第百九話 それぞれが手にしたもの
「だから、話してください」
景継の言葉を受け、光秀はしばらく黙っていた。
夜の街道には、遠くから聞こえる馬の蹄と虫の声だけが響いている。
山崎で敗れた光秀には、もう多くの時間が残されていない。秀吉の追手が迫っていることは、光秀自身が一番よく分かっていた。
それでも景継は待った。
やがて光秀が、静かに口を開いた。
「どこから話せばいい」
「上様を討った理由から」
景継は迷わなかった。
光秀は少しだけ目を伏せた。
「……あの方は、止まれなくなっていた」
「止まれない?」
「ああ」
光秀は夜空を見上げる。
「上様にとって、昨日まで正しかったものが今日も正しいとは限らない。必要がなくなれば捨て、新しいものを取り入れる。それができるからこそ、あの方はここまで来た」
「それの何が悪いんです」
「悪いとは言っていない」
光秀は首を振った。
「だからこそ、あの方は強かった。誰よりも早く決断し、誰よりも早く動いた。私も何度、その力に驚かされたか分からない」
景継は黙って聞いていた。
光秀は信長を否定しているわけではない。
むしろ、その力を誰よりも理解しているように聞こえた。
「だが、天下を取ることと、天下を治め続けることは違う」
景継の目がわずかに動いた。
「上様の進む速さについていけぬ者は、いずれ置いていかれる。昨日まで必要とされた者であっても、今日には必要ではなくなるかもしれない」
「先生も、そうなると思ったんですか」
「私一人の話ではない」
光秀の声は静かだった。
「上様が進めば進むほど、その速さについていけない者は増える。それでも上様は止まらない。天下を取った後でさえ、その先へ進もうとするだろう」
「その先?」
「私にも分からん」
光秀は苦笑した。
「分からないからこそ、恐ろしかった」
景継は信長の顔を思い出した。
確かに、あの男なら天下を取ったところで満足しなかったかもしれない。
次は何を求めたのか。
景継にも分からない。
「私は何度も考えた。上様を止めるべきなのか。それとも、最後までついていくべきなのか」
光秀は自分の手を見る。
「最後まで答えは出なかった」
「だったら、なぜ」
景継の声が少し強くなった。
「なぜ殺したんです」
光秀が景継を見る。
「最後には、それしかないと思ったからだ」
景継は何も言わなかった。
納得はできない。
だが、光秀が何も考えずに信長を討ったわけではないことだけは分かった。
長い間、悩んだ。
それでも最後には、信長を生かしておけないという答えにたどり着いた。
それが正しかったのかどうか。
景継には分からない。
「先生」
「何だ」
「先生の考えは分かりました」
光秀の表情がわずかに緩む。
「ならば――」
「でも、正しかったとは言いません」
光秀が黙った。
景継は続ける。
「上様がこの先どうなっていたのかなんて、誰にも分からない。先生が心配した通りになったかもしれないし、ならなかったかもしれない」
「そうだな」
「だから私は、先生が間違っていたとも言いません」
「……随分と曖昧な答えだな」
「分からないものを、分かったふりするよりいいでしょう」
光秀が少し笑った。
「それもそうだ」
その笑い方は、以前と変わらなかった。
景継が何かを尋ね。
光秀がそれに答える。
何度も繰り返してきた、先生と弟子の会話だった。
だからこそ、景継にはもう一つだけ聞かなければならないことがあった。
「なぜ、私には話してくれなかったんです」
光秀の笑みが消えた。
「……」
「上様と決裂していたことは分かっていました。でも、先生が本当に上様を討つつもりだなんて思わなかった」
景継は一歩、光秀へ近づく。
「一言でも話してくれていたら」
「お前は止めただろう」
光秀は即答した。
「当たり前です」
「だから話さなかった」
「そんな理由ですか」
「私にとっては十分な理由だ」
景継は唇を噛んだ。
「それでも……」
声が少しだけ震えた。
「それでも、話してほしかったですよ」
光秀は何も答えなかった。
景継は俯く。
自分なら止めた。
何をしてでも止めようとしただろう。
それでも駄目だったかもしれない。
光秀の決意を変えられなかったかもしれない。
だが、それでも話してほしかった。
先生なのだから。
長い沈黙の後、光秀が口を開いた。
「すまなかった」
景継が顔を上げた。
光秀は真っ直ぐ景継を見ていた。
「お前にだけは、話しておくべきだったのかもしれんな」
景継は何も言えなかった。
先生から謝られた記憶など、ほとんどない。
「……遅いですよ」
「ああ」
「本当に」
「そうだな」
それ以上、二人とも何も言わなかった。
しばらくして、今度は光秀が尋ねた。
「景継」
「はい」
「お前は、これからどうする」
景継はすぐに答えた。
「天下を取ります」
光秀の目がわずかに見開かれた。
「天下を?」
「はい」
「織田家を継ぐつもりか」
「違います」
景継は首を振った。
「私は織田の人間ではありません」
「では、誰のために天下を取る」
景継は少し考えた。
以前なら。
信長のため。
織田家のため。
そんな答えを出したかもしれない。
だが、もう違う。
「私のためです」
光秀が景継を見る。
「林道景継として、天下を取ります」
しばらく沈黙が続いた。
そして光秀が笑った。
「何です?」
「いや」
光秀は嬉しそうに景継を見る。
「ようやく、お前自身の欲を聞いた気がしてな」
「欲ですか」
「ああ。お前は昔から、自分のために何かを欲しがることが少なかった」
景継は否定しなかった。
前の人生でもそうだったのかもしれない。
誰かに仕え。
誰かの天下を支え。
生き残るために待ち続けた。
この人生でも信長に仕え、その天下を支えてきた。
だが今度は違う。
自分が取る。
自分自身の天下を。
「先生」
「何だ」
「私と来ませんか」
今度は光秀が黙る番だった。
「……何?」
「先生の力は使えます」
「お前は何を言っている」
「天下を取るなら、使える人間は多い方がいい」
光秀が呆れたように景継を見る。
「私は信長様を討った男だぞ」
「知っています」
「その男を連れて帰るつもりか」
「先生が来るなら」
光秀は景継を見つめた後、小さく笑った。
「駄目だ」
「なぜです」
「本当に分からないのか」
景継は答えなかった。
分かっている。
分かっているからこそ、光秀に言わせたくなかった。
「お前は今、織田家の者たちを集めているのだろう」
景継の目が動く。
「……知っていたんですか」
「先生を誰だと思っている」
光秀は少しだけ得意そうに笑った。
「お前が私を追わず、丹羽や柴田たちへ使者を送ったと聞けば、それくらい分かる」
景継は苦笑した。
「やっぱり先生ですね」
「そのお前が、私を連れて帰れると思うか」
光秀の声が真剣なものへ変わった。
「信長様を討った私を匿えば、お前のもとへ集まった者たちは離れる」
「全員とは限りません」
「一人でも離れれば同じだ」
光秀は首を振った。
「天下を取ると言ったのだろう」
「はい」
「ならば、最初から情で間違えるな」
景継は何も言えなかった。
これもまた。
先生から教えられている。
最後の最後まで。
「お前は私ではなく、あの者たちを選んだ」
「……」
「それでいい」
光秀が景継を見る。
「その判断を、自分で壊すな」
遠くから馬の音が聞こえた。
秀吉の追手だろう。
もう時間がない。
景継にも分かった。
「先生」
「行け」
「でも」
「景継」
光秀の声が強くなる。
「お前には、もうやるべきことがある」
景継は拳を握った。
そして、ゆっくりと頭を下げた。
「……ありがとうございました」
光秀は何も言わない。
「今まで、ありがとうございました。先生」
景継が顔を上げる。
光秀は穏やかに笑っていた。
「景継」
「はい」
「天下を取れ」
景継の目がわずかに揺れた。
「上様にも、似たようなことを言われました」
「そうか」
光秀が笑う。
「ならば、二人分だ」
景継も少しだけ笑った。
「重いですね」
「天下よりは軽い」
「それもそうですね」
二人は最後に目を合わせた。
それ以上の言葉は必要なかった。
景継は背を向ける。
振り返らなかった。
振り返れば、戻ってしまいそうだったからだ。
光秀も呼び止めなかった。
先生と弟子は。
そこで別れた。
◇◇◇
翌朝。
景継のもとへ知らせが届いた。
明智光秀、死去。
坂本へ戻る途中、落ち武者狩りに襲われたという。
景継はその報告を聞いても、すぐには言葉を発しなかった。
昨日まで話していた人間が、もういない。
信長に続いて。
光秀まで。
この人生で自分に大きな影響を与えた二人が、相次いで消えた。
「若様……」
弥兵衛が心配そうに声をかける。
景継は目を閉じた。
先生。
最後まで。
あなたは先生でした。
しばらくして、景継は目を開いた。
「弥兵衛」
「はっ」
「行こう」
「どちらへ」
景継は立ち上がった。
「次だ」
「……はい」
「秀吉様が戻ってくる」
悲しむ時間がないわけではない。
悲しくないわけでもない。
だが。
光秀自身が言った。
天下を取るのなら、情で間違えるなと。
景継は歩き始めた。
◇◇◇
明智光秀を討った。
その事実は、瞬く間に広がっていった。
羽柴秀吉。
信長の死を知るや毛利との講和をまとめ、中国から軍を返し、山崎で光秀を破った男。
信長の仇を討った。
その功績は大きい。
秀吉自身も、それを理解していた。
「これで上様の仇は討った」
秀吉は地図を見ながら言った。
官兵衛が頷く。
「はい」
「次じゃ」
「家中でございますか」
「ああ」
秀吉の目が鋭くなる。
信長はいない。
信忠もいない。
織田家には、全員を従わせられる絶対的な存在がいなくなった。
ならば。
誰かがまとめなければならない。
「まず長秀じゃ」
「丹羽様ですか」
「あやつは家中でも信頼が厚い。話を通せ」
「承知いたしました」
「一益にもじゃ」
「はっ」
「勝家は……」
秀吉が少し顔をしかめる。
官兵衛がわずかに笑った。
「簡単ではございませぬな」
「分かっとる」
それでも。
光秀を討ったという功績がある。
話はできる。
少なくとも秀吉は、そう考えていた。
ところが。
最初の報告が届いた。
「丹羽様ですが、現在は林道様と今後について協議を重ねておられるとのことです」
秀吉が顔を上げた。
「景継と?」
「はっ」
「……そうか」
まだ気にするほどではない。
長秀と景継は以前から関係がある。
次の報告。
「滝川様についても、林道様からすでに使者が入っております」
秀吉の眉が動いた。
「一益にも?」
「はい」
そして。
「柴田様も、林道様と話をされております」
秀吉の顔から笑みが消えた。
「待て」
家臣が黙る。
秀吉は官兵衛を見る。
「景継は何をしとった」
官兵衛もすぐには答えなかった。
「調べます」
それから次々と情報が集められた。
丹羽長秀。
滝川一益。
柴田勝家。
さらに各地の国人たち。
景継の家臣になったわけではない。
だが。
その多くが、すでに景継から接触を受けていた。
中には明確に景継との協力を決めた者までいる。
官兵衛は地図を広げた。
一つずつ。
景継と関係を結んだ者の位置を確認していく。
確認するたびに。
官兵衛の表情が変わっていった。
秀吉が尋ねる。
「どうした」
官兵衛は答えない。
「官兵衛」
「……殿」
ようやく官兵衛が顔を上げた。
「何じゃ」
「我らは明智を討ちました」
「ああ」
「上様の仇を討つため、誰よりも早く戻りました」
「そうじゃ。それがどうした」
官兵衛は再び地図を見る。
「間違った判断ではございません」
「何を言っておる」
「今でも、あの時は明智を討つべきだったと思っております」
秀吉の表情が変わった。
官兵衛が何を言おうとしているのか。
まだ分からない。
「ですが」
官兵衛の指が地図の上を動いた。
丹羽。
滝川。
柴田。
そして各地の国人たち。
「我らが明智を討っている間に、別のものを取りに行った男がおりました」
秀吉が黙る。
「殿」
「……何じゃ」
官兵衛は地図から目を離さなかった。
「我らは明智を討ちました」
一拍置いて。
「その間に、林道景継は――織田家を取りました」
秀吉の目が大きく見開かれた。
山崎で勝ったのは。
羽柴秀吉だった。
だが。
同じ時間。
別の戦場で勝っていた男がいた。
兵を五千しか持たず。
一度も大きな戦をすることなく。
林道景継は。
天下へ向けた最初の一手を、すでに打ち終えていた。




