第百二十一話 同じ血、違う道
尾張。
織田信雄のもとへ羽柴秀吉からの使者が訪れたのは、池田恒興が北ノ庄で景継と会ってから数日後のことだった。
「羽柴殿から使者だと?」
「はい。羽柴様より、直接お伝えしたいことがあるとのことです」
家臣から報告を受けた信雄は露骨に顔をしかめた。
北ノ庄で大敗を喫したばかりだというのに、秀吉の動きは早い。軍を立て直すだけでも相当な仕事があるはずなのに、その最中に自分へ使者を送ってきたということは、それだけの理由があるのだろう。
「……通せ」
「はっ」
間もなく、一人の男が信雄の前へ通された。
「織田信雄様にお目通りが叶い、恐悦至極にございます」
「挨拶はよい。それより、秀吉殿は何と言っておる」
「羽柴様より、信雄様へお伝えしたきことを預かって参りました」
「申せ」
使者は一度頭を下げてから、静かに話し始めた。
「羽柴様は、織田家の行く末を大変案じておられます」
最初に出てきたのが秀吉自身のことではなく、織田家だったことに信雄は僅かに眉を動かした。
「北ノ庄で負けた男が、わが家の心配か」
「敗戦と織田家の行く末は別のことにございます」
「口が回るな」
「恐れ入ります」
「褒めておらん。続けろ」
「はっ。信長公がお亡くなりになり、信忠様もまた亡くなられました。三法師様はいまだ幼く、このような時だからこそ、誰が織田家を支えるのかが重要かと存じます」
「それを秀吉殿がやると?」
「羽柴様お一人ではございません。信雄様にも、織田家を支えるお一人となっていただきたいと考えておられます」
「わしに?」
「はい。信長公の御子である信雄様だからこそ、できることがございます」
信雄はしばらく使者を見つめていたが、やがて小さく鼻を鳴らした。
「それを言うためだけに来たわけではあるまい。本題を言え」
「では、申し上げます」
使者は一瞬だけ間を置いた。
「林道景継様についてでございます」
その名を聞いた瞬間、信雄の目が細くなった。
「景継がどうした」
「林道様が、天下を取ると公言されていることはご存じでしょうか」
「知っておる」
清須で景継自身の口から聞いた。
秀吉の天下を認めるつもりはない。そして自分が天下を取る。
あまりにも突然の宣言だったため、あの時の信雄は、その言葉が意味するところまで深く考える余裕がなかった。
「林道様は、信長公の後を継ぐおつもりではないそうです。織田家を継ぐのでもない」
「それも聞いておる」
「でしたら、信雄様はお考えになったことがございますか」
「何をだ」
「林道様が天下を取られた後、織田家がどうなるのかを」
信雄の眉が僅かに動いた。
「景継は織田家を奪わぬと言っておる」
「はい。それは我らも承知しております」
「なら何が問題だ」
「問題であるとは申しておりません。ただ、林道様は織田家を滅ぼさないと仰っている一方で、織田家のために天下を取るとも仰っておられません」
使者の言葉に、信雄は返事をしなかった。
確かにそうだ。
景継は織田家を守るために天下を取るとは、一度も言っていない。
「もし林道様が天下人となった時、三法師様はどのようなお立場になられるのでしょう。そして――」
使者はそこで一度言葉を切り、信雄を見た。
「信雄様は、どのようなお立場になられるのでしょうか」
「わしが……?」
「今の信雄様は、信長公の御子であり、織田家を率いる資格を持つお方です。ですが、林道景継様が天下を取られれば、その時も今と同じであるとは限りません」
信雄の顔から少しずつ余裕が消えていった。
「景継が、わしを排除すると秀吉殿は言っておるのか」
「いいえ」
「なら三法師を排除すると?」
「そのようなことも申しておりません」
「では、何を言いたい!」
思わず声を荒らげた信雄に対しても、使者は落ち着いていた。
「我らから答えを申し上げるつもりはございません。信雄様ご自身に、お考えいただきたいのです」
「……何をだ」
「林道様がどうなさるのかではなく、信雄様がこれからどうなさるのかを」
その言葉を聞いた時、信雄は妙な感覚を覚えた。
景継からも似たことを言われたことがある。
自分で選べ。
自分が何をしたいのかを考えろ。
だが、不思議なことに同じ意味には聞こえなかった。
景継に言われた時には、自分の進む道を問われているように感じた。
今は違う。
自分の立っている場所が、いつの間にか失われるのではないか。
そんな不安を突きつけられている。
「もう一つ、お伝えしておかなければならないことがございます」
「まだあるのか」
「信孝様が、すでに林道様とお会いになられたことはご存じでしょうか」
信雄の表情が変わった。
「……何?」
「先日、自ら北ノ庄へ赴かれ、林道様と直接お話をされたと聞いております」
「いつだ」
「数日前にございます」
「なぜそれを早く言わん! 信孝は何を話した!」
「そこまでは分かりかねます」
「景継についたのか!」
「それも分かりませぬ。ただ、信孝様が自ら北ノ庄へ赴かれたことだけは事実にございます」
信雄は何も言わなくなった。
信孝。
同じ信長の息子でありながら、決して関係が良いとは言えない弟。
父が死に、兄も死んだ。三法師が残り、自分と信孝の周囲にはそれぞれ異なる思惑を持った者たちが集まり始めている。
そこへ景継が現れた。
勝家がいる。長秀も一益もいる。上杉との関係まで作った。
さらに池田恒興まで北ノ庄を訪ねたという。
そして今度は、信孝。
「……秀吉殿は、わしにどうしろと言っておる」
「今すぐ羽柴様につけとは申しておりません」
「では?」
「ただ、織田家の行く末と、ご自身のこれからをお考えいただきたいと」
使者は深く頭を下げた。
「我らから申し上げることは、それだけにございます」
信雄は使者を睨んでいたが、引き止めることはしなかった。
使者が去った後、信雄はすぐに重臣たちを集めた。
「どう思う」
問われた家臣たちは互いに顔を見合わせたものの、誰も最初に口を開こうとしない。
「何でもよい。申してみよ」
ようやく一人が恐る恐る答えた。
「羽柴様のお言葉にも、一理はあるかと存じます」
「景継が織田家を奪うというのか」
「そこまでは申しません。ただ、林道様ご本人にそのおつもりがなくとも、周囲がどのように動くかは別の話にございます」
「周囲?」
「柴田様がおられます。丹羽様も、滝川様も林道様の近くにいる。さらに上杉様との関係までできました。そこへもし、信孝様まで加われば……」
「待て」
信雄が遮った。
「まだ信孝が景継についたと決まったわけではない。勝手に決めるな」
「申し訳ございません」
信雄は苛立ったように息を吐き、しばらく考えてから別の問いを投げた。
「では、秀吉殿につくべきだと思うか」
再び家臣たちが顔を見合わせる。
「申せ。怒らぬ」
「……今すぐお決めになる必要はないかと」
「なぜだ」
「羽柴様もまた、織田家のためだけに動いておられるとは限りませぬ」
「お前もそう思うか」
「はっ」
信雄自身、それは分かっていた。
清須会議から今日までの秀吉の動きを見れば、織田家のためだけに動いているとは到底思えない。
だからこそ迷う。
「景継も信用しきれぬ。秀吉殿も信用しきれぬ。それなら、わしは誰を信用すればよいのだ」
その問いに答えられる者はいなかった。
やがて信雄は立ち上がった。
「調べろ。信孝が景継と何を話したのか。それから、景継のもとに今どれほどの者が集まっているのかもだ」
「はっ」
「ただし、こちらからはまだ動くな。羽柴にも返事はせぬし、景継にも会わぬ。もう少し見極める」
「承知いたしました」
信雄はそう決めた。
だが、その頃にはすでに、弟の信孝は自分なりの答えを出していた。
北ノ庄城。
「答えが出た」
織田信孝は景継の前に座るなり、そう告げた。
「そうですか」
景継が頷く。
しばらく沈黙が続いた。
「……聞かぬのか?」
「今から話してくださるんですよね?」
「当たり前だ。そのために来たのだ」
「なら聞きます」
「お前は本当に……まあいい」
信孝は一度息を吐いた。
その場には勝家、長秀、一益も同席している。皆が見守る中、信孝はゆっくりと口を開いた。
「わしは、父上にはなれん」
誰も口を挟まなかった。
「父上のように天下を取れるとも思っておらん。以前なら、それを認めることが嫌だった」
信孝は自嘲するように笑った。
「わしは織田信長の息子だ。ならば父上に近づかなければならぬ。父上が失ったものを取り戻さなければならぬ。どこかで、そう思っていた」
景継は黙って聞いていた。
「だが、お前に聞かれた。わし自身が何をしたいのか、と」
「はい」
「考えたぞ。腹が立つほどにな」
「それは何よりです」
「そこは少しくらい謝れ」
「考えていただくために聞いたので、謝るところではないかと」
「やはり腹が立つな、お前は」
一益が思わず吹き出し、勝家に睨まれて咳払いで誤魔化した。
信孝も僅かに笑ったが、すぐに表情を引き締めた。
「わしは天下を取らぬ」
今度ははっきりと言った。
「だが、織田を捨てるつもりもない。三法師が織田家を継ぐのであれば、わしはそれを支える」
勝家が僅かに目を見開き、長秀も信孝をじっと見た。
「本当に、それでよろしいのですか」
景継が尋ねる。
「何がだ」
「信孝様ご自身にも、織田家の当主を目指す道はあるでしょう。それを自分から手放すことになります」
「分かっておる」
「後悔するかもしれませんよ」
「するかもしれん」
信孝は即答した。
「だが、後悔するかもしれぬから選ばないというのでは、いつまで経っても何も決められん。これが今のわしが選んだ道だ」
景継はしばらく信孝を見つめた後、静かに頭を下げた。
「分かりました」
「……それだけか?」
「他に何かあります?」
「お前の下につけとは言わぬのか」
信孝に問われ、景継は少し意外そうな顔をした。
「信孝様は、三法師様を支えて織田家に残ると決められたのでしょう?」
「そうだ」
「でしたら、その決断を変えてまで私の下へ来ていただく理由はありません」
あまりにもあっさりとした答えに、信孝は眉を寄せた。
「お前は天下を取るつもりなのだろう。ならば、一人でも多く味方が欲しいのではないのか」
「欲しいですよ。信孝様ほどの方なら、なおさらです」
「ならばなぜ誘わぬ」
「欲しいからといって、何でも自分のものにしていたら、私が作ろうとしているものまでおかしくなります」
景継はそう言って、信孝をまっすぐ見た。
「信孝様は織田家を守る。私は林道家を大きくする。それでも同じ方向を向ける時はあるでしょう」
「家臣でなくともよいと?」
「はい。味方になる方法は、主従だけではありませんから」
信孝はしばらく黙っていた。
景継が織田家を奪わないと言っていた意味が、ようやく少し分かった気がした。
「本当に織田家を奪うつもりはないのだな」
「最初からそのつもりです」
「天下は取るというのに?」
「はい」
「織田家を利用した方が早いぞ」
「それはそうでしょうね」
「なら、なぜしない」
景継は少し考えてから答えた。
「私が欲しいのは、上様が残したものを手に入れたという結果ではないからです」
信孝だけでなく、勝家たちも景継を見る。
「上様が作ったものを奪って、その上に座る。それでも天下人にはなれるのかもしれません。でも、それなら私が天下を取る意味がない」
「意味?」
「私は、自分で作ってみたいんです」
景継は静かに続けた。
「自分の家臣を増やし、自分の領地を広げ、自分で国を作る。その先に天下があるのかを見てみたい」
信孝は何も言わなかった。
だが景継を見る目は、以前とは明らかに変わっていた。
やがて信孝が口を開く。
「ならば、一つ提案がある」
「何でしょう」
「わしは織田家を支える。お前は林道家を作る。それなら、主従ではなくとも手を組むことはできるのではないか」
「同盟ですか」
「そうだ」
信孝は頷いた。
「お前はお前の天下を目指せ。わしは織田を守る。目的は違っても、今の我らは敵ではない。それどころか、共に対処できる相手もいる」
景継はすぐには答えなかった。
信孝には信孝の目的があり、自分には自分の目的がある。
すべてが同じである必要はない。
互いに別の道を歩きながら、同じ方向を向ける時だけ力を合わせる。
今の景継が作ろうとしている勢力にも、その方が合っている。
「分かりました。お受けします」
「そうか」
「ただ、一つだけお願いします」
「何だ」
「私が天下を目指すことを邪魔しないでください」
信孝は一瞬呆れたような顔をした後、すぐに言い返した。
「ならば、お前も織田家を守ろうとするわしの邪魔をするな」
「分かりました」
「簡単に言うな。いずれ難しい時が来るかもしれんぞ」
「その時は、その時に話しましょう」
「……お前は本当に先の約束を簡単にせんな」
「先の自分が何を考えているかまで、今の私には分かりませんから」
「それで天下を取るつもりか?」
「そのつもりです」
信孝は呆れたように息を吐いたが、やがて笑った。
「ならば、今はそれでよい」
こうして林道景継と織田信孝は、主従ではなく同盟という形で手を結ぶことになった。
織田家を守ろうとする信孝と、自分自身の天下を作ろうとする景継。二人の目指す先が最後まで同じなのかは分からない。それでも今は、互いの目的を認めたまま、同じ敵に向き合うことができた。
その日の夕刻、信孝は北ノ庄を発った。
城門からその一行が遠ざかっていくのを眺めながら、勝家が景継に声をかけた。
「よかったのか」
「何がです?」
「信孝様だ。お前が望めば、いずれ家臣にできたかもしれんぞ」
「どうでしょうね」
「少なくとも、誘ってみる価値はあっただろう」
景継は遠ざかる信孝の背を見ながら首を振った。
「今は必要ありません」
「なぜだ」
「信孝様が織田家にいるからこそ、できることがあります。何でも林道家に集めれば強くなるとは限りません」
「別々にしておいた方がよいこともあると?」
「はい。それに、私の下にいる人間だけが味方というわけでもないでしょう」
勝家はしばらく景継を見ていたが、やがて鼻を鳴らした。
「相変わらず面倒な天下の取り方を選ぶ男だ」
「もっと簡単な方法があります?」
「秀吉のように、使えるものは全部使え」
「それができたら苦労しないんですけどね」
「なら苦労しろ」
「勝家様も手伝ってくださいね」
「なぜそうなる!」
北ノ庄城に勝家の声が響き、景継は笑いながら城内へ戻っていった。
翌日、尾張の信雄のもとへ、待っていた報告が届いた。
「殿、信孝様について分かりました!」
駆け込んできた家臣を見て、信雄はすぐに立ち上がる。
「景継と何を話した」
「詳しい内容までは分かりませぬ。ただ、信孝様と林道景継様が同盟を結ばれたとのことです」
信雄の顔から表情が消えた。
「……同盟?」
「はっ」
「信孝と景継が?」
「間違いないようにございます」
数日前、秀吉の使者から聞かされた言葉が頭の中に蘇った。
信孝はすでに景継と会っている。
あの使者は何も嘘を言っていなかった。
「そういうことか……」
「殿?」
勝家がいる。長秀も一益もいる。上杉とも手を結び、今度は信孝と同盟した。
さらに池田恒興まで景継に会ったという。
景継本人は、織田家を奪わないと言っている。
だが信雄の目には、別のものが見え始めていた。
「奪わずとも、周りがすべて景継につけば同じではないか……」
「殿」
「恒興はどうした」
「は?」
「池田恒興だ! あやつも景継に会ったのであろう。どちらについた!」
「まだ、はっきりした返答はしておられないようです」
「ならば調べろ。恒興が何を考えているのか、誰と会っているのか、すべてだ」
「はっ!」
家臣が慌ただしく部屋を出ていった。
一人残った信雄は、しばらくその場から動かなかった。
実際には、景継は信孝を騙していない。脅してもいなければ、織田家から引き抜いてもいない。
信孝自身が織田家に残ることを選び、その上で景継との同盟を提案しただけだった。
しかし、その過程を知らない信雄に見えるのは結果だけだ。
弟の信孝が、景継と手を結んだ。
そして景継の周囲には、信長の下で力を持っていた者たちが次々と集まり始めている。
「景継……お前は、本当に織田家を奪うつもりがないのか」
誰もいない部屋で、信雄は小さく呟いた。
答える者はいない。
だからこそ疑いは消えず、分からない部分を不安が埋めていく。
黒田官兵衛が信雄の心に蒔いた小さな種は、景継が何かを企んだからではなく、景継の勢力が大きくなることによって、静かに芽を出し始めていた。




