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『乱世にて、我は待つ』~知略を秘めた軍師は、やがて天下を動かす~  作者: ダイヤマ
第七章 覇道布石編

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第百十八話 自分の足で立つ



 北ノ庄城。


 夜が明けるより少し前。


 景継は一人、机の前に座っていた。


 目の前には地図が広げられている。


 その周囲には、何枚もの書状。


 北ノ庄で秀吉を破ってから、景継のもとへ届く書状は明らかに増えていた。


 越前。


 近江。


 美濃。


 若狭。


 直接会いたいという者もいれば、今後の付き合いを求める者もいる。


 中には、景継の下で働きたいという者までいた。


 数日前までとは、まるで違う。


 景継はその一通を手に取った。


「……三百か」


 近江の小さな国人だった。


 兵三百を率いて景継の下へ加わりたいという。


 条件も書かれている。


 今の領地を安堵してほしい。


 家臣として扱ってほしい。


 戦で功を立てれば、相応の恩賞が欲しい。


 景継は書状を置いた。


「当たり前だよな」


 人が増えれば。


 兵も増える。


 だが。


 兵が増えれば、食わせなければならない。


 褒美も必要になる。


 馬も。


 武具も。


 米も。


 土地も。


 人が増えるということは、それだけ必要なものも増えるということだった。


 景継は地図を見る。


 北ノ庄で勝つ前。


 景継が考えていたのは、秀吉をどう止めるかだった。


 勝家を生き残らせる。


 上杉を動かす。


 長秀と一益を自分の側へ引き寄せる。


 その先まで考えていたつもりだった。


 だが。


「まだ足りないな」


 小さく呟いた。


「何がだ」


 突然後ろから声がした。


 景継が振り返る。


「勝家様」


「朝から何をぶつぶつ言っておる」


「いつからいました?」


「今来た」


「ならいいです」


「何がだ」


 勝家が部屋へ入り、景継の向かいへ座る。


「また書状か」


「はい」


「今度は誰だ」


「近江の国人です。兵三百ほど」


「ほう」


「私の下で働きたいそうです」


「よかったではないか」


「そうですね」


「何だ、その顔は」


 勝家が眉を寄せる。


「兵が増えるのだぞ」


「はい」


「天下を取るのであろう」


「そのつもりです」


「なら増やせ」


「簡単に言いますね」


「何が難しい」


「その三百人、誰が食べさせるんです?」


 勝家が止まった。


「……お前だろう」


「ですよね」


「何を当たり前のことを聞いておる」


「だから困っているんです」


 景継は書状を持ち上げた。


「この人たちは三百です。でも、三百だけでは終わりません」


「どういう意味だ」


「家族がいます。家臣がいます。領地があります。その領地に住んでいる民もいる」


 景継は指を折っていく。


「兵三百を手に入れるということは、三百本の槍が増えるというだけではありません」


 勝家が黙る。


「その人たちが守っていたものまで、こちらが背負うことになります」


「嫌なのか」


「いいえ」


 景継は首を振った。


「必要だと思っています」


「なら受け入れればよい」


「だから、受け入れられるだけのものを作らないといけないと思っているんです」


「もの?」


「私の領地です」


 勝家の目が少し変わった。


 景継は地図へ視線を戻した。


「今までは、上様の下で戦っていました」


「そうだな」


「与えられた領地を治めて、そこから兵を出す。それでよかった」


「何が変わった」


「天下を取ると言ってしまいましたから」


「言ってしまった、ではないだろう」


「そうですね」


 景継は少し笑った。


「自分で言いました」


 そして。


 地図へ手を置く。


「なら、自分の足で立てるようにならないといけません」


 勝家は景継を見つめていた。


「わしを使えばよい」


「使いますよ」


「……」


「何です?」


「もう少し遠慮せんか」


「勝家様が使えと言ったんでしょう」


「言ったが!」


 景継は笑った。


「でも、それだけでは駄目です」


「なぜだ」


「勝家様の兵は、勝家様の兵です」


 勝家の表情が変わった。


「上杉様の兵も上杉様の兵です。私が声をかけたから動いてくれることはあっても、私のものではありません」


「長秀と一益は」


「私の下で働いてくださることにはなりました」


「なら十分ではないか」


「二人の領地も兵も、一日で林道家のものになったわけではありません」


「……」


「私は今、人を動かせます」


 景継は自分でその言葉を口にした。


 以前なら、少し違和感があったかもしれない。


 だが、今は違う。


 北ノ庄で証明した。


 勝家を動かした。


 上杉を動かした。


 長秀と一益もいる。


 それでも。


「人を動かせることと、自分の国を持っていることは違います」


 勝家が腕を組んだ。


「国を作るつもりか」


 景継は少し考えた。


「いずれは」


「……」


「天下を取るなら、必要でしょう」


 勝家の顔から、わずかに笑みが消えた。


 景継が天下を目指す。


 その言葉はすでに聞いた。


 だが。


 国を作る。


 そう言われると、急に現実味を帯びる。


「景継」


「はい」


「本当にやるのだな」


 景継は勝家を見る。


「そのつもりです」


「信長様の後を継ぐのではなく」


「はい」


「織田家を奪うのでもなく」


「はい」


「林道家で天下を取る」


「はい」


 迷わなかった。


 勝家はしばらく黙っていた。


 そして。


「面倒なことを始めおって」


「勝家様も手伝ってくださいね」


「なぜそうなる!」


「一緒に秀吉様を止めるところから始めたじゃないですか」


「天下まで手伝うとは言っておらん!」


「では、今後お願いします」


「勝手に話を進めるな!」


 朝の北ノ庄に勝家の怒声が響いた。



 昼。


 丹羽長秀と滝川一益も加わった。


 机の上には、先ほどと同じ地図が広げられている。


「領地か」


 長秀が言った。


「はい」


「ようやくそこまで考えたか」


 景継が顔を上げる。


「ようやく?」


「当然だろう」


「分かっていたんですか」


「お前が天下を取ると言い出した時からな」


「なら教えてくださいよ」


「自分で気づけ」


 一益が大きく笑った。


「ははは! 長秀、お前も景継の扱いが分かってきたな!」


「笑い事ではありません」


「お前が困っているのが面白い」


「一益様も一緒に困るんですよ」


「なぜだ!」


「私の下で働くと言ったでしょう」


「しばらく、だ!」


「便利な言葉ですね」


「お前に言われたくない!」


 長秀がため息をつく。


「話を戻すぞ」


「はい」


「景継。お前の考えは正しい」


 長秀が地図を見る。


「兵だけ集めても仕方がない。兵を養う土地がいる。米がいる。銭がいる。そして、それを治める者がいる」


「はい」


「一万の兵を持ちたいから、一万人集めればよいという話ではない」


「分かっています」


「本当に分かっているのか?」


「今、分かり始めました」


「正直だな」


 長秀が苦笑した。


「では、どうする」


 景継は地図を見た。


「まず、今持っているものを調べます」


 一益が眉を寄せる。


「今持っているもの?」


「はい」


「そんなもの、お前なら知っているだろう」


「知っているつもりなのが一番危ないので」


 景継は答えた。


「領地ごとの石高。実際に取れる米。人口。道。川。市。職人。兵を何人出せるのか。何人までなら無理なく養えるのか」


 長秀の目が変わる。


「全部調べるのか」


「できる限り」


「時間がかかるぞ」


「だから今から始めます」


「秀吉殿が待ってくれると思うか」


「思いません」


「なら?」


「秀吉様への備えと同時にやります」


 一益が呆れた。


「簡単に言うな」


「一益様がいますから」


「わしに振るな!」


「長秀様も」


「わしもか」


「もちろんです」


「お前、二人が加わった途端に人使いが荒くなっていないか?」


「気のせいです」


「絶対に違う!」


 景継は二人の抗議を聞き流しながら、地図を見ていた。


 これまでとは違う。


 敵がどこにいるかを見るための地図ではない。


 どこを取ればいいかを見るためだけの地図でもない。


 どこで人が暮らしているのか。


 どこで米が取れるのか。


 どこに物が集まるのか。


 どこを道が通っているのか。


 戦うためではなく。


 国を作るために見る。


 同じ地図なのに、まるで違って見えた。



 数日後。


 景継のもとには、さらに人が集まり始めていた。


 浪人。


 国人。


 かつて織田家に仕えていた者。


 秀吉の勢力拡大を警戒していた者。


 北ノ庄で景継が勝ったと聞き、一度会ってみたいとやってきた者。


 理由は様々だった。


 その中に。


「林道様」


 一人の男が頭を下げていた。


 近江から来た国人。


 先日、書状を送ってきた人物だった。


「兵三百を率い、林道様の下で働きたく参りました」


 景継は男を見る。


「一つ聞いてもいいですか」


「何なりと」


「なぜ私なんです?」


 男が少し驚く。


「北ノ庄で羽柴様を破られたと聞きました」


「それだけですか」


「……」


「私が次に負けたら?」


 男の表情が変わる。


「それは……」


「秀吉様がもう一度私を破ったら、秀吉様のところへ行きますか?」


 周囲にいた家臣たちが景継を見る。


 普通なら聞かない。


 少なくとも、臣従を願い出てきた相手へ最初に尋ねることではない。


 男はしばらく黙った。


「分かりませぬ」


 やがて、そう答えた。


「その時にならなければ」


 景継が少し笑った。


「よかった」


「……は?」


「必ずついていきます、と言われたら困るところでした」


 男が目を瞬く。


「私はまだ、あなたに何もしていません」


「……」


「領地を守ったわけでもない。恩賞を与えたわけでもない。それなのに命を預けろとは言えません」


 景継は男を見る。


「だから、まず働いてください」


「は」


「私も、あなたにここにいたいと思ってもらえるようにします」


 男はしばらく景継を見ていた。


 そして。


 深く頭を下げた。


「承知いたしました」


 こうして。


 林道景継の直属の勢力に、新たな三百の兵が加わった。


 わずか三百。


 天下から見れば、あまりにも小さい。


 だが。


 これまでとは意味が違った。


 勝家の兵ではない。


 上杉の兵でもない。


 長秀や一益から借りた力でもない。


 林道景継という男を見て。


 その下で働くことを選んだ者たちだった。



 その夜。


 長秀が帳面を持って景継のもとへやってきた。


「景継」


「はい」


「喜んでいるところ悪いが」


「別にそれほど喜んでいる顔はしていないと思います」


「三百人増えた」


「はい」


「必要な米も増えた」


「……はい」


「銭も増える」


「はい」


「馬もいる」


「はい」


「武具もいる」


「分かっています」


「本当に?」


「だんだん嫌になってきました」


 長秀が笑った。


「天下を取るのだろう?」


「取ります」


「なら覚えろ」


 帳面が景継の前へ置かれる。


「戦に勝つより、こちらの方が長いぞ」


 景継が帳面を開く。


 そこには米。


 銭。


 兵糧。


 馬。


 武具。


 人夫。


 様々な数字が並んでいた。


「……」


「どうした」


「天下人って、もっと格好いいものだと思っていました」


「今さら何を言っている」


「数字ばかりですね」


「国とはそういうものだ」


 景継は小さく息を吐いた。


 そして帳面を読み始めた。



 一方。


 その動きを、秀吉と官兵衛も知った。


「景継が兵を集め始めた?」


「はい」


 官兵衛が答える。


「大々的な募兵ではございません。自ら加わることを望む者を選びながら受け入れているようです」


「どれほど増えた」


「まだ大きくはありません」


「なら放っておくか」


 秀吉の問いに。


「いいえ」


 官兵衛は即答した。


「なぜじゃ」


「今だからです」


 秀吉が官兵衛を見る。


「林道様は、これまでとは違うことを始めようとしております」


「違うこと?」


「これまでは、人を動かしていました」


 勝家。


 上杉。


 長秀。


 一益。


 必要な時に、それぞれの力を同じ方向へ向けた。


「ですが今度は――」


 官兵衛は地図の上に指を置いた。


「自分の力を作ろうとしている」


 秀吉の表情から笑みが消えた。


「自分の、か」


「はい」


「織田家を取るつもりか」


「おそらく違います」


「なぜ分かる」


「林道様なら、その方が面倒だからです」


 秀吉が眉を寄せる。


「織田家を奪えば早いではないか」


「早いでしょう」


「なら」


「ですが、織田家を奪えば、織田家に従っていた者すべてを敵に回す可能性があります」


「……」


「三法師様もいる。信雄様も、信孝様もいる。その全員を押さえつけて織田家を奪うより――」


 官兵衛はゆっくり言った。


「織田家とは別に、自分の家を大きくした方が争いは少ない」


 秀吉が黙る。


「景継は、そこまで考えておると思うか」


「分かりませぬ」


 官兵衛はそう答えた。


「ですが」


 少し間を置く。


「もし、そうであるなら」


 官兵衛の声が低くなる。


「今までより危険です」


「なぜじゃ」


「これまでは、林道様を倒せばよかった」


 官兵衛が秀吉を見る。


「これからは、林道様が作ろうとしているものまで倒さなければならなくなるからです」


 秀吉は何も言わなかった。



 北ノ庄。


 深夜。


 景継はまだ帳面を読んでいた。


 数字ばかりが並んでいる。


 目が痛い。


 正直、戦場の地図を見ている方が楽だった。


 だが。


 景継は帳面を閉じなかった。


 兵を増やす。


 領地を増やす。


 人を増やす。


 それだけでは駄目だ。


 増やしたものを守り。


 食わせ。


 働かせ。


 次の世代まで残す。


 それができなければ、天下など取れない。


 ふと。


 遠い記憶が浮かんだ。


 広大な土地。


 無数の兵。


 役人。


 税。


 穀物。


 そして。


 戦場だけでは決して国は作れないという感覚。


「……そうだったな」


 景継は小さく呟いた。


 誰に言ったのか、自分でも分からない。


 景継はもう一度帳面を見る。


 これまで。


 生き残るために待った。


 信長の下で力を蓄えた。


 人と出会った。


 戦った。


 失敗した。


 そして、また生き残った。


 だが。


 これからは違う。


 ただ生き残るだけではない。


 自分のものを作る。


 自分の兵。


 自分の領地。


 自分についてくる人間。


 そして、いつか。


 自分の国を。


「上様」


 景継は誰もいない部屋で呟いた。


「私は、あなたの後にはなりません」


 返事はない。


 当然だった。


「あなたが作った天下を、もらうつもりもありません」


 景継は筆を取る。


 新しく加わった三百。


 その数字を帳面へ書き加えた。


「自分で作ります」


 まだ五千余り。


 国と呼ぶには小さい。


 天下など、遥か先にある。


 それでも


 林道景継が自分自身の勢力を作る戦いは


 この日、確かに始まった。

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