第百五話 残された名
火は、夜が明けても完全には消えなかった。
黒く焼けた柱から煙が上がり、崩れた屋根の隙間では、まだ小さな炎が揺れている。
景継は、その前に立っていた。
昨夜からほとんど動いていない。
弥兵衛が何度か声をかけたが、景継は必要なことにしか答えなかった。
「若様」
「……何だ」
「少しお休みください」
「まだいい」
「ですが――」
「まだ、いい」
弥兵衛はそれ以上言えなかった。
景継の目は、焼け落ちた屋敷だけを見ている。
あと少しだった。
あと少し早ければ。
使者が早く着いていれば。
自分がもっと近くにいれば。
何度考えても、同じところへ戻ってくる。
間に合わなかった。
その事実だけは、何を考えても変わらない。
「……先生は」
景継が呟いた。
弥兵衛が顔を上げる。
「明智様でございますか」
「ああ」
「すでに兵を退かせたとのことです」
「そうか」
景継はそれだけ答えた。
怒りがないわけではない。
なぜ。
どうして。
聞きたいことはいくらでもある。
昨日まで普通に話していた。
戻ったら話そう。
そう言った。
光秀も、それに答えた。
それなのに。
景継は拳を握った。
「若様」
「分かってる」
「何も申しておりませぬ」
「今、先生を追っても仕方ない」
弥兵衛は黙った。
景継は目を閉じる。
「分かってるんだ」
もう一度、自分に言い聞かせるように呟いた。
信長が死んだ。
それだけで織田家中は大きく揺れる。
各地に散っている諸将。
臣従したばかりの者たち。
まだ完全には織田へ心を寄せていない国人。
そして、天下を狙う力を持つ者たち。
信長という一人の男によって押さえられていたものが、一気に動き始める。
ここで自分まで感情のまま動けば、さらに乱れる。
景継は焼け跡を見た。
「上様」
返事などあるはずもない。
「最後まで面倒なものを残してくれましたね」
声がわずかに震えた。
◇◇◇
昼近くになってから、焼け跡の確認が始まった。
信長の遺体を探すためでもある。
だが火の勢いは激しく、屋敷の多くが崩れていた。
景継も中へ入ろうとしたが、弥兵衛に止められた。
「まだ危険です」
「もう火はほとんど消えてる」
「柱が崩れます」
「なら気をつければいい」
「若様」
「何だ」
「こういう時くらい、人の言うことを聞いてください」
景継が弥兵衛を見る。
しばらくして、小さく息を吐いた。
「……分かった」
「ありがとうございます」
「でも何か見つかったら、すぐ呼べ」
「もちろんです」
兵たちが慎重に焼け跡を調べていく。
武具。
刀。
焼けた書状。
形を失った家具。
次々と運び出される。
しばらくして、一人の兵が景継のもとへ走ってきた。
「林道様!」
景継が立ち上がる。
「どうした」
「こちらを」
兵が差し出したものを見て、景継の目が止まった。
書状だった。
端は焼けている。
だが、大部分は残っていた。
他の書状とは少し離れた場所にあったという。
景継が受け取る。
そして、宛名を見る。
――林道景継。
「私に?」
「はい」
景継は書状を見つめた。
信長の字だった。
間違えるはずがない。
何度も見てきた。
弥兵衛が隣から覗き込む。
「上様から……?」
「ああ」
「いつ書かれたものでしょう」
「分からない」
封はされている。
少なくとも、昨夜急いで書いたものには見えなかった。
景継は封を開けようとして、手を止めた。
「若様?」
「……少し一人にしてくれ」
弥兵衛は景継を見る。
そして頭を下げた。
「承知いたしました」
兵たちも離れていく。
景継は焼け落ちた屋敷が見える場所まで歩き、腰を下ろした。
手の中には、信長が自分へ残した書状。
しばらく開けることができなかった。
やがて。
ゆっくりと封を切った。
◇◇◇
景継へ。
いや。
仲達へ。
最初の二行を読んだ瞬間、景継の目が止まった。
「……上様?」
続きを読む。
――これを読んでいるということは、わしはもうこの世にはおらぬのだろうな。
景継の眉が寄る。
なぜ、こんなものを書いている。
いつから信長は、自分の死を考えていたのか。
――驚いたか。
「驚きますよ」
思わず声が出た。
――お前なら、わしが死んだ後も面倒そうな顔をして、この書状を読んでおるだろう。
景継は黙った。
まるで目の前で信長が話しているようだった。
――天下を狙うようになってから、わしは何度か書き残すようにしていた。
――戦場に出れば死ぬこともある。
――寝首をかかれることもある。
――病で倒れることもある。
――わしとて不死ではない。
景継は書状を持つ手に力を込めた。
――だから、わしがいなくなった時に必要になることは書いてきた。
――家臣への命。
――領地のこと。
――天下のこと。
――その中で、お前にだけは別に書いておくことがある。
景継の目が止まる。
――以前、お前はわしに自分の前世を話したな。
――司馬懿仲達。
景継は、あの日のことを思い出した。
自分が前世の正体を信長へ明かした日。
その時の信長は、司馬懿という名を知らなかった。
だからこそ、いくつものことを聞いてきた。
司馬懿とはどのような男だったのか。
どのような時代を生きたのか。
そして。
天下を取ったのか。
――その時のわしにとって、それはお前の前世の名でしかなかった。
――だから、わしはお前に聞いた。
――その司馬懿という男は、天下を取ったのか、と。
景継は覚えている。
そして自分は答えた。
自分自身ではない。
だが、子孫が天下を取った、と。
――あの時のわしは、本当に何も知らなかった。
――お前が誰だったのかも。
――かつてのわしが、お前を知っていたことも。
景継の眉が寄った。
「……かつての?」
書状は続いていた。
――正確には、思い出していなかった。
景継の手が止まる。
風が吹いた。
焼け跡から灰が舞い上がる。
――以前、お前には話したな。
――わしにも前の生の記憶がある、と。
景継は静かに続きを読む。
それは知っている。
信長自身の口から聞いていた。
信長にも前世がある。
自分と同じ転生者であることは、すでに知っていた。
ただし。
信長は最後まで、自分が誰の転生者なのかを明かさなかった。
――お前に話した時には、わしも前の生の記憶を取り戻していた。
――だが、あえて名は言わなかった。
景継の眉がわずかに動く。
「どうして……」
――お前が司馬懿だったと知った後で、わしの前の名まで聞けば、お前は余計なことを考える。
――昔の主君だの、昔の臣下だのとな。
景継の目が止まった。
「……主君?」
その一言で。
書状の意味が変わった。
――記憶を取り戻した時、最初に思い出したことの一つがお前との会話だった。
――司馬懿仲達。
――以前、お前から聞いた時には何の意味も持たなかったその名を、わしは知っていた。
景継の心臓が強く打った。
――いや。
――知っているどころではなかった。
景継は書状を持つ手に力を込めた。
信長の前世が誰なのか。
それだけは知らない。
だが、その人物は司馬懿を知っている。
しかも。
ただ歴史上の人物として知っているわけではない。
――まさかと思った。
――だが、お前自身がそう名乗ったのだ。
――間違えようがない。
景継の頭の中に、いくつもの名前が浮かび始めた。
司馬懿を知る者。
同じ時代を生きた者。
自分と直接関わった者。
そして。
次の一文を読んだ瞬間。
景継の指が止まった。
――仲達。
――わしは前の生でも、お前を知っていた。
景継は息を呑む。
さらに続く。
――お前が、わしに仕えていた頃からな。
「……仕えていた?」
景継の声が漏れた。
その一言で。
頭の中に浮かんでいた候補が、一気に消えていく。
自分が仕えた男。
乱世を駆け抜けた男。
天下へ手を伸ばした男。
そして。
その人物と、織田信長。
二つの姿が。
景継の中で重なり始める。
「……まさか」
今度のその言葉には、先ほどまでとはまったく違う意味があった。
景継は続きを読んだ。
――今さら隠しても仕方あるまい。
――前の生で、わしは曹操と名乗っていた。
景継の呼吸が止まった。
そして。
次の一行。
――字は、孟徳。
景継の瞳が大きく見開かれた。
時間が止まったようだった。
「……曹操」
声が震える。
「……孟徳、様」
その名を忘れるはずがない。
前の生。
景継が司馬懿仲達だった頃。
自分が仕えた主君。
漢王朝末期の乱世を駆け抜け。
数多の群雄を打ち破り。
中原を制し。
魏の礎を築いた男。
曹操孟徳。
景継は何度も書状を見る。
文字は変わらない。
「上様が……」
織田信長の顔が浮かぶ。
笑っている顔。
怒っている顔。
戦場で命令を下す姿。
無茶な命令を出してくる姿。
自分の意見を聞きながら、最後には自分で決断する姿。
そして。
誰よりも天下を求め続けた姿。
「……孟徳様だったのか」
景継はその場に座り込んだ。
思い返せば、似ているところはあった。
だが。
同じではない。
当然だ。
信長は最初から曹操の記憶を持って生きてきたわけではない。
織田信長として生まれ。
織田信長として育ち。
織田信長として天下を目指した。
曹操の記憶を取り戻したのは、その人生の途中。
だから。
信長は曹操でありながら。
最後まで織田信長だった。
そして記憶を取り戻した後。
初めて知ったのだ。
自分の側にいた林道景継が。
かつての司馬懿仲達だったことを。
「それで……」
景継は小さく笑った。
「何も言わなかったんですか」
信長らしい。
そう思った。
自分が曹操だったと分かったからといって、昔の主従関係を持ち出す男ではない。
むしろ。
景継がそれを知れば余計なことを考える。
だから黙っていた。
景継は書状へ視線を戻した。
――だが、勘違いするな。
景継の眉が動く。
――昔の主従に戻るつもりなどなかった。
――今のお前は司馬懿であって、司馬懿ではない。
――林道景継だ。
――そして、わしも曹操であって、曹操ではない。
――織田信長だ。
景継は黙って読む。
――だから仲達。
そこまで書かれ。
その横に、書き直した跡があった。
――いや。
――景継。
景継の手が止まった。
――わしが死んだからといって、わしの天下を守ろうなどとは考えるな。
――織田のために生きろとも言わん。
――わしが作ろうとした天下を、そのまま完成させる必要もない。
――お前が正しいと思う天下を作れ。
景継は書状を握る手に力を込めた。
――秀吉でもない。
――勝家でもない。
――光秀でもない。
――わしでもない。
――お前自身が決めろ。
「勝手なことを……」
景継の声が震える。
こんなものを残して。
自分だけ先に死んで。
あとは好きにしろと言う。
どこまでも。
あの男らしかった。
――昔、お前の一族が天下を取ったのなら。
景継の目が止まる。
――今度は子や孫に任せるな。
景継は息を呑んだ。
前の生。
司馬懿自身は帝位につかなかった。
だが、その後。
司馬氏は魏の実権を握り。
孫の司馬炎が晋を建てた。
それは以前。
景継自身が信長へ話したことだった。
そして。
書状の最後。
――今度こそ、お前自身で天下を取ってみせろ。
――仲達。
景継は長い間。
何も言えなかった。
目の前では、信長が死んだ屋敷から煙が上がっている。
かつての主君。
今生の主君。
二つの生で。
自分は同じ男の下にいた。
だが。
最後に信長が託したのは。
司馬懿として生きることではない。
林道景継自身の道だった。
「……最後まで」
景継は書状を胸元へ引き寄せる。
「勝手な主君ですね」
頬を、一筋の涙が伝った。
景継は拭わなかった。
風が吹く。
灰が空へ舞い上がる。
しばらくして。
景継は目を閉じた。
曹操孟徳。
織田信長。
二つの名を持った男。
どちらの生でも。
天下を目前にしながら、自ら天下を取り切ることはなかった。
そして今。
その男が作り上げた天下が。
再び割れようとしている。
秀吉。
勝家。
光秀。
各地の大名。
信長が死んだと知れば、必ず動く。
誰が敵になる。
誰が味方になる。
誰が天下へ手を伸ばす。
まだ分からない。
だが。
景継の中で。
一つだけ、はっきりしたものがあった。
景継は立ち上がる。
遠くで待っていた弥兵衛が、その姿に気づいた。
「弥兵衛」
呼ばれた弥兵衛が駆け寄る。
「はっ」
「皆を集めろ」
「皆を?」
「ああ」
弥兵衛は景継の顔を見る。
「若様。これから、どうなさるおつもりで?」
景継は答えず、もう一度だけ焼け落ちた屋敷を見た。
信長から託された書状を懐へ入れる。
そして。
今度こそ背を向けた。
前の生では。
天下を取らなかった。
自分が生きている間には。
だが。
今度は違う。
曹操でもない。
司馬懿でもない。
織田信長でもない。
林道景継として。
自分が決める。
景継は弥兵衛を見る。
「天下を取りに行く」
弥兵衛の目が見開かれた。
景継は歩き始める。
その足は、もう止まらなかった。
今度こそ。
自分自身の手で。
天下を取るために。




