第百六話 五千の兵で取るもの
信長の死から、まだそれほど時は経っていない。
だが。
天下はすでに動き始めていた。
信長が討たれた。
明智光秀が謀反を起こした。
その知らせは、街道を走り、城を渡り、各地へ広がっていく。
そして知らせを受けた者たちは、それぞれに考え始める。
これから誰に従うのか。
織田家はどうなるのか。
そして。
次に天下へ手を伸ばすのは誰なのか。
◇◇◇
景継の前には、地図が広げられていた。
その周囲には家臣たちが集まっている。
弥兵衛もいる。
誰もが景継の言葉を待っていた。
景継はしばらく地図を見つめた後、口を開いた。
「上様は亡くなった」
誰も声を出さない。
「信忠様も、すでにいない」
織田家をまとめていた二人が、もうこの世にはいない。
残された者たちが争えば。
信長が築いたものは瞬く間に崩れる。
家臣の一人が口を開いた。
「若様」
「何だ」
「まずは明智様を討つべきではございませぬか」
景継の目が動いた。
「上様を討った者を、このままにはできませぬ」
別の者も続く。
「我らだけではありません。織田家中の者たちも、明智討伐となれば必ず兵を出すでしょう」
「そうだろうな」
「ならば――」
「追わない」
部屋が静まり返った。
「……は?」
弥兵衛まで景継を見る。
景継は地図から目を離さなかった。
「先生は追わない」
「しかし!」
「若様!」
「上様の仇ですぞ!」
声が重なる。
景継は片手を上げた。
「分かってる」
皆が黙る。
「私だって、先生に聞きたいことはいくらでもある」
なぜ信長を討ったのか。
なぜ自分に何も言わなかったのか。
あの日。
戻ったら話そう。
そう約束した。
その答えを。
まだ聞いていない。
「だが」
景継は顔を上げた。
「今は私が先生を追う時じゃない」
「なぜでございます」
景継は地図の西へ指を置いた。
「先生を討ちたい人間は、私だけじゃないからだ」
「……?」
「秀吉様が戻ってくる」
部屋の空気が変わった。
「羽柴様が?」
「ああ」
「しかし羽柴様は今、中国に――」
「だから戻る」
景継は即答した。
「上様が亡くなった。先生が謀反を起こした。この二つを知って、それでも中国に残って戦い続ける人じゃない」
弥兵衛が地図を見る。
「毛利方とは、どうなさるのでしょう」
「話をまとめる」
「これほど急に?」
「まとめるよ」
景継は言い切った。
「秀吉様だけなら、少し迷うかもしれない」
景継の指が地図をなぞる。
「でも、あの人には官兵衛殿がいる」
黒田官兵衛。
秀吉の側にいる知恵者。
景継自身も、その力をよく知っている。
「官兵衛殿なら、今何をするべきか分かる」
「何を?」
「先生を討つことだ」
家臣たちが顔を見合わせた。
景継は続ける。
「上様を討った先生を誰よりも早く討てば、その者は上様の仇を討ったことになる」
「……なるほど」
「その功績は大きい。織田家中で発言する時にも使える」
弥兵衛が景継を見る。
「では、なおさら我らが先に明智様を討つべきでは?」
「違う」
「なぜです」
景継は少し笑った。
「仇を討ったという名分が欲しいなら、そうする」
「では若様は、それを必要とされない?」
「必要だよ」
景継は答えた。
「でも、それより欲しいものがある」
「何でございます」
景継は地図から顔を上げた。
「人だ」
誰もすぐには理解できなかった。
「……人?」
「ああ」
景継は地図の各地を指していく。
「上様が死んだ今、一番困っているのは誰だと思う」
弥兵衛が考える。
「織田家の方々……でしょうか」
「そうだ」
信長という巨大な柱が消えた。
信忠もいない。
残された家臣たちは、突然選択を迫られている。
誰につく。
誰を支える。
誰と戦う。
誰もが判断を急がなければならない。
「秀吉様が先生を追っている間」
景継は言った。
「私は残った織田家の人間に会う」
家臣たちの表情が変わった。
ようやく。
景継が何を考えているのか分かり始める。
「丹羽長秀様」
景継が一人目の名を挙げる。
「滝川一益様」
二人目。
「柴田勝家様」
三人目。
「それだけじゃない。各地の国人にも使者を出す」
弥兵衛が息を呑む。
「若様」
「何だ」
「まさか……」
景継が見る。
「織田家をまとめるおつもりですか」
「まとめられるだけまとめる」
「しかし」
別の家臣が口を開いた。
「我らの兵は五千ほどしかおりませぬ」
「知ってる」
「柴田様も丹羽様も滝川様も、上様に長く仕えてきた方々です。我らの下につけと言っても――」
「言わないよ」
「は?」
「私に仕えろなんて言わない」
景継は地図を見た。
「そんなことを言ったら断られる」
「では、どうやって」
景継は答えた。
「同じ敵を作る」
家臣たちが黙る。
「今すぐ誰か一人に織田家を握らせる。それを望んでいる人がどれだけいる?」
「……」
「勝家様は秀吉様の下につきたいと思うか?」
誰も答えない。
答える必要もなかった。
「一益様は?」
沈黙。
「長秀様は、上様が亡くなった直後から家中が割れることを望む?」
「……望まれないでしょう」
「だったら話はできる」
景継は言った。
「私の家臣になれとは言わない」
「では?」
「今だけ、同じ方向を向いてください。それだけだ」
弥兵衛は景継を見ていた。
「若様」
「何だ」
「天下を取ると仰いましたね」
「ああ」
「五千で?」
景継が弥兵衛を見る。
少しだけ笑った。
「五千で天下を取るとは言ってない」
弥兵衛が黙る。
景継は地図へ目を戻した。
「兵が足りないなら、自分で全部持つ必要はない」
「……」
「必要な時に、同じ方向へ動く人間がいればいい」
景継は立ち上がった。
「使者を出す」
「はっ」
「まず長秀殿」
「承知しました」
「一益殿にも」
「はっ」
「勝家殿には私から書く」
弥兵衛が驚く。
「若様ご自身で?」
「あの人に回りくどいことを書いても意味ないからね」
景継は紙を取った。
「何と?」
景継は筆を持つ。
少し考え。
書き始めた。
――秀吉様一人に、織田家を任せるおつもりですか。
弥兵衛が横から見ていた。
「……それだけですか?」
「まずはね」
「怒られません?」
「怒るだろうな」
「もう少し丁寧に書きません?」
「長くすると読まないかもしれない」
「柴田様を何だと思ってるんです」
「勝家様」
「そういうことではありません」
景継は久しぶりに少し笑った。
ほんのわずか。
信長が死んでから。
初めて見せた笑みだった。
だが。
すぐに表情を戻す。
「急ぐぞ」
「はっ」
「秀吉様が戻るまでが勝負だ」
使者たちが次々と走り始めた。
◇◇◇
その頃。
中国地方。
羽柴秀吉のもとへ、一つの知らせが届いていた。
秀吉は何度も聞き返した。
「……上様が?」
使者は頭を下げた。
「はっ」
「間違いないのか」
「明智日向守様が兵を向けたとのこと」
秀吉の顔から表情が消えた。
「光秀が……」
周囲の家臣たちも言葉を失っている。
信長が死んだ。
にわかには信じられない。
いや。
信じたくない。
秀吉はしばらく動かなかった。
その時。
「殿」
声をかけた者がいた。
黒田官兵衛。
秀吉がゆっくり顔を上げる。
「官兵衛……」
「今は、悲しんでいる時ではございませぬ」
周囲の者たちが官兵衛を見る。
秀吉の表情が変わった。
「何じゃと」
「上様が亡くなられたのであれば、なおさらです」
官兵衛は地図の前へ進む。
「毛利との戦を終わらせます」
「……」
「可能な限り早く話をまとめる」
官兵衛の指が東へ動いた。
「そして戻ります」
秀吉が官兵衛を見る。
「どこへじゃ」
官兵衛は答えた。
「明智光秀を討ちます」
誰も声を出さない。
「今、光秀を放置すれば畿内を押さえられます」
官兵衛は続ける。
「それだけではございませぬ」
「何じゃ」
「上様を討った明智を討つ」
官兵衛が秀吉を見る。
「それを成し遂げた者が、織田家中で最も大きな功を得ます」
秀吉の目が変わった。
悲しみだけではなく。
武将の目へ戻っていく。
「……仇討ちか」
「はい」
「間に合うか」
「間に合わせます」
「毛利は?」
「まとめます」
官兵衛は迷わない。
「今は一日が惜しい」
秀吉が立ち上がった。
「分かった」
家臣たちを見る。
「戻るぞ」
「はっ!」
「光秀を討つ!」
一斉に声が上がる。
軍勢が動き始める。
◇◇◇
同じ頃。
景継の使者もまた。
各地へ走っていた。
丹羽長秀へ。
滝川一益へ。
柴田勝家へ。
国人たちへ。
信長の死によって。
誰もが次の一手を探している。
秀吉は。
信長を討った男を追った。
景継は。
信長が残した者たちを追った。
二人はまだ。
一度も刃を交えていない。
それでもすでに。
天下を巡る戦いは始まっていた。




