第百二十二話 待たない選択
北ノ庄城。
景継の前に、再び池田恒興が姿を見せた。
前回ここを訪れた時とは違い、今日の恒興には迷いが見えなかった。部屋へ通されると、勝家や長秀、一益が居並ぶ中を進み、景継の正面へ腰を下ろす。
「決めたぞ」
挨拶もそこそこに恒興が言った。
景継は少しだけ目を見開いた。
「もう決めたんですか?」
「もう、とは何だ。お前に会ってから散々考えたわ」
「それは失礼しました。それで、どちらに?」
「ここまで来て秀吉につくと言ったら、お前はどんな顔をするのだろうな」
「残念な顔をすると思います」
「本当にするのか?」
「しますよ。たぶん」
「たぶんをつけるな」
横で一益が吹き出した。
「相変わらずだな、お前たちは」
「一益様は黙っていてください」
「なぜわしが怒られる」
恒興は呆れたように息を吐いたが、すぐに景継へ向き直った。
「お前につく」
今度は、はっきりと言った。
部屋の空気が変わった。
景継も笑みを消し、恒興を見る。
「私に?」
「そう言った」
「秀吉様からの話を断って?」
「そうだ」
「本当に?」
「だからそう言っておる!」
「でも、秀吉様の方が条件はいいんですよね?」
恒興の眉が動いた。
「……何が言いたい」
「確認です。秀吉様なら今の領地を認めてくださる。その上、働き次第では加増もあるかもしれない」
「そうだな」
「私は、そんな約束をしていません」
「知っておる」
「今より領地が増える保証もありませんよ」
「分かっておる」
「それどころか、私が秀吉様に負けたら――」
「やかましい!」
恒興の怒声が部屋に響いた。
「二度も三度も考えさせるな! せっかく決めてきたというのに、お前が迷わせてどうする!」
「後になって聞いていないと言われたら困るので」
「言わん!」
「ならよかったです」
「……本当にこやつで大丈夫なのか?」
恒興が勝家を見る。
勝家は腕を組んだまま答えた。
「わしに聞くな。わしも何度もそう思っておる」
「勝家様まで」
「事実だろうが」
長秀が小さく笑った。
「それでも皆ここにいる。それが答えではないか」
恒興は長秀、一益、勝家と順番に見た後、再び景継へ視線を戻した。
「わしも最初は分からなかった」
「何がです?」
「なぜ迷っているのかだ」
秀吉の示した条件は悪くない。
むしろ現実だけを見れば、秀吉を選ぶ理由はいくらでもあった。北ノ庄では敗れたとはいえ、秀吉の力が消えたわけではない。兵も領地も人脈もあり、人の心を掴むことにかけて秀吉ほど優れた男はそうはいない。
一方の景継は、天下を取ると言いながら、恒興に領地も地位も約束しなかった。
「普通に考えれば、秀吉を選ぶ」
「そうですね」
「お前が言うな」
「事実ですから」
「だから余計に分からなくなったのだ。なぜわしは、お前のことが気になるのかとな」
恒興は腕を組み、しばらく黙ってから続けた。
「それで考えているうちに、一つ気づいた。わしは、お前に信長様の代わりを探していたのかもしれん」
勝家たちの表情が僅かに変わった。
「上様の?」
「ああ。長く仕えた。ずっと背中を追ってきた。信長様ならどうするのか、何を望んでいるのか。それを考えることが当たり前になっていた」
だが、その信長はもういない。
頭では分かっていても、心のどこかではまだ探していたのだろう。
誰が信長の代わりになるのか。
誰が信長の天下を引き継ぐのか。
秀吉なのか。勝家なのか。それとも、信長の血を引く者なのか。
「だから、お前にもそれを求めていた」
「私に上様の代わりは無理ですよ」
「知っておる。考えれば考えるほど、まるで違う」
「そこまで言わなくても」
「信長様なら、お前のように人へいちいち『何をしたい』などとは聞かん」
「そうでしょうね」
「ついてこいと言えばついてこさせる。働けと言えば働かせる。できぬと言えば、できるまでやらせる」
景継にも想像できた。
織田信長という男が強烈な力で人を引っ張る人間だったことは、景継自身よく知っている。
「だが、お前は違う。人に考えさせ、選ばせる。そのくせ、自分が天下を取るというところだけは一歩も退かん」
「そこを譲ったら、天下を取れませんから」
「そういうところだ」
恒興は苦笑した。
「最初は、それが気に入らなかった。頼りなくも見えた。信長様ならもっと強く引っ張っただろうとな」
しかし、考えているうちに恒興は気づいた。
もう信長の代わりを探す必要などない。
そもそも、代わりなどいるはずがないのだ。
「信長様は、もうおられん。ならば、これからを見るしかない」
景継は黙って恒興を見ていた。
「お前は信長様とは違う。だからこそ、お前を選ぶ」
「……」
「信長様の代わりだからではない。林道景継、お前がどんな天下を作るのか、わしは見てみたくなった」
しばらく誰も喋らなかった。
最初に口を開いたのは景継だった。
「期待外れだったらどうします?」
「その時は文句を言う」
「出ていくんじゃなくて?」
「出ていくかどうかは、その時に決める」
「それは困りますね」
「お前が選べと言ったのであろうが!」
「選んだ後まで何をしてもいいとは言ってませんよ」
恒興が目を丸くした。
「私の下につくと決めてくださった以上、守っていただくものは守っていただきます。約束を破れば罰しますし、戦になれば命令にも従ってもらいます」
「……急に厳しくなったな」
「入るまでは恒興様が選ぶことです。でも、入った後は別です」
「なるほどな」
恒興は少し笑った後、姿勢を正した。
「ならば、それでよい。池田恒興、これより林道殿の天下取りに、この身を預けよう」
景継も頭を下げる。
「よろしくお願いします」
池田恒興が景継を選んだ。
丹羽長秀、滝川一益に続き、また一人、信長のもとで長く戦ってきた男が景継の側に立った。
清須会議の頃には五千ほどの兵しか持たなかった景継の周囲に、少しずつ人が集まり始めている。
だが、人が増えれば、それだけ背負うものも増える。
景継の頭に浮かんだのは、喜びより先にそのことだった。
「また一人増えたな」
勝家が腕を組みながら言う。
「そうですね」
「嬉しくないのか?」
「嬉しいですよ。ただ、人が増えれば食べる米も必要ですし、働いてもらう以上は報いるものも必要ですから」
「またその話か」
「大事ですよ」
恒興が不思議そうに景継を見る。
「天下を取るという話をしていたのではなかったか?」
「していますよ」
「なぜそれが米の話になる」
「人を食わせられない人間が、どうやって天下を治めるんです?」
恒興は答えず、長秀を見た。
「昔からこうなのか?」
「最近は特にひどい」
「長秀様まで!」
部屋に笑いが起きた、その時だった。
廊下の向こうから慌ただしい足音が近づき、一人の家臣が駆け込んできた。
「景継様、近江より急報にございます!」
その表情を見た瞬間、景継から笑みが消えた。
「何がありました?」
「先日より景継様への協力を申し出ていた国人の領地へ、隣接する勢力が兵を動かしております」
「数は?」
「確認できているだけで千五百ほど。さらに増える可能性がございます」
「こちらは?」
「現地で集められる兵は五百ほどにございます」
勝家の表情も変わった。
「三倍か」
「はい」
景継は立ち上がり、部屋の隅に広げてあった地図の前へ移動した。
「場所を教えてください」
「こちらにございます」
家臣が地図の一点を指す。景継はその場所だけではなく、周辺の道や川、近隣の城まで順番に目を走らせた。
「兵を動かした理由は?」
「林道様に近づくのであれば敵と見なす、と伝えてきたとのことです」
「誰が言ったんです?」
「兵を動かしている国人から直接にございます」
「秀吉様との関係は?」
「以前より羽柴様と使者の往来がございます。北ノ庄の戦い以降、さらに頻繁になっているようです」
一益も地図を覗き込んだ。
「秀吉の差し金か」
「まだ決めつけない方がいいでしょう」
景継は首を振った。
「秀吉様が直接命じたのか、その国人が秀吉様につくため自分から動いたのか。それによって意味が違います」
「どちらにせよ、こちらへ兵を向けておることは同じだろう」
勝家が言った。
「そうですね」
「なら、どうする。お前は待つのが得意なのだろう。向こうが攻めてくるまで待つか?」
「いいえ。今回は待ちません」
即答した景継に、勝家が少し意外そうな顔をした。
長秀も地図を見ながら尋ねる。
「珍しいな。お前ならもう少し様子を見ると言うかと思ったが」
「待つのは、待った方が得だからです。何でも待てばいいわけではありません」
敵はすでに兵を集めている。
こちらへ協力を申し出た国人を放置すれば、その領地が荒らされる可能性が高い。それ以上に景継が気にしたのは、周囲で成り行きを見守っている者たちだった。
「ここで何もしなかったら、どうなると思います?」
一益が少し考えてから答える。
「お前に近づいた者が攻められても、助けてもらえないと思われるな」
「はい。それでは、次に私たちと組もうとする人はいなくなります」
相手には自分で選んでもらう。
景継はそうしてきた。
だからこそ、景継を選んだことによって危険に晒された者を、簡単に見捨てるわけにはいかなかった。
「まず、こちらへ協力を申し出ている方に確認します」
「まだ聞くのか?」
勝家が眉を寄せた。
「聞きます。相手が兵を出してきたことで考えが変わったなら、今のうちに言ってもらった方がいい」
「怖くなったからやめたいと言えば、認めるのか?」
「無理に残して戦の途中で逃げられるよりはいいでしょう」
景継は家臣へ向き直った。
「使者を出してください。林道家と共に戦う意思があるのか、それとも今回の話をなかったことにしたいのか。本人に確認を」
「はっ」
「ただし、返事は急いでもらってください。相手はもう動いていますから」
家臣が部屋を出ていった。
恒興はその様子を眺めながら小さく笑った。
「わしが来た直後にこれか」
「やめます?」
「やめるわけがあるか」
「よかったです」
「お前、本当に確認が多いな」
「後になって揉めるよりいいでしょう?」
「それはそうだが」
その後も景継たちは情報を集め続けた。
兵を動かした国人は以前から秀吉側との関係を深めており、北ノ庄で秀吉が敗れてからもその関係を切っていない。むしろ最近になって使者の往来は増えていた。
ただし、秀吉本人が攻撃を命じたという証拠まではない。
景継はそこを曖昧なまま決めつけることはしなかった。
やがて、景継への協力を申し出ていた国人から返答が届いた。
『林道様と共に戦う』
短い返答だった。
それを読み終えた景継は、再び地図の前へ立った。
「これで決まりですね」
一益が尋ねる。
「攻めるのか?」
「はい」
「まだ相手はこちらの城を攻めていないぞ」
「ですが、すでに兵を動かし、私たちと組む者を敵と見なすと宣言しています。それで何もしないなら、先に兵を動かした方が得をするだけです」
景継は敵方の領地へ続く道を指でなぞった。
「こちらから動きます」
長秀はしばらく地図を見ていたが、やがて別のことを尋ねた。
「景継。一つ決めておいた方がいい」
「何でしょう」
「勝った後の土地だ」
景継が長秀を見る。
「相手を降した後、その領地をどうする。織田家へ戻すのか。それとも、元の国人にそのまま治めさせるのか」
景継は地図へ視線を戻した。
以前から決めていたことがある。
勝家や長秀、一益、上杉といった味方から領地を奪うつもりはない。織田家の土地についても、自分から手を出すつもりはなかった。
だが、自ら敵対する道を選んだ者と戦い、その結果として得た土地まで手放すつもりはない。
「林道家で治めます」
景継は迷わず答えた。
「本当に取るのだな」
「はい」
「これまでとは意味が違うぞ」
「分かっています」
人だけでは国は作れない。
兵を養う米がいる。家臣へ報いるものがいる。武具を作る職人も、物を運ぶ商人も、道も市場も必要になる。
天下を取ると言うのであれば、いつまでも人の領地と兵を動かしているだけでは足りない。
「私が戦うと決め、私たちが勝って得た土地です。ならば、林道家の領地にします」
長秀は景継の顔を見てから、静かに頷いた。
景継はこれまで、自分の周囲へ人を集めてきた。
今度は、その人々を支える場所を手に入れようとしている。
「ならば兵を出す」
勝家が言った。
「どれほど必要だ?」
「今回は、勝家様の兵はお借りしません」
「何?」
「この戦は、私たちでやります」
勝家の顔が険しくなった。
「意地を張っておるのか」
「違いますよ」
「ならなぜだ。使える兵があるのに使わぬのは愚か者だぞ」
「勝家様には、別のことをお願いしたいんです」
景継は地図の南側を指した。
「私たちが近江へ動いた時、秀吉様まで動く可能性があります」
「……なるほど」
長秀が先に理解した。
「勝家殿には、秀吉を見てもらうのか」
「はい。相手の国人だけなら私たちで戦います。ただ、途中で秀吉様の本隊まで出てきたら話が変わる。勝家様には、その時に備えていてほしいんです」
勝家は地図を見ながら唸った。
「わしを秀吉への抑えに使うつもりか」
「お願いします」
「結局、わしも使うではないか」
「勝家様が言ったんですよ。使えるものは使えって」
「都合のいい時だけわしの言葉を使うな!」
「でも、間違ってないですよね?」
「……間違ってはおらん」
一益が笑い、長秀も呆れたように息を吐いた。
勝家は不満そうな顔こそしていたが、景継の考え自体には納得したらしい。
「よかろう。秀吉が動けば、こちらもすぐに動けるよう備えておく」
「ありがとうございます」
「ただし、危なくなったら意地を張るな。すぐに知らせろ」
「もちろんです」
「本当だろうな」
「私、そんなに信用ありません?」
「こういう時のお前はない」
「ひどいですね」
方針が決まると、景継はすぐに出陣準備を命じた。
兵糧、馬、武具だけではない。進軍路を確認し、周辺の国人へ使者を出し、敵が退いた場合にどこへ逃げるのかまで調べさせる。
北ノ庄の時とは違う。
勝家の大軍に加わるわけでも、上杉の援軍を待つわけでもない。
景継自身が集めた者たちを中心に、自分の判断で始める戦だった。
「わしも行くぞ」
恒興が声をかけてきた。
景継が振り返る。
「来たばかりですよ?」
「だから何だ」
「少しくらい休んでもいいと思いますけど」
「いらん」
「家臣の方々への説明もあるでしょう?」
「それはもう始めておる。それに、すべてが整うまで待っていたら戦が終わってしまうだろうが」
恒興は景継の前まで歩いてきた。
「わしは、お前がどんな天下を作るのか見たいと言った」
「はい」
「ならば最初から見せてもらう。お前を選んだ途端、後ろで留守番では話にならん」
景継は少し笑った。
「分かりました。では、お願いします」
「任せろ」
北ノ庄では、勝つために多くの者の力を借りた。
景継はそれを恥じてはいない。使える力を使わずに負けるくらいなら、借りられるものは何でも借りればいいと思っている。
だが、いつまでも他者の大軍を頼らなければ戦えないままでは、自分の天下など夢物語で終わる。
人は集まり始めた。
ならば次は、その人々が生き、働き、戦い続けられる場所が必要になる。
景継は地図の上にある、まだ林道家のものではない土地を見つめた。
相手が自ら敵対する道を選び、すでに兵まで動かした以上、戦いを避けるつもりはない。そして勝った後、その土地を誰かへ差し出すつもりもなかった。
「行きましょう」
景継は地図から顔を上げ、集まった者たちを見た。
「今度は、私たちの戦です」
待つべき時には待つ。
だが、動くべき時まで待っている必要はない。
林道景継が自らの勢力を率い、自らの領地を手に入れるための最初の戦が、始まろうとしていた。




