第百十ニ話 それぞれの道
清須会議が終わっても、織田家に平穏が戻ったわけではなかった。
清須会議からしばらく後、柴田勝家は信長の妹・お市を妻に迎えていた。
浅井長政を失って以来、三人の娘とともに織田家の庇護を受けてきたお市が、信長亡き後、織田家の宿老である勝家のもとへ嫁いだのである。
織田家中でも少なからず驚きをもって受け止められた婚姻だったが、それによって家中の争いが収まったわけではない。むしろ信長という絶対的な存在を失った織田家では、それぞれの立場と思惑が、以前よりもはっきりと表へ現れ始めていた。
三法師が織田家の後継者となることは決まった。信長の嫡孫という血筋を考えれば、それ自体に大きな異論はない。しかし三法師はまだ幼く、自ら政を行うことも、諸将を束ねることもできない。
ならば、誰が三法師を支えるのか。
誰が織田家の領国を治め、誰が諸将の上に立つのか。
清須会議では、そこに明確な答えを出さなかった。
いや――出さなかったのではない。
出せなかったのだ。
信長の死後、あまりにも多くの者が、それぞれの思惑を抱えていた。
近江。
羽柴秀吉のもとには、日を追うごとに人が集まり始めていた。
明智光秀を討った男。
信長の仇を取った男。
そして清須会議では、信忠の遺児である三法師を後継者として推した男。
それらはすべて、秀吉の名を大きくする材料になっていた。
戦で勝つだけではない。その勝利を次の力へ変えることにおいて、秀吉は並ぶ者の少ない男だった。
「また増えたか」
届いた書状を眺めながら、秀吉が笑った。
その向かいに座る黒田官兵衛は、静かに頷く。
「明智討伐の功は大きゅうございます。上様の仇を討ったという名分は、我らが思っていた以上に効いております」
「ならば、このまま行けばよい」
「はい。ただし、急ぐ必要があります」
官兵衛の言葉に、秀吉が書状から顔を上げた。
「景継か」
「林道様だけではございません」
官兵衛は卓上の地図へ視線を落とした。
「柴田様です」
秀吉の笑みがわずかに薄くなる。
柴田勝家。
織田家の宿老として長年信長に仕え、北陸方面を任されてきた男である。清須会議の時点では秀吉との全面対決には至らなかったものの、両者の間にある溝は、日を追うごとに深くなっていた。
「勝家殿は、わしが気に入らんからのう」
「それだけならば、まだよろしいのですが」
「景継と組むか」
「その可能性が高いかと」
官兵衛は清須会議以降に入ってきた報告を思い返していた。
林道景継の直属兵力は、依然として五千ほど。
数字だけを見れば恐れるほどではない。秀吉が今や動かせる兵とは比較にもならない。
しかし、官兵衛が警戒しているのは兵の数ではなかった。
丹羽長秀。
滝川一益。
柴田勝家。
景継は彼らを臣下にしたわけではない。それでも必要な時には話を聞かせ、場合によっては同じ方向へ動かすことができる。
清須会議で、官兵衛はそれを嫌というほど思い知らされた。
「五千のうちに止める、と申したな」
秀吉が言った。
「はい」
「ならば、止めるぞ」
「そのためには、まず柴田様と切り離す必要があります」
官兵衛がそう答えると、秀吉はしばらく考え込んだ。
景継一人ならば、まだ小さい。
勝家一人ならば、力はあるものの、政治では秀吉に分がある。
だが、その二人が組めば話が変わる。
織田家における勝家の重みと、景継の頭脳。
決して放置していい組み合わせではなかった。
「景継は、わしのところには来んか」
「先日の返答を見る限り、難しいかと」
「領地も役目も、好きなだけくれてやると言うたのにな」
「林道様が欲しているものは、殿からいただけるものではないのでしょう」
官兵衛の言葉に、秀吉は鼻を鳴らした。
「天下か」
官兵衛は答えなかった。
答える必要がなかった。
一方、越前。
北ノ庄城では、柴田勝家が一通の書状を握り潰していた。
「また秀吉か!」
怒声が広間に響く。
周囲の家臣たちは誰も口を挟まなかった。
書状そのものは、表向きには穏やかな内容だった。織田家の安定のため、互いに協力しよう。三法師様を支え、亡き信長様の遺志を継ごう。
しかし、その言葉をそのまま受け取る勝家ではない。
「何が協力だ。あやつ、わしを自分の下に置くつもりではないか!」
勝家は書状を放り捨てた。
清須会議以降、秀吉は着実に勢力を伸ばしている。
光秀を討った功績。
三法師を推した功績。
周囲の大名や国人たちへの働きかけ。
一つ一つは筋が通っている。だからこそ厄介だった。
秀吉は無理やり奪っているわけではない。
気づけば、自分の方へ人が流れる状況を作っている。
「猿め……」
勝家が低く呟いた。
だが、腹を立てているだけでは秀吉を止められないことも分かっていた。
かつての織田家ならば、最後は信長が決めた。
勝家と秀吉がどれほど争おうとも、信長が一言命じれば従うしかなかった。
その信長はもういない。
信忠もいない。
残された三法師は幼い。
織田家をまとめる絶対的な存在が消えた今、力のある者同士がぶつかることは避けられなかった。
「殿」
家臣の声に、勝家が振り向いた。
「林道様がお見えです」
「景継が?」
「はい」
勝家は少しだけ眉を動かした。
「通せ」
しばらくして、景継が広間へ入ってきた。
「失礼いたします」
「遅いぞ」
座る前から言われ、景継は少し困ったような顔をした。
「呼ばれてすぐ来たつもりですが」
「違う。秀吉のことだ」
「ああ」
「ああ、ではない!」
勝家は苛立たしげに景継を睨んだ。
「お前も分かっておるのだろう。あの猿、このまま放っておけば織田家を全部持っていくぞ」
「そうでしょうね」
「ならば、もっと焦れ!」
「焦って勝てるなら焦ぎます」
「本当にお前は……!」
怒鳴りかけた勝家だったが、途中で言葉を止めた。
景継の顔から、いつもの軽さが消えていたからだ。
「勝家様」
「何だ」
「秀吉様を止めましょう」
勝家が目を細める。
「ようやく、その気になったか」
「最初からそのつもりです。ただ、秀吉様は簡単な相手ではありません」
「分かっておる」
「いえ。おそらく勝家様が思っている以上に厄介です」
勝家の眉が動いた。
普通なら怒鳴られてもおかしくない言い方だったが、景継は構わず続ける。
「秀吉様の恐ろしさは、戦に勝つことではありません。勝った後です」
「……どういう意味だ」
「明智様を討ったことで、秀吉様は上様の仇を討った者になりました。清須会議で三法師様を推したことで、今度は上様の血を守る者になった」
勝家は黙って聞いている。
「一度の勝利を、一度で終わらせない。次の立場へ変え、次の人を集める力へ変え、その力を使ってさらに次を取る。秀吉様は、それを繰り返しています」
「……」
「あと一度か二度、大きく勝たせれば、止めるのは今よりずっと難しくなるでしょう」
「ならば今、叩く」
「はい」
景継は迷わず頷いた。
「今です」
勝家の口元に、わずかに笑みが浮かんだ。
「珍しく意見が合ったな」
「私も嬉しいです」
「余計なことを言うな」
景継は少し笑った。
だが、その表情はすぐに消えた。
「ただし、一つだけ確認しておきたいことがあります」
「何だ」
「私は、勝家様を天下人にするために秀吉様と戦うわけではありません」
空気が変わった。
勝家の目が鋭くなる。
「……何だと?」
「以前にも申し上げましたが、もう一度はっきりさせておこうと思いまして」
「では、何のために戦う」
「私が天下を取るためです」
勝家の顔から表情が消えた。
景継は目を逸らさない。
しばらくの沈黙の後、勝家が低い声で言った。
「景継」
「はい」
「お前、わしに喧嘩を売りに来たのか」
「違います」
「わしの前で、自分が天下を取ると言うておるのだぞ」
「はい」
「それを喧嘩と言うのではないのか!」
「ですが、隠して後から知られる方が怒るでしょう?」
「今でも十分腹が立っておる!」
勝家の怒声が響いた。
景継はそれを受け止めながら、しばらく待った。
勝家が怒るのは当然だった。
だが、ここだけは曖昧にしてはならない。
秀吉を倒すためだけなら、一時的に手を組めばいい。しかし、その先まで共に歩くのであれば、互いが何を望んでいるのかを隠したままでは、いずれ必ず破綻する。
「勝家様」
「何だ!」
「私は、勝家様と争いたくありません」
「なら天下を取るなどと言うな」
「それもできません」
勝家は額に手を当てた。
「お前と話していると頭が痛くなる」
「よく言われます」
「誰にだ」
「先生にも」
「知らん!」
再び怒鳴ってから、勝家は大きく息を吐いた。
「では聞いてやる。お前が天下を取るとして、わしに何をしろと言う」
景継はすぐには答えなかった。
少しだけ間を置いて、勝家を正面から見た。
「織田家をまとめていただきたい」
「……何?」
「私には、それができません」
勝家は意外そうな顔をした。
景継が自分から「できない」と言うとは思っていなかったのだろう。
「私は上様に仕えた年月が短い。年も若い。領地も兵も少ない。どれだけ策を立てても、それだけでは埋められないものがあります」
「それが、わしか」
「はい」
景継は頷いた。
「勝家様には、私にはないものがあります。上様に長く仕えてきた年月、織田家中での重み、諸将から見た格。それは、私が欲しいと思ってすぐ手に入れられるものではありません」
「随分と持ち上げるではないか」
「事実を言っているだけです」
「その割には、自分が天下を取ると言い切ったがな」
「それも事実です」
勝家はまた眉間を押さえた。
「ですから――」
景継は続けた。
「二人で織田家をまとめませんか」
勝家が顔を上げる。
「二人で?」
「三法師様を中心に織田家を残す。信雄様も、信孝様も切り捨てない。その上で、勝家様には織田家を支える柱になっていただきたい」
「お前はどうする」
「私は、その先へ行きます」
「天下か」
「はい」
勝家は景継をじっと見つめた。
若造の戯言なら、笑い飛ばせばいい。
だが、目の前にいる男は清須会議で秀吉の独走を止めた。
信長が生きていた頃から、幾度も織田家を危機から救ってきた。
そして今、わずか五千の兵しか持たない身で、本気で天下を口にしている。
「一つ聞く」
「はい」
「わしには天下を取れぬと思っているのか」
景継は少し黙った。
ここで言葉を選ぶことはできた。
年齢のことをぼかし、勝家を立て、耳障りのいい答えを返すこともできる。
だが、それでは意味がない。
「はい」
勝家のこめかみが動いた。
「……景継」
「今から天下を争い、諸国を平らげ、その後に新しい世を作るには、あまりにも時間がかかります。勝家様には、これまで積み重ねてきたものがあります。しかし、これから天下を取るために必要な年月まで増やすことはできません」
「つまり、わしは年寄りだと言いたいのか」
「そこまで直接は言っておりません」
「同じだ!」
勝家の怒声に、外に控えていた家臣が思わず身を固くした。
だが、景継は笑わなかった。
「だからこそ、お願いしているんです」
その一言で、勝家も黙った。
「勝家様にしかできないことがあります。私にしかできないこともある。どちらか一人で全部やろうとする必要はないでしょう」
「……わしを利用するつもりか」
「はい」
あまりに即答だったため、勝家が一瞬言葉を失った。
「ですが、勝家様にも私を利用していただきます」
「何?」
「秀吉様を止めたいのでしょう?」
「当然だ」
「私もです。ならば、目的が同じ間は一緒に戦えばいい」
景継は淡々と言った。
「私が勝家様を騙して下につけることもありません。勝家様に臣下になるつもりもありません。互いに欲しいものを知った上で手を組む。それで十分です」
勝家は長い間、何も答えなかった。
やがて口元を歪める。
「信長様でも、わしにこれほど腹の立つ話し方はせなんだぞ」
「それは申し訳ありません」
「顔が申し訳なさそうではない」
「気をつけます」
「もういい」
勝家は手を振った。
それから、先ほど床へ放り捨てた秀吉の書状へ目を向ける。
「で、どうする」
「何がです?」
「とぼけるな。秀吉を止めるのであろう」
「もちろんです」
「兵はどうする。お前は五千。わしの兵を合わせても、秀吉は簡単には潰せんぞ」
景継は答えなかった。
「おい」
「まずは、勝家様に戦っていただきます」
「わしに?」
「はい。秀吉様との対立は、もう避けられないでしょう。向こうもそれを分かっています」
「ならば勝つだけだ」
「その通りです」
景継はあっさり頷いた。
勝家が怪訝な顔をする。
「何だ。その顔は」
「いえ。もっと小難しいことを言われると思っていたので」
「勝てる戦なら、普通に勝った方がいいでしょう」
「……お前でもそんなことを言うのだな」
「私を何だと思っているんですか」
景継は苦笑した。
そして立ち上がる。
「では、私はこれで」
「待て」
勝家が呼び止めた。
「お前の五千はどうする」
「必要なところで使います」
「全部出せ」
「嫌です」
「貴様!」
景継は勝家の怒声を背中で聞きながら、振り返った。
「勝家様」
「何だ!」
「勝ってください」
「言われんでも勝つ!」
「それなら、何も問題ありません」
景継は頭を下げ、そのまま広間を出ていった。
廊下を歩きながら、景継は表情を消した。
秀吉は強い。
官兵衛もいる。
勝家が本気で戦ったとしても、必ず勝てるとは限らない。
だが、勝家が勝つ可能性はある。
ならば、最初から負けることを前提にする必要などない。
勝てば、それでいい。
秀吉の勢いをここで止めることができれば、それが最も簡単だった。
問題は――勝てなかった時だ。
かつて金ヶ崎で、景継は人の心を読み違えた。
いや、その時の心そのものを読み違えたわけではなかった。人の決意が明日も同じだと、どこかで思ってしまったのだ。
それ以来、景継は一つの結果だけにすべてを預けることをやめた。
勝つと思っていても、負けた時の道を残す。
味方になると思っていても、敵になった時の手を残す。
人を信じても、その人が別の選択をした瞬間に自分まで死ぬような策は作らない。
勝家には、勝ってもらえばいい。
本気で戦い、本気で秀吉を倒してもらう。
それができれば、何も問題はない。
景継は北ノ庄城の廊下を進み、やがて外へ出た。
待っていた家臣が馬を引いてくる。
「戻られますか?」
「ええ」
景継は馬の手綱を受け取った。
「まだ、いくつかやることがあります」
「秀吉様への備えでしょうか」
「まあ、そんなところです」
景継はそれ以上説明しなかった。
馬へ乗り、北ノ庄城を後にする。
秀吉は、自分を五千のうちに止めようとしている。
それは正しい。
今なら、まだ止められる。
だからこそ景継も、秀吉がまだ止められるうちに動かなければならなかった。
次に両者がぶつかった時、どちらかが今までと同じ立場ではいられなくなる。
景継には、それだけは分かっていた。




