第百十一話 五千のうちに
清須会議が終わった。
三法師を織田家の後継とし、有力者たちがそれを支える。
形だけを見れば、織田家は再び一つにまとまったように見えた。
しかし、信長という絶対的な存在を失った今、それぞれの思惑まで一つになったわけではない。
羽柴秀吉は、明智光秀を討った功績を背負っている。
柴田勝家は、織田家筆頭格として長年積み上げてきた力を持っている。
そして林道景継は、そのどちらにも属さず、独自に人を集め始めていた。
清須で交わされた言葉とは裏腹に、三人はすでに別々の道を歩き始めていた。
◇◇◇
清須会議から数日後。
景継は勝家に呼び出されていた。
部屋へ入ると、勝家は挨拶もそこそこに本題へ入った。
「景継」
「はい」
「秀吉を止めるぞ」
あまりにも直接的な言葉に、景継は少しだけ目を丸くした。
「随分とはっきり言いますね」
「回りくどい話は好かん」
「知っています」
「なら話は早い」
勝家は地図を広げた。
「光秀を討ったことで、秀吉の名は一気に上がった。これから奴のもとへ集まる者は増える」
「でしょうね」
「清須ではお前が余計なことをしたおかげで、秀吉一人に力が集まることは避けられた」
景継が勝家を見る。
「余計なことでした?」
「褒めておる」
「そうは聞こえませんでした」
「黙って聞け」
景継は素直に口を閉じた。
勝家は地図の上に指を置く。
「今のうちに秀吉を抑える。お前も兵を出せ」
「協力はします」
「そうか」
勝家が頷きかけたところで、景継が続けた。
「ただし、勝家様の下につくつもりはありません」
勝家の動きが止まった。
「……何?」
「秀吉様がこれ以上大きくなるのは、私も望んでいません。その点では勝家様と同じです」
「ならば同じことだろう」
「違います」
「何が違う」
景継は地図を見る。
「私は勝家様を天下人にするために、秀吉様と争うつもりはありません」
勝家の眉間に皺が寄った。
「お前は、いちいち腹の立つ言い方をするな」
「すみません」
「謝る顔ではない!」
勝家の声が部屋に響いた。
景継は少し笑ってから、改めて勝家を見る。
「ですが、秀吉様一人に力が集まることを防ぐという点では協力できます」
「わしの家臣にはならんが、共に秀吉を抑えると?」
「はい」
「都合のいい話だな」
「勝家様にとっても悪い話ではないでしょう」
勝家は黙った。
腹は立つ。
だが、景継の言う通りでもある。
景継が秀吉につかないだけでも、勝家にとっては大きい。
まして必要な時には協力するという。
「……好きにしろ」
「ありがとうございます」
「ただし、わしを利用できると思うなよ」
景継は少し考えた。
「努力します」
「そこは否定しろ!」
また勝家の声が響いた。
◇◇◇
勝家が景継を引き入れようとしている。
その情報は、当然ながら秀吉のもとにも届いた。
「やはり動いたか」
秀吉は驚かなかった。
清須会議の時点で、勝家が自分を警戒していることは分かっている。
問題は景継だった。
「官兵衛」
「はい」
「景継は勝家につくと思うか」
官兵衛は少し考えた後、首を横に振った。
「おそらく、つかぬでしょう」
「わしもそう思う」
秀吉が笑った。
「ならば、こっちから誘う」
官兵衛が秀吉を見る。
「林道様を?」
「ああ」
「どのような条件を」
秀吉は少し考えた。
「惜しむな」
「よろしいので?」
「あやつがこちらへ来るなら、安いものじゃ」
秀吉はすでに景継を、単なる五千の兵を率いる一武将とは見ていなかった。
清須で見せた発言力。
信長の死後、誰よりも早く織田旧臣へ接触した判断。
何より。
長秀も一益も勝家も、景継の話なら聞く。
その事実が大きかった。
「呼べ」
「承知いたしました」
◇◇◇
数日後。
景継は秀吉と向かい合っていた。
傍らには官兵衛がいる。
「景継」
秀吉は最初から笑っていた。
「はい」
「わしの下へ来い」
景継が瞬きをする。
「随分と直接的ですね」
「勝家にも同じことを言ったじゃろ」
「見ていたんですか?」
「見るか!」
秀吉は笑った。
「だが、あの男なら言うことくらい分かる」
景継も少し笑う。
「それで、私を家臣に?」
「家臣という言い方が嫌なら、わしと共に天下を支えてくれと言ってもよい」
「随分と待遇が変わりましたね」
「お前にはそれだけの価値がある」
秀吉の声から笑いが消えた。
冗談ではない。
本気で景継を欲しがっている。
「領地も増やす」
秀吉は続けた。
「家中での立場も保証する。お前の今の家臣たちも、そのままでよい」
景継は黙って聞いている。
「悪い話ではあるまい」
「悪くありません」
秀吉の顔が明るくなる。
「ならば――」
「お断りします」
秀吉の表情が止まった。
官兵衛は何も言わない。
「……景継」
「はい」
「今、悪くないと言ったな」
「言いました」
「ならば、なぜ断る」
景継は少し考えた。
条件が悪いわけではない。
むしろ破格だろう。
秀吉のもとへ行けば、今より遥かに大きな領地を得られるかもしれない。
織田家中でも重要な地位を与えられる。
それでも。
景継には受けられない。
「秀吉様」
「何じゃ」
「私が欲しいものを、秀吉様はくださらないでしょう」
秀吉の目が細くなった。
「何が欲しい」
景継は答えなかった。
「領地か」
「違います」
「金か」
「違います」
「地位か」
「それも違います」
秀吉の顔から完全に笑みが消えた。
「では、何じゃ」
景継は秀吉を見た。
光秀には話した。
自分が天下を取ると。
だが、今ここで秀吉に宣言する必要はない。
「それは、まだ言えません」
「……そうか」
秀吉はそれ以上聞かなかった。
ただ、その目は景継から離れない。
「ならば仕方ないのう」
「申し訳ありません」
「気が変わったら言え」
「その時は」
景継が頭を下げる。
秀吉は笑って見送った。
景継が部屋から出ていく。
足音が遠ざかり、完全に聞こえなくなったところで、秀吉の笑みが消えた。
「官兵衛」
「はい」
「断りおったな」
「はい」
「かなり良い条件だったと思うが」
「私もそう思います」
秀吉は腕を組んだ。
「領地でもない。金でもない。地位でもない」
官兵衛は何も言わない。
「では、あやつは何が欲しい」
秀吉の問いに、官兵衛はすぐには答えなかった。
清須会議で景継が言った言葉を思い出している。
織田家を継ぐつもりはない。
秀吉の下にもつかない。
勝家の下にもつかない。
それならば、答えは限られてくる。
「殿」
「何じゃ」
「林道様を味方へ引き入れることだけを考えるのは、もうやめた方がよろしいかと」
秀吉の目が官兵衛へ向いた。
「何?」
「こちらへ来ないのであれば、別の方法を考えるべきです」
「別の方法?」
官兵衛が地図を広げる。
「林道様の力は、兵だけではございません」
丹羽長秀。
滝川一益。
柴田勝家。
各地の国人たち。
景継がこれまで関係を築いてきた者たちの名が並んでいる。
「このつながりを切ります」
秀吉が地図を見る。
「景継を孤立させるのか」
「はい」
官兵衛は頷いた。
「林道様の兵は五千。周囲とのつながりを失えば、それ以上の力を持つことは難しくなります」
秀吉の口元に笑みが戻った。
「なるほど」
「清須までの動きでは、林道様に先を越されました」
官兵衛の指が地図を動く。
「ならば今度は、我らが先に動きます」
秀吉は大きく頷いた。
「やれ」
「はっ」
景継が先に声をかけた者たちへ。
今度は秀吉からの使者が走り始めた。
◇◇◇
それから間もなく。
景継のもとへ、次々と報告が届き始めた。
「若様。羽柴様の使者が各地へ向かっております」
弥兵衛が書状を差し出す。
景継は受け取って目を通した。
「誰に?」
「我らが先に接触した国人たちです。すでに羽柴様と話を始めた者もおります」
「そうか」
「さらに、丹羽様のもとにも使者が入ったとのことです」
景継は地図を見る。
動きが早い。
しかも狙いが明確だった。
自分が作ったつながりを、一つずつ切ろうとしている。
「やっぱり官兵衛殿かな」
「分かるのですか」
「秀吉様自身かもしれないけどね」
景継は少し笑った。
「どちらでも同じだよ」
「笑っている場合ですか」
「笑ってないよ」
「笑っております」
景継は口元を押さえた。
「少しだけね」
「なぜです」
「面白くなってきたから」
弥兵衛が呆れた顔をする。
「若様……」
「清須までは、こっちが先に動いた」
景継は地図上の駒を一つ動かす。
「だから向こうも学んだんだ」
「我らの動きを?」
「ああ。今度は秀吉様たちが先に動いている」
景継の目が鋭くなる。
「それでいい」
「いいのですか?」
「私だけが相手の考えを読めると思ったら、その時点で負ける」
弥兵衛は黙って景継を見る。
「秀吉様も官兵衛殿も優秀だ。こちらが一度やったことを、二度も黙って見ていてはくれない」
景継は地図を見つめた。
「なら、私も次を考える」
「次?」
「ああ」
景継はまだ動かない。
秀吉が何をする。
勝家が何をする。
そして自分が、どこへ手を伸ばすべきか。
今度は相手も景継を見ている。
以前のように、誰にも気づかれず動くことはできない。
それでも。
景継は焦っていなかった。
◇◇◇
秀吉のもとにも、切り崩しの状況が報告されていた。
「悪くないのう」
秀吉が満足そうに言う。
景継と話をしていた国人の中にも、秀吉側へ傾き始めた者がいる。
当然だった。
山崎で光秀を破った男。
今の秀吉には、それだけの勢いがある。
「これで景継の動きも鈍るか」
秀吉が尋ねる。
官兵衛は地図を見たまま答えなかった。
「官兵衛?」
「殿」
「何じゃ」
「柴田様より先に、警戒すべき男がおります」
秀吉の表情が変わる。
「景継か」
「はい」
「だが、まだ五千じゃぞ」
秀吉の言葉は間違っていない。
景継直属の兵は、今も五千ほど。
勝家と比べれば小さい。
秀吉と比べても小さい。
普通ならば、天下を争う規模ではない。
「だからです」
官兵衛の言葉に、秀吉が眉をひそめた。
「どういう意味じゃ」
官兵衛は地図から顔を上げた。
「五千の兵しか持たぬ男が、清須であれだけの発言力を持ったのです」
秀吉が黙る。
「丹羽様が話を聞く。滝川様も話を聞く。柴田様でさえ、林道様との協力を拒まなかった」
「……」
「兵五千だから恐ろしくないのではございません」
官兵衛の指が、地図上の景継の領地を押さえる。
「兵五千で、ここまで来た男なのです」
秀吉の表情から笑みが消えた。
官兵衛は続ける。
「もし一万になれば」
秀吉は黙って聞いている。
「二万になれば」
部屋が静かになる。
「その時になってから止めようとしても、遅いかもしれませぬ」
秀吉が景継の領地を見る。
ほんの少し前まで。
景継は信長の下にいる若い武将の一人だった。
それが今では。
勝家と話し。
長秀と話し。
一益と話し。
秀吉からの誘いまで断った。
「官兵衛」
「はい」
「お前ならどうする」
官兵衛は迷わなかった。
「五千のうちに止めます」
秀吉の目が細くなる。
「殺すのか」
「それが最善とは限りませぬ」
「では?」
「孤立させる。領地を増やさせない。兵を増やさせない。そして、林道様が次に何を狙うのかを見逃さない」
官兵衛は静かに言った。
「二度と、我らが別の場所を見ている間に動かせてはなりません」
秀吉はしばらく地図を見つめた。
やがて。
「分かった」
短く答える。
「景継から目を離すな」
「はっ」
秀吉は景継の領地に置かれた駒を見た。
五千。
まだ五千だ。
だが、その数字を小さいとは思えなくなっていた。
林道景継。
信長の死によって。
秀吉と勝家が互いを警戒し始めた陰で。
第三の男が、天下を争う盤上へ上がろうとしていた。
そして秀吉と官兵衛は。
ついにその男を、明確な敵として見始めていた。




