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『乱世にて、我は待つ』~知略を秘めた軍師は、やがて天下を動かす~  作者: ダイヤマ
第六章 天下目前編

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第百八話 戻ったら話す



毛利との講和がまとまると、羽柴秀吉はほとんど間を置かなかった。


「戻るぞ!」


号令とともに、軍勢が東へ向かう。


戦を終えたばかりの兵たちに、十分な休息を取る暇などない。備中から姫路へ、さらにその先へ。秀吉が目指しているのは京――いや、正確には明智光秀だった。


秀吉自身も急いでいたが、その傍らにいる黒田官兵衛は、さらに先の状況まで見ていた。


「殿。明智殿も、我らが戻ることはすぐに知るでしょう」


「じゃろうな」


「ならば、味方を集めるはずです」


秀吉の顔から笑みが消えた。


「間に合うか」


「間に合わせるのです。明智殿に時を与えてはなりませぬ。京を押さえ、畿内の諸将を従えられてからでは遅い」


「分かっとる」


秀吉は進軍する兵たちへ目を向けた。


「走らせろ」


「はっ」


「上様の仇を討つ」


秀吉軍は猛烈な勢いで東へ進んでいった。


後に、中国大返しと呼ばれることになる行軍だった。



◇◇◇



光秀のもとにも、秀吉が動いたという知らせは届いていた。


「羽柴勢が戻っております」


報告を受けた光秀は、しばらく何も言わなかった。


「どこまで来ている」


「すでに姫路へ向かっているとのこと」


「……早いな」


予想以上だった。


毛利との戦を抱えている以上、秀吉とて簡単には戻れない。そう考えていたわけではないが、これほど早く講和へ動き、軍勢を返してくるとは思っていなかった。


「羽柴筑前守……」


信長の下で何度も同じ戦場に立った男が、今度は自分を討つために戻ってくる。


光秀は地図を見ながら尋ねた。


「他はどうしている」


「柴田様は北陸にて動きを見せております。滝川様についても、こちらへ加勢する様子はございませぬ」


「丹羽は」


「明智方につくとの返答はありません」


光秀は静かに目を閉じた。


当然だった。


信長を討った瞬間から、自分が織田家の多くを敵に回すことは分かっていた。


それでも、もう一人だけ動きが気になる男がいた。


「景継は」


家臣が一瞬、言葉に詰まった。


「林道様は……各地へ使者を送っているようです」


光秀が目を開けた。


「使者?」


「はい。丹羽様、滝川様、柴田様。そのほか、織田家に属する国人たちにも」


「兵はどうしている」


「こちらへ向けてはおりませぬ。林道勢は、明智討伐に加わる様子がございません」


光秀はしばらく何も言わなかった。


やがて地図へ目を落とし、小さく息を吐く。


「……そうか。私を追わなかったか」


「明智様?」


光秀の視線が地図の上を動いていく。


秀吉は自分を追っている。


一方の景継は、自分ではなく丹羽、滝川、柴田、そして各地の国人へ手を伸ばしている。


そこまで考えたところで、光秀の口元にわずかな笑みが浮かんだ。


「なるほどな」


「何がでございます」


「いや、何でもない」


光秀はそれ以上説明しなかった。


ただ、誰にも聞こえないほどの声で呟いた。


「やはり、お前はそうするか」



◇◇◇



秀吉軍が畿内へ近づくにつれ、光秀を取り巻く状況は厳しくなっていった。


思うように味方が集まらない。


信長を討ったという事実は、光秀が考えていた以上に重かった。


そしてついに、山崎で両軍が激突した。


羽柴秀吉と明智光秀。


信長の死によって生まれた大きなうねりが、早くも一つの戦場へ集まろうとしていた。


「押せ!」


秀吉の声が響き、兵たちが前へ進む。


明智勢も応戦し、矢が飛び、槍がぶつかり、怒号が戦場を覆った。


光秀も馬上から戦況を見ながら、次々と命令を出していく。


「左を下げるな! 中央を支えろ!」


「はっ!」


だが、厳しい。


兵の数も違えば、勢いも違う。


何より大きかったのは、秀吉軍の帰還があまりにも早かったことだった。


光秀が畿内を完全に固める前に、秀吉は戻ってきた。


「明智様!」


家臣が駆け寄ってくる。


「左が崩れます!」


「兵を回せ」


「もう余力がございませぬ!」


光秀が歯を食いしばった。


遠くには秀吉軍の旗が揺れている。


「秀吉……」


見事だった。


認めざるを得ない。


自分が信長を討った直後、これほど早く戻り、これほど早く兵をまとめて目の前へ現れた。その決断と行動の速さは、間違いなく秀吉自身の力だった。


「明智様! これ以上は持ちませぬ!」


光秀は戦場を見渡した。


すでに一角が崩れ始めている。一つが崩れれば、それに引きずられて次も崩れる。


ここで踏みとどまっても、兵を失うだけだった。


光秀は一度目を閉じ、決断した。


「退く」


家臣が息を呑んだ。


「しかし!」


「ここで全滅する必要はない」


「どちらへ」


「坂本へ戻る」


「はっ!」


命令が伝わり、明智勢が退き始めた。


山崎の戦いの勝敗は決した。


勝ったのは、羽柴秀吉だった。



◇◇◇



秀吉軍から歓声が上がった。


信長を討った明智光秀を破った。その事実に、兵たちは勝利を喜んでいる。


しかし秀吉は、まだ戦場から目を離さなかった。


「光秀は」


「敗走しております」


「生きておるのか」


「はい」


秀吉が官兵衛を見ると、官兵衛はすぐに意図を察した。


「追わせましょう」


「逃がすな」


「無論です」


秀吉は拳を握った。


中国から戻り、ついに光秀を破った。


だが、まだ終わってはいない。


光秀を討ち取って初めて、信長の仇を討ったことになる。


「必ず見つけろ」


「はっ!」


追撃の兵が次々と動き始めた。



◇◇◇



山崎での戦いの結果は、ほどなく景継のもとにも届いた。


「若様!」


馬を飛ばしてきた使者が、景継の前で膝をつく。


「山崎にて羽柴様と明智様が激突! 羽柴様が勝利されたとのことです!」


景継の表情が変わった。


「先生は」


「敗走したとのことです」


景継は黙った。


予想していたことだった。


秀吉が戻り、光秀と戦う。


そして現在の状況なら、秀吉が勝つ可能性が高い。そこまでは景継にも読めていた。


だが、実際に光秀敗北の知らせを聞けば、胸の奥が痛む。


「……先生」


弥兵衛が心配そうに景継を見る。


「若様。我らは、どういたします」


景継は地図へ目を落とした。


自分で決めたことだった。


光秀は追わない。


秀吉に任せる。


その間に、自分は織田家に残された者たちをまとめる。


その判断を後悔しているわけではない。


長秀、一益、勝家。そして各地の国人たち。


すでに話は進み始めている。


秀吉が光秀と戦っている間に、景継は別のものを手に入れつつあった。


それでも、一つだけ心に残っていることがある。


あの日。


景継は光秀に言った。


「戻ったら話しましょう」


光秀は確かに答えた。


「そうだな」と。


まだ聞いていない。


なぜ信長を討ったのか。


なぜ、あそこまで信長と決裂したのか。


そして、なぜ自分には何も言わなかったのか。


景継は立ち上がった。


「弥兵衛」


「はっ」


「後のことを頼む」


弥兵衛の表情が変わる。


「どちらへ行かれるのです」


「先生のところへ行く」


「若様!」


「兵は動かさない。私だけでいい」


「なりません! 明智様は敗走中なのですぞ。羽柴勢も追っております!」


「分かってる。だから急ぐんだ」


景継は刀を手に取った。


「先生を助けに行くわけじゃない。ただ、話を聞きに行くだけだ」


「しかし……」


「約束したんだ」


弥兵衛が黙る。


景継はそのまま外へ向かった。


「戻ったら話すって」


弥兵衛には、もうその背中を止めることができなかった。



◇◇◇



夜。


光秀は少数の供とともに坂本を目指していた。


山崎で敗れ、兵の多くを失った。周囲は暗く、聞こえてくるのは馬の蹄と虫の声、そして遠くから迫ってくる追手の気配だけだった。


「明智様、先を急ぎましょう」


「ああ」


光秀が馬を進める。


しばらく進んだところで、前方に一つの人影が現れた。


供の者たちが一斉に身構える。


「何者だ!」


光秀も馬を止めた。


月明かりの下、一人の男が道の中央に立っている。


刀は抜いていない。


ただ静かに、こちらを待っていた。


光秀の目が細くなる。


やがて、その人物が口を開いた。


「先生」


光秀の表情が止まった。


「……景継」


景継がゆっくりと近づいてくる。


光秀の供たちが刀へ手をかけたが、光秀がすぐに制した。


「下がれ」


「しかし!」


「下がれ」


供たちは命令に従った。


光秀は馬から降りると、景継の前に立った。


しばらく、どちらも何も言わなかった。


先に口を開いたのは光秀だった。


「私を討ちに来たのか」


景継は首を横に振った。


「違います」


「では、何だ」


景継は光秀をまっすぐ見た。


怒っているのか。


悲しんでいるのか。


自分でも分からない。


それでも、これだけは聞かなければならなかった。


「あの日、戻ったら話すと言いましたよね」


光秀の目がわずかに動いた。


「私は戻りました」


景継は一歩だけ光秀へ近づく。


「だから、話してください」


長い沈黙が流れた。


やがて光秀は、静かに息を吐いた。


「……そうだったな」


先生と弟子。


二人が交わした約束が、ようやく果たされようとしていた。

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