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『乱世にて、我は待つ』~知略を秘めた軍師は、やがて天下を動かす~  作者: ダイヤマ
第六章 天下目前編

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第百七話 戦わずして取る


景継の使者が各地へ走り始めた頃。


すでに織田家中には、信長の死が伝わりつつあった。


誰もが混乱していた。


信長が死んだ。


しかも討ったのは、明智光秀。


では、これから誰に従えばいい。


誰が織田家をまとめる。


誰が光秀を討つ。


答えを持っている者は、まだほとんどいなかった。


だからこそ。


景継は急いだ。


秀吉が戻ってくるまで。


それが、景継に残された時間だった。


◇◇◇


丹羽長秀は、景継から届いた書状を何度も読み返していた。


そこに書かれていたのは、臣従を求める言葉ではなかった。


――今、織田家が割れれば、上様が築いたものは瞬く間に崩れます。


――誰か一人に従えとは申しません。


――まずは、お会いしたい。


それだけだった。


長秀は書状を置いた。


「景継か……」


幼い頃から知っている。


最初は、妙に物怖じしない子供だった。


やがて戦場へ出るようになり。


策を献じ。


領地を任され。


気づけば信長から直接意見を求められるほどの男になっていた。


その景継が。


信長が死んだ直後に動いた。


「入れ」


長秀が命じる。


間もなく、景継が部屋へ入ってきた。


「長秀殿」


「座れ」


景継が腰を下ろす。


長秀は回りくどいことをしなかった。


「わしに、お前へ従えと言いに来たのか」


「いいえ」


即答だった。


長秀の眉が動く。


「では何だ」


「今は、誰にも織田家を独占させたくありません」


「誰にも?」


「はい」


「秀吉にもか」


景継は答えなかった。


それだけで十分だった。


長秀が腕を組む。


「秀吉は中国におる」


「戻ってきます」


「光秀を討つためにか」


「おそらく」


「ならば良いではないか。上様の仇を討つ」


「その後です」


長秀の目が細くなる。


景継は続けた。


「秀吉様が先生を討てば、上様の仇を討った最大の功労者になります」


「当然だ」


「その功績を持って、家中をまとめに来るでしょう」


長秀は黙った。


否定できない。


「それの何が悪い」


「悪いとは言っていません」


「では?」


「秀吉様一人に力が集まってから、それが良かったのか悪かったのか考えても遅いと言っているんです」


長秀は景継を見つめた。


「……お前」


「はい」


「どこまで考えておる」


「今は、上様が残したものを崩さないことだけです」


「今は、か」


景継は何も答えなかった。


長秀が小さく息を吐く。


「お前の家臣にはならんぞ」


「頼んでません」


「では、何を望む」


景継は答えた。


「今だけ、同じ方向を向いてください」


「どの方向だ」


「織田家を、誰か一人のものにしない方向です」


しばらく沈黙が続いた。


やがて。


長秀が言った。


「……分かった」


景継が顔を上げる。


「ただし、お前に従うわけではない」


「もちろんです」


「織田家を守るためだ」


「それで十分です」


最初の一人。


景継は丹羽長秀との協力を取りつけた。


◇◇◇


次は滝川一益だった。


一益からの返事は、長秀よりも早かった。


景継の書状を読んだ一益は、使者に尋ねた。


「景継は、わしに何を求めておる」


「臣従ではございません」


「では何だ」


「今後の織田家について話し合いたい、と」


一益は少し考えた。


「秀吉からは?」


「まだ何も」


その言葉で。


一益は決めた。


「景継に伝えろ」


「はっ」


「話は聞くとな」


「承知いたしました」


「ただし」


使者が顔を上げる。


「わしは、あやつの家臣になった覚えはない」


使者は頭を下げた。


「林道様も、それを求めてはおりませぬ」


一益が少し笑った。


「……それが余計に気になるわ」


こうして。


滝川一益とも話し合いの場が作られることになった。


◇◇◇


そして。


最も厄介だったのが柴田勝家だった。


景継から届いた書状を読んだ勝家は。


しばらく黙っていた。


書かれている言葉は短い。


――秀吉様一人に、織田家を任せるおつもりですか。


それだけ。


勝家の額に青筋が浮かんだ。


「……あの小僧」


近くにいた家臣が身を固くする。


勝家はもう一度書状を見る。


「人を何だと思っておる」


そう言いながら。


書状を捨てなかった。


むしろ。


もう一度読む。


秀吉一人に、織田家を任せるのか。


「……ふん」


勝家にも分かっていた。


光秀が信長を討った。


秀吉がその光秀を討てば。


家中で誰が最も大きな功績を持つことになるのか。


考えるまでもない。


「景継はどこにおる」


「こちらへ向かっているとのことです」


「来るのか」


「はい」


勝家は鼻を鳴らした。


「ならば聞いてやる」


「何をでございます」


勝家は書状を握った。


「あの小僧が、何を企んでおるのかをな」


◇◇◇


景継と勝家が顔を合わせたのは、その日の夕刻だった。


「座れ」


「はい」


景継が腰を下ろす。


勝家は書状を景継の前へ放った。


「これは何だ」


「書状です」


「見れば分かる!」


「では、なぜ聞いたんです」


「お前は昔からそういうところがあるな!」


勝家の声が響く。


景継は黙っている。


勝家は腕を組んだ。


「単刀直入に聞く」


「はい」


「お前は秀吉と争うつもりか」


景継は少し考えた。


「まだ分かりません」


「嘘をつけ」


「本当です」


「なら、なぜわしにこんなものを送った」


「秀吉様一人に力が集まりすぎるのは危険だからです」


「それだけか」


「今は」


勝家の目が細くなる。


長秀と同じところに気づいた。


「……今は、か」


景継は答えない。


勝家が身を乗り出す。


「景継」


「はい」


「お前、天下が欲しいのか」


部屋が静まり返った。


景継は勝家を見る。


すぐには答えなかった。


やがて。


「上様から」


景継が口を開く。


「好きにしろと言われました」


勝家の眉が動く。


「信長様から?」


「はい」


懐には、信長の書状がある。


だが。


その内容をすべて見せるつもりはなかった。


曹操。


司馬懿。


転生。


それは景継と信長だけの話だ。


「上様亡き後、自分で道を決めろと」


勝家は景継を見つめる。


「それで天下か」


「まだ、勝家様にお話しすることではありません」


「否定はせんのだな」


景継は黙った。


しばらくして。


勝家が笑った。


「ははっ」


景継が見る。


「何がおかしいんです」


「いや」


勝家は首を振る。


「初めて会った頃のお前を思い出しただけだ」


「私を?」


「妙に落ち着いた小僧だった」


勝家は景継を見る。


「それが今では、わしに秀吉を警戒しろと書状を送ってくる」


「迷惑でした?」


「腹は立った」


「すみません」


「だが」


勝家の顔から笑みが消える。


「間違ってはおらん」


景継の目が動いた。


「秀吉が光秀を討った後、どう動くか」


勝家も分かっている。


「わしとて、何も考えておらんわけではない」


「では」


「勘違いするな」


勝家が景継を睨む。


「わしはお前の下にはつかん」


「知っています」


「秀吉の下にもつかん」


「それも知っています」


「腹の立つ奴だな」


景継が少し笑う。


勝家は続けた。


「だが今は、お前の話に乗ってやる」


景継が頭を下げた。


「ありがとうございます」


「ただし」


「はい」


「お前が妙なことを始めれば、わしがお前を止める」


景継は顔を上げる。


「その時は」


一拍。


「止めてみてください」


勝家の眉が跳ね上がった。


「……やはり腹の立つ小僧だ」


それでも。


勝家は笑っていた。


◇◇◇


景継の動きは止まらなかった。


前野。


森川。


堀田。


これまで景継が関わってきた国人たちへも、次々と使者が送られた。


景継は彼らにも臣従を求めなかった。


ただ一つ。


今すぐ結論を出すな。


秀吉にも。


勝家にも。


誰にも。


信長の死によって天下がどう動くのか。


それを見るまで。


共に動いてほしい。


それだけを求めた。


だが。


それで十分だった。


これまで景継と共に戦った者。


景継の判断によって助かった者。


景継の領地経営を見てきた者。


そうした者たちが。


少しずつ。


景継の周囲へ集まり始める。


景継直属の兵は。


依然として五千。


一兵たりとも増えてはいない。


だが。


景継が声をかければ動く可能性のある兵は。


すでに五千ではなくなり始めていた。


◇◇◇


一方。


中国地方でも。


事態は猛烈な速さで進んでいた。


秀吉は毛利方との戦を終わらせるため、講和を急いでいた。


「時間がない」


秀吉が言う。


官兵衛が頷く。


「はい」


「どこまで譲る」


「戻れるのであれば、今は多少の譲歩など問題ではございませぬ」


秀吉が官兵衛を見る。


「そこまでか」


「今ここで一城多く得ることと、畿内へ一日早く戻ること」


官兵衛は迷わなかった。


「比べる必要もございませぬ」


秀吉が笑う。


「お前は恐ろしいことを平然と言うのう」


「殿ほどではございませぬ」


「わしか」


「すでに戻った後のことを考えておられるでしょう」


秀吉の笑みが消える。


官兵衛もそれ以上は言わなかった。


二人とも分かっていた。


光秀を討つ。


それが最優先。


だが。


その先がある。


信長も。


信忠も。


もういない。


織田家を誰がまとめる。


そして。


信長が手を伸ばしていた天下を。


誰が引き継ぐ。


「官兵衛」


「はっ」


「光秀に時を与えるな」


「無論でございます」


官兵衛が地図を見る。


「京を押さえ、畿内の諸将を従えられてからでは遅い」


「なら走るぞ」


「はい」


「兵が倒れてもか」


「倒れぬ程度に走らせます」


「難しいことを言う」


秀吉は立ち上がった。


毛利との講和がまとまり次第。


全軍を東へ返す。


後に。


中国大返しと呼ばれることになる行軍が。


始まろうとしていた。


◇◇◇


その知らせは。


景継のもとにも届いた。


「若様!」


弥兵衛が部屋へ入ってくる。


「秀吉様が動かれました!」


景継が顔を上げる。


「毛利とは?」


「講和へ向かっているとのことです」


「やっぱり官兵衛殿は早いな」


「感心している場合ですか」


「感心するよ。敵になるかもしれない人が優秀なら、なおさらね」


弥兵衛が地図を広げる。


「このままですと、かなり早く畿内へ戻ってこられます」


「だろうな」


「我らも急ぎますか」


「もちろん」


景継は立ち上がる。


「長秀殿とは話がついた」


「はい」


「一益殿とも話せる」


「はい」


「勝家殿も、少なくとも今すぐ秀吉様につくことはない」


「国人たちからも返事が届き始めています」


景継が頷く。


まだ足りない。


もっと。


秀吉が戻る前に。


可能な限り盤面を作る。


弥兵衛が尋ねた。


「若様」


「何だ」


「本当に、明智様のところへ行かなくてよろしいのですか」


景継の動きが止まった。


先生。


その言葉だけで。


胸の奥がわずかに痛む。


「……行きたいよ」


景継は静かに答えた。


「聞きたいこともある」


「なら」


「でも行かない」


弥兵衛を見る。


「今、私が先生を追えば」


景継は地図の上。


明智光秀のいる場所へ指を置いた。


そして。


その指を秀吉のいる西へ動かす。


「秀吉様と同じものを取り合うことになる」


次に。


景継の指が地図全体をなぞった。


「私は違うものを取る」


弥兵衛が黙る。


「先生は秀吉様に任せる」


「……お辛くは」


「辛いよ」


景継は即答した。


「でも」


信長から残された書状を思い出す。


――お前自身が決めろ。


景継は地図を見る。


「天下を取るって決めたからね」


その頃。


西から秀吉が走っていた。


目指すは。


明智光秀。


そして。


その秀吉が戦場へ向かっている間にも。


景継の使者は走り続けていた。


目指すは。


信長が残した家臣たち。


一方は。


仇を取るために。


もう一方は。


天下を取るために。


二人は。


まったく違うものを奪い合っていた。


そしてまだ。


秀吉は知らなかった。


自分が光秀へ近づく一日ごとに。


林道景継の周りへ。


人が集まり続けていることを。

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