴様が軍を出せば……」


 青木はそこまで言って口を閉じた。


 景継は怒らなかった。


「怖いですか?」


「……はい」


「私もです」


 青木が顔を上げた。


 一益まで景継を見る。


「お前が言うのか、それを」


「怖いものは怖いですよ」


「北ノ庄で秀吉を罠にかけた男が何を言っている」


「だから怖くないことになるんですか?」


「ならんが……」


 景継は青木へ戻った。


「秀吉様が動く可能性はあります。ただ、勝家様が越前にいます。秀吉様がこちらへ大軍を出せば、別の場所が薄くなる。今の秀吉様が、それを簡単にできるとは思いません」


「では、羽柴様は来ないと?」


「そこまでは言っていません」


 景継は静かに答えた。


「来るかもしれません」


 青木の表情が再び固くなる。


「だから、来ても困らないようにしておきます」


 長秀がわずかに笑った。


 それが景継だった。


 敵は来ない。


 そう決めて策を立てるのではない。


 来ないならそのまま勝つ。


 来たなら来た時の戦い方へ変える。


 北ノ庄でもそうだった。


 そして今の景継は、以前よりもさらに自然にそれをやるようになっている。


「では、軍を三つに分けます」


 景継が地図の上へ駒を置いた。


「私が本隊を率いて、正面から高坂領へ入ります」


 次の駒を街道へ置く。


「一益様には、こちらの道を押さえていただきたい」


「退路か?」


「半分は」


「半分?」


「高坂殿から羽柴方へ使者が出るなら、おそらくこの道を使います。完全には止めなくて構いません」


 一益が眉を上げた。


「通してよいのか?」


「一人くらいは」


「なぜだ」


「秀吉様にも知っていただきたいので」


「何を?」


「私が、自分の領地を取り始めたことを」


 幕の中から笑いが消えた。


 長秀が景継を見つめる。


「わざと知らせるのか」


「いずれ分かることです」


「秀吉を刺激するぞ」


「もう十分しているでしょう」


 景継は淡々としていた。


「天下を取ると公言して、勝家様と組んで北ノ庄で秀吉様を破りました。今さら一つ城を取ったことを隠して、仲良くできるとは思っていません」


「それもそうか」


 一益が肩をすくめた。


「ただし」


 景継が続ける。


「何もかも通す必要はありません。援軍を求める使者が十人出たら、一人だけ通してください」


「性格が悪いな」


「よく言われます」


「誰にだ」


「最近は皆さんに」


 一益が呆れたように顔を背けた。


 恒興が地図を指す。


「わしは?」


「恒興様には、こちらをお願いします」


「山側か」


「高坂殿が不利になった場合、城を捨てて逃げるならこちらでしょう」


「捕らえるのか?」


「逃げるだけなら、追わなくて構いません」


「領主を逃がすのか?」


「城と土地を置いていってくださるなら」


 恒興がしばらく景継を見つめた。


「……お前、本当に土地を取りに来たのだな」


「最初からそう言っています」


「普通は敵将の首を欲しがるものだ」


「首から米は取れませんから」


 一益がまた吹き出した。


「お前は本当に天下を取る気があるのか?」


「ありますよ」


「なら、もう少し夢のあることを言え」


「では――」


 景継は少し考えた。


「いつか、この辺りで取れた米を食べながら天下を取ります」


「もういい」


 軍議が終わった。


 その日のうちに、景継の命令を受けた者たちが動き始めた。


 兵より先に、言葉が高坂領へ入った。


 林道軍は村を焼かない。


 田畑を荒らさない。


 武器を置いた者は殺さない。


 戦う相手は高坂頼綱と、その命令に従って戦う者だけ。


 噂は街道を通り、村から村へ流れた。


 当然、高坂頼綱の耳にも入った。


「ふざけおって!」


 高坂の城。


 頼綱は届いた報せを床へ叩きつけた。


「まだ戦ってもおらぬうちから、わしの領地を自分のもののように扱っておるではないか!」


 家臣たちは黙っている。


「兵は集まったか!」


「およそ千五百」


「林道は?」


「五千を超えるかと」


「青木の兵も加わるのであろう」


「はい」


 頼綱は歯を食いしばった。


 数では明らかに不利だった。


 だが、退くこともできない。


 ここで退けば土地を失う。


「羽柴様への使者は?」


「すでに出しております」


「必ず援軍を頼め。景継をここで放置すれば、次はもっと大きくなるとな」


「はっ」


 頼綱は立ち上がった。


「籠城する」


 一人の家臣が顔を上げた。


「籠城、でございますか」


「そうだ。林道が城を攻めている間に羽柴様が動けばよい」


「しかし……」


「何だ」


 家臣は言いにくそうに口を開いた。


「城下の者たちが、少々騒いでおります」


「何?」


「林道軍は田畑を荒らさぬという話が広まっております。それどころか、戦わなければ危害を加えぬと」


「敵の流言だ!」


「分かっております。ですが……」


 家臣は言葉を選んだ。


「兵として集めた村の者たちにも、その話が入っております」


 頼綱の顔が変わった。


「まさか、逃げておるのか?」


「まだ大きな動きはございません」


「ならば問題ない!」


 頼綱は怒鳴った。


「逃げた者は厳罰に処すと伝えろ!」


 家臣が頭を下げる。


 だが、その表情は晴れなかった。


 翌朝。


 景継軍は進んだ。


 太鼓が鳴る。


 旗が風を受ける。


 五千を超える兵が街道を進む姿を、村人たちは遠くから見ていた。


 だが、兵は村へ入らなかった。


 畑にも踏み込まない。


 道沿いに積まれていた薪にも手を出さない。


 必要な水や食料は、持ってきたものを使った。


 どうしても現地で必要な物には、代価を払った。


 それを見ていた青木が景継へ近づいた。


「ここまで徹底するのですか」


「最初なので」


「最初?」


「林道家が領地を取る、最初の戦です」


 景継は馬上から周囲を見渡した。


「最初に何をするかは、大事でしょう」


 青木は何も言わなかった。


 やがて前方から騎馬が戻ってくる。


「申し上げます!」


「どうしました?」


「高坂勢、およそ千二百! 城より出て、川向こうに陣を構えております!」


 一益が景継を見る。


「籠城ではないのか」


「こちらが城へ近づく前に止めたいのでしょう」


「どうする?」


 景継は前方を見る。


 川がある。


 その向こうに高坂軍。


 数は千二百ほど。


 残りは城へ置いたのだろう。


 景継は少し考えた。


「陣を作ります」


 一益が意外そうな顔をした。


「攻めぬのか?」


「今すぐは」


「数はこちらが上だぞ」


「だからです」


 景継は答えた。


「向こうは、こちらがすぐ攻めてくると思っています」


「それがどうした」


「千二百の兵を見てください」


 景継の視線の先。


 遠くに並ぶ敵軍。


 槍の高さが揃っていない。


 隊列も乱れている。


 明らかに急ごしらえの兵が多い。


「今、あそこにいる者たちは、怖いはずです」


 景継は言った。


「自分たちの四倍近い軍が目の前にいる」


 恒興が景継の意図に気づいた。


「待てば、恐怖が増すと?」


「それもあります」


 景継は頷いた。


「それに、こちらが村を荒らさないという話は、もう向こうにも届いている」


 長秀が口元を緩めた。


「なるほど」


 景継は兵へ命じた。


「今日は攻めません」


 陣を作る。


 飯を炊く。


 見張りを置く。


 それだけだった。


 川を挟んで、両軍が向かい合う。


 高坂軍は待った。


 林道軍が攻めてくるのを。


 だが、来ない。


 一刻。


 二刻。


 林道軍から飯を炊く煙が上がり始める。


 高坂軍の兵たちがざわついた。


「……攻めてこないぞ」


「何をしている」


「飯を食っているらしい」


「俺たちは?」


「命令が出るまで待て」


 日が傾き始める。


 それでも林道軍は動かなかった。


 高坂軍の中には、村から連れてこられた者も多い。


 彼らは考える時間を与えられてしまった。


 目の前にいる敵は、自分たちの村を焼いていない。


 畑も荒らしていない。


 武器を置けば殺さないという話も聞いている。


 では、何のために自分はここで死ぬのか。


 その疑問は、一度生まれるとなかなか消えなかった。


 夜。


 景継の陣。


 恒興が焚き火の前で景継に尋ねた。


「昼間、お前は今回は待たないと言っていなかったか?」


「言いました」


「思い切り待っているではないか」


「意味が違いますよ」


 景継は椀を持ったまま答えた。


「戦を始めることは待ちませんでした」


「では今は?」


「攻める必要がないから攻めていないだけです」


「同じではないのか?」


「全然違います」


 景継は飯を一口食べる。


「待つのは手段です。動くのも手段です」


 恒興は黙って聞いていた。


「相手より先に動いた方が得なら動く。相手に考える時間を与えた方が得なら待つ。それだけです」


「では、今は考えさせている?」


「はい」


「何を」


 景継は川の向こうを見た。


 暗闇の中に、高坂軍の篝火が見える。


「明日、本当に私たちと戦いたいのかを」


 翌朝。


 日が昇る前。


 一人の男が川を渡ってきた。


 武器は持っていない。


 両手を上げている。


 林道軍の兵が取り囲んだ。


「待て! 話がある!」


 男は高坂軍の足軽だった。


 景継の前へ連れてこられる。


 男は地面に膝をついた。


「林道様に、お尋ねしたいことがございます」


「何でしょう」


「武器を置けば、本当に殺さぬという話は……」


「本当です」


 景継は即答した。


「では、我らが戦わなければ?」


「家へ帰って構いません」


 男が顔を上げる。


「高坂様を裏切ったとしても?」


「それを私に聞かれても困ります」


「え……?」


「あなたが誰に仕えるかは、あなたの話でしょう」


 男は言葉を失った。


 景継は続ける。


「ただし、今日私たちに槍を向けるなら敵です。戦います」


「……」


「それだけです」


 男は頭を下げた。


 そして川向こうへ戻っていった。


 恒興が景継の隣へ来る。


「帰してよかったのか?」


「そのために帰しました」


「どういう意味だ」


「一人で逃げてきた人間をこちらに置いても、一人しか減りません」


 景継は川の向こうを見る。


「帰せば、話を聞く人が増えます」


 恒興がゆっくり景継を見た。


「……やはり性格が悪いな」


「最近、本当によく言われます」


 昼前。


 高坂軍に動きがあった。


 最初は十人ほどだった。


 槍を地面へ置いた。


 次に二十人。


 さらに別の隊からも、武器を置く者が出た。


 怒号が飛ぶ。


 高坂家の武士が止めようとする。


 だが、一度生まれた流れは止まらない。


 百。


 二百。


 兵が列から離れていく。


 高坂頼綱が馬上で叫んでいた。


「戻れ! 戻らぬか!」


 それでも人は戻らない。


 景継は川向こうの光景を黙って見ていた。


 一益が隣で笑った。


「戦う前から敵が減っていくぞ」


「助かります」


「嬉しそうだな」


「こちらも死なずに済みますから」


 やがて景継は立ち上がった。


 高坂軍は千を割っている。


 しかも混乱している。


 ここまで待てば十分だった。


「恒興様」


「おう」


「右からお願いします」


「分かった」


「一益様」


「左だな?」


「お願いします」


「長秀様は私と中央へ」


「承知した」


 景継が兜をかぶった。


 そして川の向こうを見た。


「渡ります」


 太鼓が鳴った。


 林道軍が一斉に動き始める。


 高坂軍から悲鳴にも似た声が上がった。


 つい先ほどまで動かなかった五千を超える軍勢が、今度は迷いなく川へ入ってくる。


 景継も馬を進めた。


 これまで何度も戦ってきた。


 織田家のため。


 信長のため。


 生き残るため。


 誰かを守るため。


 だが、今日は少し違う。


 この先にある城も。


 田畑も。


 村も。


 市場も。


 そこで暮らす人々も。


 勝てば、明日から自分が責任を負う。


 景継は対岸へ上がった。


「行きましょう」


 剣を抜く。


「ここから先は――」


 一瞬だけ、広がる土地へ目を向けた。


「林道家の国になります」


 林道景継が、自分自身の国を作るための最初の戦。


 その本当の一歩が、ようやく始まった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。