第百十三話 雪の向こうへ
秀吉と勝家の対立は、もはや誰の目にも隠せなくなっていた。
清須会議では三法師を織田家の後継者とすることで一応の決着を見たものの、それによって織田家が一つになったわけではない。むしろ信長という絶対的な存在が消えたことで、それまで表に出ることのなかった亀裂が、少しずつ形を持ち始めていた。
秀吉のもとには、明智光秀を討った功績を評価する者たちが集まり続けている。
一方の勝家も、長年にわたって信長を支えてきた宿老としての力を失ってはいない。北陸には依然として大きな勢力を持ち、織田家中にも勝家を軽んじることのできない者は多かった。
そして、そのどちらにも完全には属さない男がいる。
林道景継。
直属の兵は五千。その数字だけを見れば、秀吉や勝家と肩を並べられるほどの勢力ではない。それでも清須会議以降、景継の名を気にする者は確実に増えていた。
「景継は北ノ庄へ行ったそうじゃな」
秀吉がそう言ったのは、近江に滞在していた日のことだった。
向かいに座る黒田官兵衛が頷く。
「柴田様と会ったことまでは確認しております」
「何を話した」
「そこまでは分かりませぬ」
「分からぬ?」
秀吉の声に、わずかな苛立ちが混じった。
「探らせております。ただ、林道様も柴田様も、会談の内容を外へ漏らしておりません」
「二人が会った。それだけか」
「今のところは」
秀吉は腕を組んだ。
景継と勝家が会うこと自体は不思議ではない。清須会議の時点ですでに、両者が秀吉の独走を警戒していることは明らかだった。
問題は、何を決めたのかである。
「兵を合わせるつもりか」
「可能性は高いでしょう」
「ならば分かりやすい」
秀吉が笑った。
「勝家殿と景継が一緒に来るなら、まとめて相手をすればよい」
だが、官兵衛は笑わなかった。
「そうであれば、よいのですが」
「またそれか」
「林道様は、兵を集めることだけを考える方ではありません」
「分かっておる」
「殿」
官兵衛の声が少しだけ強くなる。
「五千だからこそ、警戒するべきなのです」
秀吉の笑みが消えた。
官兵衛は続ける。
「五千しかない者が、正面から我らと戦おうとするでしょうか。林道様自身が、最もよく分かっているはずです。正面からぶつかれば、自分の兵だけでは勝てないと」
「だから勝家を使う」
「それだけならば、読みやすい」
官兵衛は地図へ目を落とした。
「私が気になっているのは、林道様が北ノ庄から戻った後です」
「何かしたのか?」
「目立った動きがないのです」
秀吉が眉を寄せる。
「動かぬことが怪しいと言うのか」
「はい」
「お前も景継のことになると、随分と疑い深くなったのう」
「疑って損をする相手ではございません」
官兵衛は静かに答えた。
「清須会議でも、我らが明智様を討っている間に、あの方は人を動かしました。ならば今回も、見えている動きだけを追うべきではありません」
秀吉はしばらく黙っていたが、やがて頷いた。
「調べろ」
「すでに」
「丹羽も、滝川もだ」
「はい」
「勝家殿と近い者も調べよ。景継が誰と会ったか、誰に使者を出したか、できる限り洗い出せ」
官兵衛が頭を下げる。
景継を五千のうちに止める。
そのためには、景継が何かを手に入れてからでは遅い。官兵衛はそう考えていた。
その頃、景継は自らの屋敷で報告を受けていた。
「羽柴方の者が、こちらの動きを探っております」
「でしょうね」
景継は驚かなかった。
「北ノ庄へ行ったことも知られております」
「それも構いません」
「よろしいのですか?」
「勝家様と私が話をすること自体は、隠しても仕方がないでしょう。むしろ隠せば、余計なものまで探られます」
家臣は少し考えてから頷いた。
「では、このまま?」
「はい。ただし、誰がどこへ行ったかは、できる限り悟られないようにしてください」
「承知しました」
家臣が去った後、景継は机の上に置かれた地図を見た。
近江から越前へ続く道。美濃、尾張。そして北陸へ伸びる街道。
景継はしばらく地図を眺めていたが、やがて何も言わずに畳んだ。
季節が進むにつれ、北陸には雪が降り始めた。
越前の冬は厳しい。雪が深くなれば大軍を動かすことは難しくなり、道は塞がれ、兵糧の運搬にも時間がかかる。勝家にとって冬は、動きたくても思うように動けない季節だった。
その一方で、秀吉は動いた。
織田家中の諸将へ働きかけ、三法師を支えるという名目を掲げながら、自らの影響力を少しずつ広げていく。
戦場で一度に奪うのではない。一人ずつ、自分の側へ引き寄せる。
勝家が雪に閉ざされている間にも、秀吉の力は増していた。
「卑怯な猿め!」
北ノ庄城で報告を聞いた勝家が怒鳴った。
景継はその場にはいなかった。
勝家とて、本当は分かっている。秀吉が卑怯なのではない。自分が動けない時に、秀吉は動ける。それだけのことであり、自分が逆の立場なら同じように好機を利用したかもしれない。
それでも腹が立つものは腹が立った。
「雪が解けたら、すぐに動くぞ」
勝家の言葉に、家臣たちが頭を下げた。
このまま何もしなければ、春を迎える頃にはさらに差が開く。秀吉が力を増せば増すほど、勝家に残された選択肢は少なくなっていく。
だからこそ、次に動ける時を逃すつもりはなかった。
やがて年が明けた。
天正十一年。
雪の残る北陸とは対照的に、秀吉の勢力はさらに膨らんでいた。
勝家と秀吉の対立は、すでに言葉だけで収まる段階を越えつつある。各地の諸将も、いずれ両者が戦うことを予想し、どちらにつくべきかを考え始めていた。
その中で、景継は目立った軍事行動を起こさなかった。
五千の兵も、大きく増えてはいない。
少なくとも、秀吉側が把握している限りでは。
「やはり増えておらぬな」
報告を聞いた秀吉が言った。
「林道勢は五千前後。急激に兵を集めた様子はございません」
官兵衛は報告書を読みながら答えた。
「勝家殿のところへ移ったわけでもないのだな?」
「はい。林道様の兵は、林道様の兵として残っております」
「ならば、勝家殿と合わせても恐れるほどではない」
「兵数だけならば」
またその言葉か、と秀吉は苦笑した。
「官兵衛。お前は景継を買いすぎではないか?」
「そうかもしれませぬ」
「認めるのか」
「過大評価ならば、それでよいのです」
官兵衛は報告書を置いた。
「過小評価よりは」
秀吉は何も言わなかった。
春が近づく。
雪が少しずつ解け始めると、それまで北陸に留まっていた勝家の軍も動き始めた。
近江北部。
琵琶湖の北。
山々に囲まれた地へ、両陣営の兵が集まっていく。
勝家側も、秀吉側も、互いに譲るつもりはなかった。信長が生きていた頃ならば、ここまで来る前に誰かが止めただろう。しかし今は、その命令を下せる者がいない。
景継も五千を率いて動いた。
ただし、その軍は勝家軍の中へ完全に組み込まれることなく、林道勢として独立したまま行動していた。
「やはり来たか」
景継が軍を率いているという報告を受け、秀吉が呟いた。
「五千だな?」
「およそ五千」
「増えておらん」
「はい」
官兵衛は答えながらも、地図から目を離さなかった。
勝家軍。
林道軍。
双方の位置が書き込まれている。
何度見ても、どこかに大軍が隠れているようには見えない。景継が一万、二万という兵を新たに呼び寄せている形跡もなく、丹羽長秀や滝川一益が大軍を率いて合流したわけでもない。
少なくとも、今から始まろうとしている戦だけを見れば、景継は本当に五千しか持っていなかった。
「官兵衛」
「はい」
「勝てるか」
官兵衛は少し考えた。
「勝ちます」
秀吉が笑う。
「ようやく言い切ったな」
「警戒することと、恐れることは違います」
官兵衛は地図の上に指を置いた。
「柴田様は強い。しかし、我らにも十分な兵があります。林道様の五千も、位置さえ見失わなければ対応できます」
「ならばよい」
「ただし」
「まだあるのか」
「林道様だけは、最後まで見失わぬように」
秀吉は大きく頷いた。
「分かっておる。今度こそ、好きにはさせん」
官兵衛も頷いた。
景継の五千を常に見ていれば、少なくとも突然背後から大軍に襲われるようなことはない。
勝家を正面から破り、景継の五千を封じる。
それができれば勝てる。
官兵衛はそう判断していた。
景継の陣では、戦支度が進んでいた。
兵たちは武具を確認し、馬の状態を整え、運び込まれた兵糧を各隊へ分配している。景継自身も陣を歩きながら兵の様子を見て回り、必要な箇所には細かな指示を出していた。
その途中、一人の家臣が景継へ尋ねた。
「勝てますでしょうか」
「分かりません」
あまりにもあっさりした答えに、家臣が困った顔をする。
「そこは勝てると仰っていただきたいのですが」
「私が言ったら勝てるんですか?」
「いえ……」
「なら、同じでしょう」
景継は小さく笑った。
それから、集まりつつある柴田軍の方へ目を向ける。
「勝家様は強いですよ」
「では――」
「だから勝つ可能性は十分にあります。ただ、秀吉様も強い。官兵衛殿もいる。戦う前から、どちらが勝つと決めつけるような相手ではありません」
「もし、勝家様が敗れれば?」
家臣の問いに、景継はすぐには答えなかった。
遠くの山には、まだ雪が残っている。その向こうへ続く道を見つめながら、景継はしばらく黙っていた。
「その時は、その時です」
「……何かお考えが?」
「負ける可能性があるのに、何も考えていない方がおかしいでしょう」
景継はそれだけ言うと、陣へ戻っていった。
数日後。
軍議を終えた後、勝家と景継が二人で話す機会があった。
「景継」
「はい」
「前にも言ったが、今度こそ兵を出せ」
「出しますよ」
「五千全部だ」
「必要なら」
「必要に決まっておる!」
勝家が怒鳴る。
景継はいつものように、その怒声を受け流した。
「勝家様」
「何だ」
「この戦は、勝ちに行きます」
「当たり前だ!」
「はい。ですから、勝てるところでは兵を惜しみません」
「ならばよい」
「ただし、五千すべてを一度に使えば勝てるというのならともかく、そうでないのに最初から全部を投じるつもりはありません」
「また面倒なことを言い始めおったな」
勝家が露骨に嫌そうな顔をした。
景継は苦笑する。
「私の五千は、私に任せてください。必要な時には必ず出します」
「……勝手にしろ。ただし、わしの邪魔だけはするな」
「もちろんです」
「そして勝つぞ」
「はい」
今度は景継も迷わず答えた。
「勝ちましょう」
勝家が立ち去った後、景継は一人で地図を見下ろした。
ここで勝てるなら、それが一番いい。
秀吉を倒し、その勢いを止める。それ以上に簡単な答えはない。
勝家は勝つつもりで戦う。当然、景継も同じだった。使うべきところでは五千の兵を惜しまず使い、賤ヶ岳で秀吉を倒せるのなら、そこで決着をつける。
ただ、戦は思い通りに進むとは限らない。
勝つために戦うことと、負けた時のことを考えないことは別だった。
かつて金ヶ崎で、景継は人の心を読み違えた。
いや、その時の心そのものを読み違えたわけではない。人の決意が明日も同じだと、どこかで思ってしまったのだ。
それ以来、景継は一つの結果だけにすべてを預けることをやめた。
味方になると思っていても、敵になった時の手を残す。相手がこう動くと思っていても、別の選択をした時に自分まで死ぬような策にはしない。
戦も同じだった。
勝つための策を立てる。
だが、その策が破れた瞬間にすべてが終わるようにはしない。
景継は地図の北側へ一度だけ視線を向けた。
そして、何も言わず地図を畳んだ。
戦は、もう目の前まで来ていた。
近江北部に両軍の兵が集まり、互いの砦を睨みながら、少しずつ距離を縮めていく。
勝家は秀吉を倒すために。
秀吉は勝家を排除するために。
官兵衛は景継を五千のうちに止めるために。
そして景継もまた、自分の天下へ進むためにこの戦場へ来ていた。
誰も負けるつもりなどない。
だからこそ、次に起きる戦いは策だけでは決まらない。兵がぶつかり、将が決断し、その一つ一つの結果によって戦況は変わっていく。
やがて両軍が向かい合う近江の山々に、春の風が吹き始めた。
賤ヶ岳。
織田家を二つに割る戦いが、始まろうとしていた。




