第百十六話 戦う前に決めていたこと
――時は、清須会議を終えて間もない頃まで遡る。
北ノ庄城。
先ほどまで、景継と勝家は秀吉を止めるために手を組むこと、その先で景継自身が天下を目指すことまで話していた。
勝家は景継の考えに腹を立てながらも、最後には同じ方向へ進むことを受け入れた。
そして今、話はようやく次の段階へ進もうとしていた。
「兵はどうする。お前は五千。わしの兵を合わせても、秀吉は簡単には潰せんぞ」
勝家の問いに、景継は少しだけ考えてから答えた。
「まずは、勝家様に戦っていただきます」
「わしに?」
「はい。秀吉様との対立は、もう避けられないでしょう。向こうもそれを分かっています」
「当然だ」
「ならば最初の戦は、普通に勝ちにいきます」
勝家が眉を寄せた。
「普通に、とは何だ」
「妙な意味はありません。勝てるなら、その戦で秀吉様を倒す。それが一番早いということです」
「当たり前だ」
「はい。ただし、戦は勝つつもりで戦えば必ず勝てるものではありません」
「分かっておる」
「ですから、負けた時の手も用意します」
勝家の表情が変わった。
「……わしが負ける前提か」
「違います」
景継はすぐに否定した。
「勝つために戦うことと、負けた時のことを考えないことは別です」
勝家はしばらく景継を見ていた。
景継がこれまで幾度も危機を切り抜けてきたことを、勝家も知っている。勝っている時より、むしろ追い詰められた時にこそ、この男は異様なほどしぶとかった。
「それで、負けたらどうする」
「北ノ庄へ戻ってください」
「ここへ?」
「はい」
「籠城しろと?」
「必要なら」
景継は地図の上にある北ノ庄を指した。
「秀吉様が勝てば、勝家様をそのまま放っておくとは思えません。追ってくる可能性が高いでしょう」
「可能性?」
「絶対ではありません」
景継ははっきりと言った。
「追ってくると決めつけて策を作るつもりはありません。追ってこなければ、勝家様は生き残る。軍を立て直す時間もできる。それならそれで構いません」
「では、追ってきたら?」
「北ノ庄まで引き込みます」
勝家の目が細くなる。
「何をする気だ」
景継は地図の上で、指を北へ滑らせた。
「上杉景勝と手を組みます」
「……上杉?」
「はい」
「お前、本気で言っておるのか」
「もちろんです」
「上杉は北陸でわしと争ってきた相手だぞ」
「だからといって、明日も敵でなければならない理由はありません」
景継は地図へ視線を落とした。
「上杉にとっても、勝家様が秀吉様に滅ぼされ、そのまま羽柴の勢力が北陸へ伸びてくることが得になるとは限りません。こちらが相応の条件を出せば、話を聞く余地はあります」
「相応の条件とは何だ」
「領地です」
「……嫌な予感がするな」
「勝家様の領地を三分の一ほど」
「三分の一だと!?」
勝家が立ち上がった。
「貴様、人の領地だからと好き勝手言いおって!」
「秀吉様に負けたら、どれだけ残ります?」
「……」
「三分の二ですか?」
勝家が黙る。
「半分?」
「……」
「一つも残りませんよね」
「分かっておる!」
「なら、三分の一を渡して勝つ方が得です」
「簡単に言うな!」
「勝てばいいんですよ」
「何?」
「秀吉様を倒せば、秀吉様が持っていた領地があります」
勝家が景継を睨みつけた。
「お前、本当に性格が悪いな」
「よく言われます」
「誰にだ」
「勝家様に」
「わししか言っておらんではないか!」
景継は少し笑った。
だが、すぐに表情を戻す。
「ただ、領地を渡すだけではありません」
「まだ何かあるのか」
「こちらの覚悟を示したいと思っています」
「覚悟?」
勝家が問い返したところで、部屋の外から声がした。
「私も、その話を聞いてよろしいでしょうか」
勝家が振り向く。
そこに立っていたのは、お市だった。
「市」
「先ほどから随分と大きな声が聞こえておりました」
「景継が腹の立つことばかり言うからだ!」
「それは聞いていなくても分かります」
「市!」
お市はわずかに笑い、それから景継を見る。
「上杉と手を結ぶのですか」
「そのつもりです」
「ならば私にも聞かせてください。今の私は勝家様の妻です。それに、織田家のことでもあります」
景継は頷いた。
「ちょうど、お市様にもお願いしたいことがあります」
「私に?」
「はい」
景継はお市をまっすぐ見た。
「越後へ行っていただきたい」
勝家の表情が変わった。
「景継」
「上杉との約定が成立した場合、お市様には一時的に越後へ行っていただきます」
「待て!」
勝家が声を荒らげた。
「市を人質にするつもりか!」
「形としては、そうなります」
「駄目だ!」
勝家は即座に言い切った。
「領地の話までは聞いてやる。だが、市を渡すことは認めん!」
景継は勝家ではなく、お市を見た。
「お市様はどう思われますか」
「景継!」
「勝家様。行くのはお市様です」
「だからわしが――」
「勝家様」
お市の声が勝家を止めた。
勝家が黙る。
お市は景継を見つめていた。
「私は、また人質になるのですか」
静かな声だった。
浅井へ嫁ぎ、浅井長政を失い、三人の娘とともに織田へ戻った。そして信長亡き後、今度は勝家の妻となった。
生まれた家。
嫁いだ家。
戦。
政略。
お市の人生は、それらと切り離せないものだった。
「兄上が亡くなり、信忠も亡くなりました」
お市は続ける。
「織田家がこれほど揺れている時だからこそ、私にもできることがあると思っていました。それなのに今度は、戦場から離れて越後へ行けと?」
「はい」
「私は守られるために行くのですか」
「違います」
景継は迷わなかった。
「お市様、これも戦いです」
お市の目がわずかに動いた。
「刀を持って敵を斬ることだけが戦ではありません。上様の妹であり、勝家様の妻であるお市様が越後へ行く。それによって、こちらがこの同盟にどれほどの覚悟を持っているかを示すことができます」
「私にしかできないと?」
「はい」
景継は頷いた。
「勝家様でも、私でも同じ意味にはなりません」
お市はしばらく黙っていた。
「それに、これはただ秀吉様を倒すためではありません」
「では、何のためです」
「織田家をまとめるためです」
景継はそう答えてから、少しだけ笑った。
「それに――見てみたくありませんか?」
「何をです」
「秀吉様が面食らうところを」
お市が瞬きをした。
「秀吉様が勝家様との婚姻を勧めた。その真意が本当に私の考えている通りなのかは分かりません。ですが、もしお二人を一つにまとめて、いつかまとめて始末するつもりだったのなら……」
景継の笑みが少し深くなる。
「その婚姻があったからこそ、お市様を保証として上杉を味方につけることができる」
「……」
「秀吉様の策で、秀吉様を倒すんです」
お市の表情が少しずつ変わっていく。
景継は最後に言った。
「自分の策が、自分の首を絞める。そのことに気づいた時の秀吉様の顔――私は少し見てみたいです」
しばらく沈黙した後、お市の口元にわずかな笑みが浮かんだ。
「……あなた、随分と性格が悪いのですね」
「よく言われます」
「だから誰にだ!」
勝家が横から怒鳴った。
お市は思わず笑った。
しかし、その笑みはすぐに消えた。
「景継殿」
「はい」
「もし私が越後へ行けば、本当に上杉は動くのですか」
「それは、これから交渉します」
「まだ決まっていないのですか」
「はい」
景継はあっさり認めた。
「上杉様が何を求めるのかも、こちらの条件を受け入れるのかも、話してみなければ分かりません。ですから、お市様を勝手に差し出すつもりはありません」
「先に私の意思を聞いたのですね」
「はい」
景継は頷いた。
「お市様自身が望まないのであれば、この案は使いません」
お市は目を伏せた。
自分の意思で選べる。
それは、これまで何度も家と家の事情に翻弄されてきたお市にとって、大きな意味を持つ言葉だった。
やがて顔を上げる。
「分かりました」
「市」
勝家が呼ぶ。
お市は夫を見た。
「勝家様。私も戦いたいのです」
「だが……」
「兄上も信忠も亡くなりました。織田家が崩れていくところを、何もせずに見ていたくはありません」
勝家は何も言えなかった。
お市は景継へ向き直る。
「上杉殿が受け入れるのであれば、越後へ参ります」
「お市様」
「私は守られるために行くのではありません」
お市の目に迷いはなかった。
「勝つために行くのです」
景継はゆっくり頭を下げた。
「承知しました」
「ですから、必ず勝ちなさい」
「はい」
今度は景継も迷わず答えた。
その後、景継は密かに使者を送り、上杉との交渉を始めた。
何度かのやり取りを重ねた末、人目を避けて会談の場が設けられることになった。
景継の前に座るのは、上杉景勝。
互いに気を許せる相手ではない。
これまで北陸を巡って、柴田と上杉は争ってきた。
だからこそ景継は、余計な言葉を使わなかった。
「柴田勝家様と羽柴秀吉様はいずれ戦います」
景勝は黙って聞いていた。
「その戦で勝家様が敗れ、秀吉様がそのまま北陸へ勢力を伸ばせば、上杉様にとっても面倒な相手になるでしょう」
「だから我らに柴田を助けろと?」
「助けていただく代わりに、勝家様の領地の三分の一をお渡しします」
景勝の表情は変わらなかった。
「随分と大きく出たものだ」
「それだけの働きをお願いするつもりですから」
「柴田は承知しているのか」
「怒っていました」
「……そうであろうな」
「ですが、承知していただきました」
景勝はしばらく景継を見ていた。
「そなたは妙な男だな」
「よく言われます」
「褒めてはおらぬ」
「それもよく言われます」
景勝はわずかに息を吐いた。
「領地の話は分かった。だが、我らが動く以上、時期と道を誤れば羽柴と正面からぶつかることになる」
「承知しています」
「約定を結ぶならば、途中で話を変えることは許さぬ」
「もちろんです」
景継はそこで一度頭を下げた。
「その証として、こちらからお市様を越後へお預けします」
景勝の目が動いた。
「お市殿を?」
「はい」
「信長公の妹であり、今は柴田勝家の妻であるお方をか」
「その通りです」
景勝はしばらく黙った。
そして、ゆっくり首を横に振った。
「必要ない」
景継がわずかに目を見開く。
「必要ない、とは?」
「我ら上杉は、一度結んだ約定を、人質がなければ守れぬほど軽くはない」
景勝の声は静かだった。
「領地を条件として兵を動かす。それを双方が認め、約定を結ぶのであれば、それでよい。お市殿まで越後へ送る必要はあるまい」
「上杉様を疑っているわけではありません」
「ならば、なぜだ」
「上杉様が約束を守るためではありません」
景継は景勝を見る。
「私たちが約束を守るためです」
景勝の表情がわずかに変わった。
「こちらは勝家様の領地を渡すと言っています。ですが、戦に勝った後になって惜しくなるかもしれない。事情が変わったと言い出す者が現れるかもしれない」
「そなた自身がか?」
「私も含めてです」
景継は否定しなかった。
「人は状況が変われば考えも変わります。だから、今の自分を信用しすぎないようにしています」
景勝は景継を見つめた。
「変わった考え方をする」
「一度、痛い目を見ましたので」
景継はそれ以上説明しなかった。
「お市様を預かっていただくのは、上杉様を縛るためではありません。私たちが約定を違えないという覚悟を示すためです」
「……お市殿自身は承知しているのか」
「はい」
「柴田も?」
「怒っていますが」
「それは先ほど聞いた」
景継が少し笑う。
景勝は考えた。
そして、ゆっくり頷いた。
「お市殿自身が望んでいるのであれば、客人として越後へ迎えよう」
「人質ではなく?」
「少なくとも、我らはそう扱う」
景勝の声に迷いはなかった。
「約定を結んだ以上、上杉は上杉の責を果たす。お市殿を粗略に扱うつもりもない」
景継は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼を言うのはこちらになるかもしれぬ」
「と申しますと?」
「三分の一を、本当に渡すのであろう?」
「もちろんです」
景勝はわずかに口元を緩めた。
「ならば、忘れるな」
「そこはしっかりしているんですね」
「義と無欲は同じではない」
景継は一瞬黙った後、笑った。
「覚えておきます」
こうして、表には一切出ない約定が結ばれた。
勝家が最初の戦で秀吉を破れば、上杉が動く必要はない。
勝家が敗れても秀吉が追ってこなければ、北ノ庄で軍を立て直す。
そして秀吉が勝家を追って越前深くまで入った時には、上杉が動く。
どの道を使うのか。
いつ動き始めるのか。
どこで兵糧を確保するのか。
連絡が途絶えた場合、どの判断を優先するのか。
景継と上杉側は、その一つ一つを事前に詰めていった。
一つの未来だけに賭けるのではない。
相手の考えを読みながらも、その読みが外れた時にすべてが終わる策にはしない。
金ヶ崎での失敗から景継が学んだことは、ここでも生きていた。
越後へ向かう日。
お市は三人の娘との別れを済ませ、勝家の前に立った。
「本当に行くのか」
「今さら止めるのですか」
「止めたいに決まっておる」
「ですが、行かせるのでしょう?」
勝家は答えられなかった。
お市は少し笑う。
「大丈夫です。上杉殿は、私を人質ではなく客人として迎えると約束してくださったのでしょう」
「約束など、戦国ではいつ破られるか分からん」
「その言葉を勝家様が言うと、景継殿の考え方に似ていますね」
「一緒にするな!」
少し離れた場所にいた景継が口を挟む。
「私も嫌です」
「お前が言うな!」
お市が笑った。
そして景継を見る。
「景継殿」
「はい」
「覚えていますか」
「何をでしょう」
「秀吉殿が面食らう顔を見たいと仰ったことです」
「もちろんです」
「ならば、しっかり見ておいてください」
お市の口元にも、わずかな笑みが浮かぶ。
「私の分まで」
景継も笑った。
「承知しました」
お市は一度頷き、それから表情を引き締めた。
「私は守られるために行くのではありません」
「分かっています」
「勝つために行くのです」
「はい」
「ですから、必ず勝ちなさい」
景継は今度は迷わなかった。
「承知しました」
こうして、お市は自らの意思で越後へ向かった。
それは戦場から逃れるためではない。
上杉との約定を形あるものにし、その軍を動かすための、お市自身の戦だった。
だが、この時。
勝家はまだ知らなかった。
景継が用意していたものは、上杉との同盟だけではなかった。
北ノ庄で勝家と話すより少し前。
景継は丹羽長秀と二人で会っていた。
「長秀様。一つお願いがあります」
「珍しいな。お前がわしに頼み事か」
「はい」
「言ってみろ」
「秀吉様を失脚させることができたら、私の臣下になってください」
長秀はしばらく景継の顔を見ていた。
「……今のお前が、それをわしに言うのか」
「はい」
「兵は五千」
「はい」
「領地も秀吉殿や勝家殿には及ばない」
「その通りです」
「それで、わしにお前の下につけと?」
「今すぐではありません」
景継は頭を下げた。
「今の私では、長秀様にそんなことをお願いする資格はありません」
「では、なぜ言った」
「資格を得てから言ったのでは、遅いからです」
長秀の目が細くなる。
「秀吉様を止め、織田家の争いを収める。それができた時には、今とは状況が変わっています。その時になって初めて声をかけたのでは、遅いかもしれない」
「わしが欲しいのか」
「はい」
景継は迷わなかった。
「長秀様に来ていただきたい」
長秀は少し笑った。
「随分とはっきり言う」
「隠す理由がありませんから」
「もし、できなかったら?」
「今の話は忘れてください」
「それだけか」
「天下を取るのは、かなり難しくなるでしょうね」
長秀は景継を見つめた。
冗談で言っている顔ではない。
「……よかろう」
長秀は静かに答えた。
「秀吉殿を本当に失脚させてみせろ。その時は、お前の下につくことを考えてやる」
「考える、ですか」
「今の時点で全部欲しがるな」
「分かりました」
景継は笑った。
滝川一益との話は、もっと騒がしかった。
「秀吉を失脚させたら、わしがお前の家臣になれだと?」
「はい」
「お前、頭でも打ったか」
「打っていません」
「では、わしを馬鹿にしておるのか」
「していません」
「なら、どうしてそうなる!」
一益の怒声を受けながら、景継は平然としていた。
「できなかったら、今の話は忘れてください」
「それだけか?」
「天下を諦めることになるかもしれません」
一益が黙った。
「……信長様の後を、お前が取ると?」
「違います」
景継は首を振った。
「信長様の後ではありません」
一益を見る。
「私の天下を取ります」
しばらく沈黙した後、一益は突然大きく笑った。
「はははは! 言うようになったな!」
「昔からそれほど変わっていないと思いますが」
「昔はもう少し可愛げがあった!」
「それは覚えていません」
一益は笑いながら景継の肩を叩いた。
「よい。やってみろ」
「では」
「本当に秀吉を引きずり下ろしてみせたら、その時は考えてやる!」
「長秀様と同じことを言いますね」
「何?」
「いえ、何でもありません」
「お前、長秀にも同じ話をしたのか!」
「はい」
「先に言え!」
結局、一益からも条件付きの約束を取りつけた。
そして現在。
北ノ庄で秀吉軍を破ってから数日後。
景継のもとへ、一人の家臣が駆け込んできた。
「林道様」
「どうしました」
「丹羽長秀様がお見えです」
景継が顔を上げる。
その後ろで、勝家も振り向いた。
「長秀が?」
「はい」
「何の用だ」
「林道様に直接お話があると」
勝家が景継を見る。
「お前、何かしたか」
「少し」
「何だ、その少しというのは」
景継が答える前に、長秀が部屋へ入ってきた。
「景継」
「長秀様」
「やったな」
「何がでしょう」
「とぼけるな。北ノ庄だ」
長秀は景継の前まで来る。
「秀吉殿を大きく敗らせた」
「はい」
「勝家殿も生きている」
「見ての通りです」
「上杉まで動かした」
「はい」
長秀はしばらく景継を見つめた。
「約束を覚えているか」
「もちろんです」
勝家の顔が変わる。
「約束?」
長秀が勝家を見る。
「聞いておらんのか」
「何をだ」
景継は少しだけ気まずそうな顔をした。
「長秀様には、秀吉様を失脚させることができたら私の臣下になってくださいとお願いしていました」
勝家の顔が止まった。
「……いつだ」
「勝家様と詳しい話をする少し前です」
「お前……」
勝家の声が低くなる。
「わしと上杉を動かす前から、勝った後の話までしていたのか?」
「負けるつもりで策を立てる人はいないでしょう」
「お前は負けた時の策まで立てておったではないか!」
「それとこれは別です」
「何が違う!」
長秀が思わず笑った。
「変わらんな、お前たちは」
「長秀! 笑うな!」
「すまん」
長秀は咳払いし、景継へ向き直った。
「わしは約束を違えるつもりはない」
景継の表情が変わる。
「では」
「すぐにすべてを預けるつもりはないが、お前の下で働こう」
景継はゆっくり頭を下げた。
「ありがとうございます」
「ただし」
「はい」
「天下を取れなかったら、一生言ってやる」
「それは困りますね」
「なら取れ」
「はい」
その日の午後。
今度は別の報告が入った。
「滝川一益様がお見えです」
勝家が景継を見る。
「まさか」
「そのまさかです」
「お前……!」
やがて一益が姿を現した。
「景継!」
「一益様」
「やりおったな!」
「何とか」
「何とかではない! 本当に秀吉を負かすとは思わなかったぞ!」
「約束は覚えていますか」
「取り立てるのが早いわ!」
一益はそう言いながらも笑っていた。
「だが、言ったからには仕方ない」
そして景継を見る。
「しばらく、お前のところで働いてやる」
「しばらくですか」
「全部欲しがるな!」
「分かりました」
景継も笑った。
勝家は二人を見ながら、呆れたように景継へ尋ねた。
「いつの間に話をつけておった」
「少し前です」
「少し前では分からん!」
「清須会議の後くらいです」
「お前、本当に……」
勝家は頭を抱えた。
「やはり好かん!」
「知っています」
「嬉しそうに言うな!」
怒声が部屋に響いた。
だが、そのやり取りとは裏腹に、景継を取り巻く状況は明らかに変わっていた。
直属の兵が突然何万になったわけではない。
それでも、柴田勝家という織田家随一の宿老が横にいる。
丹羽長秀が加わった。
滝川一益も加わった。
そして北には、上杉との新たな関係が生まれている。
景継がこれまで積み重ねてきた人とのつながりが、北ノ庄での勝利を境に、初めて目に見える力へ変わり始めていた。
一方。
南へ敗走した秀吉軍。
秀吉は残った兵をまとめながら、ほとんど口を開かなかった。
賤ヶ岳では勝った。
勝家を北ノ庄まで追い込んだ。
あと一歩だった。
そのはずだった。
「官兵衛」
「はい」
「いつからじゃ」
秀吉が低い声で尋ねた。
「いつから景継は、上杉とつながっておった」
「分かりませぬ」
「調べておったのではないのか」
「調べておりました」
「それでも分からなかった」
「はい」
官兵衛は言い訳をしなかった。
「私の負けでございます」
秀吉が官兵衛を見る。
「お前がそれを言うのは珍しいな」
「見つけられませんでした」
官兵衛は目を伏せた。
「ですが、今になって考えれば、もっと早く気づくべきでした」
「何に」
「林道様が、どう戦うかではありません」
官兵衛は顔を上げた。
「何を手に入れようとしていたかに、です」
「……何?」
「我らは北ノ庄で、林道様の五千ばかりを見ていました。どう使うのか。どこから攻めるのか。柴田様とどう挟むのか。誰が援軍として現れるのか」
秀吉は黙って聞いている。
「ですが、あの方は戦に勝つことだけを考えていたのではない」
「何を考えていた」
「勝った後です」
官兵衛の声が重くなる。
「我らが負けたのは、北ノ庄ではありません」
秀吉の眉が動く。
「あの男は、我らを倒すためだけに北ノ庄へ来たのではない」
官兵衛はゆっくり言葉を続けた。
「北ノ庄で我らを倒した後、何を手に入れるかまで決めていたのです」
「何を」
「人です」
秀吉の表情が変わった。
「柴田様は生き残った。上杉との関係もできた。そして、この勝利を見た織田家中の者たちは、林道景継という男を今までと同じようには見ない」
官兵衛は以前、自分が口にした言葉を思い出していた。
五千のうちに止める。
あの時は、まだ間に合うと思っていた。
兵が五千しかいないうちならば。
景継が人を動かす力を、まだ形にしていないうちならば。
止められると思っていた。
「……遅かった」
秀吉が官兵衛を見る。
「何がだ」
「私は申し上げました」
官兵衛は静かに答えた。
「あの男は、五千のうちに止めなければならないと」
その頃。
景継のもとには、丹羽長秀と滝川一益がいた。
柴田勝家もいる。
そして北には、上杉との新たなつながりが生まれている。
直属の兵の数だけなら、まだ大きくは変わっていない。
だが、その男が動かせるものは、もう五千では測れなかった。
官兵衛は目を閉じた。
「もう、五千ではありません」




