第百十五話 北ノ庄へ
賤ヶ岳での敗北から、柴田軍は越前へ向かって退き続けていた。
戦に敗れた軍の撤退は、ただ兵を歩かせれば済むものではない。負傷者が遅れ、隊列から離れる者が出て、疲労した兵の足は次第に重くなる。そこへ敵の追撃が加われば、一度の混乱がそのまま全軍の崩壊につながることもある。
だからこそ景継は、賤ヶ岳を離れてからも休まなかった。
自らの五千をいくつかの隊に分け、街道の要所へ順番に置きながら、勝家の軍を先へ進ませる。秀吉軍が迫れば短く戦い、敵が兵を集め始める前に退く。その繰り返しによって、柴田軍は大きな追撃を受けることなく越前へ入ることができていた。
もちろん、損害がないわけではない。
賤ヶ岳で景継自身も兵を投入している。撤退戦でも負傷者や討たれた者は出ており、出陣した時の五千がそのまま残っているわけではなかった。
それでも軍としての形は崩れていない。
景継にとって、それが何より重要だった。
「北ノ庄までは、あとどれほどだ」
馬上の勝家が尋ねた。
「このまま進めば、そう遠くありません」
家臣の答えを聞き、勝家は後ろを振り返った。
遠くに林道勢が見える。
そのさらに後方には秀吉軍がいるはずだった。
「景継の奴は?」
「後方にて追撃に備えております」
「またか」
勝家は苦い顔をした。
賤ヶ岳で負けた。
その事実は変わらない。
勝家にとって、それは腹の底が煮えるほど悔しい敗北だった。
だが、敗れた後の景継の動きについては認めざるを得なかった。
負けた軍を逃がすことに関して、あの男は異様なほど上手い。
敵を倒すことよりも、どこで敵を止めれば味方が逃げられるかを考える。自分の兵を一か所に固めず、少しずつ交代させながら後退するため、秀吉側も一気に食い破ることができない。
「昔から逃げるのだけは上手い奴だ」
勝家が呟いた。
近くの家臣は何も答えなかった。
一方、追う秀吉軍も決して足を止めてはいなかった。
秀吉は勝家を北ノ庄まで追うことを決めていた。
賤ヶ岳で勝っただけでは足りない。
勝家には北陸という地盤がある。
北ノ庄へ戻り、時間を与えれば、残兵をまとめて再び立ち上がる可能性がある。さらに景継まで生き残っている以上、ここで二人を放置する理由はなかった。
「追いつけんのか」
秀吉が尋ねる。
「林道勢が後ろを押さえております」
報告を受けた秀吉は露骨に顔をしかめた。
「また景継か」
「一度に長くは戦いませぬ。こちらが兵を集めれば退き、追えば次の場所で別の隊が待っております」
「面倒なことを」
秀吉が舌打ちした。
その横で、官兵衛は黙って地図を見ていた。
「官兵衛」
「はい」
「どうした」
「少し気になっております」
「景継がか?」
「それもございます」
官兵衛は地図の上で、賤ヶ岳から越前へ続く道を指でなぞった。
「林道様は、柴田様を逃がすことを優先しております」
「当たり前ではないか。勝家殿に死なれれば困るのであろう」
「はい。ただ、それにしては落ち着きすぎております」
「負けたのにか」
「負けたからです」
秀吉が眉を寄せた。
官兵衛は続ける。
「普通ならば、賤ヶ岳で敗れた時点で次の兵を集めようとします。丹羽様や滝川様へ救援を求めることも考えるでしょう。しかし、そのような大きな動きは確認できておりません」
「間に合わんと思ったのではないか?」
「その可能性もございます」
「ならば何もおかしくない」
「はい」
官兵衛は否定しなかった。
何かがおかしいと断言できる材料はない。
だからこそ厄介だった。
「林道様の五千は減っております。柴田様も賤ヶ岳で大きな損害を受けた。北ノ庄へ戻ったとしても、我らを正面から破れるほどの兵が突然現れるとは考えにくい」
「そうじゃろう」
「ですが、林道様がそれを分からないはずもありません」
秀吉が官兵衛を見る。
「何が言いたい」
「まだ分かりませぬ」
「分からぬのか」
「分からないものを分かったふりをする方が危険でございます」
官兵衛は静かに答えた。
秀吉は少し不満そうだったが、それ以上は言わなかった。
官兵衛の警戒が過ぎることはあっても、それによって何度も助けられてきた。
「ならば調べろ」
「はい」
「勝家殿が北ノ庄へ入る前に、できる限りのことを調べよ」
「すでに物見を増やしております」
「景継の五千もだ」
「もちろんです」
秀吉は前方へ目を向けた。
「それでも追うぞ」
「はい」
官兵衛も、それには反対しなかった。
ここで勝家を逃がす方が危険であることも、また事実だった。
数日後。
柴田勝家は北ノ庄城へ帰還した。
城内には敗戦の報がすでに届いており、兵たちの表情は重い。
勝家は城へ入ると休む間もなく家臣を集めた。
「門を固めろ。兵糧を確認しろ。傷の浅い者は休ませた後、守りにつかせる」
「はっ!」
「秀吉は来ますでしょうか」
家臣の一人が尋ねた。
勝家は鼻を鳴らした。
「来る」
迷いのない答えだった。
「わしなら来る。ここまで勝っておいて、敵の大将を生かして帰る馬鹿がおるか」
家臣たちも頷いた。
「ならば北ノ庄で迎え撃つ」
勝家はそう言い切った。
賤ヶ岳では負けた。
だが、自分はまだ生きている。
兵も残っている。
北ノ庄城もある。
ならば、まだ終わってはいない。
「籠城の支度を急げ!」
勝家の声が城内に響いた。
それから少し遅れて、景継も越前へ入った。
林道勢は賤ヶ岳からの戦いで数を減らしていたが、それでも大半は統制を保っている。
景継は北ノ庄へ近づいたところで、軍を止めた。
「城へ入られないのですか?」
家臣が尋ねる。
「入りません」
「ですが、勝家様は北ノ庄で迎え撃つおつもりです」
「知っています」
「ならば我らも城へ入った方が……」
「私まで中へ入ったら、秀吉様は楽でしょう?」
家臣が黙る。
景継は北ノ庄城の方を見た。
「城の中に勝家様と私がいる。それを秀吉様が外から囲む。こちらから動ける兵はいなくなる。そんな形にする必要はありません」
「では、城外に?」
「ええ」
景継は頷いた。
「勝家様には城を守っていただきます。私たちは外に残ります」
「秀吉様の軍が来れば、我らが先に狙われるのではありませんか?」
「その可能性はあります」
「……よろしいので?」
「嫌ですけどね」
家臣が困った顔をした。
景継は少し笑う。
「だから、捕まらないようにします」
林道勢は北ノ庄城へ入らず、周辺を移動しながら秀吉軍の接近を探ることになった。
その日のうちに、景継は勝家と顔を合わせた。
「城に入らんのか」
開口一番、勝家が尋ねた。
「入りません」
「なぜだ」
「二人まとめて囲まれたくありませんから」
「わし一人なら囲まれてもよいと言うのか」
「勝家様は城を守る方が強いでしょう」
「お前は?」
「外にいた方ができることが多い」
勝家は景継を睨んだ。
「好き勝手しおって」
「勝家様も好きに守ってください」
「言われんでもそうする」
勝家は腕を組んだ。
「秀吉は来るぞ」
「でしょうね」
「お前はどうする」
「できることをします」
「それを聞いておる」
景継は少し考えてから答えた。
「秀吉様が北ノ庄を囲むなら、外から攻めます」
「五千でか?」
「もう五千はいませんよ。賤ヶ岳で減りましたから」
「そこではない!」
勝家が怒鳴る。
「秀吉は何万と連れてくるのだぞ。お前の兵だけで何ができる」
「一人で全部倒す必要はないでしょう」
「……何?」
景継はそれ以上答えなかった。
勝家はしばらく景継を睨んでいたが、やがて大きく息を吐く。
「また何か考えておるな」
「いつも考えてはいます」
「そういう意味ではない」
「では、どういう意味です?」
「もうよい!」
勝家は苛立ったように背を向けた。
「好きにしろ。ただし、死ぬな」
景継が少しだけ目を見開く。
「勝家様に心配していただけるとは」
「違う! お前が死ねば腹の立て損だからだ!」
「なるほど」
「納得するな!」
景継は小さく笑い、北ノ庄城を後にした。
数日もしないうちに、秀吉軍が越前へ入った。
その速度は速かった。
勝家が完全に立て直す前に北ノ庄を押さえる。
秀吉も官兵衛も、その一点では考えが一致している。
やがて秀吉軍の先鋒が北ノ庄周辺へ姿を現し、城を囲むための陣地が次々と作られていった。
「ようやく追いついたのう」
遠くに北ノ庄城を見ながら、秀吉が言った。
「勝家殿は?」
「城内におります」
「景継は?」
秀吉はすぐに尋ねた。
報告役が答える。
「林道勢は城内へ入っておりません」
秀吉の表情が変わった。
「どこじゃ」
「北ノ庄周辺を移動しております。こちらの物見を避けながら、一定の場所には留まっておりませぬ」
「逃げたわけではないのだな?」
「はい。遠くへ離れた様子もございません」
秀吉は官兵衛を見る。
「どう思う」
「厄介でございます」
「やはりか」
「城内へ入ってくれた方が、はるかに楽でした」
官兵衛は地図を広げた。
「柴田様を城に封じても、林道様が外にいる限り、我らは背後にも兵を置かなければなりません」
「ならば先に景継を叩くか?」
「追えば逃げるでしょう」
「逃げるなら追えばよい」
「その間に柴田様が城から出てくれば、こちらが挟まれます」
秀吉は舌打ちした。
「面倒な奴じゃ」
「はい」
「だが、景継にも大した兵は残っておらん」
「それも事実です」
官兵衛は冷静だった。
林道勢は賤ヶ岳で戦い、撤退戦でも損害を出している。
正確な数は分からないが、五千を下回っていることは間違いない。
その兵だけで秀吉軍を破ることはできない。
「まず城を囲む」
官兵衛が言った。
「ただし、林道勢に備えて外向きにも陣を作ります。街道も押さえ、援軍が来る可能性も考えましょう」
「援軍?」
「丹羽様、滝川様。あるいは織田家中の者が動く可能性はございます」
「来ると思うか?」
「分かりませぬ。だから見張ります」
秀吉は頷いた。
「よし。景継に今度こそ隙は見せん」
官兵衛も頷いた。
勝家を包囲しながら、景継を監視する。
外から別の援軍が来ても対応できるよう、街道へ物見を出す。
考えられる危険には、できる限り備える。
官兵衛は一つずつ手を打った。
北ノ庄城を囲む秀吉軍の陣は、日を追うごとに厚くなっていった。
城内から見れば、敵の旗が地平を埋めるように並んでいる。
賤ヶ岳で敗れたばかりの柴田勢に、それを正面から打ち破る力が残っているとは思えない。
秀吉軍の兵たちの間にも、勝利を確信する空気が広がり始めていた。
「賤ヶ岳で勝った」
「勝家様は城から出られん」
「あとは落とすだけだ」
そんな声が聞こえる。
秀吉自身も、勝利が近いことを感じていた。
ただ、官兵衛だけは最後まで気を緩めなかった。
「林道勢は?」
「西へ移動しております」
「数は?」
「おそらく三千を超える程度かと」
「他に軍勢は?」
「確認できませぬ」
「丹羽様は?」
「動きなし」
「滝川様は?」
「こちらへ向かっている様子はございません」
「他は?」
「今のところ、大きな動きは」
官兵衛は報告を聞きながら考え続けた。
景継は何をする。
三千余り。
それで何ができる。
北ノ庄城から勝家が出てくるのに合わせて攻撃するつもりか。
それならば想定できる。
勝家と景継に同時に攻撃されても耐えられるよう、陣を組めばいい。
それ以外に何がある。
官兵衛は周辺の地図を何度も確認した。
それでも、答えは出なかった。
そして、北ノ庄城の包囲が整った翌朝。
「敵襲!」
秀吉軍の西側で声が上がった。
陣中が一気に騒がしくなる。
「どこじゃ!」
秀吉が立ち上がった。
「林道勢です!」
「数は!」
「およそ三千!」
秀吉は一瞬黙った後、笑った。
「来たか」
官兵衛も立ち上がる。
「城内は?」
「動きございません!」
「柴田様は出ておりませぬ!」
官兵衛はすぐに命じた。
「林道勢へ兵を向けます。ただし、城の包囲は崩してはなりません。柴田様の出撃に備える兵も残してください」
「はっ!」
秀吉軍が動き始める。
景継は三千余りの兵を率い、秀吉軍へ向かっていた。
正面には、自軍とは比べものにならない数の敵がいる。
家臣の一人が景継へ馬を寄せた。
「本当に行くのですか」
「ここまで来て帰るんですか?」
「いえ、そういうわけでは……」
家臣は前方を見る。
「ですが、あまりにも数が違います」
「知っています」
「勝家様も、まだ城から動いておりません」
「ええ」
「ならば我らだけでは――」
「勝てませんね」
景継はあっさり認めた。
家臣が景継を見る。
「では、なぜ」
「戦わないと始まらないからです」
景継は前を向いた。
秀吉軍が迎撃のため陣を整えている。
官兵衛は当然、こちらへ兵を向けてくる。
勝家の出撃にも備えるだろう。
それでいい。
「行きますよ」
景継が命じた。
林道勢が秀吉軍へ突入する。
戦いはすぐに激しくなった。
景継の兵はよく戦った。
賤ヶ岳から撤退戦を続け、疲労している。それでも隊列を崩さず、景継の命令に従って前へ出る。
しかし、数の差はどうにもならない。
秀吉軍は景継の攻撃を受け止めると、徐々に兵を増やして押し返し始めた。
「林道勢、止まりました!」
秀吉のもとへ報告が届く。
「押し返しております!」
秀吉が笑った。
「当たり前じゃ。三千ほどで何ができる」
官兵衛は黙って戦況を見ていた。
景継が来た。
予想できた動きだ。
勝家が城内。
景継が城外。
二人で挟む。
だから、すでに備えてある。
「柴田勢は?」
「まだ動きません!」
「林道勢の後方は?」
「別の軍勢は確認できませぬ!」
官兵衛は少しだけ眉を寄せた。
これだけなのか。
本当に景継は、三千余りで攻めてきただけなのか。
「押せ!」
秀吉が命じる。
「景継をここで潰せ!」
羽柴勢がさらに前へ出た。
林道勢が少しずつ後退し始める。
「林道様!」
家臣が叫ぶ。
「これ以上は!」
「まだです」
「しかし!」
「まだ、下がりすぎないでください」
景継は敵の動きを見ていた。
秀吉軍がこちらへ兵を増やしている。
だが、勝家を警戒して城の包囲は解いていない。
官兵衛らしい。
目の前の敵だけを見て、全軍をこちらへ向けるようなことはしない。
だからこそ、景継も簡単には崩せない。
林道勢の前列がまた一歩下がった。
秀吉は、その様子を見ていた。
「勝てるぞ」
官兵衛は答えない。
「官兵衛」
「はい」
「景継を押しておる」
「見えております」
「勝家殿は城から出られん。景継もこの程度。何をまだ気にしておる」
「……」
官兵衛は周囲を見た。
北ノ庄城。
林道勢。
秀吉軍。
街道。
物見から届いた報告。
丹羽は来ない。
滝川も来ない。
織田家中から大軍が近づいているという情報もない。
景継自身の兵も、目の前にいる三千余りでほぼ間違いない。
ならば、これで全部なのか。
官兵衛は考える。
景継が何かを隠しているとすれば、何だ。
どこにある。
誰を使う。
その時だった。
「申し上げます!」
一人の物見が、息を切らして駆け込んできた。
「何じゃ!」
秀吉が振り向く。
兵は膝をつきながら、荒い息を整えようとしている。
「軍勢が……!」
官兵衛の顔が変わった。
「どこからだ」
「北方!」
「数は!」
「分かりませぬ! ただ、かなりの数にございます!」
秀吉が立ち上がった。
「誰の軍じゃ!」
「それが……」
物見の顔には、明らかな動揺が浮かんでいた。
「旗を確認いたしました」
官兵衛が一歩前へ出る。
「何の旗だ」
兵が答える。
「――上杉にございます」
秀吉の表情から、笑みが消えた。
官兵衛も何も言わない。
北ノ庄を囲んでいた羽柴勢のさらに北。
そこに、それまで誰も戦場にいるとは考えていなかった軍勢が姿を現し始めていた。
風を受けて翻る旗が、一つ、また一つと見えてくる。
上杉。
秀吉は、その旗を見つめたまま動かなかった。
「……なぜじゃ」
誰に尋ねたわけでもない言葉が漏れる。
官兵衛の視線が、ゆっくりと林道勢へ向いた。
先ほどまで押されていたはずの軍。
その中央に、林道景継がいる。
官兵衛はようやく理解した。
三千で勝とうとしていたのではない。
最初から、この三千だけではなかった。
「……殿」
「何じゃ」
官兵衛は景継のいる方向を見たまま答えた。
「陣を組み替えます」
「上杉が来るぞ!」
「分かっております!」
官兵衛の声が初めて強くなった。
「急がねばなりません!」
秀吉軍の陣中を伝令が走り始める。
北へ兵を向ける。
景継を押していた兵を戻す。
北ノ庄城への備えも残す。
突然三つに増えた脅威へ対応するため、官兵衛は次々と命令を出した。
だが、一度戦い始めた何万もの兵は、地図の駒のようには動かない。
景継と戦っていた部隊を止め、向きを変え、別の場所へ送る。
その一つ一つに時間がかかる。
景継のもとにも報告が届いた。
「林道様!」
「はい」
「北より軍勢!」
景継は前方の秀吉軍を見たまま答えた。
「見えています」
「上杉の旗です!」
「そうですね」
家臣が景継を見る。
景継の顔には、驚きがなかった。
「反撃します」
「はっ!」
「ただし、深く入りすぎないように。向こうはまだ崩れていません」
林道勢が前進へ転じる。
押されていた三千余りが、今度は秀吉軍へ圧力をかけ始めた。
北から上杉。
西から景継。
そして中央には北ノ庄城がある。
城内でも、異変はすぐに伝わった。
「殿!」
勝家が振り向く。
「何だ」
「北方に軍勢!」
「誰だ」
家臣が答える。
「上杉にございます!」
勝家は立ち上がった。
城壁へ出る。
遠くに見える旗を確認すると、勝家はしばらく何も言わなかった。
やがて、口元がゆっくりと上がった。
「来おったか」
近くの家臣が勝家を見る。
「殿?」
勝家は城外へ視線を移した。
景継の軍も反撃を始めている。
そして秀吉軍は、突然現れた上杉勢へ対応するため、明らかに動きを変えていた。
「門を開けろ」
「……は?」
「聞こえんかったか」
勝家が振り向く。
「門を開けろ!」
「しかし、羽柴勢が!」
「だから開けるのだ!」
勝家は立て掛けられていた槍を手に取った。
「賤ヶ岳では負けた」
周囲の家臣たちを見る。
「だが、まだ終わっておらん」
兵たちの表情が変わる。
「外であの小僧が戦っておる。上杉まで来おった。それで、わしだけ城に籠もっておれるか!」
勝家が歩き出す。
「出るぞ!」
城内に鬨の声が広がった。
やがて、北ノ庄城の門が開いた。
秀吉のもとへ、さらに報告が飛び込む。
「北ノ庄城、開門!」
「柴田勢が出てきます!」
秀吉が振り向いた。
「勝家殿まで……!」
官兵衛は地図を見た。
西から景継。
北から上杉。
城から勝家。
三方向。
ここに来て初めて、官兵衛にも景継が作ろうとしていた形が見えた。
「撤くか?」
秀吉が尋ねる。
官兵衛はすぐには答えなかった。
まだ軍の数ではこちらが多い。
上杉勢の正確な数も分からない。
ここで慌てて全軍を退けば、それこそ崩壊する。
「まだです」
官兵衛が答えた。
「陣を立て直します。北を抑え、柴田勢を城際で止め、林道勢にはこれ以上兵を割きませぬ」
「できるか」
「やります」
官兵衛は即座に命令を飛ばした。
羽柴勢も強かった。
突然の上杉出現だけで総崩れになるほど、脆い軍ではない。
各隊が命令に従い、三方向へ向きを変えていく。
その様子を、景継は見ていた。
「さすがですね」
「何がです?」
「官兵衛殿です」
景継は感心したように言った。
「これでも崩れない」
家臣は笑えなかった。
「感心している場合ですか」
「強い相手を強いと言っているだけです」
「では、どうします」
「崩します」
景継は答えた。
「どうやって?」
景継は秀吉軍全体を見渡した。
北から上杉が来た。
勝家も城から出た。
それでも秀吉軍は戦おうとしている。
兵数が多く、官兵衛がいる以上、三方向から攻撃しただけで簡単に壊れるとは限らない。
ならば、兵を一人ずつ倒していく必要はない。
「逃げ道を残してください」
家臣が聞き返す。
「逃げ道?」
「はい」
「囲むのではないのですか?」
「全部囲んだら駄目です」
景継は言った。
「逃げられない兵は、死ぬまで戦います」
家臣が景継を見る。
「ですが、逃げられる兵は?」
景継の視線の先では、羽柴勢が必死に陣を組み替えている。
「逃げます」
景継は使者を呼んだ。
「こちらから攻める場所を少し変えます。南側へ抜けられる道を、完全には塞がないでください」
「敵を逃がすのですか?」
「ええ」
「秀吉様まで逃げるかもしれません」
「構いません」
景継は迷わなかった。
「今日欲しいのは秀吉様の首ではありません」
「では?」
「秀吉様の力です」
家臣が黙る。
「兵が逃げれば、軍はなくなる。軍がなくなれば、これまで秀吉様についていた者たちも考え直します」
景継は前方を指した。
「一人残らず殺す必要なんてありません。戦えない軍にすればいいんです」
林道勢の攻撃方向が変わった。
その変化は小さかった。
だが、秀吉軍の兵たちには見えた。
南。
そこだけは、まだ抜けられる。
最初に動いたのが誰だったのかは分からない。
一人の足軽だったのか。
一つの小隊だったのか。
それとも、命令を取り違えた部隊だったのか。
いずれにせよ、一部の兵が南へ向かって退き始めた。
それを見た別の兵も動く。
「退いているぞ!」
「南が空いている!」
「逃げられる!」
声が広がった。
「止めろ!」
羽柴方の将が叫ぶ。
「まだ負けておらん! 陣を崩すな!」
だが、北から上杉勢が迫る。
北ノ庄から勝家軍が出てくる。
景継の軍も再び攻めている。
そして南には道がある。
戦えば死ぬかもしれない。
逃げれば生きられるかもしれない。
その選択肢を見せられた瞬間、兵の心は変わった。
「殿!」
官兵衛のもとへ報告が飛び込む。
「南へ逃げる兵が増えております!」
「止めろ!」
「止まりませぬ!」
官兵衛の顔が変わった。
地図を見る。
南側。
そこだけ圧力が弱い。
「……わざとか」
官兵衛が呟いた。
秀吉が振り向く。
「何?」
「林道様です」
官兵衛は歯を食いしばった。
「我らを囲むつもりではない」
南へ流れる兵がさらに増える。
「逃がすつもりです」
「逃がす?」
「逃げ道があると思わせ、軍そのものを崩すつもりなのです!」
秀吉が南を見る。
すでに一部では撤退が始まっている。
「止めろ!」
秀吉自身が叫んだ。
「逃げるな! まだ負けておらん!」
しかし、その声が全軍へ届くことはなかった。
上杉勢が羽柴軍の北側へ攻撃を開始した。
同時に、勝家が城から兵を率いて突撃する。
「行けぇ!」
賤ヶ岳で敗れた鬱憤をすべて叩きつけるような勝家の攻撃に、城を囲んでいた羽柴勢が押し戻される。
そこへ景継も攻勢を強めた。
三方向から圧力を受けながら、南には逃げ道が残されている。
羽柴軍の崩壊は、一度始まると止まらなかった。
「官兵衛!」
秀吉が叫ぶ。
「……退きます」
官兵衛が答えた。
「何?」
「これ以上は軍を保てませぬ!」
「だが――」
「殿がここで討たれれば、本当に終わります!」
秀吉が言葉を失う。
賤ヶ岳では、自分が勝った。
勝家を破った。
北ノ庄まで追い詰めた。
あと少しだった。
それなのに今、自分の軍が逃げている。
「なぜ上杉が……」
秀吉の口から、また同じ言葉が漏れた。
官兵衛にも答えはなかった。
ただ一つだけ分かっている。
これは偶然ではない。
「殿。今は生きてください」
「……」
「南へ!」
秀吉は唇を噛みしめた。
そして馬の向きを変えた。
羽柴秀吉が退く。
その動きが伝わると、残っていた兵たちも次々と南へ流れ始めた。
景継は追撃を命じなかった。
「追わなくてよいのですか!」
家臣が尋ねる。
「追います。ただし、追い詰めないでください」
「秀吉様を逃がしてしまいます!」
「構いません」
景継は崩れていく羽柴軍を見た。
「今ここで無理に首を取りに行けば、逃げている兵まで振り返ります。逃げてくれるなら、そのまま逃げてもらいましょう」
「しかし――」
「今日、秀吉様が失ったものは、首一つより大きいですよ」
家臣はそれ以上言わなかった。
日が傾き始める頃には、北ノ庄城を囲んでいた羽柴軍の姿は大きく減っていた。
放棄された旗。
捨てられた武具。
逃げ遅れた兵。
北ノ庄を完全に包囲していたはずの大軍は、もはや一つの軍として機能していない。
勝家は馬上から、その光景を見ていた。
しばらく何も言わなかった。
やがて景継の姿を見つけると、馬を寄せてくる。
「景継」
「はい」
「……勝ったのか?」
景継は周囲を見た。
上杉勢。
北ノ庄から出た柴田勢。
そして、自分の兵。
秀吉軍は南へ敗走している。
「そうみたいですね」
「そうみたいではない!」
勝家が怒鳴った。
だが、その顔には賤ヶ岳の後にはなかったものが浮かんでいた。
「勝ったぞ!」
「はい」
「賤ヶ岳では負けたが、ここでは勝った!」
「二回戦で一勝一敗ですね」
「そういう数え方をするな!」
景継が笑った。
勝家も怒鳴りながら、最後には笑った。
北ノ庄城を巡る戦いは、柴田勝家側の勝利で終わった。
賤ヶ岳で勝利し、その勢いのまま勝家を滅ぼすはずだった羽柴秀吉は、大軍を失って南へ敗走した。
そしてこの時点では、秀吉も官兵衛も、まだ知らなかった。
なぜ上杉が北ノ庄へ現れたのか。
いつから景継とつながっていたのか。
なぜ、これほど都合よく戦場へ到着できたのか。
そもそも景継は、いつから北ノ庄での戦いを考えていたのか。
その答えを知っていたのは、ごくわずかな者だけだった。
――時は、少し遡る。
清須会議を終えて間もない頃。
まだ秀吉と勝家が、表向きには決定的な戦へ踏み出していなかった時期。
北ノ庄城の一室に、三人の姿があった。
柴田勝家。
その妻、お市。
そして――林道景継。
勝家は腕を組み、目の前の若者を睨んでいた。
「景継」
「はい」
「もう一度言ってみろ」
景継は少しも表情を変えなかった。
「では、もう一度」
お市も景継を見る。
景継は二人を前にして、静かに口を開いた。
「勝家様では、天下は取れません」
「貴様ぁ!」
勝家の怒声が、北ノ庄城に響いた。
第六章・完
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