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『乱世にて、我は待つ』~知略を秘めた軍師は、やがて天下を動かす~  作者: ダイヤマ
第七章 覇道布石編

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第百十九話 取るべきもの



 北ノ庄城。


 林道景継の前には、一枚の地図が広げられていた。


 昨日まで見ていたものと同じ地図。


 だが、その見方はもう違う。


 敵がどこにいるのか。


 どこから攻めれば勝てるのか。


 どこで兵を止めれば守れるのか。


 それだけを見るためのものではない。


 どこに人がいる。


 どこで米が取れる。


 どこに市がある。


 どこを道が通っている。


 どこなら兵を養える。


 そして――


 どこまでが、自分のものなのか。


 景継は地図の一角を指でなぞった。


「……少ないな」


「今さら気づいたか」


 向かいに座る丹羽長秀が言った。


「はい」


「天下を取ると言った男の言葉とは思えんな」


「言った時は、天下の広さまでは考えていませんでした」


「嘘をつけ」


「少しは考えていました」


「少しか」


「かなり」


「なら最初からそう言え」


 隣で滝川一益が笑う。


「ははは! 景継でも困ることがあるのだな」


「ありますよ」


「戦では散々、人を困らせておいてか?」


「一益様を困らせた覚えはありません」


「今まさに困らされている!」


 景継は聞き流した。


 その横では柴田勝家が腕を組み、地図を睨んでいる。


「で」


 勝家が口を開いた。


「どうする」


「何がです?」


「領地だ」


「考えています」


「だから、それを聞いておる」


「難しいんですよ」


「何が難しい。天下を取るのであろう」


「はい」


「なら取ればよい」


 景継が顔を上げた。


「どこを?」


「……」


 勝家が黙った。


 一益も黙った。


 長秀だけが僅かに笑っている。


「勝家様の領地、もらっていいですか?」


「殺すぞ」


「ほら」


「何が、ほら、だ!」


「簡単じゃないでしょう?」


「わしの領地を取ろうとするからだ!」


「では一益様」


「断る!」


「まだ何も言ってません」


「絶対に領地の話だろう!」


「長秀様」


「嫌だ」


「皆さん冷たいですね」


「当たり前だ!」


 三人の声が重なった。


 景継は小さく笑うと、再び地図へ視線を落とした。


 冗談ではある。


 だが。


 問題そのものは冗談ではなかった。


 天下を取る。


 口で言うだけなら簡単だ。


 しかし天下を取るためには兵がいる。


 兵を持つためには土地がいる。


 土地を持てば、そこに住む民を治めなければならない。


 そして土地は、何もないところから生まれてくるわけではない。


 すでに誰かのものだ。


「景継」


 長秀が呼ぶ。


「はい」


「お前が本気で天下を取るなら、いずれ誰かの土地を取ることになる」


「分かっています」


「本当に?」


「はい」


「信長様の時もそうだった」


 長秀の指が地図を動く。


「尾張をまとめ、美濃を取り、近江へ進み、畿内へ出た。戦って領地を増やした」


「はい」


「天下を取るというのは、そういうことだ」


 景継は何も言わなかった。


「お前だけ、誰からも何も奪わず天下を取れると思うな」


「思っていません」


 景継は静かに答えた。


「なら、どこから取る」


「それを今、決めようと思っています」


「場所を?」


「いいえ」


 景継は首を振った。


「場所ではありません」


 三人が景継を見る。


「誰から取るかです」


「誰から?」


「はい」


 景継は地図の上に手を置いた。


「勝家様」


「何だ」


「勝家様の領地は取りません」


「当然だ!」


「長秀様も」


「……」


「一益様も」


「当たり前だ」


「上杉様からも取らない」


 景継は一つずつ言葉にしていく。


「そして」


 少し間を置いた。


「織田家の領地も、こちらからは取りません」


 部屋の空気が少し変わった。


 勝家が景継を見る。


「……よいのか」


「何がです?」


「織田家には広大な土地がある」


「ありますね」


「信長様は亡くなられた。信忠様もだ」


「はい」


「今の織田家が揺れていることは、お前も分かっておろう」


「分かっています」


「ならば」


 勝家は言葉を止めた。


 景継には、その先が分かった。


 今なら取れる。


 そう言いたいのだ。


 信長がいない。


 信忠もいない。


 三法師は幼い。


 信雄と信孝は争っている。


 秀吉は織田家の中で力を伸ばし、北ノ庄で敗れたとはいえ、まだ巨大な勢力を持っている。


 織田家は揺れている。


 景継が本気になれば。


 その混乱に乗じて領地を奪うこともできるかもしれない。


「取りません」


 景継はもう一度言った。


「なぜだ」


「嫌だからです」


「……それだけか?」


「それだけでは駄目ですか?」


「天下を取ろうという男が好き嫌いで決めるな!」


「大事だと思いますけどね」


 景継は苦笑した。


「それに、理由は他にもあります」


「何だ」


「織田家から土地を奪えば、私は何になります?」


「……」


「信長様が亡くなった途端、その子や孫から土地を奪った元家臣です」


 一益の笑みが消えた。


 長秀は黙って聞いている。


「そんな人間のところに、安心して人が集まりますか?」


「力があれば集まる」


 勝家が答えた。


「集まるでしょうね」


 景継も否定しなかった。


「でも、その人たちはずっと考えることになります」


「何をだ」


「自分もいつか奪われるんじゃないか、と」


 勝家が黙った。


「私は人が欲しい」


 景継は続ける。


「土地も欲しい。兵も欲しい。銭も欲しい」


「欲張りだな」


「天下を取るので」


 一益が鼻で笑った。


「ですが」


 景継は地図を見る。


「全部を力ずくで取っていけば、最後に残るのは、私を恐れている人ばかりになる」


「恐れられて何が悪い」


 勝家が言う。


「悪くありません」


 景継は答えた。


「恐れも必要です」


「なら」


「でも、恐れだけでは困ります」


 景継は顔を上げる。


「私が少し弱っただけで、全員逃げますから」


「……」


「それでは、待てない」


 長秀の目が細くなった。


「待てない?」


「はい」


「そこへ戻るのか」


「結局、そこなんですよ」


 景継は少し笑った。


「強い時しか成り立たない国では、一度負けたら終わる」


 金ヶ崎。


 あの時。


 一つの読み違いで、すべてが崩れた。


 自分の予想を信じすぎた。


 自分なら読めると思っていた。


 だが人は思い通りには動かない。


 戦も。


 国も。


 同じなのだろう。


「だから」


 景継は言った。


「味方からは奪いません」


 勝家。


 長秀。


 一益。


 そして上杉。


「織田家からも、こちらから奪うことはしません」


「では」


 長秀が尋ねた。


「どこから領地を増やす」


 景継は答えた。


「敵です」


「……敵?」


「これから私に敵対する者」


 景継の指が地図の上を動く。


「私が天下を取ると言った以上、いずれ私を邪魔だと思う人が出てきます」


「もう秀吉殿がそうだろう」


「そうですね」


「なら羽柴領を取るか」


「戦って勝てば」


 景継はあっさり答えた。


「取ります」


 勝家が眉を上げた。


「本気か」


「はい」


「織田家へ返さぬのか」


 その問いに。


 景継は少しだけ考えた。


 以前なら。


 迷ったかもしれない。


 信長の家臣だった。


 織田家のために戦っていた。


 敵から取った土地は、織田家の土地。


 それが当然だった。


 だが。


「返しません」


 景継は言った。


「私が自分の意思で戦い、自分の兵で勝って得た土地なら」


 一度言葉を切る。


「林道家の領地にします」


 静かだった。


 誰もすぐには口を開かなかった。


 景継自身も、その言葉の重さを感じていた。


 これは。


 今までとは違う。


 織田信長の家臣としての言葉ではない。


 林道景継という、一人の大名としての言葉だった。


「ようやく言ったな」


 長秀だった。


「何をです?」


「取る、と」


「……」


「昨日までは作ると言っていた」


「はい」


「だが国を作るということは、必要なものを手に入れるということだ」


「そうですね」


「それが分かったならよい」


 長秀が小さく頷く。


 一益は腕を組んでいる。


「しかしよ」


「はい」


「お前から味方を攻めない。織田家も攻めない」


「はい」


「敵からだけ取る」


「はい」


 一益が地図を見る。


「それでは敵が出てこなければ、お前の領地は増えんぞ」


「大丈夫でしょう」


 景継は答えた。


「何が大丈夫なんだ」


「天下を取ると言っている人間を」


 景継は少し笑った。


「皆が放っておいてくれるとは思えませんから」


「……」


 一益が景継を見た。


 勝家も見た。


 長秀だけが額を押さえた。


「お前は時々、嫌なことを平然と言うな」


「よく言われます」


「誰にだ!」


「勝家様とか」


「わしではないか!」


 北ノ庄城に、また勝家の声が響いた。



 同じ頃。


 美濃。


 織田信孝は一人、庭を眺めていた。


 北ノ庄から戻ってから。


 景継の言葉が頭から離れない。


『選んでください』


 織田家を守るのか。


 天下を取るのか。


 秀吉を倒したいのか。


 三法師を支えるのか。


 それとも。


 ただ生き残りたいのか。


「……勝手なことを言いおって」


 信孝が呟く。


 自分は信長の息子だ。


 生まれた時からそうだった。


 これからも変わらない。


 だから。


 父の死後。


 自分が何をするべきなのか。


 そう考えてきた。


 だが景継は。


 何をするべきか、ではなく。


 何をしたいのか、と聞いた。


「父上……」


 返事はない。


 当然だった。


 信孝は目を閉じる。


 父なら。


 こんな時、何を選ぶ。


 そう考え。


 そして。


「違う」


 小さく言った。


 また父を基準にしている。


 景継に言われたばかりではないか。


 自分で選べ、と。


 信孝はゆっくり目を開いた。


「わしは……」


 その答えは。


 まだ、誰にも聞かせなかった。



 そして。


 姫路。


 羽柴秀吉の前にも地図があった。


「景継が領地を欲しがっておる?」


「正確には」


 黒田官兵衛が答える。


「自らの勢力を養える土地を必要としている、と考えるべきでしょう」


「同じではないか」


「似ておりますが、少し違います」


「何がじゃ」


「領地が欲しいだけなら、どこでもよい」


 官兵衛は地図を見る。


「しかし林道様は、おそらく取る場所を選ぶ」


「選ぶ?」


「はい」


 秀吉が少し考える。


「織田家からは取らぬか」


「おそらく」


「なぜそう思う」


「その方が、人が集まるからです」


 秀吉の目が細くなる。


「また人か」


「はい」


「お主、景継の話になると人ばかり言うな」


「そこが最も厄介ですので」


 官兵衛は淡々と答えた。


「林道様が信雄様や信孝様から土地を奪えば、話は簡単です」


「織田家を乗っ取る逆臣にできる」


「はい」


「じゃが、奪わぬ」


「おそらくは」


「ならどうする」


 秀吉の問いに。


 官兵衛は少し黙った。


 やがて。


「敵を作りましょう」


 秀吉が官兵衛を見る。


「……何?」


「林道様が、敵からしか土地を取らぬというのであれば」


 官兵衛の指が地図の上を滑る。


「誰が敵になるのかを、こちらで決めればよい」


 秀吉の目が細くなった。


「どういうことじゃ」


「林道様の周囲には、まだ立場を決めていない者が大勢おります」


 信雄。


 池田恒興。


 そして各地の国人。


「彼らに選ばせるのです」


「景継か、わしか」


「いいえ」


 官兵衛は首を振った。


「それでは林道様の思うつぼです」


「なぜじゃ」


「あの方は、人に選ばせることを恐れません」


 秀吉は黙って聞いている。


「ならば、選択肢そのものを変える」


「……」


「林道景継につくか、羽柴秀吉につくかではない」


 官兵衛の指が止まった。


「織田家を守るか」


 一拍。


「林道景継の天下を許すか」


 秀吉の口元が、ゆっくり上がった。


「なるほどのう」


「林道様は本当に天下を取ろうとしている」


「嘘を流す必要すらないということか」


「はい」


 官兵衛が頷く。


「真実は」


 静かな声だった。


「使い方次第で、嘘より人を動かします」


 秀吉は地図を見る。


 そして。


「最初は誰じゃ」


 官兵衛は迷わなかった。


「池田恒興様」


「恒興か」


「信長様との縁が深い方です」


「だからこそ、景継が織田家とは別の天下を作ろうとしておると知れば……」


「少なくとも、考えるでしょう」


 秀吉が笑った。


「よし」


 すぐに声を上げる。


「使者を出せ」


「はっ」


「景継より先じゃ」


 官兵衛が頭を下げる。


 だが。


「ただし」


 顔を上げた。


「一つだけ」


「何じゃ」


「林道様も、池田様を欲しがるでしょう」


「なら条件で勝てばよい」


「条件だけならば」


 官兵衛が静かに答える。


「おそらく、我らが勝てます」


「なら何を心配しておる」


「林道様は」


 官兵衛は北ノ庄の方角を見るように顔を向けた。


「条件で人を取ろうとしないからです」


「……」


「そこだけは、気をつけなければなりません」


 秀吉の笑みが僅かに消えた。



 数日後。


 北ノ庄。


「景継!」


 滝川一益が勢いよく部屋へ入ってきた。


「どうしました?」


「秀吉が動いた!」


「でしょうね」


「驚け!」


「北ノ庄で負けて、そのまま寝ている人ではないでしょう」


「そういう話ではない!」


 一益が一通の書状を景継の前へ置く。


「池田恒興だ」


 景継の手が止まった。


「恒興様?」


「秀吉が使者を送った」


「……」


「おそらく味方へ引き込むつもりだ」


 景継は書状を見る。


 詳しい内容までは分からない。


 だが秀吉が恒興へ接触したことは間違いないらしい。


「どうする」


「どうする、とは?」


「お前も使者を送れ!」


「何を伝えるんです?」


「こちらにつけと!」


「それだけですか?」


「領地でも何でも条件を出せ!」


 景継は少し考えた。


「嫌です」


「なぜだ!」


「秀吉様より良い条件を出したら来る人なら」


 景継は一益を見る。


「もっと良い条件を出す人が現れたら、そちらへ行くでしょう」


「だからといって放っておくのか!」


「放ってはおきません」


「なら?」


 景継は紙を一枚取った。


 筆を持つ。


 一益が覗き込む。


「何を書く」


「会いませんか、と」


「それだけか?」


「はい」


「条件は?」


「会ってから考えます」


「お前な……!」


「ただ」


 景継の筆が止まる。


「一つだけ書きます」


 短い文章を書いた。


 一益が読む。


 そして眉を寄せる。


「……本気か?」


「はい」


 そこには。


 こちらにつけとも。


 領地を与えるとも。


 地位を約束するとも。


 書かれていなかった。


 ただ。


『私は、織田家を奪うつもりはありません』


 そして。


『それでも私は、天下を取ります』


 最後に。


『その上で、一度お話ししたく思います』


 それだけだった。


「これで来ると思うか?」


 一益が聞いた。


「分かりません」


「秀吉はもっと良い条件を出すぞ」


「でしょうね」


「なら取られるかもしれん」


「はい」


「いいのか!」


 景継は一益を見る。


「恒興様が考えて」


 静かに答えた。


「秀吉様の方がいいと決めたなら」


 一益が黙る。


「その時は」


 景継は書状を畳んだ。


「敵になるだけです」


 昨日。


 景継は決めた。


 味方からは奪わない。


 織田家からも奪わない。


 だが。


 敵として立つ者からは取る。


 人も。


 土地も。


 これからは。


 選ぶだけではない。


 選ばれる側にもなる。


 天下を取ると言った以上。


 それもまた。


 避けては通れない戦いだった。




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