第百十話 清須会議
明智光秀が死んだ。
信長を討った男は、天下を手にすることなく消えた。
しかし、それで織田家の混乱が終わったわけではない。
信長はもういない。
信忠もいない。
残された領地と家臣、そして信長があと一歩まで近づいていた天下を、これから誰が支えるのか。
その答えを決めるため、織田家の有力者たちが清須へ集まった。
◇◇◇
景継が清須へ入った時、城内にはすでに重い空気が漂っていた。
柴田勝家。
丹羽長秀。
滝川一益。
そして、羽柴秀吉。
信長の下で戦ってきた者たちが、一つの場所に集まっている。
ただし、以前とは違う。
彼らを束ねていた男は、もういない。
景継が部屋へ入ると、真っ先に秀吉と目が合った。
「景継殿」
「秀吉様」
二人とも笑っている。
だが、その笑顔をそのまま受け取る者は、この場には一人もいなかった。
「随分と忙しくしておったそうじゃな」
秀吉が言う。
景継は腰を下ろしながら答えた。
「秀吉様ほどではありません」
「わしか?」
「中国からあれほど早く戻り、先生を破られた。私にはできません」
「先生、か」
秀吉の目がわずかに細くなる。
「今でも光秀をそう呼ぶのじゃな」
「私にとって先生だったことまで、なくなるわけではありませんから」
勝家が二人を見る。
「今日は光秀の話をするために集まったのではあるまい」
「そうでしたな」
秀吉が笑う。
景継もそれ以上は何も言わなかった。
だが、秀吉は景継から目を離さない。
「それにしても」
「何でしょう」
「わしが光秀を追っておる間に、随分と多くの者に会ったそうじゃな」
景継は長秀、一益、勝家へ視線を向けた。
「時間がありましたので」
秀吉の笑みが少しだけ深くなる。
「そうか。時間があったか」
「はい」
短いやり取りだった。
それでも互いに、何を言っているのかは分かっていた。
秀吉は光秀を討った。
景継はその間に、残された者たちへ手を伸ばした。
二人は別々の場所で、別々のものを手に入れてから、この清須へやって来ていた。
◇◇◇
会議が始まった。
最初に話し合わなければならないことは決まっている。
織田家の後継者。
信長が死んだだけなら、信忠が継げばよかった。
だが、その信忠もすでにいない。
勝家が口を開いた。
「いつまでも当主を定めぬわけにはいかん」
「無論ですな」
秀吉が頷く。
「上様がおられぬ今、織田家をまとめる者は必要じゃ」
「誰を推す」
勝家が尋ねる。
秀吉は待っていたかのように答えた。
「三法師様」
部屋の空気が変わった。
信忠の嫡男。
信長の孫。
まだ幼いとはいえ、血筋だけを見れば申し分ない。
「三法師様は信忠様の嫡男。信忠様が上様の跡を継ぐはずだった以上、その御子である三法師様が織田家を継ぐのが筋ではござらんか」
秀吉の言葉には道理があった。
だが、勝家はすぐに顔をしかめた。
「幼すぎる」
「幼いから当主になれぬという決まりはござらんでしょう」
「誰が政を行う」
「我らがお支えすればよい」
勝家が秀吉を見る。
「我ら、か」
「ああ」
「お前が、ではなく?」
秀吉の笑みが止まった。
「どういう意味じゃ」
「そのままの意味だ」
二人の間に緊張が走る。
長秀が口を挟んだ。
「ここで争ってどうする。まずは後継者の話だ」
「だから話しておる」
勝家は不満そうだったが、それ以上は続けなかった。
秀吉が周囲を見る。
「わしは三法師様が最も相応しいと思っておる」
長秀も考え込む。
一益も黙ったままだ。
やがて。
秀吉の視線が景継へ向いた。
「景継殿は、どう思う」
全員の視線が集まった。
景継は少し考えた後、答えた。
「賛成です」
秀吉が動きを止めた。
勝家が景継を見る。
「何?」
「三法師様が織田家を継がれる。それでよろしいと思います」
「景継!」
勝家の声が響く。
「三法師様はまだ幼いのだぞ」
「知っています」
「ならば!」
「ですが、信忠様の嫡男であることも事実です」
景継は落ち着いていた。
「血筋を考えるのであれば、三法師様を推すことにおかしな点はありません」
勝家が何か言おうとする。
その前に、秀吉が口を開いた。
「意外じゃな」
景継が秀吉を見る。
「何がです?」
「おぬしは反対すると思っておった」
「なぜです」
「それは……」
秀吉が言葉を止める。
景継が織田家の者たちへ次々と接触していた。
当然、家中で大きな発言力を持とうとしていると考えていた。
だから秀吉の提案にも反対する。
そう読んでいた。
だが、景継はあっさり三法師を認めた。
秀吉は景継を見つめる。
「景継殿」
「はい」
「おぬしは、それでよいのか」
「何がでしょう」
「織田家の後継じゃ」
景継は一瞬だけ不思議そうな顔をした。
「私は織田家を継ぐつもりなんてありませんよ」
部屋が静かになった。
秀吉の表情から笑みが消える。
「……そうか」
「はい」
景継は当然のように答えた。
「私は林道ですから」
その言葉を聞きながら、秀吉は初めて違和感を覚えた。
景継は織田家の者たちを集めている。
だから、織田家で大きな立場を得ようとしているのだと思っていた。
だが。
本当にそれだけなのか。
秀吉が考えている間に、景継が続けた。
「ですから、三法師様を後継とすることに異論はありません」
「ならば決まりじゃな」
秀吉が言う。
「三法師様を我らで支え――」
「ただし」
景継の言葉が重なった。
秀吉が止まる。
「……何じゃ」
「三法師様を秀吉様お一人でお支えになる必要はありませんよね」
勝家の目が動いた。
長秀も景継を見る。
秀吉は笑みを戻した。
「もちろんじゃ。先ほども我らで支えると言ったではないか」
「では、形にしましょう」
「形?」
「はい」
景継は周囲を見渡した。
「三法師様は幼い。だからこそ、誰か一人に大きな権限を持たせるべきではありません」
秀吉の表情が変わる。
「柴田様、丹羽様、滝川様、羽柴様。そして必要であれば私も加わる」
景継は続けた。
「皆で三法師様を支える形にすればいい」
勝家が腕を組む。
「合議で決めるということか」
「重要なことは、です」
長秀が考える。
「悪くはない」
「長秀!」
勝家が見る。
「何だ」
「お前まで景継に乗るのか」
「景継に乗るのではない。秀吉一人に任せるよりはよいと言っておる」
「長秀殿」
秀吉が苦笑する。
「随分な言われようですな」
「今は誰か一人に力を集める時ではない」
長秀は冷静だった。
「上様が亡くなられた直後だ。家中を割らぬことを優先すべきだろう」
一益も頷いた。
「わしも異論はない」
秀吉は黙った。
景継が先に彼らへ接触した意味が、ここで現れ始めていた。
彼らは景継の家臣ではない。
景継の命令に従っているわけでもない。
だが。
少なくとも今この場では、秀吉一人に力を集めることを望んでいない。
「なるほどのう」
秀吉が景継を見る。
「景継殿は、そういう形がお望みか」
「今は、それが一番だと思っています」
「今は、か」
勝家が景継を見る。
以前にも聞いた言葉だった。
景継は答えなかった。
◇◇◇
会議はさらに続いた。
後継者を決めれば、それで終わりではない。
誰がどの地域を支えるのか。
どの兵を動かすのか。
光秀を討った後の領地をどう扱うのか。
話し合うべきことはいくらでもある。
当然。
秀吉には大きな功績があった。
「上様の仇を討ったのは秀吉だ」
長秀もそこは認めた。
「その功を無視するわけにはいかん」
「ありがたいお言葉ですな」
秀吉が笑う。
景継も頷いた。
「私も異論ありません」
秀吉が景継を見る。
「ほう」
「秀吉様が戻らなければ、先生は畿内でさらに勢力を広げていた可能性があります」
景継は淡々と言った。
「山崎で先生を破った功績は、誰よりも大きいでしょう」
秀吉の表情が少し和らぐ。
「景継殿は話が分かるのう」
「当然です」
「ならば、恩賞についても――」
「功績に相応しいものを」
景継が続ける。
秀吉が頷く。
「そうじゃ」
「相応しい分だけ」
秀吉の動きが止まった。
勝家が横を向く。
わずかに笑っている。
秀吉は景継を見る。
「……景継殿」
「何でしょう」
「おぬし、わしが嫌いか?」
「そんなことありませんよ」
「本当か?」
「尊敬しています」
「余計に信用できんわ」
長秀がため息をついた。
「お前たちは真面目に話せ」
「わしは真面目じゃ!」
「私もです」
「景継、お前は少し黙れ」
「はい」
一瞬だけ。
部屋の緊張が緩んだ。
だが。
誰も忘れてはいない。
この場で決めているのは、ただの領地の分配ではない。
誰がどれほどの力を持つのか。
その先の天下にまで関わる話だった。
◇◇◇
長い話し合いの末。
三法師を織田家の後継とすることが決まった。
幼い三法師を、有力者たちが支える。
少なくとも表向きは。
織田家は一つにまとまった。
だが、会議が終わった後。
勝家は景継を呼び止めた。
「景継」
「はい」
「一つ聞く」
「何でしょう」
勝家は周囲に人がいないことを確認した。
「お前、本当に織田家を継ぐつもりはないのだな」
「ありません」
「では、なぜここまで動いた」
景継は少し考えた。
「秀吉様一人に全部持っていかれると困るからです」
「だから、なぜ困る」
景継は勝家を見る。
勝家はじっと答えを待っている。
やがて景継は、わずかに笑った。
「勝家様」
「何だ」
「今は、まだいいでしょう」
「またそれか」
「はい」
勝家は不満そうだったが、それ以上は聞かなかった。
「好きにしろ」
「ありがとうございます」
「ただし」
勝家が景継を睨む。
「わしを勝手にお前の味方だと思うな」
「思ってませんよ」
「……お前は本当に腹が立つな」
景継は少し笑い、勝家に頭を下げた。
◇◇◇
別の部屋では。
秀吉と官兵衛が二人で話していた。
「官兵衛」
「はい」
「どう見る」
何についてかは聞く必要がなかった。
「林道様でございますか」
「ああ」
秀吉は腕を組んだ。
「わしは、あやつが家中で上へ行きたいのだと思っておった」
「私も、その可能性は考えておりました」
「違った」
秀吉は言った。
「三法師様をあっさり認めおった」
官兵衛は黙って聞いている。
「織田家を継ぐ気もないと言った」
「はい」
「なのに、長秀も一益も勝家も、先に押さえた」
「押さえた、というより」
官兵衛が訂正する。
「同じ方向を向かせた、と考えるべきでしょう」
秀吉が官兵衛を見る。
「違うのか」
「大きく違います」
官兵衛は静かに答えた。
「彼らは林道様の家臣ではございません。命令されれば何でも従うわけでもない」
「ならば怖くないか」
「逆です」
秀吉の目が細くなる。
「家臣でもない者を、自分と同じ方向へ動かしている」
官兵衛は続けた。
「兵五千しか持たぬ男が、です」
秀吉は黙った。
確かに。
景継自身が持つ兵は多くない。
それでも清須会議では、景継の意見を無視することができなかった。
「官兵衛」
「はい」
「景継は、わしの下につくと思うか」
「つかぬでしょう」
即答だった。
「では勝家の下は」
「それもないかと」
「ならば」
秀吉は少し考える。
「あやつは、何になりたい」
官兵衛はすぐには答えなかった。
清須で見た景継の言葉。
その動き。
そして、信長が死んだ直後から各地へ使者を飛ばした判断。
それらを思い返す。
「おそらく」
官兵衛が静かに言った。
「林道様は、もう誰かの下に立つこと自体を考えておられぬのでしょう」
秀吉の表情が変わった。
「……何?」
官兵衛はそれ以上言わなかった。
だが。
秀吉にも意味は伝わった。
織田家を継ぐつもりはない。
勝家の下にもつかない。
秀吉の下にもつかない。
ならば。
林道景継は。
どこへ行こうとしている。
秀吉はしばらく黙っていた。
やがて、小さく笑った。
「そうか」
その笑みは。
山崎で勝った時のものとは違っていた。
「景継」
秀吉は誰もいない前方を見つめる。
「お前も、そこを見ておるのか」
清須会議は終わった。
織田家の後継者も決まった。
表向きは。
これで織田家は再び一つになった。
しかし実際には。
信長という巨大な存在によって一つに束ねられていた者たちが、それぞれ別の道を見始めていた。
羽柴秀吉。
柴田勝家。
そして。
林道景継。
信長亡き後の天下を巡る争いは。
清須で終わったのではない。
ここから、本当に始まる。




