第百八話 戻ったら話す
毛利との講和がまとまると、羽柴秀吉はほとんど間を置かなかった。
「戻るぞ!」
号令とともに、軍勢が東へ向かう。
戦を終えたばかりの兵たちに、十分な休息を取る暇などない。備中から姫路へ、さらにその先へ。秀吉が目指しているのは京――いや、正確には明智光秀だった。
秀吉自身も急いでいたが、その傍らにいる黒田官兵衛は、さらに先の状況まで見ていた。
「殿。明智殿も、我らが戻ることはすぐに知るでしょう」
「じゃろうな」
「ならば、味方を集めるはずです」
秀吉の顔から笑みが消えた。
「間に合うか」
「間に合わせるのです。明智殿に時を与えてはなりませぬ。京を押さえ、畿内の諸将を従えられてからでは遅い」
「分かっとる」
秀吉は進軍する兵たちへ目を向けた。
「走らせろ」
「はっ」
「上様の仇を討つ」
秀吉軍は猛烈な勢いで東へ進んでいった。
後に、中国大返しと呼ばれることになる行軍だった。
◇◇◇
光秀のもとにも、秀吉が動いたという知らせは届いていた。
「羽柴勢が戻っております」
報告を受けた光秀は、しばらく何も言わなかった。
「どこまで来ている」
「すでに姫路へ向かっているとのこと」
「……早いな」
予想以上だった。
毛利との戦を抱えている以上、秀吉とて簡単には戻れない。そう考えていたわけではないが、これほど早く講和へ動き、軍勢を返してくるとは思っていなかった。
「羽柴筑前守……」
信長の下で何度も同じ戦場に立った男が、今度は自分を討つために戻ってくる。
光秀は地図を見ながら尋ねた。
「他はどうしている」
「柴田様は北陸にて動きを見せております。滝川様についても、こちらへ加勢する様子はございませぬ」
「丹羽は」
「明智方につくとの返答はありません」
光秀は静かに目を閉じた。
当然だった。
信長を討った瞬間から、自分が織田家の多くを敵に回すことは分かっていた。
それでも、もう一人だけ動きが気になる男がいた。
「景継は」
家臣が一瞬、言葉に詰まった。
「林道様は……各地へ使者を送っているようです」
光秀が目を開けた。
「使者?」
「はい。丹羽様、滝川様、柴田様。そのほか、織田家に属する国人たちにも」
「兵はどうしている」
「こちらへ向けてはおりませぬ。林道勢は、明智討伐に加わる様子がございません」
光秀はしばらく何も言わなかった。
やがて地図へ目を落とし、小さく息を吐く。
「……そうか。私を追わなかったか」
「明智様?」
光秀の視線が地図の上を動いていく。
秀吉は自分を追っている。
一方の景継は、自分ではなく丹羽、滝川、柴田、そして各地の国人へ手を伸ばしている。
そこまで考えたところで、光秀の口元にわずかな笑みが浮かんだ。
「なるほどな」
「何がでございます」
「いや、何でもない」
光秀はそれ以上説明しなかった。
ただ、誰にも聞こえないほどの声で呟いた。
「やはり、お前はそうするか」
◇◇◇
秀吉軍が畿内へ近づくにつれ、光秀を取り巻く状況は厳しくなっていった。
思うように味方が集まらない。
信長を討ったという事実は、光秀が考えていた以上に重かった。
そしてついに、山崎で両軍が激突した。
羽柴秀吉と明智光秀。
信長の死によって生まれた大きなうねりが、早くも一つの戦場へ集まろうとしていた。
「押せ!」
秀吉の声が響き、兵たちが前へ進む。
明智勢も応戦し、矢が飛び、槍がぶつかり、怒号が戦場を覆った。
光秀も馬上から戦況を見ながら、次々と命令を出していく。
「左を下げるな! 中央を支えろ!」
「はっ!」
だが、厳しい。
兵の数も違えば、勢いも違う。
何より大きかったのは、秀吉軍の帰還があまりにも早かったことだった。
光秀が畿内を完全に固める前に、秀吉は戻ってきた。
「明智様!」
家臣が駆け寄ってくる。
「左が崩れます!」
「兵を回せ」
「もう余力がございませぬ!」
光秀が歯を食いしばった。
遠くには秀吉軍の旗が揺れている。
「秀吉……」
見事だった。
認めざるを得ない。
自分が信長を討った直後、これほど早く戻り、これほど早く兵をまとめて目の前へ現れた。その決断と行動の速さは、間違いなく秀吉自身の力だった。
「明智様! これ以上は持ちませぬ!」
光秀は戦場を見渡した。
すでに一角が崩れ始めている。一つが崩れれば、それに引きずられて次も崩れる。
ここで踏みとどまっても、兵を失うだけだった。
光秀は一度目を閉じ、決断した。
「退く」
家臣が息を呑んだ。
「しかし!」
「ここで全滅する必要はない」
「どちらへ」
「坂本へ戻る」
「はっ!」
命令が伝わり、明智勢が退き始めた。
山崎の戦いの勝敗は決した。
勝ったのは、羽柴秀吉だった。
◇◇◇
秀吉軍から歓声が上がった。
信長を討った明智光秀を破った。その事実に、兵たちは勝利を喜んでいる。
しかし秀吉は、まだ戦場から目を離さなかった。
「光秀は」
「敗走しております」
「生きておるのか」
「はい」
秀吉が官兵衛を見ると、官兵衛はすぐに意図を察した。
「追わせましょう」
「逃がすな」
「無論です」
秀吉は拳を握った。
中国から戻り、ついに光秀を破った。
だが、まだ終わってはいない。
光秀を討ち取って初めて、信長の仇を討ったことになる。
「必ず見つけろ」
「はっ!」
追撃の兵が次々と動き始めた。
◇◇◇
山崎での戦いの結果は、ほどなく景継のもとにも届いた。
「若様!」
馬を飛ばしてきた使者が、景継の前で膝をつく。
「山崎にて羽柴様と明智様が激突! 羽柴様が勝利されたとのことです!」
景継の表情が変わった。
「先生は」
「敗走したとのことです」
景継は黙った。
予想していたことだった。
秀吉が戻り、光秀と戦う。
そして現在の状況なら、秀吉が勝つ可能性が高い。そこまでは景継にも読めていた。
だが、実際に光秀敗北の知らせを聞けば、胸の奥が痛む。
「……先生」
弥兵衛が心配そうに景継を見る。
「若様。我らは、どういたします」
景継は地図へ目を落とした。
自分で決めたことだった。
光秀は追わない。
秀吉に任せる。
その間に、自分は織田家に残された者たちをまとめる。
その判断を後悔しているわけではない。
長秀、一益、勝家。そして各地の国人たち。
すでに話は進み始めている。
秀吉が光秀と戦っている間に、景継は別のものを手に入れつつあった。
それでも、一つだけ心に残っていることがある。
あの日。
景継は光秀に言った。
「戻ったら話しましょう」
光秀は確かに答えた。
「そうだな」と。
まだ聞いていない。
なぜ信長を討ったのか。
なぜ、あそこまで信長と決裂したのか。
そして、なぜ自分には何も言わなかったのか。
景継は立ち上がった。
「弥兵衛」
「はっ」
「後のことを頼む」
弥兵衛の表情が変わる。
「どちらへ行かれるのです」
「先生のところへ行く」
「若様!」
「兵は動かさない。私だけでいい」
「なりません! 明智様は敗走中なのですぞ。羽柴勢も追っております!」
「分かってる。だから急ぐんだ」
景継は刀を手に取った。
「先生を助けに行くわけじゃない。ただ、話を聞きに行くだけだ」
「しかし……」
「約束したんだ」
弥兵衛が黙る。
景継はそのまま外へ向かった。
「戻ったら話すって」
弥兵衛には、もうその背中を止めることができなかった。
◇◇◇
夜。
光秀は少数の供とともに坂本を目指していた。
山崎で敗れ、兵の多くを失った。周囲は暗く、聞こえてくるのは馬の蹄と虫の声、そして遠くから迫ってくる追手の気配だけだった。
「明智様、先を急ぎましょう」
「ああ」
光秀が馬を進める。
しばらく進んだところで、前方に一つの人影が現れた。
供の者たちが一斉に身構える。
「何者だ!」
光秀も馬を止めた。
月明かりの下、一人の男が道の中央に立っている。
刀は抜いていない。
ただ静かに、こちらを待っていた。
光秀の目が細くなる。
やがて、その人物が口を開いた。
「先生」
光秀の表情が止まった。
「……景継」
景継がゆっくりと近づいてくる。
光秀の供たちが刀へ手をかけたが、光秀がすぐに制した。
「下がれ」
「しかし!」
「下がれ」
供たちは命令に従った。
光秀は馬から降りると、景継の前に立った。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
先に口を開いたのは光秀だった。
「私を討ちに来たのか」
景継は首を横に振った。
「違います」
「では、何だ」
景継は光秀をまっすぐ見た。
怒っているのか。
悲しんでいるのか。
自分でも分からない。
それでも、これだけは聞かなければならなかった。
「あの日、戻ったら話すと言いましたよね」
光秀の目がわずかに動いた。
「私は戻りました」
景継は一歩だけ光秀へ近づく。
「だから、話してください」
長い沈黙が流れた。
やがて光秀は、静かに息を吐いた。
「……そうだったな」
先生と弟子。
二人が交わした約束が、ようやく果たされようとしていた。




