第百十四話 賤ヶ岳
天正十一年、春。
近江北部に集まった両軍は、ついに互いの陣を目の前にするところまで近づいていた。
羽柴秀吉と柴田勝家。
ともに織田信長の下で戦い続けてきた二人が、今は互いを倒すために兵を率いている。
勝家の側には、林道景継もいた。
ただし、景継の五千は柴田軍の中へ組み込まれてはいない。勝家と協力して戦いながらも、あくまで林道勢として独立した指揮系統を保っていた。
それを秀吉側も把握している。
だからこそ黒田官兵衛は、戦が始まる前から景継の五千の位置を何度も確認させていた。
「林道勢は?」
「賤ヶ岳より東。昨日から大きな動きはございません」
「柴田勢との距離は」
「近うございます。ただ、合流はしておりませぬ」
報告を聞いた官兵衛は地図へ視線を落とした。
秀吉はその様子を横から見ていたが、やがて苦笑する。
「また景継か」
「はい」
「勝家殿より気にしておるのではないか?」
「柴田様の軍は見えます」
官兵衛は地図から顔を上げた。
「林道様の考えていることは見えませぬ」
「五千だぞ」
「五千です」
「ならば、見失わなければよいのであろう」
「その通りでございます」
官兵衛も頷いた。
警戒はする。
だが、警戒することと、景継一人に振り回されることは違う。
今回の主敵は柴田勝家だ。
北陸を押さえ、長年にわたって織田家を支えてきた宿老。その軍勢をここで破らなければ、秀吉が織田家の主導権を握ることはできない。
景継の五千だけを見て、勝家への対応を誤るわけにはいかなかった。
柴田方の陣でも軍議が続いていた。
勝家は諸将を前に地図を睨み、秀吉軍の配置を確認している。
「猿め。随分と広く兵を置いておるな」
「こちらの動きを見ながら、必要な場所へ兵を寄せるつもりでしょう」
景継が答えた。
「ならば、寄せる前に一つ潰す」
「それができれば大きいですね」
「できればではない。やるのだ」
勝家の言葉に、景継は小さく笑った。
「そういうところは昔から変わりませんね」
「何だ?」
「いえ、何でもありません」
景継は地図へ視線を戻した。
勝家は強い。
戦場で敵を前にして怯むような男ではなく、兵を率いて正面からぶつかれば、今でも織田家中で屈指の将である。
だから景継も、余計なことをするつもりはなかった。
勝てるなら、ここで勝つ。
勝家の力を最大限に生かし、自分の五千も必要なところへ投入する。
秀吉を賤ヶ岳で破れるなら、その方がいい。
景継が望んでいるのは見事な策を成功させることではない。
秀吉を止めることなのだから。
戦況が大きく動いたのは、佐久間盛政が攻勢に出てからだった。
勝家方の猛将である盛政は、秀吉方の陣地へ激しく攻めかかり、その一角を崩した。
山間に鬨の声が響き、柴田勢が押し込んでいく。
「押しているぞ!」
勝家の陣に次々と報告が届く。
「盛政様の軍、敵陣へ侵入!」
「敵勢の一部が後退しております!」
勝家が立ち上がった。
「よし。ここで押し切る!」
景継も戦況を確認していた。
柴田方が優勢。
少なくとも、今のところは間違いない。
「林道様」
家臣が景継を見る。
「我らも出ますか?」
「出します」
景継は即答した。
「ただし全部ではありません。前へ出ている敵を横から押してください。追いすぎないように」
「はっ!」
林道勢の一部が動き始める。
景継に五千を温存することだけを優先するつもりはなかった。
ここで秀吉軍を崩せるなら、兵を使う。
勝つために必要なら、五千すべてを投入することもためらわない。
実際、景継の兵が側面から圧力をかけたことで、秀吉方の一部はさらに後退した。
「殿」
秀吉のもとにも戦況が伝えられていた。
「佐久間勢の攻勢が激しく、こちらの一角が崩されております。林道勢も動きました」
「景継も来たか」
「はい。ただし、動いたのは一部です」
官兵衛がすぐに尋ねる。
「残りは?」
「元の位置におります」
官兵衛は考える。
景継が何を狙っているのか。
だが、今は目の前の柴田勢を止める方が先だった。
「殿。ここは一度受けます」
「下がるのか?」
「崩れるのではありません。盛政殿を、さらに前へ出させます」
秀吉の目が細くなる。
「出てきたところを叩くか」
「はい。柴田様も今の優勢を見れば、簡単には攻勢を止められないでしょう」
「景継は?」
「見ております」
官兵衛は即答した。
「林道勢が大きく動けば、すぐに分かります」
「よし」
秀吉は頷いた。
「ならば、勝家殿にはもう少し勝っている気分になってもらおうか」
柴田方の攻勢は続いた。
佐久間盛政はさらに前へ出る。
勝家のもとには勝報が続けて届き、陣中の空気も明るくなっていた。
しかし景継は、次第に眉を寄せ始めていた。
「……出すぎていますね」
隣にいた家臣が振り向く。
「盛政様ですか?」
「ええ」
敵を崩した時ほど、前へ出たくなる。
あと少し。
もう一押し。
そう思っているうちに、本隊から離れていく。
景継はすぐに使者を呼んだ。
「勝家様へ。盛政殿を一度戻した方がいいと伝えてください」
「はっ!」
使者が走る。
景継自身も兵をさらに進めることはせず、前へ出していた部隊へ速度を落とすよう命じた。
勝っている。
だからこそ、急ぐ必要はない。
しかし戦場では、一人の判断だけですべてを止めることはできなかった。
「盛政を戻せ!」
景継からの知らせを受けた勝家も、すぐに命令を出した。
「これ以上深追いするなと伝えろ!」
使者が走った。
だが、前線では盛政の軍がすでに敵陣深くへ進んでいる。
撤退命令が届いても、戦っている兵をすぐに引き戻すことは容易ではない。
その間にも時間は過ぎていった。
そして、羽柴勢が動いた。
「来ます!」
林道勢の物見が叫んだ。
景継が前を見る。
先ほどまで後退していた敵の動きが変わっている。
押されていた部隊が踏みとどまり、その後方から新たな兵が次々と現れ始めた。
「秀吉様ですね」
景継の表情が変わった。
秀吉は機を逃さなかった。
柴田勢が前へ伸びた瞬間を見て、一気に兵を投入してきたのだ。
さらに官兵衛は、林道勢の位置を確認し続けていた。
景継が盛政を助けるため大きく動けば、その五千へ別働隊を当てる。
動かなければ、孤立した盛政を叩く。
どちらにしても、柴田方の攻勢を止められる。
「林道様!」
「分かっています」
景継はすぐに命じた。
「前へ出した兵を戻してください。盛政殿を助けるために全部を入れてはいけません」
「しかし、このままでは佐久間勢が!」
「だから助けます。ただし、こちらまで包まれたら終わりです」
林道勢が動く。
盛政の退路を完全に守るのではなく、追撃してくる羽柴勢へ攻撃を加えながら、撤退できる道を確保する。
景継の五千が前線へ入り始めた。
「林道勢、動きました!」
報告を受けた官兵衛が地図を見る。
「数は?」
「およそ二千!」
「残り三千」
「はい!」
官兵衛はすぐに秀吉を見る。
「殿。予定通りでございます」
「景継は盛政を助けに来るぞ」
「全部は出しておりません」
秀吉が笑った。
「やはり慎重じゃな」
「それが林道様です」
「ならば、その慎重さごと押す」
「はい」
秀吉軍がさらに前へ出た。
戦場の空気が、完全に変わった。
先ほどまで追う側だった柴田勢が、今度は追われる側になっている。
盛政の軍が後退し始める。
景継の兵がその側面を支えたが、秀吉軍の勢いは止まらない。
勝家も次々と兵を送り込んだ。
「押し返せ! まだ負けておらん!」
勝家自身に退くつもりはなかった。
ここで踏みとどまり、盛政を救い、陣形を立て直せばまだ戦える。
柴田勢も必死に抵抗した。
一時は押し返す場面すらあった。
景継も残していた兵を少しずつ投入し、崩れそうになる場所を支えていく。
しかし、一度失った流れを取り戻すことは簡単ではなかった。
「右手が崩れます!」
「そちらへ五百!」
「左からも敵勢!」
「残りから三百を回してください!」
景継は次々と命令を出す。
兵を惜しんではいない。
だが、一か所を守るためにすべてを投じれば、別の場所が崩れる。
秀吉軍はそれを分かっているかのように、次々と圧力をかけてきた。
「……官兵衛殿ですね」
景継が呟いた。
自分がどこへ兵を出すかを見られている。
景継が右を支えれば左へ。
左へ動けば中央へ。
そして秀吉自身も、勝機と見れば兵を惜しまない。
強い。
景継は素直にそう思った。
ここまでの秀吉の勢いは、運だけで作られたものではない。
やがて別の報告が入った。
「前田勢が――動きません!」
勝家が振り向いた。
「何?」
「前田様の軍、戦線から離れております!」
勝家の顔色が変わった。
「利家……!」
その影響はすぐに現れた。
柴田方の一角に生まれた空白へ、秀吉勢が入り込む。
そこから崩れは急速に広がった。
「景継!」
勝家が馬を寄せてきた。
「まだやれるぞ!」
「やれます」
景継も答えた。
「ならば――」
「ただし、このままでは勝てません」
勝家が景継を睨む。
周囲では兵たちがぶつかり、怒号と金属音が絶え間なく響いている。
「ここで全部失えば、本当に終わります」
「わしに逃げろと言うのか!」
「今は退いてください」
「まだ兵はおる!」
「だからです」
景継は勝家の目を見た。
「兵が残っているうちに退くんです」
「……!」
「壊滅してからでは、退くことすらできません」
勝家は歯を食いしばった。
まだ戦える。
まだ兵はいる。
自分が前へ出れば、踏みとどまる者もいるだろう。
だが、それで勝てるのか。
勝家は戦場を見た。
盛政の軍は崩れ、前田勢は離れ、秀吉軍は勢いを増している。
そして何より、景継自身も兵を出している。
五千を抱えたまま、自分だけ逃げようとしているわけではない。
「……くそっ!」
勝家が吐き捨てた。
「退くぞ!」
その命令が、柴田方の各隊へ伝えられた。
ただし、撤退は容易ではなかった。
勝っている軍は追う。
負けている軍は逃げる。
それだけならば、柴田勢はさらに大きな損害を受けていただろう。
景継は自らの兵を細かく分け、街道や狭い道へ配置した。
敵が一度に押し寄せられない場所で足を止めさせ、味方を先へ逃がす。
一つの部隊が長く戦うのではなく、短くぶつかって退き、その後ろにいる別の部隊がまた敵を止める。
かつて金ヶ崎から生きて帰った時と同じだった。
勝つためではない。
負けた後に、死なないための戦い。
景継が最もよく知る戦いだった。
「追え!」
秀吉軍から声が上がる。
「勝家を逃がすな!」
だが、官兵衛は前線から届く報告を聞きながら、別のことを気にしていた。
「林道勢の損害は?」
「分かりませぬ。ただ、殿軍として各所で戦っております」
「本隊は?」
「後退しております」
「崩れているのか?」
「いえ……」
報告に来た兵が言葉に詰まった。
「何だ」
「柴田勢には崩れて逃げる部隊もございます。しかし林道勢は、順に退いております」
官兵衛の眉が寄った。
「順に?」
「一隊が戦っている間に他が退き、その隊も頃合いを見て離れます。追えば、また別の隊が道を塞ぎます」
官兵衛は黙った。
負け戦でありながら、景継は自分の軍を壊していない。
「殿」
官兵衛が秀吉を見た。
「追撃はいたします。ただし、深追いにはお気をつけください」
「ここまで来て何を言う」
「勝家殿は敗れました。しかし、林道景継はまだおります」
秀吉は前方を見た。
逃げていく柴田勢。
その後方で、林道勢が追撃を阻んでいる。
「ならば、今度こそ一緒に潰す」
「……はい」
官兵衛は答えたものの、胸の奥に残る違和感は消えなかった。
日が傾く頃には、勝敗は誰の目にも明らかになっていた。
柴田勝家の敗北。
秀吉軍の勝利。
勝家は残った兵をまとめながら、越前へ向かっていた。
その顔には怒りと悔しさが滲んでいる。
「負けた……」
勝家が低く呟いた。
隣を進んでいた景継は何も言わなかった。
「景継」
「はい」
「わしは負けたぞ」
「はい」
「……はい、ではない!」
勝家が怒鳴る。
景継は少しだけ困った顔をした。
「では、何と答えればいいんですか」
「少しは悔しがれ!」
「悔しいですよ」
「そうは見えん!」
勝家は怒鳴ったが、景継は言い返さなかった。
悔しくないわけではない。
ここで秀吉を倒せれば、それが一番だった。
実際に勝つつもりで戦い、自分の兵も使った。
それでも負けた。
ならば、認めるしかない。
賤ヶ岳では、秀吉と官兵衛の方が上だった。
景継はそれを認めたうえで、前を見た。
「勝家様」
「何だ」
「北ノ庄へ戻りましょう」
「言われんでも、そのつもりだ」
「兵をできるだけ残してください。途中で追いつかれても、無理に決戦しないように」
「分かっておる」
勝家は不機嫌そうに答えた。
しばらく馬を進めてから、勝家が景継を見る。
「お前はどうする」
「私も戻ります」
「北ノ庄へか?」
景継は少しだけ間を置いた。
「まずは、勝家様が無事に戻れるようにします」
「その後だ」
景継は答えなかった。
勝家が眉を寄せる。
「景継」
「負けましたからね」
「何?」
「賤ヶ岳では」
景継はそれだけ言った。
勝家は何かを言おうとしたが、結局口を閉じた。
その夜。
秀吉の陣では勝利を祝う声が上がっていた。
柴田勝家を破った。
明智光秀に続き、今度は織田家最大の宿老を戦場で退けたのである。
この勝利が持つ意味を、秀吉は誰より理解していた。
「官兵衛」
「はい」
「これで終わりじゃ」
「まだでございます」
秀吉が笑う。
「分かっておる。勝家殿が北ノ庄に戻る前に追うぞ」
「はい」
「城に籠もられても構わん。包んでしまえばよい」
官兵衛は頷いた。
勝家を生かしておけば、再び兵を集める可能性がある。
ここで完全に決着をつける。
それが正しい。
官兵衛自身、そう考えていた。
ただ、一つだけ気になることがあった。
「林道勢は?」
「現在も越前方面へ後退中。損害は出しておりますが、軍としての形は保っているようです」
秀吉が鼻を鳴らした。
「逃げるのだけは上手いのう」
官兵衛は笑わなかった。
林道景継は、負けた。
賤ヶ岳では間違いなく負けた。
それなのに、なぜだろう。
官兵衛には、景継が追い詰められているように思えなかった。
その理由が分からない。
分からないからこそ、警戒しなければならない。
「殿」
「何じゃ」
「北ノ庄へ向かうのであれば、林道勢の位置だけは絶対に見失わぬようにしてください」
「また景継か」
「はい」
「分かった。勝家殿も景継も、まとめて終わらせる」
秀吉はそう言って笑った。
官兵衛も、それ以上は止めなかった。
勝家をここで追わなければ、再び立て直される。
景継を放置しても、何をするか分からない。
ならば北へ追い、二人まとめて決着をつける。
それは決して間違った判断ではなかった。
越前へ続く道を、勝家の軍が進んでいた。
敗走する兵たちの足取りは重い。
その後方では林道勢が追撃を警戒しながら、一定の距離を保って進んでいる。
景継は馬上から、一度だけ後ろを振り返った。
秀吉は来る。
少なくとも、今の状況なら追ってくる可能性は高い。
だが、来なければ来ないでいい。
勝家は生き残り、軍を立て直す時間を得られる。
追ってくるなら、その時はその時だ。
どちらであっても、賤ヶ岳の敗北だけですべてが終わることはない。
景継は前へ向き直った。
その先にあるのは、北ノ庄だった。




